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三周年​

(二周年→短篇集18 一周年→短篇集5)

 偶には昼から祝おうという審神者の一言で、宴席は日の高いうちから設けられていた。一年の中でも一、二を争うほどに盛大な宴の席で、干された酒瓶の数は次から次へと増えていく。その勢いは日が傾き、空が紺から朱の見事なグラデーションに塗られ始めても一向に衰える気配がなかった。
「よく呑むねえ、君達は」
 返事は幾重にも重なった歓声で、酔った審神者にはその内容までは聞き取れなかった。そろそろ痛み始めた頭を押さえ、真横で盃を舐めている長谷部をちらと見遣ると彼はすぐに意図を察したようだった。
「外の空気に当たられますか、主」
「ああ」
 後は主賓の君達で宜しくやってくれ、審神者が部屋へ向かってそう声を張ると、長谷部は何か言いたげな目をして審神者を見たがそれ以上は何も言わなかった。一年前と同じように、走って二人分の靴を持って来ると、審神者はちらりと舌を覗かせて笑った。
 長谷部にとって審神者は夜の人とでも言うべき存在であったが、彼の人を象徴するのは寧ろ夕暮れ時の空の色こそが相応しいと、何処か夢見心地なままに長谷部は後ろ姿を眺めていた。真っ赤に焼ける空がその色を孕む時間はとても短く、今すぐにでも墨を流し込まれて黒く染まってしまうことも分かっていた。意識を遠くへ遣って立ち尽くしている長谷部へ審神者は振り返り、
「君まで酔ったのか」
と愉快そうに言った。
「いえ、そういう訳では……」
「……」
 感慨深げに、しかし何処か憂鬱そうな溜息を一つ吐いて、審神者はポケットに手を突っ込んだ。
「……早いものだ」
「三年目も、そう仰るのですね」
「そうか」
 妙な流し目をして、審神者はゆったりとした口調で言った。
「去年の、そのまた一年前の私もそう言ったらしい」
「はい」
「であれば、私が次に何を言うかも分かっているんだろう?」
 長谷部は少しだけ躊躇う様子を見せた。
「俺は……俺は、主の命に――いえ、我儘でしたか――背くことになるのを恐れていましたが」
「ああ」
「一年前、主はそれを赦してくださると仰ったので……今此処で、俺はもう一度申し上げます」
 審神者は口の端を小さく持ち上げたきり、何も返さなかった。
「主、俺は貴方を忘れたくはありません」
「……ふ」
 足元に落ちる影は、冬のそれとは違い、冷たい色を含んでいない。それは何らの感情も映していないことの表れのようで、長谷部はつい落とした視線をすぐに上げる他なくなった。
「その言葉を許すと言ったのは私だったな、覚えているとも。私と君との間に、ただ一つきり残った希望が君だ」
 その希望を踏み躙るように、審神者は足元の土を靴の爪先で引っ掻いている。ざりざりと鳴る音が長谷部の鼓膜に張り付いて落ちなかった。
「それで、今年は褒賞に何を望むんだい。私に叶えられることなら、何でも叶えるよ」
 俯いて、長谷部は口籠った。当然予想していなかった訳ではない。あれこれ考えもした。だがどれも今一つ決め手に欠けるようで、不完全な思いを抱いたままそれを審神者にぶつけることが、長谷部にはどうしてもできなかった。
 審神者が〝長谷部の望みを叶えたい〟と語るその本心を、長谷部は一年前に知ってしまっていた。だからこそ長谷部は、自身の願いを軽々しく口にすることができなかった。いつ終わりが来るとも知れぬ日々を最良のものにすべく、或いは死出の旅の良き土産にと、そんな魂胆で叶えられる願いというものを、どうして忠臣である彼がぬけぬけと享受できようか。
「……色々と、考えてはいたのですが」
 顔を上げるのが恐ろしくて、長谷部は自分の靴に語りかけるようにして零した。
「決めかねているうちに今日を迎えてしまいました。すみません」
「そう深く考えることはないのに」
