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短篇集5

 

 

 


 

 しとしとと雨が降っていた。本丸の庭には青や赤の紫陽花が咲いており、花弁が滴に濡れている光景が好きだと審神者は言った。

 長谷部の喉からはか細い音が漏れるように鳴っていた。静かに上下する胸は肉が幾らか削ぎ落とされて一層薄くなっていた。どちらも嗅ぎ慣れたものではあったが、血の臭いよりも雨の臭いの方が嫌いだと長谷部は言った。

「何故食べるのですか」

 ぼんやりと雨に濡れる戸外に思いを馳せていた二人の間に突然放たれた言葉に、審神者は少しだけ首を傾げた。長谷部はよく何故、と尋ねる。その目は純粋な疑問だけを湛えており、遠巻きに耳打つ人間達のそれとは異なっていた。

「食べるって、何を?」

「俺をです」

 この問いにも何度答えたか分からなかった。確証が欲しいのか、愛寵が欲しいのか、それとも他の何かを求めているのか審神者には想像が付かなかった。だから答えはいつもと同じだ。

「愛しているからだよ」

「それだけですか?」

 珍しく長谷部は問いを重ねてきた。愛以外の理由など思い描くべくもなかったが、彼にはそう感じられなかったらしい。何を話したものかと考えている審神者の頭に、雨樋を暗い水が流れている音がそっと忍び込んだ。流れる水で全てから隔てられた小さな部屋。

「神隠し」

「え?」

「君達が、それをすると信じている人間が一定数いるらしい」

 くだらない話だと思いながら審神者はそれに言及した。近侍やそれ以外と情を交わすのと同じくらい、どうしようもなくくだらない話だと。自分もさして変わらない、と喉の奥で苦笑する引き攣れた音を鳴らし、審神者は尚も言った。

「彼等が言うには神である君達が神域に主を連れて行き、永久に閉じ込めるらしい。其処は常世、永遠の理想郷だ」

「常世」

 長谷部はただ鸚鵡返しにその言葉を呟いた。理想郷。

「君はそれを信じるかい、長谷部君」

「……俺は、……」

「分からずとも無理はない、真実は私も知らない。たとえ有るとして、君がそれをしたいかどうかは私の意の及ぶところじゃない」

 首を支えているのが怠くなり、長谷部はぱたりと横を向いた。部屋は緋く黒く、昏かった。二人が今見ているのは庭の景色の蒼さであることを思い出し、長谷部は目を閉じた。

「理想郷だなんて、冗談じゃない。在るべきは地獄だよ。だから君を食べるんだ」

「……黄泉戸喫」

「おや、知っていた」

「俺は、……生きていますよ。生きて、主の御傍に居ます」

「うん、だからきっと酔狂な物の喩えだ。満足したかな」

 雨も紫陽花も藤も桜も苺も雪も金木犀もそれに似た金平糖も、自分以外の何もかもに対しては酷く単純な言葉で触れるのに、殊自分のことに関してだけはやたらに言葉を捏ね回す方だ、と長谷部は思った。それが何を覆い隠す為のものなのかはまだ分からなかったが。

「主、死とは何でしょうね」

「さてね。河と彼岸花と渡し守、或いは門と審判、或いはトンネルと光と回顧かな」

「退屈そうですね」

「しかもそれが永遠に続く」

 ふふ、と小さく笑って長谷部は何も言わなかった。この人間と永遠に在ることが嬉しいのかどうか、それもよく分からなかった。


 

  ***


 

 審神者が手ずから焼いたホットケーキは、以前に比べると幾分まともな見た目をしていた。三枚重ねて皿に盛り、まだ一番上の一枚が熱いうちにバターとメープルシロップを掛けるとシロップはもうほとんど瓶に残っていなかった。ガラスの壁面に纏わり付いてゆっくり落ちるそれをぼんやり眺め、また買ってこないとなあ、と考えながら審神者はフォークとナイフを手に取った。

 シロップの良く滲み込んだホットケーキを一口大に切り分けて、ゆっくり長谷部の口に押し込めた。開き方の足りない唇にシロップが残って血糊のようにてらてらと光ったが、それは本物の血に比べれば匂いも味も劣るものであることを審神者は知っていたのでそれほど心惹かれる光景ではなかった。

 咥内から更に咽頭へとフォークを押し進めると湿ったホットケーキの一片は特に抵抗を受けることもなく長谷部の喉を滑り落ちた。食道へ入る頃にはたっぷり含まれていたシロップも幾らか減ってしまい、分泌される粘液なしには進むこともままならなかっただろうが、今は食道の壁をたっぷり濡らした血液がその役を担っていた。

