Sausage Factory
讃歌(W)
I
饅頭を齧りながらカレンダーを見ていて、あ、と声が出た。
明日は十四日、ホワイトデーだ。すっかり忘れていた。
普段の俺なら一か月前に何かを貰ったからといってわざわざ返礼を用意しようなどとは思わなかった筈だ。好意の無い相手に対して時間を割くのも思考の容量を割くのも面倒だ。
だが、相手は長谷部だった。それも慇懃に忠を尽くす近侍としての長谷部ではなく、俺が何を好むかを気に懸けて、挙句俺が挙げた選択肢の全てを用意して上目で反応を窺っている長谷部だった。
幸いまだ日は高い。今からでも町へ行って買ってこようと思い、残りの饅頭を口に詰め込んでから立ち上がって、またも間抜けな声が漏れた。
――長谷部が好きなものを知らない。
上着に手を通しかけたまま固まっている俺を、何の用かひょいと部屋を覗き込んできた長谷部が見る。
「主?」
「長谷部か、……何でもない。ちょっと出てくる」
「でしたら、俺もお供いたします」
「いや……」
何処でこんな変てこな意地を覚えてしまったのだろう。此処で長谷部の同伴を許せば、長谷部が喜ぶものを買ってやることは容易い。だがそれは俺のプライドが、或いは他の何かが許せなかった。どうしてこんな人間になってしまったのか分からないし腹立たしかった。別に何をくれてやったって良い筈だ。そもそも貰ったからといって俺の方に何の感情もなければ返す必要だってない筈だ、そうだろう?
「……今日は、一人で行くから」
「何方へですか?」
「町」
立ち去りかけた俺の背へ、透き通った声が言う。
「町へは誰か一人伴っていないと行けないと、プロトコルで決まっていませんでしたか?」
「……」
決まっていた。俺は唸り、歯噛みし、長谷部を呼んだ。
「此処で待ってろ」
アクセス直後、俺は喫茶店を見つけて無理矢理長谷部を押し込んだ。財布から適当に札を数枚抜き取ってテーブルに置いておく。
長谷部は当然困惑した顔をしていた。給金でしたら俺も幾らか持っていますが、などと見当外れなことを言う。店員を呼んで目に付いたメニューを適当に注文し、さっさと用事を済ませようと踵を返すと椅子が動く音がした。
「主……?」
「待ってろって言っただろ」
「……ですが……」
「そんな顔しなくても、用が済んだら迎えに来るよ」
「……はい」
長谷部はすとんと腰を下ろす。俯いて、店員が持って来たカップの水面に目を落としたきり動かなかった。どうでもいい筈のその表情に、俺はどうしてもそのまま場を離れられなくなる。メニューを手に取った。
「折角だから好きなもの飲んでろ。これなんか美味いぞ、クリームソーダ」
「はい」
「後で感想聞かせてくれ」
「はい」
俺にとって精一杯の宥め方だったが、長谷部はそれで納得したようだった。漸くカップに手を付けた。
「また後でな」
上着を押さえ、俺は駆け出した。
肩が軋む。腕はとっくに悲鳴を上げている。荷物が重かった。
「主、お持ちしましょうか」
「いい」
もう何度目か分からないやりとりをする。合流した後も、俺は頑なに長谷部には手伝わせようとしなかった。それでは意味がない。
何が意味だ。俺はそんなものをいちいち考える人間じゃなかった筈だ。どうして長谷部の為にこんなに骨を折っているんだろうか。俺はしたいことだけをして、それで良かった筈なのに。
やっとのことで執務室に――俺の私室に着いて、荷物を全部下ろす。思わず畳へ倒れ込んだ。
「主?!」
「……何でもない、ちょっと休憩する」
「は、はい」
「長谷部も自分の部屋に居ろよ」
「……分かりました」
きちんと迎えに行ったことで、些かの信用は得られたらしい。長谷部は不満そうではありながらも大人しく自室へ退がった。
一人になり、俺は大きく息を吐いた。贈り物を選ぶのがこんなに大変だとは思わなかった。いや、厳密に言うと選んでいないが。長谷部の行動に呆れておきながら、結局自分も同じようなことをしてしまった。数撃てば当たるだろうという、俺の考えは長谷部のそれとは比べるべくもないほどに打算的ではあったが。