 審神者はさらりとそう言ってのけたが、だからこそ申し上げられないのです、と長谷部は胸中で押し殺した叫びを上げた。愛しい近侍の為であればいとも容易くその身を削る主に、軽々しく己の望むところを口にするなど到底不可能だった。例えば、例えば長谷部が「俺だけを映してほしいので主の眼を下さい」と言えば、審神者はその場で刃物も使わずに眼を抉り出し始めたことだろう。その盲目的な献身が、長谷部にとっては身を切り刻む刃よりも恐ろしいものだった。
 主、と彼は叫んだ。
 貴方は俺の主なのですよ、と。
「もう少しだけ、考える時間を頂けませんか」
「ああ、勿論……」
 唇を噛む長谷部の内心などいざ知らず、審神者はうっそりと笑って自室の方へ足を向けた。
「茶でも飲みながら考えると良い」
 夜が降り始めていた。

 審神者が淹れた茶を前に、長谷部は漸く自由に呼吸ができるような気がしていた。審神者は何処にいても変わらず陶然としていたが、その態度が幾らか鷹揚なものになっていたことを長谷部もそれとなく感じ取っていた。夏の夜の空気特有の嫌な湿っぽさとは無縁の部屋の中、審神者は何かを一枚脱ぐような素振りを見せた。
「ああ、やっと一息つける」
 小さな卓袱台にしな垂れかかり、審神者は冗談めかして言った。
「三年が経っても、主は主のままですね」
「成長がないと」
「いえ、主は俺達の主で在るに相応しく、日々成長されていると思います。……それを一番近くで見守ることを許されて、俺はとても光栄に思っています」
 長谷部の言葉に審神者はちょっと笑って、
「それはどうも」
とだけ言った。
「長いようであっという間だったと感じます、この三年間は……主に喚ばれてから今日までのことは全て具(つぶさ)に思い出せるのに、一方でとても遠いことのように思えるんです」
「……それだけの年月を重ねられるなどとは思っていなかった。厭気が差すか気を病むか――これが最も可能性が高いと思っていたが――敵に殺されてこの任を離れることになると信じていたからな」
 自嘲めいて話してはいるが、審神者がそう信じ切っているのは長谷部の目にも明らかだった。自死を望むような言葉が耐え難くて、長谷部は渇きかけた喉で唾液を飲み込んでから話題を変えようと試みた。
「主は、何故審神者の役に就かれたのですか」
「……今は言えない」
「……」
 湯呑の置かれる鈍い音が、やけに大きく響いた。
「みっともなく縋り付いているようなものなんだよ、私のこの現状は。余りにも惨めに過ぎて、……君にもこれだけしか言えない。悪いが」
「いえ、不躾な質問をしてしまって申し訳ありませんでした」
「構わない。本当に、……君がいなければ此処までやってこれなかった。君の忠心があればこそ私は皆の主で在り続けることができたのであって、一方で私はそれに報いることができないのを後悔しない日はなかった。……打算か、そうだろうな。だがそれでも私は、年に一度のこの日くらいは、君の望みを聞いて叶えてやることを許してほしいと願ってしまう」
「そんな、俺はただ――」
 弾かれたように顔を上げると、審神者がその黒い瞳で長谷部を真っ直ぐに見据えているので、長谷部は知れず居住まいを正していた。
 彼が何を考えていたかと言えば、自分が正しいと思うことを主張すればするほど、それは審神者が望む形からはかけ離れていくのだろうということだった。それは例えば審神者が決して認めない審神者自身の存在を頑なに認めることであり、或いは審神者なら長谷部などいなくとも立派にやってこれただろうと説くことだった。長谷部の思うところから外れていたとしても、何より審神者の言葉を否定することなどあってはならなかった。長谷部はあくまで、忠義深い近侍でなければならなかったからだ。
 だから、長谷部が「忘れたくない」と言い張ったことは、今更どうしようもないことだが、長谷部にとっては途轍もない異常事態だった。