 嚥下させられたホットケーキには血がじわじわと滲みて赤く染まってしまうことが審神者には分かっていたので、敢えてベリーソースなどを使うことはしていなかった。それでも冷蔵庫にはホイップクリームや苺、ブルーベリーのソース、チョコシロップなどが静かにその出番を待って鎮座しているのだった。

 漸く食道を通り終えたホットケーキがその身を現し、胃へと続く筈の場所からぽとりと落ちた。存在しないのは胃だけではなかった。その更に先の十二指腸や小腸、大腸、そして肝臓や腎臓、膀胱、それらの臓器に加えて本来その周りを覆っている筈の筋肉や血管までもがごっそりと脱け落ちていた。つまり長谷部の胸から下はすっかり失われてしまっていた。

「君の喉が乾いたら、ホイップクリームと苺のソースを掛けよう。君はその組み合わせが好きだったろう、長谷部君にだけ特別に切った苺だって載せてあげるよ」

 審神者の言葉より少し先に落ちていたケーキの欠片は、床に堆く積み上がったホットケーキの山の天辺にあった。そのほとんどは緋に染まってしまっていたが、下の方で半ば乾いたようになっているものの中には緋を通り越して黒茶に変色しているものもあった。

 バターの濃い香りとシロップの甘すぎる匂い、それに臓腑と血の昏い臭いで部屋は惨憺たる空気に満ちていたが、審神者も、そして虚ろに目と口を開いたまま動かない長谷部もそれに顔を顰めることはなかった。

 また一つ、審神者はホットケーキを切って長谷部の口に押し込めた。少々大きすぎたそれはなかなか咽頭を通り抜けることができず、審神者が無言でただ押し込み続けていると長谷部の首から何かが落ちた。それは散々に血液とシロップを吸って膨潤したホットケーキで、喉に開いていた穴をつい今しがたまで塞いでいたようだった。もう元の形や色などはほとんど推し測ることができないが、それでも拾い上げてみると元々少し焦げていたらしいことだけは見て取れた。

「……」

 ふと長谷部の身体を見遣れば、周りには汚れた皿とカトラリーが数多転がっており、胸から下は残っていない、いつも真っ白でアイロンのよく掛かっていたシャツは様々な液に塗れて皺くちゃに薄汚れ、そしてそれはスリットを左右に割って垂れ下がっているカソックについても同様だった。手袋を嵌めた両腕はだらりと力なく投げ出され、二度とへし切を握ることも能わなかった。元から白めだった肌は白磁のようで、それなのに瞳はあの綺麗な藤色ではなく濁って真っ暗だった。

 死とはもっと美しいものの筈であった。永遠に時を止めた肉体と精神が自らに寄り添ってくれる、そういうものの筈であった。

 其処で審神者は汚れた皿とホットケーキの山にはたと思い至り、抽斗からゴミ袋を取り出すとそれらを全て詰め込んでしまい、口を縛って投げ遣ってから長谷部の隣に腰を下ろした。

「長谷部君」

 返事はない。絶えた心音が静かに響き、部屋の空気は静謐で清浄なものとなった。横に目を遣れば、滑らかなカーブを描く筋肉や陶器のような艶の骨、それに熟れた柘榴の色をした血液が長谷部の身体に見えていた。この世界で一等美しいもの達だった。

「長谷部君」

 審神者は目を閉じて長谷部の身体に寄り掛かった。生きている間にこうしたかった、なんて思念は浮かんですぐに掻き消してしまった。

「明日もホットケーキ作るからね」

 囁いた声は驚く程大きく部屋に反響し、審神者の鼓膜をわんわんと揺らした。何故だか涙が出そうになった。

「淋しいよ、長谷部君」


 

  ***


 

「やり直せなどしないよ」と言う声に、長谷部は目を瞬かせて審神者を見遣った。舌が寸断されているので上手く言葉が出なかった。その代わりに視線をそのまま部屋中にぐるりと巡らせると、襖が幾重にも切り裂かれ、布団や枕からは乳白色の綿が臓物のようにはみ出して惨憺たる有様だった。

 自由に動ける身ではなかったが、自分が目の前のこれをやったのではないかと無言で問う長谷部に、審神者は無機質な一瞥をくれたのみでふいと顔を逸らした。その手元には、赤黒い細切れの血肉に混ざって紙や綿がべたべたと貼り付いたへし切があった。

