瑕疵なき穢土
- Chisato Mitobe
- 2017年11月8日
- 読了時間: 2分
いつか書こうと思っていてすっかり忘れていたことがあるのですが、その話です。
審神者のあれは愛情表現ですから、「長谷部君のことが好きで好きで傷付けたくて堪らなくなる」というものとして読んでほしいのですが。
それはそれとして、「傷付ける」が身体的なものに限局しており、決して精神的に甚振ろうとはしていない、ということを一度か二度、書いていると思うんですね。
詳しくはないんですけど、R-18カテゴリの話になると、「本当はこうしてほしいんだろ」的な台詞、精神的虐待に近いようなことを言ったりすると思うんですが、こういうのは私が書くものの中には全くない訳です。
こういう台詞や態度が嗜虐に含まれるのかどうかはさておき。
どうして審神者はこういうことを言わないのかというと、まあ散々書いている通りこれは審神者だけが望んでやっていることで、長谷部には行使可能な拒否権が絶対的に存在しているというのもそうなんですけど、こういう台詞は結局、自己の正当化に過ぎなかったりすると思うんです。
「してほしいだろうからしてやっている、この結果はお前が望んだものだ」ということにしておけば、暴力等を揮う自分だけが悪いのではない、いや望みを叶えてやっているから正しいんだ、というところまで飛躍させてしまえるので。
審神者はまあ、中身はあれですが、罪悪感なども人並みには抱えていますのでそこまで堕ちたくはないと思っていますし、何より自身のエゴの為に長谷部を貶めたくないと思っているのでしょう。
これが一つ目の理由です。
二つ目の理由は、例の行為を長谷部自身も望んでいることなのだとすると、認識が「主だから応えている」から「自分が望む行為をしてくれるから応えている」になりかねない危険を孕み始めるからです。
そうなると、長谷部にとっては自分でなくてもいい、つまり他の誰かのところへ行ってしまう可能性が出てきて、これは非常に不味いんですね。
審神者は洒落にならないほどのコンプレックスを抱えているので。
まあ極論を言うと、ああいった台詞は自分の薄汚い欲望を相手に押し付けて正当化しているようにしか見えないので嫌いだということです。それが作品やその登場人物にも反映されている。
だから過剰なまでに「自分がしたくてやっている」「嫌なら嫌だと言ってほしい」と繰り返すのでしょう。
話はこれぐらいです。
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