「そう仰っていただけることに、俺はとても感謝しています」
 長谷部は綺麗な笑みを浮かべて言った。
「主がいつも俺に心を砕いてくださること、その全てが俺の身には過ぎた褒賞です。ありがとうございます、主」
「君は欲がないな」
 物憂げに目を伏せた審神者の項(うなじ)がちらと覗いて、長谷部はひやりと冷たい手で心臓を掴まれたような気分になった。
「君が自分から、何かが欲しいと強請るのを聞いたことがない。愛などというつまらないものは、決して君の為に行使されている訳でもない……」
「……」
 静止した部屋の空気の中では、湯呑に手を伸ばすことすら躊躇われた。長谷部はどうにか気を奮い立たせて残っていた茶を一口に飲み、二度ほど咳払いをすると姿勢を正した。
「主」
「うん」
「俺が、今日望むことですが」
「考えは纏まったかい」
 はいと返した時、本当に唐突に、長谷部は(主は泣かれているのではないだろうか)と直観した。無論審神者の眦(まなじり)はすっかり乾いていて、それが見当違いの考えであることは一目瞭然だったのだが。
「主、俺に触れていただけませんか」
 乾いた目蓋がぴくりと動き、審神者は小さく顎を引いた。
「構わないが、それはいつもやっていることだろう」
「……向こうの部屋ではなく、此方で、というのは――」
 いけませんか、と続く言葉を、がたんと鳴る音が掻き消した。審神者の脚が卓袱台にぶつかって立てた音だった。そのまま何事もなかったかのように脚を組み替えて、「すまない」と短く言った。
「確かに普段私は此方と彼方を切り離している。寝室の外では君の腕や肩に触れることすらしない。だがそれは至極当然のことだろう、日の高いうちから皆の前でべたべた触るというのは、皆の前で性行為に励むのと何ら変わりがない。それに私には審神者としての執務がある。一日を終えるまでは、それを忘れることはない」
 長谷部は僅かに俯いて、審神者の言葉を聞いていた。謂わば公私の分離というものを審神者が徹底していたことは、長谷部も理解しまた納得していた。それが審神者の主義なのであれば、皆の前では〝この本丸に在る刀の一口〟として扱われることも――近侍としての丁重さは勿論あったが――彼は受け容れた。
 しかし"行為"の外では、長谷部は特別な一口ではいられなかった。審神者はそれを望んではいけなかったし、長谷部であっても同じことだった。
「触れてほしい、そうか。……」
 審神者の何か言いたげな雰囲気を察して、長谷部は先回りするように言った。
「それ以上を望んでいる訳ではありませんし、絶対に望まないと誓います。ただ俺は――」
「分かっている」
 唸るような声で言い、
「此方へ」
片手で顔を覆ったまま長谷部を呼んだ。
「はい」
 上擦った声を、審神者の剣呑な視線が裂いて縫い止めた。喉を絞め上げられているような感覚に思考も上手く働かなくなって、長谷部は立ち上がるとふらふらと歩いて審神者の元にへたり込んだ。
 いつも通り真っ白な手袋の上に審神者の手が重なり、音もなく滑って袖口から肌を撫で上げた。長谷部が身動ぎするよりも先に手はするりと抜けて行き、不意にその腰を抱き寄せた。
「え、あっ……」
「……」
「あの……」
「……」
 何を言っても審神者は無言で長谷部の頭を撫でているので、結局長谷部は諦めてされるがままに任せていた。抱き締められて密着した胸の奥で、何方のものともつかない鼓動が激しい産声を上げている。審神者の表情は窺えなかったが、きっと腹を立てられているか呆れられているか、そんなところなのだろうと長谷部は酸欠の頭で考えていた。
 遠くから微かに、本当に微かに宴の声が聞こえてくるような気がした。それほどまでに部屋の中は静寂で満ちていて、長谷部は硬直して垂らしたまま持て余していた両手が融けてなくなるようにすら感じていた。背中に回された審神者の左手が、何かを探すように弱々しく動いた。