 頭を揺らしていつもの天井をぼんやりと眺めていると、朧気な記憶が戻ってきた。自分が零した言葉とそれを耳にした審神者の瞳孔の散大、そして喉を張り裂くような罵声。己が越えてしまったらしい一線を、長谷部は思い出したくなかった。目を瞑ると、金属質な軽い音が耳の中で鳴る。頭も顔も腹もかっかと熱を持って、長谷部はとても水が飲みたい気分だった。

 乾いた唇を「みず」の形に小さく動かしてから、長谷部は審神者の言葉の意味を考えた。往時であれば長谷部が一言「水が飲みたいです」と言っただけで、この季節には冷やしておいたグラスに氷を浮かべて水を満たし、審神者はすぐさま厨房から笑顔を湛えて戻ってきたことであろう。

 しかし今は「やり直せない」と言った。この審神者が放ったその言葉の意味は、たとえ長谷部が庭に這い蹲り泥水を啜ろうとも以前の関係には戻れない、ということだった。それだけ斯の人に近付きすぎたことが哀しいのかそれとも嬉しいのか、長谷部には分からなかった。

 瞼の裏に暗い影が落ちて、彼は審神者が自分の傍に立っていることを察した。澄んだ音が小さく鳴ったのはへし切を手にしているからだろうということも、容易に。

 一、二まで数えたところで切っ先が無遠慮に刺し込まれ、眼窩を底から貪り抉るようにがつがつと動いた。痛みは消えていたが、その気持ち悪さが長谷部を悩ませていた。直に瞼の皮膚ごと眼球は抜き取られ、あっさりと断ち切られた血管やら視神経やらがぽっかりと空いた孔に垂れた。

 審神者はいつも長谷部に、「君の瞳は綺麗だ」と言っていた。藤の色だ、と。顔もとても綺麗だと繰り返し述べていた。長谷部の咥内にたった今抉り出されたばかりの眼球がぽとりと落とされて、がくんと顎が揺れた。柄で殴られたか蹴られたか、と長谷部は自分でも驚く程に冷静だった。

「君の眼は私など見ていないのに」と微かに呟く声がして、長谷部の下顎は何度も揺すぶられた。鋭い犬歯が幾度目かでとうとうその膜を突き破り、僅かに塩辛い液体が喉を濡らした時、長谷部は其処からつい先に零れた言葉を思い出してしまった。

「……な筈が、……」

 萎んだ眼球が気道を塞ぎ、遠く昏くなる意識の中、審神者の言葉はもう聞こえなかった。


 

  ***


 

「そういえば、」

 長谷部君はありがとうと言われた時何だか一瞬困惑しているように見えるな、と燭台切は思った。

「此処の主はあんまり酒呑まねぇなあ」

「貴様と比べたら誰だって下戸だろう」

 すかさず言い返す長谷部に燭台切は苦笑した。調味料のストックを確認していたところに日本号が何かないかと漁りに来て、更に審神者からの言伝を持ってやって来た長谷部がかち合ったある午後のことだった。

「酒も呑めない鈍らですってか?」

「ふん」

 幾らでも言っていろ、と切り捨てる長谷部の目は剣呑で、燭台切は慌てて口を挟んだ。

「でも以前の主はもう少し呑んでいたような気がするよね、いつからか控えるようになっただけで……。長谷部君、理由知ってる?」

「……」

 ふと横を向いてそう問いかけた瞬間に腕が当たり、倒れかけた味醂のボトルを長谷部は無言で支えた。ありがとう、と笑顔を向ける燭台切に難しい顔を返すだけの長谷部に、彼はああまたあの顔だ、と思った。

 日本号は冷蔵庫から余り物のプリンを取り出してつまんでいた。彼の体躯には少々小さすぎるように見えるそのカップが、明るい筈の厨房の空気の中で唯一滑稽だった。

「……おそらく、鶴丸が来た時のことだ」

「へぇ」

「彼が、何かしたんだね……」

「した。よりによって主を騙して、酒ではないと言いながらしこたま呑ませていたんだ」

 鶴丸がやりそうなことだ、と二人は笑みを漏らした。何だかんだ言って彼は引き際というものを心得ているので、おそらく審神者へ贈る一発目の驚きだったのだろう。

「それで何かやらかした、と」

「主は何もなされていない」

 むっとした表情で長谷部が言い返し、燭台切もそうだね、と言い添えた。審神者が酔った勢いで醜態を晒した記憶はなかった。確信はないがその時も、酔い潰れて長谷部に部屋まで運ばれたとかそういった落ちだろうと思っていた。

