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短篇集18


 背後には盛り上がりも最高潮に達しようとしていた宴の賑やかさがあった。見慣れた姿がふらりと出て行くのを思わず追いかけてみれば、それは紛れもなく長谷部の主であった。
「主」
 呼び止められたその人
――この本丸の主である審神者は振り返り、おや、とでも言いたげな顔をして長谷部を見た。
「どうしたのかな、こんなところで」
「主が出て行かれるのが見えたものですから」
「何、酔い醒ましだ。君達付喪神に付き合っていたら此方の身体が保たない」
「ですが今日の主賓は……」
 置き去りにした部屋の方をちらりと振り返り、長谷部の語尾は次第に萎んでいく。審神者はその続きを引き取って、
「私だと言うんだろう、二周年だからと。確かに審神者として就任して二年が経ったのは事実だが、それは何より君達刀剣男士が居てくれたから為せたことだ。主賓は君達だよ」
「……俺達は……」
「功労に主も臣下も関係ないよ。……だがまあ、少し話そうか?」
 言いながら審神者は庭を指し、その意図を察した長谷部は急いで二人分の靴を取って戻って来た。
 靴を履き、本丸の喧騒と眩しさから一歩引いた場所へ二人は静かに降りる。夜に木々は墨で塗ったように黒く見え、淡く滲む輪郭が揺れたかと思えばそれは梢に茂る葉なのだった。
 少し歩けば途端に光は遠ざかり、夜空に散った銀粉のような星々もはっきりと認められるようになっていた。星は冷たい沈黙を守り、一年前のように全ての音を吸い込んで輝いていた。長谷部は少し前を歩く審神者の様子を窺うが、今はこの星空を見上げようとは思っていないようだった。諦めて前だけを見遣り、長谷部はとぼとぼと後を付いて行った。
「……もう二年か、早いものだ」
「去年もそう仰っていましたね」
「そうだったか」
 審神者は愉快そうに笑い、「良く覚えているなあ」と長谷部に言った。
 畑には黒々とした影が幾つも幾つも立ち並んでいる。就任初日は種を蒔くところから始めなくてはならなかったこの畑も、今では日々たくさんの瑞々しい野菜を実らせて皆の腹を満たしているのだ。
「今年は何が欲しい?」
「欲しい……」
「二年間の褒美に、何が欲しいかと訊いたのだけど」
「そんな、褒美など」
 長谷部は慌てて手を振った。前を歩く審神者には見える筈もないのに、何故かそんな長谷部の様子を見透かしているように笑っては言葉を続ける。
「去年は手に触れたいと願ってくれた」
「……あの時は、本当に失礼を……」
「君が望むなら」
 二人は執務室のある一画を通り過ぎる。誰も居ないその部屋は、夜闇よりも更に昏く見えた。
「何だって叶える用意はあるよ」
「いえ、俺は……」
 執務室の向こうにはもう何も無かった。広々とした空間にただ幾らかの木々と下草が生えているだけで、辺りは音もない闇に包まれていた。立ち止まり、審神者は改めて長谷部に向き直った。
「二年だ」
「はい」
「此処で審神者とやらを始めて
――端的に言えば、長谷部君と二年目を迎えられるとは思わなかった。分かるだろう? 我々は明日をも知れぬ身だ、更にその先、例えば三年目など望むことの馬鹿らしさは言うまでもない」
「……はい」
「叶えたいんだよ、君が望むことは」
 どうしてこうなるのだろう、と長谷部はぼんやり考えながら俯いて審神者の話を聞いていた。例えば今ここで「戻ってもっと呑みましょう」と言ってしまえばこの鬱屈した空気を振り払い、愉しい気分のままで二年目のこの日を終えられるのかもしれなかった。長谷部は寧ろそれを望んでいたし、審神者にとってもその方が絶対に良いのだと断言することすらできた。長谷部が望むことがあるのだとすれば審神者が心安らかであることのみであったというのに、しかし彼の主はそれを許さなかった。
 長谷部が望むことはつまり、長谷部の為だけに叶えられるものでなくてはいけなかったのだ。
 それならば、と長谷部は唾を飲み込んでから顔を上げた。
「俺の望むことならば、」
「叶えるとも」
「……一年前に仰ったことを、覚えていらっしゃいますか」
「忘れろと言ったことか」
「はい」
