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Note

Textを更新しました。

一万字以上を書いたのは「雛芥子」以来だったので、書き終わった時には疲れ切ってしまっていました。

でも楽しかったし大好きな話です。ゲームシステム関連を絡めて書くの好きなんです。

何処から何処までを〝穢れ〟と見なすのか? という話です。

それを性的なものとしたのはあくまで審神者の側だけであって、一方で全くニュートラルな状態からの教育を受けた長谷部君は審神者にとっての〝性的行為〟を自分の中では〝嗜虐行為〟と定義し始めたのでしょう。

(無論その二つを同列に扱っていることを明言すればどういう結果を招くかは分かりきったことであるので長谷部君は何も言いませんが)

肉を、臓腑を暴くまでに深く刺し穿たれたことがなかったのは、長谷部君の中で一種の傲りのようなものになっていて、それでも自覚などとは無縁のままであり続けていたのですが、〝高速槍〟の出現によってその感情すらも露わにされてしまったのがこの一幕です。おそらく。

思うに審神者はその瑕を瑕とも思っていません。

刀剣男士は敵を一人残らず殺すのが役目です。審神者の玩具になることなど二の次です。

その点ではこの審神者という人にとっての穢れはただただ純粋に性的なものに限られているのでしょう。それでも長谷部君を(精神的に)治してやる為には、過去の自分が思い悩んでいたそれを本当に小さな嘘として引き出してくる必要があったと。

そうして一連の〝手入れ〟は何より儀式的なものでなくてはならなかったのす。

綺麗にしてほしい、と言う。

君は綺麗だ、と胸の内だけで呟く。

私が既に汚れ始めていることを何も知らず、君はポットへお湯を注いでいる。

タイトルが定まらない作品その2。

「あんやにかげさすはなしもみつ」と読みます。「三つ」と掛けてる。

長谷部君が審神者から夜の寝室へ呼ばれるようになった翌日、つまり二日目の話を書きたかったので書きました。

一日目については「咲き乱れる藤の色」を参考に。

つまり現在から過去を思い出しているという体ではなく、あくまで二日目やその当時に視点を移してどうであったかを書いている話なので、文章や登場人物の心理状態なども「藤の色」を書いた頃になるべく近付けようと努力しました。

それが難しかったのですが。

気を抜くと色々知ってしまっていて、考えたことがあって、且つ全て諦念の下に置いて考えているような長谷部君になってしまうので、とにかく〝ただただ主命を果たす為に従っている〟というスタンスを忘れないようにしつつ何とか完成させました。

その甲斐あって自分でもとても気に入る一作になりました。F65/302(の前半)と同じくらい。竜胆と爛れた椅子には劣る。

当初、話を思い付いた時のメモには「いつのまにか寝室にいて,またも痛く怖い思いをする.混乱する」とありまして、実際ラストはそうするつもりで書いていたのですが、何故か〝長谷部君が全てを受け容れて二日目が終わる〟という真逆な展開になっていました。ううん。

だから本当は三日目以降のことも書くつもりはなかったのですが……どうしてこうなったのやら。

一つ考えられるとしたら、「文章や心理状態を『藤の色』の頃に近付けようとした」と先述しましたが、やはりどうしても現在の二人に引き寄せられて行ってしまったのかな、と。

「藤の色」を書いた頃はただ長谷部君が可愛いとしか思ってなくて、今うだうだと書き散らしているような葛藤のあれこれなどまだ影すらありませんでしたから、今回も初めのうちは審神者をそういう人として書いていたのです。

でも今はほぼ全ての作品で書いているように自分の行為etcに関して葛藤がありますから、それがラストで顔を出してしまった結果がこれなのではないか? と少し思いました。

本当に、あの頃は長谷部君がこれで幸せかどうか、とか自分の行為は異常なんじゃないか、とか頭に浮かぶことすらなくただひたすら長谷部君をミートボールにしたりしていたので。どっちが正常なのか分かりませんが。

今はソーセージが好きです。

小学生の頃、両親のどちらかでも異なる人であったなら、今ここにいる〝わたし〟は存在しなかったのであろうかと考えたことがありました。

或いは両親は今の人達であるとしても、今のわたしとなる卵と精子が受精せず(知識を得た今ではそれは染色体の分配と組換えパターンの組み合わせと説明できますが)、別のわたしが選ばれていたとしたらどうだったのだろうとも。

いずれも今ここにいる〝わたし〟が否定される、酷く恐ろしい考えだと初めは思ったのですが、しかしよくよく考えてみるとその恐怖は誤ったものであることに気付きました。

今ここでこうして考えている〝わたし〟は、生まれてからこの時までずっと生きてきた中で形成された自分に過ぎず、仮に他の〝わたし〟が存在したとして、今のわたしはそもそも存在すらしなかったのではないか。たくさんの〝わたし〟の可能性があって一人(一つ)が選ばれたのではなく、初めからただ一つのみが存在し、可能性について思いを馳せているだけなのだろうと。

それ以来、あなたの両親が結ばれなければあなたはこの世に生まれなかった、そういった言葉が嫌いです。自我は後付けに過ぎないのです。

「君が良かった」とは、しかし残酷な言葉でもあります。

偶々最初に手元へ来たへし切が今へ至り、ずっと育てられてきた自我が偶々今の長谷部君であっただけなのです。

存在の希求が結果的なものであり、きっと何度死んで生まれたところでそれは全て〝長谷部君〟なのですから。

でも審神者はそれを望んでいるのです。

短篇集15の最後、タイトルは「全てについて」ですが、内容はタイトル通りです。仕組みについても。

雨の音、目が覚めても死体は変わらず其処にあって硬く強張っている。

こう書いて初めて、ある小説で書かれていた一場面に似ているなと思わされました。

それで結局、自分の考えに結論が得られたわたしがどう感じたのかというと、それはもう絶望しました。

別の個体が選ばれようが両親が別の人であろうが、今こうして考えている自分はやはりここに存在したということと同値ですから。

そうして今の私があります。

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