煙草が吸いたかった。一箱ぐらい空けたい気分だった。
そう思っているのに、俺は起き上がりもせず色とりどりの紙袋をいつまでも眺めていた。
翌日の休憩時間、俺は長谷部を呼んだ。
「長谷部」
「はい」
いつもの、何でも申し付けください、という顔をして長谷部はそっと寄って来る。はい、と俺が手渡した箱を反射的に受け取り、一瞬の後、疑問符を浮かべた。
「これは?」
「ええと……それは焼き菓子だったかな、多分。それでこれが飴な」
「あ、は、はい」
俺は紙袋の中を覗き、次々と中身を出しては長谷部に手渡していく。マシュマロ、コーヒー、紅茶、ほうじ茶と玄米茶、赤いジャム、蜂蜜が三種類、マグカップ、カップとソーサー。
花は生花ではなくて腐敗しない加工を施してあるとかいう奴を選んでいた。花束を抱えていてはすぐにばれそうだったというのもある。ガラスの器に入ったもの、小さな箱に収められたもの、赤、黄、橙、紫、桃。
ハンカチ、部屋着にする用のシャツ、財布、万年筆。最後に取り出したのは本だった。
「これは――俺が好きな詩集だ。これで最後だな」
差し出すと、長谷部の両手は塞がったままだった。辺り一面に俺が買ってきたものが広げられている。――多かったか、やっぱり。
昨日の俺は馬鹿だったなと考えていると長谷部が本に手を伸ばしてきた。
「これは、」
「詩集」
「いえ、そうではなくて……一月前の、ということですか」
「ああ、うん」
よいしょ、と胡座をかく。
「ホワイトデーな。長谷部、バレンタインの時俺にあれこれくれたからな、お返し」
「これ、全部ですか」
「ん、ああ、嫌いなものあったら置いてって良いけど」
「どうして……」
長谷部は茫然としている様子だった。暗い予感が胸の裡をさっと過る。俺だけだったりしたら、――一体、何が?
俺は無理矢理何でもないような声を出した。
「俺さあ、長谷部が好きなもの知らなかったんだよな。馬鹿みたいだけど。それでこうなった」
「え」
「……あ」
それだけは言わないつもりだったのに言ってしまった。取り敢えず種類があれば良いと思ったんだよ、多ければ嬉しいだろ? そう言うつもりだったのに。
そろそろと様子を窺うと、長谷部はこれ以上ないほど顔を綻ばせている。長谷部が笑ったから、何だと言うんだ? こんなもの、何とも思わなかったのに。
「主」
「何だよ」
「ありがとうございます」
「……」
鼓動が勝手に速くなる。傷付けたらどんな顔をするんだろう、そう思っていただけなのに。
「……俺はちょっと一本吸ってくるから、長谷部も部屋戻れ」
「はい」
答えながらぱらぱらと本を捲り出すので、俺は慌てて止めた。長谷部はきょとんとして此方を見る。
「それは……それは、部屋で、読め」
「? はい」
それで長谷部は大人しくプレゼントを纏め、軽々と両手に提げて持って行った。危なかった、と大きな溜息を吐く。あんなもの、目の前で読まれたら堪ったものじゃない。
夜中にメッセージカードなんか書くんじゃなかった。それをそのまま本へ挟んでおいた俺も俺だ。何であんなことを書いたんだろうか。
――やはり、患っているんだろうか。
胸元を探り、取り出した箱は空っぽだった。
II
一月前とは違い、長谷部は堂々と執務室の前に立っていた。勿論髪や服装は整えてあるし手袋も真っ白だ。
「主」
応じる声があり、そっと戸を滑らせて中へ入り込んだ。
「ちょうどお湯が沸いたところだよ」
審神者は言い、ティーポットに熱湯を注いでいく。茶葉の香りに混じってふわりと立つチョコレートの微かな匂いも、これで嗅ぎ納めだった。
「美味しかったね、長谷部君」
「はい」
「無くなってしまうのが惜しいな」
抽出時間を計り、琥珀色に透き通って揺れる液体をそれぞれのカップへ静かに注いだ。片方を長谷部の前へそっと置いてから、審神者は自分のカップに口を付けた。長谷部もそれに倣う。