 傍に居ても良いと言いながら、最後には全て忘れろと命じられたのが一年前の、就任一周年の日の思い出だった。長谷部にとっては悪夢のような一夜の思い出でしかなく、今彼自身の為だけに願うことがあるとすればその命令を置いて他にはなかった。
「あれは主命ですか」
「言っただろう、私の我儘だと」
「……でしたら俺は、それに従わなくても良いと言ってくださることを願います」
 長谷部は真っ向から審神者に対峙して言った。審神者は途端に陰鬱な目をして長谷部を見つめ返し、打って変わって億劫そうに言葉を紡ぎ出した。
「主命ではないと言ったが、背いた結果君を遠ざけないとは一言も言っていない」
「俺は忘れたくありません」
「私に叛くのなら君はもう私の刀でも何でもない、それでもいいのか」
「構いません」
 僅かばかりに瞠目した審神者の髪を、夜気を含んだ冷たい風がゆっくりと撫でていく。長谷部は目を眇め、審神者の真っ黒な瞳に映っているものを何とかして見定めようとした。
「俺は主にとって忠臣でありたいと願い続けてきました。今もそれは変わりません」
 酩酊したままでの世迷言と、或いは単なる酒の席での冗談と、長谷部はそんなものにはしたくはなかった。今日までに長谷部は、取り繕った言葉が如何に無力であるかということを知り、審神者だけは本心を何重にも覆い隠した上で長谷部を試すことが可能であり実際にそうしているのだということを知った。それならば長谷部は、何より真摯な言葉を以てしか審神者には対抗できないこともとうに知っていたのだ。
「主に背いてそう在れなくなるというのなら、……以前の俺はそれを恐れていたのでしょう。ですが今は違います。俺は貴方の近侍であることを、臣下であることを、刀剣であることを止めさせられたとしても、それでも尚、全て覚えていたいんです」
 嘗て忘れようと決めた過去があったのと同じように、今の長谷部には忘れたくないと願うようになった過去があった。いつかは記憶と共に己の存在が消滅してしまう時が来ることぐらいは長谷部にも分かっていた。記憶など死んでしまえば何の意味も持たなくなる、……本当に嫌なものでしかない。そう、思い続けていたのだ。
 だが長谷部は忘れたくなかった。此処での二年間は、何もかもつぶさに思い出すことができる。その中で、長谷部の傍にはいつも審神者が居た。笑って、悩んで、困って、偶に腹を立てて、苦しんで、それでも大抵は笑っている審神者のことを、長谷部は理屈など分からないままにただ「忘れたくない」と思っていた。無かったことには、してしまいたくなかった。
「主」
 審神者は不機嫌とも憂鬱ともつかぬ顔をして長谷部を見、無言で続きを促した。
「俺は……忘れたくないです。主とのことは、全て。俺の主は、今の主です」
「どうだか」
 長谷部から顔を背け、審神者はただ何ともつかぬ影の塊をじっと見つめて其方へ語りかけていた。
「君が忘れたがっていたことはどれも、本当は忘れたくないことだったんだろう」
「……」
「だが思い出したよ。〝無かったこと〟にしたくない気持ちを忘れるなと言ったのは、……此処へ来て数日経った日のことだったか」
「はい」
「……」
 足元の草を踏みしだき、審神者の声はその微かな音に掻き消されてしまいそうなほどに低く不明瞭で、それは全てが影へと溶けていってしまうかのようだった。
「今ここで」
「はい」
「やはりそれは許さない、と言ったら君はどうするのか」
「来年があります」
 風が吹く。
「一年後、主の就任三周年を俺達は祝い、俺は主を忘れたくないですともう一度申し上げます」
「……ふ」
 含み笑いはそれが赦されたことの証だった。長谷部は常に忠臣であり、理想的な部下であり続け、私欲を殺し、必要とあらばその心すらもひたすらに殺し続けていた。二年間の間、一日たりとも欠くことなく。当然、審神者もそれを知っていた。だから笑ったのだ、今この瞬間の世界を叩き壊したいと願った故に。
「それなら君は
――君だけは、希望を抱き続ければ良い。存在すらも不確定な三年目を迎えられたなら、君がそう言ってくることだって私は許そう」
「……有難き、幸せ」
 呟くように、ほぼ反射的に長谷部はそう口にしていた。嘗ては毎日のように口にしていた言葉、或いは自分に言い聞かせる為のものですらあったその言葉。
「それで?」