「だがそれ以降、主は酒はほとんど召し上がられなくなった。それだけだ」

「だがなぁ」

 プリンを食べ終わった日本号がスプーンを置き、頬杖を突いて言った。

「お前がいるんだから別に酔ったって構わんだろう」

「……主はそういう御方ではない」

 それだけ言うと長谷部は二人に背を向け、それはきちんと洗っておけよ、と言い残して去って行った。量産品のスプーンは机の上で、はっきりしない、鈍い光を放っていた。

「……酔わせてみてえなぁ」

「止めておいた方が良いと思うけどね」

 苦笑しながら、あの表情のこと訊きそびれたな、と燭台切は思った。

 審神者が鶴丸に騙されて酔い潰された夜、部屋まで送って行ったのは確かに長谷部だった。覚束ない足取りの審神者を触れるか触れないかで必死に支えながら何とか執務室まで辿り着き、ぐったりと文机に伏せている間に手早く布団を敷いたのも彼だった。

「主、お休みになられますか」

「んー……」

 曖昧な返事に戸惑ったまま長谷部が所在なく立ち尽くしていると、徐に審神者は彼を振り向き、「退がって良いよ」と言った。呂律は回らずその頬も耳も真っ赤なのを見て長谷部は躊躇したが、

「君も早く休んだ方が良い」

 と言い聞かされ、では、と部屋を出ようとした時だった。翻るカソックの裾をついと摘まれ、長谷部は足を止めた。

「長谷部君」

「はい」

「いつも、ありがとう」

 微かな声に振り向くと、審神者はもう寝息を立てていた。どうするべきか迷い、毛布を掛けることしかできないまま長谷部はそっと部屋を出た。灯りを消した部屋は墨のように暗く、藍色の夜空の方が明るいくらいだった。

 翌朝、審神者は長谷部に謝るばかりだった。もう酒は呑まない、と青黒い隈を擦りながら言う審神者に、彼は俺も付いていますから少しくらいなら平気ですよ、と声を掛けた。昨夜のことには一切触れられず、長谷部も自分から触れようとはしなかった。長谷部君がそう言ってくれるなら、と審神者は頭を掻き、

「ありがとう」

 と笑って言った。

 長谷部はどんな顔をしてその言葉を聞けばいいのか分からなかった。涙を浮かべて言う言葉なのではなかったのですか、などとは言えなかった。昨夜のその響きは、ごめんと言う時のそれと、自分は異常なんだと言う時のそれと全く同じだった。

「……いえ」

 主からのそれは嬉しい言葉の筈なのに、と彼は今日でも思っている。


 

  ***


 

 もうすっかり夜も更けて、普段であれば審神者を含めた皆が床に就いている筈の時間だった。深い墨色の夜空には幾人もの笑い声が微かに響いて、凍てついた星々に吸い込まれていた。審神者は自室で長谷部と二人向き合って、僅かに上気した顔で楽しげに言葉を交わしていた。

「それにしてももう一年とは、早いものだ」

 何度目かのその言葉を長谷部は静かに笑って受け止め、「そうですね」と返した。

「就任当初はどうなることかと思ったが」

「主は初日から御立派に務めを果たされていましたよ」

「まあ、何とか体裁だけは……。内心は不安でいっぱいだったものだ」

 確かにあの頃の自信なさげな審神者を見ていた長谷部にとって、今の主は見違えるようだ、と思ったことはあった。手に持った湯呑を少し下げ、審神者は一つ嘆息した。

「それでも君が支えてくれたから何とかこれまでやってこれた」

「いえ、俺は……」

「謙遜しなくて良い」

 執務室の畳も障子戸も文机も、あの一日目から少しも色を変えていなかった。褪せることなく、しかし重ねた月日の分だけ近くなったように感じられた。けれども審神者をまだ遠い、一つ隔てられた先の人であるように長谷部は感じていたし、審神者も長谷部を自分とは異なる位置に在る存在として扱い続けていた。

 一際大きい笑い声がさざめいて聞こえた後、波はさっと去って透明な藍色が部屋を包んだ。

「君に、」

「……はい」

 静謐な空気に耳をそばだてていた長谷部は一拍遅れて返事をした。

「何か礼をしたいと思って……私に出来る範囲でなら、何でも」

「礼、ですか。しかし、俺は」

「長谷部君」

 俯きかけていた顔を上げると審神者はいつものあの表情をしており、長谷部はその顔を見なければ良かった、いやそもそも返事をしなければ、と後悔した。

「お願いだから」

「……分かりました、ですからそんな風に仰らないでください」

 長谷部はその表情が苦手だった。身を引き裂かれる痛みに苛まれるのも激痛の余り気を失うのもいつも長谷部だけだったが、彼は決してその行為を止めるよう懇願しようとはしなかった。