長谷部が贈った紅茶葉の所為か、この一か月、審神者の部屋でのお茶に誘われることが増えていた。長谷部を座らせておいて審神者が手ずから茶を淹れることにも、辞退の言葉に耳を貸さず長谷部が贈った茶葉や高そうな茶葉まで惜しみなく振舞われることにも幾分慣れてきた。
「長谷部君」
「はい」
ふいに呼ばれて長谷部は顔を上げた。
「ありがとう、本当に美味しかった」
「いえ……その、良かったです」
いつになくストレートな審神者の言葉と態度に長谷部は何処か萎縮してしまう。いつもはもっと持って回った言い方をされるか、――身体へ直接に刻み込まれるかだった。
「それで、今日はホワイトデーだからね。これを、君に」
審神者は少し大きな箱を取り出し、長谷部へと手渡す。今日の審神者は本当にどうかしてしまったのかというくらい直情的であり、それも長谷部にとっては十分に驚きではあったが、その所為ではなく長谷部は面喰らった。
「……主まで用意されていたのですか」
「何故? バレンタインには君に素敵なものを貰ったのだから、今日はお礼を用意するよ。何かおかしかった?」
「いえ、ですが、主もバレンタインの日には俺にチョコレートを下さったので……」
「あげたね。それが何の関係が?」
長谷部の困惑も、審神者には心底理解できないようだった。あげたいからあげたし、貰ったから返す。寧ろ不思議なのは長谷部の理屈の方なのだと言いたげだった。
「まあ、開けてご覧」
促され、長谷部は釈然としないままで包装紙を剥がし始めた。中にあったのは四角い缶だった。開けると、沢山のクッキーが入っていた。
「あ……」
宝箱のようだ、と長谷部の心は弾んだ。数だけでなく、色々な種類のクッキーが入っている。至って普通の見た目をしたものも、ナッツが混ぜ込まれたものも、チョコレートの色をしたものも、絞り出したような形をした小さいものも、それから真っ赤なジャムが載っているものも。
目を輝かせて缶の中をいつまでも見つめている長谷部に審神者は苦笑した。そこまで喜ばれるとは思っていなかったのだ。
「全部君が食べて良いんだよ」
その言葉に長谷部はぱっと相好を崩し、しかしはっとしたように口を引き結ぶ。審神者は首を傾げた。
「どうかした?」
「主も、一緒に召し上がってください」
「どうして? それは君のものなんだから、君が全部食べて良いんだよ」
首を振って言い聞かせる審神者に長谷部は少し挫けそうになるが、ここで折れては一月前と何も変わらないと己を叱咤した。
「俺のものなら、主に召し上がっていただくのも構いませんよね。俺がそうしたいんです」
少々強硬なぐらいに言い切ると、審神者は怒ることもなく微笑んだ。長谷部がそんな風に主張するようになるとは思わなかった。勿論それはとても良いことで、喜ばしくもあり、そして何処か微笑ましかった。
「分かったよ、一枚だけ頂こうかな」
「何枚でも構わないんですよ」
「良いんだよ、一枚で。どれを貰おうか」
「これが良いですよ、主! ジャムが載っています」
「ではそれにしようか」
缶の中から一枚を摘んで齧る。
「如何ですか?」
「美味しいよ。ありがとう」
良かったです、と長谷部は笑う。その笑顔に審神者は胸が閊(つか)えるのを感じた。今日は何だか調子が狂いっぱなしだった。それは例えば、今すぐ抱き締めたくなるような。
長谷部もクッキーに手を伸ばそうとして、あ、忘れるところでした、と慌てて小さな包みを取り出した。
「俺からも、主にお返しです」
「……私などに用意しなくとも良かったのに」
憂うように眉を下げ、それでも審神者はそれを受け取った。何だろうと言いながら包みを剥がしていく。現れたのは可愛らしい、何処か間の抜けたクマの絵が描かれた箱だった。
「へえ、ビスケットか」
箱を開けると笑顔のクマの形をしたビスケットが並んでいる。何体も。審神者は声を上げて笑った。
「可愛いなあこれ」