 彼の主はそれら全てを許容した。長谷部が見たくないと目を背け続けていたものを、それよりも遥かに大きく、
――醜くすらあったものですっかり覆い包み込んでしまって、そうして長谷部を傍に置き続けた。
「結局今年は何を望むのかな。今度は胸にでも触れたいと? それとも腹か、背か」
 笑いながら言うその様子は心底面白がっているだけで、長谷部を試しているような昏い響きは少しも認められなかった。色も形も変わらない翳の中から、それでも審神者は這い出して
――もしかしたら長谷部が引っ張り出したのか、そう自惚れるほど長谷部は自己を過大評価してはいなかったが――長谷部の立っているところまで戻って来たのだった。
「……あれは忘れてください、主」
「ふうん?」
「上手く言葉にできなかったんです、昨年は」
「ああそう、それで今年は?」
 靴の爪先がざりざりと土を引っ掻いて、長谷部はその綺麗に磨かれた真っ黒な皮が乾いた泥で汚れていくのをただ眺めているだけだった。審神者はいつもそうだった。長谷部と二人きりの時ですら、いつも同じようなシャツとスラックスをきっちりと着込んでいて、そうして万屋へ出かける時は上着を羽織って革靴を履くのだった。
「……話が」
「?」
「話がしたいです、その、主のことをもっと知りたいです」
「私の?」
 哄笑し、元来た方へとゆっくり歩き始め、審神者は長谷部に背を向けたままで嬉しそうに言った。
「知ってどうする? どうせ忘れなくてはならないのに」
「知って、忘れたくないことを増やして、その事実も含めて俺は忘れません」
「ああ、そう望むんだったな、君は。また一年後に」
「はい」
 審神者はそれには返さず無言で歩き続け、まだまだ盛り上がり続けている食事部屋の障子戸を開けて顔を覗かせると「呑み直してくる」と滅多にない大声を張り上げ、しかし誰もが酔っ払って馬鹿騒ぎの真っ最中であったのでただただ「はーい」だの「おうよ」だのといった声が返ってきただけであった。
「これでよし」
「は、はい」
 執務室までは少し距離があった。本丸の他のどの部屋からも
――例外があるとすれば長谷部の部屋だったが――離れた場所にあるその部屋へ、二人は靴を仕舞った後でのんびりと向かっていた。
「今日も星が綺麗だ」
「一年前も綺麗でしたね」
「それは流石に覚えていないな」
 笑う声に長谷部は俯いた。事あるごとに、自分は人間ではないのだと思い知らされる。忘れられないから、だからこそ忘れろと命じられているのだろうか。それは
――非常に残酷なことなのではないかという考えが、長谷部の脳裏にちらと過っていった。
「長谷部君」
「はい」
「……まだ話せないことだらけなんだ」
「はい」
「何年か後に、まだ君と此処でこうしていたら、打ち明かせる日が来るのかもしれない。ただ私はそれを待っていないし、君も待ってはいない。そうだろう」
「……はい」
「ああ、君とずっと話していられたらなあ……私はそれを望むよ」
「はい、主」
 執務室は真っ暗で、障子に手を掛けながら審神者はぴたりと動きを止めた。
「主?」
「……君を……」
 もう片方の手が胸元で苦しげにもがき、シャツをきつく握り締めて皺だらけにしていた。
「……俺は構いませんよ、主。御随意に」
「……」
 聞くが早いか審神者はさっさと戸を開けて部屋へ入ってしまい、長谷部と話をする為の準備を始めていた。
「お茶は何が良い?」
「……ほうじ茶は如何ですか」
「ああ、良いよ」
 時には嬉しそうに、時には恥ずかしそうに微笑みながら自分の言葉に相槌を打つ長谷部を見て、審神者はつい先程に飲み込んだ言葉を何度も何度も反芻していた。
 自分さえまともであったなら、長谷部は何一つ忘れる必要など強要されることもなく、夜は他愛もない話だけに過ぎていく、そんな毎日も叶えてやることができた筈だった。
 それでも三年目は
――自分がそれを望むことなど愚の骨頂である筈の三年目は、今よりも長谷部を幸せにしてやれていれば良いと、それを願いながら、やがて審神者は長谷部の手を引き、寝室へ消えて行くのだった。

 ***

//ご飯が美味しくて仕方がない長谷部君のお話

 長谷部は食べることが好きだった。