 そのまま何分、何時間そうしていたのか、頭に置かれた手は止まっていて、一際強く抱き締められたかと思うと掠れた声で名前を呼ばれ、長谷部は慌てて返事をした。
「はい、主」
「……。……忘れたくない、と言ったが」
「は、はい」
「そう願うことを許すと言ったことに、二言はない」
「はい」
「……そう願わなくなるような、忘れたくないと思わなくなるような日々だって……あり得るんじゃ、ないか」
 長谷部には容易に想像できた。審神者が彼を近侍から降ろしてしまえば、それはもう何の期待もしていないのだと宣告されるのと同じことであった。冷えた自室の中で一人、自分以外の誰かが主命を果たしているであろう日々など出来る限り早く忘れてしまいたいと願うに違いない。――審神者はらしくもなく、そう考えているのだろう。
 以前に何度か、審神者が言っていたことがあった。信長にされた所業は忘れられず、何度も何度も愚痴を言い、一方であの世まで付いて行きたいと願った長政のことは忘れることにした、長谷部は本当に覚えていたいことほど忘れようとするのだろうと。裏返せば忘れたいと願うような日々こそ、長谷部にとって真に幸福なものであるという希望に縋っているのだろう。
 "自分"を忘れろと言うその理由は、また他のところにあるのだろうが。
「主の御傍に居られずとも、……俺は、俺だけは主を忘れられません」
 渇望するような声の響きに、審神者は頭へ乗せていた方の手も下ろし、長谷部の身体へ両腕を回した。項垂れ、何事かを呟いて、それは「どうしてこんなことを」と言っているように長谷部には聞こえた。だから長谷部はただ審神者へ身体を預け、審神者の心に少しの傷も付かないよう可能な限りの優しさを詰めた声で答えを零した。
「俺だけだと、そう言われたかったんです。三年間を此処で過ごして、……俺は随分と醜い欲を育ててしまったようです」
「……四年目は、どうするんだ」
「言葉にしても宜しいのですか、とても不確定な四年目を」
「そうでなければ、君は私の不在を望むのか」
「まさか」
 審神者は少しも力を緩めようとはせず、長谷部にその顔を見ることを許さなかった。
「……愛しているよ」
 だから忘れてくれ、と泣くような声で審神者が言い、長谷部は聞こえなかった振りをした。
「四年でも五年でも、最後までお仕えいたします。……何十年でも」
「随分と気の長い話だ」
 笑って、審神者は長谷部を解放した。長谷部はさりげなく頭に手を遣って、散々に撫でられて乱れた髪をさっと整えた。
「少しだけ飲み直さないか。実はちょっと良い酒を確保してあるんだが」
「ご相伴に預かります」
 審神者はにやりと片笑んで、何処からともなく酒器と酒瓶とを取り出した。瓶には和紙のラベルが巻かれていて、濡れたように艶やかな墨の黒色で酒の名前が書いてあった。長谷部の杯に並々と注ぎながら、審神者は何故か似つかわしくもなく面映ゆげだった。
「飲んだら送って行こう」
「ありがとうございます、主」
「……君にも」
「?」
 うん、と何度か咳払いをして、審神者は僅かに紅潮した顔を背けるようにしながら言った。
「君にとっても、私だけだと、願いたいものだ」
「はい、主」
 二人は黙りこくって、この夜がどれほど幸せなものであるかを銘々に考えていた。たとえ明日になれば全て元通りになってしまうものなのだとしても、今日この日を覚えていることは、覚えていたいと思うことは、誰にも妨げることのできない切ない願いだった。
「三周年か」
「そうですね」
「早いものだ」
「はい」
 その日、床に就いた後も、審神者の身体には長谷部の温度が残ったままだった。

 

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