砂時計の前と後 / 短篇集15
- Chisato Mitobe
- 2017年7月1日
- 読了時間: 2分
小学生の頃、両親のどちらかでも異なる人であったなら、今ここにいる〝わたし〟は存在しなかったのであろうかと考えたことがありました。
或いは両親は今の人達であるとしても、今のわたしとなる卵と精子が受精せず(知識を得た今ではそれは染色体の分配と組換えパターンの組み合わせと説明できますが)、別のわたしが選ばれていたとしたらどうだったのだろうとも。
いずれも今ここにいる〝わたし〟が否定される、酷く恐ろしい考えだと初めは思ったのですが、しかしよくよく考えてみるとその恐怖は誤ったものであることに気付きました。
今ここでこうして考えている〝わたし〟は、生まれてからこの時までずっと生きてきた中で形成された自分に過ぎず、仮に他の〝わたし〟が存在したとして、今のわたしはそもそも存在すらしなかったのではないか。たくさんの〝わたし〟の可能性があって一人(一つ)が選ばれたのではなく、初めからただ一つのみが存在し、可能性について思いを馳せているだけなのだろうと。
それ以来、あなたの両親が結ばれなければあなたはこの世に生まれなかった、そういった言葉が嫌いです。自我は後付けに過ぎないのです。
「君が良かった」とは、しかし残酷な言葉でもあります。
偶々最初に手元へ来たへし切が今へ至り、ずっと育てられてきた自我が偶々今の長谷部君であっただけなのです。
存在の希求が結果的なものであり、きっと何度死んで生まれたところでそれは全て〝長谷部君〟なのですから。
でも審神者はそれを望んでいるのです。
短篇集15の最後、タイトルは「全てについて」ですが、内容はタイトル通りです。仕組みについても。
雨の音、目が覚めても死体は変わらず其処にあって硬く強張っている。
こう書いて初めて、ある小説で書かれていた一場面に似ているなと思わされました。
それで結局、自分の考えに結論が得られたわたしがどう感じたのかというと、それはもう絶望しました。
別の個体が選ばれようが両親が別の人であろうが、今こうして考えている自分はやはりここに存在したということと同値ですから。
そうして今の私があります。
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