 美味しいものを食べるのが好きだとか、或いはものを食べることそのものが好きだというのとは少々違っていて、彼が好きなのは審神者と共に食事を摂ることのできる時間や空間、それに付随した食事の味と言った方がより正確であった。
 長谷部の居る本丸においては、朝食と夕食は皆が揃って食べることが原則として定められており、昼食は主に遠征の都合上皆が揃ってというのが困難である為考慮されていたのだが、基本的には食事の時間になると刀剣男士達は一人また一人と食事部屋へやって来て、係の者を手伝いつつ自分の席へと腰を下ろすのだった。そして全員揃ったことを確認した審神者がお決まりの「いただきます」を言い、皆はその言葉を繰り返した後で一斉に箸を取るのが日常となっていた。
 長谷部の席は審神者の隣に定められており、その二席だけは皆から少しだけ離れたところに用意されていて、長谷部は大勢の中に在りながら自分だけが審神者に最も、そして唯一近く在れるこの時が一等気に入っていたのだった。勿論審神者は食事時間を男士達との貴重なコミュニケーションの時間と捉えていた為、幾分積極的に――受身的ではあったが――皆と会話をし、その日一日の出来事や調子などを訊くのがいつもの光景になっていた。
 それでも審神者は殊更に長谷部との会話を好み、量は足りているか、口に合わないものはないか、お代わりを装(よそ)ってこようかなどと皆には聞こえないような声量で度々尋ねてくるのであった。
 その度長谷部は「大丈夫です」、或いは「美味しいです」と答えた。主こそ、御口に合わないものはありませんかと尋ねたいところだったが、そこは強いて言葉を飲み込んで耐えた。近侍を任されている為に、長谷部は料理や洗濯といった日常の家事のような仕事については全て免除されていた。当然厨房に入って食事の用意をすることなどなく、長谷部は自分以外の誰かが作ったものを審神者と共に黙々と食べる毎日であったのだ。
 当然の帰結として、長谷部は食べることは好きであったのだが、食べることその行為と食べているものそれ自体を好きにはなれなかった。

 第一部隊の部隊員達の疲労回復の為に設けられた休憩時間、長谷部は執務室で審神者の相手をしながら過ごしていた。時刻はそろそろ十時半になろうかという頃で、長谷部は審神者の言葉に二言三言を返しながらもぼんやりと考え事をしていた。
(……今日の昼食は何だろうか)
 昼食の時間には皆が揃わないことが珍しくなかった。第二部隊以下が全て遠征に出払ってしまっていれば、定刻に食事部屋へ集まってくるのは三十人あまりということもままあった。つまり審神者が他の男士達へ注意を払う時間はそれだけ少なくなるということで、事実、朝晩に比べて審神者は言葉少なであることが多かった。
 出陣結果の集計と計算が終わったらしく、審神者は端末と紙片の束をぐいと押し遣ると大きく伸びをした。
「あー……疲れた」
「お疲れ様です、主」
「疲れたよ……しかし実際に出陣しているのは君達なのだから、そうも言ってられないな」
 長谷部は一瞬閉口し、審神者はその様子を見て苦笑した。何を隠そう、今は刀剣男士達の間でも悪名高い〝秘宝の里〟への出陣期間の真っ最中なのであり、第一部隊と審神者の間には隠しきれない疲労感が色濃く漂っていた。
「今日も、今から少しだけ、後は午後に何度か行ってもらうことになるが……」
「はい、拝命いたします」
 間髪入れず長谷部は言った。意味も意図も見えない出陣の繰り返しは確かに気が塞いだが、審神者がそう命じた以上、長谷部が疑問を抱くことは許されていなかった。救いがあるとすれば、こうして疲労回復の為の休憩時間を何度も挟むことが許されており、そして審神者自身が度重なる出陣のことを何度も詫びてきていることだったのだろう。
「そろそろ皆疲れも取れた頃でしょう。行って参ります、主」
「ああ、頼んだよ」
 尻すぼみな語尾と共に、審神者はひらひらと手を振った。常には見られないようなその怠惰さも、秘宝の里での〝玉集め〟の弊害だったのだが、長谷部は自分だけが見られるその姿に思わず頬が緩みそうですらあった。慌てて両手で顔をぱちんと叩き、彼は部隊員達の私室へと向かった。

 戦果はまずまずと言ったところだった。集めてきた玉――実のところはデータでしかないという――を所定の位置へ収め、長谷部は武装姿のままで執務室へ報告に向かった。〝里〟での戦闘に何か良いところがあるとすれば、それは服に付いた血や砂埃は帰還と共に綺麗さっぱり消えてしまうという点だった。
