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Note

二次創作とは関係のない話です。

焚き火はいいですね

先日、1泊2日でキャンプしてきました。

ちょっとした覚え書きを。

・食事

1日目昼:焼きそばとお味噌汁(豆腐とわかめ)

1日目夜:バーベキュー(牛と豚と野菜、チーズの燻製)

2日目朝:ホットドッグとコーヒー/紅茶

鉄板と網、それに鍋があるので何でもできる。焼きそばを作りながら味噌汁の調理ができる。

チーズの燻製は半数が溶けて消失した。悲しい

昼食の時間が遅かったので(15時頃になってしまった)夕食は米飯なしにした。

胃の容量的に正解ではあったが、しかし焼いた肉には米が欲しい。

夜、焚き火をしながらスモアをやった。スモアはヤバい。

・持って行って良かったもの

ペーパータオル:拭いたら燃やせば良いし清潔。

ウェットティッシュ:同上。

ニトリルグローブ:ちょっと触りたくないものも触れるように。潔癖がキャンプ行くのが間違っている。

ビニール袋:何にでも使える。下に置きたくない物を入れたりゴミ袋にしたり。物を運んだり。

お酒:何やかんや言っても山の中で飲む酒はうまい。焚き火の傍でな。

・持って行かなくて良かったもの

おやつ:三度の食事で割とお腹いっぱいになるし、現地に美味しいもの(ex.巨峰)があったりする。

洗顔料:コンビニ等で売っているような女性向けの旅行用のパックで十分。夜と朝しか洗わないし。

・あったら良かったもの

ラップ:アルミホイルしか持って行かなかった。何か(主に食材)を包んだり、下に敷いたり。

油性ペン:コップの区別とか。かさばらないので一本あっても良いと思う。

靴下・タオルの予備:一つずつでは微妙に不便だった。

雨合羽:小雨の時に傘は面倒。

タープ:小雨の(略)。今後も行くなら購入だろうか。

食器用洗剤:現地で買って、帰る時に炊事場に置いてきた。安いので良いと思う。

酔い止め:切らしてた。山道はちょっと酔いやすいかもしれない(プラセボ的な意味もある)。

・感想

キャンプっておそらく小学生の時以来で(中学でも一応林間学校的なものはあったが)、あの頃よりも若干潔癖の気が出てきているので楽しめるかどうか不安だった。

でもいざ蓋を開けてみればすごく楽しくて、まあバンガローの床とかはあまり触れたくない感じだったものの、後は特に気にならずに過ごすことができた。

多分大きいのは、私が大の苦手とするザトウムシがいなかったことだと思う。ほとんど蛾ばかりで、彼等はランタンや焚き火に突っ込んで死ぬだけなのでそこまで気持ち悪くはない。まあ嫌だけど。

シャワー室だけでなく有料の温泉施設がキャンプ場のすぐ傍にあったり、トイレにシートクリーナーが設置されていたり、色々と現代的だったこともプラスに作用していたんだと思う。だから潔癖の気があるのにキャンプ行くのが間違っていると。

残念だったのはいまいち天気が悪くて星が見えなかったこと、あまり車を運転できなかったこと。でも楽しかった、本当に。

また行きたいなあ。

例えば脳に関してこんな話があって、結論から言うと「脳は実際に見ているものと頭の中で想像したものとを区別できない」という話なんだけど、まず視覚情報の処理というのは大雑把に言うと、

 光刺激 → 網膜 → 脳の視覚野 → 脳の連合野   (1)

という感じになっている。連合野へ到達して初めて意識に上ってくる……と理解しているけどまあ間違ってはいないと思う。

ところがこの逆のルート、

 連合野 → 視覚野 → 網膜   (2)

というものが存在するという。

恐ろしいのはここからで、(1)と(2)による視覚刺激を脳は区別できないらしい。(2)の連合野に端を発する刺激というのは要するに空想や妄想の類であるから、脳は今見ているものが現実に存在しているのかそれとも妄想なのか、見ただけでは区別できないのだ。

この話は大学で脳科学の講義を取っていた時に聞いたもので、もう数年前のことなので今は否定されているのかもしれないけれど、それでも当時の私にはとても衝撃的だった。

それは元々同じようなことを考えていたからで、今自分が見えているものが現実なのか妄想なのか、誰にも分からないんじゃないか? と悩んでいたことがあったのだ。

まあ多くの人はいちいちそんなことで悩んだりしないんだろうけど、私にとってはかなり深刻な問題で、幻覚というのは非常に面倒くさくて精神をすり減らされるものなのだと散々に思い知らされている。

幻視でも幻聴でもそうなんだけど、自分では真偽が判らないということが本当にストレスで、決して楽しいものではない。(幻味に関しては口の中に食べ物が入っていないから幻覚だと分かる。まあ気持ちが悪いのには変わりないけど)

見ているものが本当に存在しているのかなんて、多分誰にも本当のところが分かりはしないのだと思う。

短篇集18に入っている3篇はどれも違った表情を見せる長谷部の話で、しかし私は誰を見て誰を書いているんだろう、と思うことが偶にある。

忘れたくないと我を張る長谷部も、食べ物が美味しいと頬を綻ばす長谷部も、苦々しい表情で顔を背ける長谷部も、どれが本当の長谷部か何て誰にも分からないのだろう、本人にさえも。

書けば書くほど追い詰められていくような、そんな精神状態で文章を書いている。

今までに書いたもののうち、全年齢に限った中で一番好きなのはと言われたら、これと「オールグリーン」です。

良く書けていると思うのもその2作です。

読んでください。以下普通にネタバレをします。

どちらも全年齢かつきちんとストーリーのある話、ということで普段の作品とはかなり異なる毛色です。

多分少し不思議なものが書きたかった気分の時に書いたのでしょう。

見ての通り終末ものですし、ゲームシステムに絡んだ話もしています。こういうのが大好きです。

「日記」と「オールグリーン」、審神者は勿論違う人物です。

本丸の終わり方はそれぞれ少し異なります。日記の方は世界丸ごと終焉に向かっていたという裏があるので、何もかもが終わり、どうしようもない、という感じで。

まあ日記を書いていた本人はそんな事情もほとんど知らないんですが。

オールグリーンはあくまであの本丸単位での〝終わり〟なのでまた……。世界の中であの本丸、あの審神者と男士達が存在を許されなくなり誰知らず消える、という。

それを踏まえて(?)読むと、二人の審神者の違いもいろいろ見えてきて面白いなーと思ったのが書き終わった後の私です。

男士達への対応とか事態の把握とか。

まあその辺は各々に設定しているバックグラウンドの差も影響しているので、これくらいでー。

あ、あと何箇所かに[判読不能]なんてものが挿入されていますが、元ファイルには勿論原文verがありますので文章としてはきちんと存在しています。

ただ、世界が終焉を迎えた後に誰かがあの文書を回収して読んだとして、字が酷く乱れていたり紙面が損なっていたり、そういうものをイメージしています。

二人共、自分の世界が終わってしまうと知って、語るは過去のことばかりなんですよね。

当然かもしれないけれど。

後悔を語り、あるべき明日ももう見えない存在が、全ての感情を抱えたまま死んだ時、その後にどうなるのかは……?

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