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Note


先日、「黒の葬列」「砂時計シネラリウム」の二冊を発行しました。

通販の際、希望者にはおまけテキストとしてささやかなコピー本を同封させていただいたのですが、その作り方をここにメモしておきます。

仕様:本文A6/34P、平綴じ

①本文を作る

確か「アネモネ」の書式を再利用して本文を作成。

A5のコピー用紙をA6に(つまり半分に)カットして、自宅のレーザープリンタにて両面印刷。

熱によって紙が反ってしまうので本当はA4で印刷してカットしたいところだが、両面の位置が合わない・仕上がりがA6よりかなり小さくなってしまうなどの理由で断念。

平綴じとは書いたもののA5を二つ折りにして重ねるのではなくA6をそのまま重ねる方法を採ったので、面倒な面付けは必要なし。

印刷後、紙の反りが抑えられることを期待してアイロンがけをし、重石(THE CELLとEssential Cell Biology)をして一晩置いた。

翌日、一冊分ずつ纏めてホチキス止め。フラットタイプを使用、三箇所綴じた。

②表紙を作る

Illustratorでいつも通りに作成。

背幅は本文の厚さ1.5mmに+0.5mmで2mmとした。

マットペーパー0.12mmにインクジェットプリンタで印刷したが、本文と貼り合わせた時にホチキスの針が浮いてしまうので、0.21mmの方を使った方が良いのかもしれない。

まあ好みかな。

重要なのは背の部分に折り目を入れておくことで、紙の裏に、芯の出ていないシャープペン(インクの出ないボールペンでもスタイラスでも家にあるものでok)で背幅に合わせて二本、背を折る時の為の折り目を引いておく。

トンボに沿って表紙を切り出した後、この折り目に沿って背の部分を折っておくことでかちっとした角のある背を作れるので、〝コピー本らしさ〟とも言えるチープさがぐっと減る。

背が綺麗に折れているのが分かる

③本文と表紙を貼り合わせる

本文のノドの部分に(ホチキス止めした部分の上から)両面テープを貼る。表と裏、大体均等にテープが貼られるようにすれば、ホチキスの針が両面ともテープに隠れている筈。

両面テープは15mm幅のものを使用。百均などの安いものだと粘着力が弱いので、多少高くてもナイスタックなどを使った方が良いと思われる。

背に当たる部分は机に叩き付けるなどしてテープをしっかりと接着させる。この時、本文の紙が熱で歪んでいるとテープが均一に貼り付かず、表紙を付ける時に失敗する(した)。

剥離紙を剥がし、表紙の表2か表3からゆっくりと本文を貼っていく。ホチキスの針が浮き出ない程度に手でなぞって確実に接着させる(特に背はしっかりと)。

④化粧断ちをする

天地(上下)→小口(開くところ)の順で化粧断ち。これも仕上がりのクオリティを上げる為には不可欠な工程。

小口は裏表紙側から切ると本を開きやすいらしい。

本文の文章部分まで切ってしまわないように気を付けつつ、カッターで丁寧に切る。手は切らないように注意する。

化粧断ちをするので、完成サイズはA6よりも一回り小さくなる。

⑤完成

今回こうして作ってみて、背をきっちり作ること・化粧断ちの二点を守れば、コピー本だけどちょっと嬉しくなってしまうクオリティのコピー本が出来ることが分かった。

実は以前にも、(何故か家にあった)グルーガンを使って200Pぐらいあるコピー本を作ってみたことがあるのだけど、あの時は化粧断ちがさっぱり上手くいかなくて(当たり前だ)微妙な出来になってしまった。

問題のコピー本

しかしまああれは端からお遊びで(推敲用に印刷したものをふと思い立って本の形にしてみた)、今回のように適切なページ数で適切な手順に沿って作成すれば、それほど手間を掛けずに素敵なコピー本も出来る。

また機会があれば何か作ろうと思います。

いつか書こうと思っていてすっかり忘れていたことがあるのですが、その話です。

審神者のあれは愛情表現ですから、「長谷部君のことが好きで好きで傷付けたくて堪らなくなる」というものとして読んでほしいのですが。

それはそれとして、「傷付ける」が身体的なものに限局しており、決して精神的に甚振ろうとはしていない、ということを一度か二度、書いていると思うんですね。

詳しくはないんですけど、R-18カテゴリの話になると、「本当はこうしてほしいんだろ」的な台詞、精神的虐待に近いようなことを言ったりすると思うんですが、こういうのは私が書くものの中には全くない訳です。

こういう台詞や態度が嗜虐に含まれるのかどうかはさておき。

どうして審神者はこういうことを言わないのかというと、まあ散々書いている通りこれは審神者だけが望んでやっていることで、長谷部には行使可能な拒否権が絶対的に存在しているというのもそうなんですけど、こういう台詞は結局、自己の正当化に過ぎなかったりすると思うんです。

「してほしいだろうからしてやっている、この結果はお前が望んだものだ」ということにしておけば、暴力等を揮う自分だけが悪いのではない、いや望みを叶えてやっているから正しいんだ、というところまで飛躍させてしまえるので。

審神者はまあ、中身はあれですが、罪悪感なども人並みには抱えていますのでそこまで堕ちたくはないと思っていますし、何より自身のエゴの為に長谷部を貶めたくないと思っているのでしょう。

これが一つ目の理由です。

二つ目の理由は、例の行為を長谷部自身も望んでいることなのだとすると、認識が「主だから応えている」から「自分が望む行為をしてくれるから応えている」になりかねない危険を孕み始めるからです。