(主の御部屋を汚さずに済むし、何よりこれを外すだけで昼食へ行ける)
 些か上機嫌のままで長谷部は執務室の前に着き、
「主、長谷部です。ただいま帰りました」
と声を掛けた。
「ああ、長谷部君……うん、入っておいで、うん」
「失礼します」
 障子戸の向こうで軽やかに鳴る、聞き覚えのある音に首を傾げつつ、長谷部はその戸を静かに開けた。
「これは……」
 目に飛び込んできたのは卓袱台に乗った小さめの両手鍋と炊飯器、それに二枚の真っ白な皿だった。
 審神者はくすんだ紺色のエプロンをしていて、「報告は後で聞くから、座って座って」と言った。しゃもじを手に炊飯器の蓋を開け、何度かかき混ぜてから皿に白米を装っている。
「ああ、それは外して。食事をするのに武装は要らないだろう」
「食事、ですか」
 目の前の光景に唖然としながらも長谷部はストラごと防具を外し、俺がやりますという申し出も呆気なく却下され、所在ないままに腰を下ろしてただ待った。
「主、これは一体どうされたのですか」
「何、偶には料理したくなったというだけのことだ」
 鍋の蓋が開けられて、途端に食欲を掻き立てるスパイスの香りがふわりと立った。長谷部は思わず唇を舐め、次いで唾液を飲み込んで鍋の中を覗き込みたいという衝動と必死で戦った。
 艶のある濃い茶色をどろりと纏ったじゃがいもと人参、玉ねぎ、それに豚肉が皿の上へごろごろと転がり、真っ赤な色の付けられていない、褪せた自然な色をした福神漬が添えられた。いつの間にか卓上には小さなガラスの容器もあって、色どりの為の緑のベビーリーフにトマトとゆで卵という至ってシンプルなサラダが用意されていた。銀色の大きなスプーンと小さめのフォークと共にそれら全てが設えられて、審神者は最後にエプロンを外してから畳んで置くと、長谷部の真向かいに座って小さく微笑んだ。
「さ、食べようか」
「は、はい」
 先から状況に押されっぱなしの長谷部はまたしてもただ「はい」と言うだけで、手を合わせていただきますを言う審神者の後にもただ機械的に続くだけだった。
 それでも出陣後の身体はきちんと腹を空かせていて、長谷部はカレーを一匙掬うと一息に飲み込んでしまった。その後も一口、また次の一口と休む間も無く無言でただただ食べ続けていくので、向かい側でスプーンを握っている審神者は口を挟む隙もなかったのだが、その様子から長谷部が世辞でなしに美味しいと思っていることは一目瞭然だった。
 皿に残った米粒とカレールウまでを残さず掬い、嚥下して一つ息を吐き、それから漸く気が付いたというように顔を上げて、長谷部は恐る恐る審神者を見た。
「……あの」
「美味しかった?」
「はい、とても……それで、その」
「お代わりは?」
 手を差し伸べる審神者にぱっと表情が明るくなって、長谷部はいそいそと空になった皿を差し出した。
 あくまで行儀良く、しかし一心不乱のうちに食べ終わってしまうことを数度繰り返し、流石に目を瞠る審神者の前で、長谷部は用意されていた量のほとんどを一人で完食してしまっていた。米の一粒一粒を噛み締めた時に滲み出る甘さ、追って舌をひりひりと刺すような香辛料の刺激、箸休めの仄かに甘く塩辛い福神漬、そのどれもが一口ごとに長谷部の腹を満たしていき、それでも心はまだ足りないと騒いでいるのだった。

 スプーンを手から離して口元を拭い、一度だけ腹をさすって、それから長谷部は目の前の人を見た。
「主」
「うん」
 審神者は自分の皿――とうの昔に空っぽになっていた――を脇へ退かし、卓上に片肘を載せて寄り掛かるようにしてくつろいだ姿勢を取った。
「美味しかったです、とても」
「随分と夢中になって食べていた」
 可笑しそうに放たれるその言葉は含み笑いに乗せられていて、長谷部は一渡り目の前の光景を見渡した後で唐突な羞恥に襲われ、頬を熱くした。
 見ながらに見ぬ振りをして審神者はうっすらと微笑み、
「君達には」
と頬杖を突いて言った。
「食事をする必要というものがないだろう」
「はい、そう聞いています」
「物質的にはそうだね。だが私は一日に三度の食事を摂ることを半ば義務付けているし、朝と晩には皆が一堂に会することを決まりとしている」