 ただ審神者が彼の手入れをしながら声を絞り出して自責と謝罪を繰り返す時の表情を見たくなくて、自分は平気だからそれだけは止めてほしいと口を滑らせそうになったことが幾度もあった。

 それを願おうか、という考えが一瞬長谷部の脳裏を過ぎったが、頭を振ると考え直した。――悪い酔いの所為だ。

「何でも、ですか」

「君が望むなら」

 俺が望むなら、俺の為に命でも擲つと言うのだろうか、と考えて、長谷部は再び頭を振った。どうにも思考が悪い方へ向かいがちだった。目を上げた先には審神者の首筋があって、ひとたび絞められてしまえば呆気なく止まってしまうことも知らず、静脈がそっと脈打っていた。

(……俺と違って、この人は生きる為に生きている)

 重く湿っぽい空気が肺を満たすのを感じながら、長谷部は唾を飲み込んだ。

「……主、不躾だとは分かっているのですが」

「うん」

「……御手に、触れても、構いませんか」

 その言葉を聞いた審神者はそれと分からないくらいに目を見開いて、困惑したような笑みを浮かべて言った。

「そんなことで構わないのか、君が望むならもっと――」

「いえ、これでも俺の身には余る程です」

「……」

 無言のまま審神者は少しだけ膝行し、長谷部に近付くと衣服の袖口を捲って手を差し出した。日々の執務や偶の畑仕事などで少し陽に焼けて皺も刻まれたその手を目にし、長谷部は思わず自分の手に視線を落とした。白っぽい絹のような肌がすらりと手を覆っている。

 どれだけ出陣を重ね畑で土に汚れようとも、手入れの度に作り物のようなまっさらの身体に戻ってしまう。一年間で変化を経たのは何処にあるのかも分からない心などというものだけで、身体は顕現したその時から時間を止めたままなのだとほとんど頭を殴られるように思い知らされた気分だった。

 許可は得たものの、主に触れるという行為は長谷部にとって非常に緊張を伴うものだった。彼はまた審神者の首筋に目を遣りながら恐々と手を差し伸べ、手首にそっと触れた。簡単に消え失せてしまいそうな脈動が、小さく触れた指先に伝わってくる。

 何かを呟いて相好を崩している審神者の言葉も耳に入らず、夜が部屋を覆う音すらも聞こえなくなって一切の音が失われた。静かな拍動の音以外が。

「……君、長谷部君」

「……」

「長谷部君」

「あ、はい」

「どうしたの、難しい顔をして。嫌だったかな」

「いえ、いいえ、そうではないんです」

 長谷部は慌てて身を引き、その拍子に触れていた手も離してしまった。

「その……音が」

「音?」

 一斉に戻ってきた音を聞きながら、長谷部は目を伏せた。握り締めた拳には昨夜の痕すら残っていなかった。――酔っているだけだ、悪い酔いだ、一周年で、一年も経ったのに。

「……今まで、誰を喪っても、俺の時間は止まらなかったのに」

「うん」

「この音が止まってしまったら、俺の時間まで、止まってしまいそうで」

「うん」

「……いえ、今だって、止まったままです。主と俺は、同じ時間に居られない」

「こうして過ごしていても?」

 審神者はまたあの表情を浮かべる準備をしているように見えた。一年も過ごしたのに?と問いかけている色を其処に見て、長谷部は怖くなった。

「積み重ねていけば何か変わるでしょうか、俺でも……主の御傍で、共に在る時間を」

「変わるかもしれないね」

「……御傍に居ても、宜しいのですか。これからも」

「勿論、私だってそれを望んでいる」

 そう言うと審神者は立ち上がり、障子戸を少し開けて夜空を仰ぎ見た。青白い星が瞬いている同じ空を一年前も見た筈なのに思い出せない、と審神者は思っていた。それだけ余裕のなかった就任初日だったのだ。

 振り向かないまま、審神者はまた言った。

「だけど最後には、全て忘れてほしい」

 ひゅっと音を鳴らして息を呑み、長谷部はその言葉を反芻した。夜闇が審神者の上に落ち、畳の上にぼんやりと影が佇んでいる。

「……忘れろと、それは主命ですか」

「こうして年月を重ねて、終りが来た時の最期の我儘と思って聞いてほしい」

「それでは……それでは、忘れたくないものが増えるばかりです」

「君が変われた後なら、私との思い出など不要だよ」

 それだけ言うと審神者は振り返って、「お茶でも飲もうか」と湯呑を取った。今すぐにでも時が止まってしまえば良いのに、という言葉を長谷部は宵闇と共に飲み込んだ。

 

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