そうなると、長谷部にとっては自分でなくてもいい、つまり他の誰かのところへ行ってしまう可能性が出てきて、これは非常に不味いんですね。

審神者は洒落にならないほどのコンプレックスを抱えているので。

まあ極論を言うと、ああいった台詞は自分の薄汚い欲望を相手に押し付けて正当化しているようにしか見えないので嫌いだということです。それが作品やその登場人物にも反映されている。

だから過剰なまでに「自分がしたくてやっている」「嫌なら嫌だと言ってほしい」と繰り返すのでしょう。

話はこれぐらいです。

あの一連の作品群が持つ意味を、もう一度考えようじゃないかという話です。

・前提

アネモネは審神者と長谷部が本丸を出て生活を始めてから約一年間の話。舞台設定のようなもの。

アクアリウムはその先、紆余曲折を経てどうにかこうにか彼等なりの幸せというものを見出し始める話。

・そもそも

審神者の過去はここでは割愛。本丸に就任→長谷部を手に入れる→戦争終結→現世へ帰還。

帰還後は政府直属か関連かその辺に職を得て働いている。

長谷部には手を出さないようにしている、但し「ħ」や「花に露」のような例外あり。

ここが重要な点で、性的嗜好については就任以前から帰還後まで一貫して変わらない。つまりアネモネ・アクアリウム軸でも長谷部を嗜虐したいとは思い続けている。

・克服へ至る過程

その欲求を克服する為の過程に絶対不可欠だったのが「ħ」。

自分の不安を吐露し=主という殻を一旦脱いで自分を晒け出し、自分の欲求に向き合うことができるようになる話である。

(話のラスト、前は目を背けていた血痕を綺麗に拭いてしまおうと思っている。向き合わなければ汚れを落とし切ることはできない)

ただ、ここで向き合ったこと=解決とはならず、例えば「花に露」、酩酊して理性の箍が外れた状態では容易に情動へ身を任せ、他作品でも自分では幸せにしてやれないと自覚して悩んでいる。向き合った末に結局抑えられなくなり、長谷部を傷付け始めるのが本には未収録の「夢の話」や「ゼラニウム」。

あくまで〝目を背けることはなくなった〟というのがこれまでの収穫。

・アクアリウム

「楽しいだけの一日」という思い出を残してやりたいと思ったその意図は、他でもない、〝今後自分が誘惑に負けてしまってもその思い出さえあれば長谷部は耐えられるだろう〟という汚い思惑。

したがってこの話は予防線でしかなく、直視した結果自分の欲を抑え切れる自信がない、だから長谷部に心の拠り所を与えておいて許してもらおう--そういう意味を持っていた。

実際この試みは上手く行って、というのはこの軸ではこれより後、本当に駄目になってしまう話は存在しない(と決めた)。しかしそれはあくまで結果論、審神者が逃げの一手を打っておいたことには変わりない。

・本丸の外は幸せか?

手入れができなくなった以上、長谷部を思うように傷付けることはできなくなった。審神者は自らの性的嗜好と向き合って、整理を付け、行動しなくてはならなくなった。

長谷部にとっては間違いなく幸せで、それは何より理不尽に身を切り刻まれることがないから。その上審神者と二人きりで暮らしていられる。

しかし審神者は悩み、思うようにいかない自己の制圧に苦しみ、それを見た長谷部は心を痛めるし、時には暴力に巻き込まれたりもする。

これを乗り越えられない限り、二人はおそらく、外に出るよりも本丸に居た時の方が幸せだったということになる。

但しそれも〝乗り越えられない限り〟なので、克服することさえできれば、遥かに幸せな、笑顔に満ちた生活になることは間違いない。

では克服できるのか? というと。

「ħ」で得たものを糧に、「アクアリウム」の頃には頭を撫でるなどの身体的接触も図れるようになっていて、この後抱き締めたりは普通にするようになる。とはいえまだ欲求は消えていないので相応に苦しんでいる筈。

おそらくもう少し後、場合によっては十年単位で時が経った後、審神者が長谷部へ別の感情を抱くようになって始めて〝克服できた〟と言えるようになる。

審神者にとっては気の長い話でも、数百年を生きてきたであろう長谷部にとってはそんなに長くないんだろうな。

しかしそんなに先の話を書ける気がしない。私自身、まだ克服できないからだ。

・まとめ

アネモネからアクアリウムに至るまで、二人が得られたのは〝幸せになる為に不可欠な鍵の一つ〟でしかない。繰り返しになるがそれは〝審神者が自分自身ときちんと向き合ったこと〟。

つまりスタート地点に経っただけじゃないかという話ではあるものの、この二人にとってそれがどれだけ大きな意味を持つかは計り知れない。何せ異常な関係性なので。

そう考えると、本丸後の世界というイレギュラーな場ではあるが、二冊使ってでも彼等を書いた意義は結構大きかったのではないかな。

アネモネもアクアリウムも、話は勿論のこと装丁が本当に気に入っているしもっと色んな人に読んでもらいたいなと思うんですけどね。やはり前提として絶対に欠くことのできないR-18G的事情がネックになって難しいでしょうね。

蛇足ですが……

この二人のことはよく考えるのですが、撫でたり抱き締めたりぐらいは多分普通にできるようになっていると思われます。

ただ死ぬまで審神者は性行為だけはしないでしょうね。設定組んでた時にその辺も全部書いてあるんですけど、そもそも一般的な行為は全部しないです。口付けるのも自慰も。

それを長谷部側がどう思ってるのかはよく分かりませんが。

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