 長谷部は話を聞きながらも、小さな陶器の器に少しだけ残っている福神漬が気になって仕方がなかった。ほとんど飢えに近いような、これほどまでに美味しい、もっと食べたいという気持ちは初めての経験だった。
「食べても良いよ」
 話を遮って審神者は言い、長谷部が小ぶりなスプーンを手に取るかどうしようかと逡巡しているのを見てまた笑った。
「必要のないものを何故求めているのか分かるかい? 今の君が答えなのだけれどね。私は君達に――君に、美味しいものを食べて生きていてほしい。今食べているものが美味しくてどうしようもないという感情を、衝動を知ってほしかった」
 咀嚼していた漬物を飲み込んでから長谷部は言った。
「それは何故ですか」
「何故? ううん……」
 審神者は何処か良い辛そうにしていたが、諦めたように手を振ってにやりと笑った。
「私自身、その体験が好きだからだよ。一生懸命何かを食べている、というのがね。だから君がそうしているところも見ていたかった」
「それで毎日の食事を共に?」
「それだけじゃないがね、まあ」
 二枚の皿を手に立ち上がり、審神者は長谷部を目顔で制しながら片付けを始めていた。鍋も釜も中は空っぽで、それどころかこの部屋にあるものは何もかもが空っぽであるようにすら思われた。
「ところで、カレーは私のような寂しい独り身の人間にも簡単に作れるが、デザートとなるとそうもいかない」
「?」
「そこでアイスクリームを買ってきた。一つがいつもの三倍の値段するやつだ」
「主……!」
「今持って来るから待っておいで」
 二人分の食器と共に審神者は姿を消し、程なくして二つのカップと二本のスプーンを持って戻って来た。細身で繊細な形をした金色のスプーンを手渡しながら、審神者は「バニラで良かったかな」と長谷部に尋ねた。
「はい、主。ありがとうございます」
 長谷部は答えてから蓋を外し、内蓋を捲り、きらきらと輝く雪原のようなそれを見た。掬おうとすると固く、それなのに舌に載せると儚く消えていき、冷たく、甘く、気が付くとまた無言で半分ほどを食べ進めてしまっていた。
「主、美味しいです」
「そうだね」
 審神者は愉快げに目を細めて笑い、そんな審神者に向って長谷部は何度も美味しいです、美味しい、と繰り返しながら最後の一口まで食べ終わった。
「長谷部君なあ」
 苦笑するような声が聞こえたのは、長谷部が内蓋に付いたアイスクリームを舐めるのは流石に行儀が悪いな、と思っている最中だった。
「そんな顔できるんだな」
「顔ですか?」
 審神者はもうそれには答えず、
「また今度、こういうことをしないか」
とだけ言った。
「はい、是非!」
 長谷部は相好を崩してそう答えたのだった。

 それからというものの、長谷部は毎日の食事が楽しみでならなくなった。
 一つには審神者が食事に対して特別な思いを持っているということがあって、審神者が特別に思うもの、大切にしているものを長谷部も同じように扱いたいと思っていた。
「今日は何だって?」
「あ、主! 今日は野菜の焼き浸しと小カブの葉のきんぴら、あとは鯵の、鯵の……」
「南蛮漬けかな。夏だなあ」
「はい、毎日毎日、茄子と胡瓜とピーマンとオクラですね」
「それとトマトか。美味しそうだね」
「はい、主!」
 いただきますの挨拶の後、長谷部は徐に箸を取り、そしてせっせと食事を始めるのだった。其処に以前の沈黙はなく、代わりに今では言葉も弾むような審神者との会話があった。
 本当に楽しい食事の時間、長谷部が満面の笑みを咲かせながら懸命に食事をする時間は審神者と二人きりの時だけに限られていたのだが、毎日のこの時間は、それでも長谷部にとってとても楽しいものだった。
 つまりそれが二つ目の理由だった。長谷部は審神者がそう望んだことも知らぬままに食べ物は美味しいのだということを知り、食べることは楽しいのだということを知った。或いは正しく問えば、長谷部は「幸せです!」とすら答えたような意識の変化だった。
 そうして長谷部の一番の好物というのはカレーになって、審神者はカレーを作る手際ばかりが良くなっていったのだった。

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