「……主へ贈るには少し子供向きすぎたかもしれません」
長谷部は今更自分の選択が恥ずかしくなってきたようだったが、審神者は全く気にしていない様子で一枚手に取った。
「ほら、可愛い。……それに美味しい。嬉しいなこれ、ありがとう」
「は、はい」
「長谷部君にも、はい」
缶の中、長谷部にとっては花畑のように見える光景にクマが一体増える。
「良かったね」
「主、俺、大事に食べます」
「構わないけど、湿気る前に食べてしまいなさいね」
長谷部はいそいそと缶の蓋を閉じ、思い直してまた開き、自分の横に置いて眺めながらカップを手に取った。
「……そんなに気に入ってくれた?」
「はい」
「君は変わってる」
苦笑する審神者は何故か辛そうな表情をしていた。しかし長谷部がその理由を尋ねるには、その人は遥かに遠かった。代わりに自分の空白を埋めようと口を開く。
「本当は、主が何を好まれるのか、自信がなくて」
「君が選んでくれるものなら何だって嬉しいよ」
確かにそれは、以前にも言われた記憶のある言葉だった。そんなことがある筈はないと考える余裕もないくらいに他の感情で頭がいっぱいだった、幼い時のことだった気がする。今は多少余裕がある。その言葉の意味を考える余裕が。
「……それは俺に気を遣われているのでは、ないですか」
「どうして? 君が自分で選んでくれたのは事実なんだろう」
「それは、……はい」
「だったらそれで私は身に余るほどに幸せなんだよ」
ね、と同意を求められても長谷部には分からない。愉しい時間の筈なのに涙が零れそうになり、慌てて上を向く途中で微苦笑する審神者と目が合った。小さな溜息の音が聞こえる。
「端的に言ってしまわないと、駄目みたいだ」
「……あの」
「好きだからだよ。これ以上の理由が?」
「い、いえ」
「そう」
審神者は既に話に興味を失った様子で茶葉を捨て、棚から出した黒い缶から新しい茶葉を用意し、もうケトルに湯が残っていないことに気付いた。
「水を入れてくるよ」
「はい」
一人取り残され、長谷部は缶の中に目を遣る。両手を挙げたクマがにこにこと笑っている。
「……俺も」
卓へ伏せ、目を瞑った。遠く、勢いよく水の注がれる音が聞こえる。
「主が下さるものなら何だって嬉しかった。それは……」
しかしその夜、審神者はそれ以上のことは何もせずに長谷部を部屋に返した。酷く意外だったらしいその行動に狼狽える長谷部のことは強いて無視し、審神者は冷静に「おやすみ」とだけ言った。
確信に変わりかけていた思いはまた打ち砕かれて、それでも信じたいと思ったのは実のところ長谷部だけではなかったが、不幸で幸福な夜、誰もそれを知らなかった。
III
もうすぐ焼けますよ、と長谷部が言う。洗い終わったボウルや泡立て器からぽた、ぽたと水が滴っている。
「楽しみだな」
「はい」
私の言葉の通り、長谷部はまた私の為に菓子を焼いてくれていた。オーブンを覗き込む二人の前、型の中の生地は待ち望んだ色に焼けている。衝動を抑えきれず、隣に立つ長谷部の頭を幾分荒っぽく撫でた。
「あ、主?」
「……何でもない」
そっと手を離すと同時に焼き上がりを知らせる電子音が響いた。好き勝手に跳ねた髪のまま、ミトンを嵌めた長谷部が焼けましたよ、と言いながら嬉々として取り出し、型から外しては皿に並べてくれる。
その間、私は紅茶を淹れていた。今日はニルギリにした。焼き菓子の邪魔にならない程度に品良く香る。
カップと皿とをそれぞれに持ち、食卓に並べて置いてから腰を下ろす。待ち切れず、性急に手を合わせて一つを手に取った。
「あ、熱いですよ、主」
「熱くない、美味しい」
「そうですか?」
長谷部は自信なげに言うが、美味しかった。次の一つを手に取った。こんなに美味しいマドレーヌは初めて食べたというのに、どうすればそれを長谷部に伝えられるのだろう。
そのまま黙々と数個を食べ続け、漸く紅茶の存在を思い出し、カップに口を付けた。呻き声が出る。
「主?」
「途方もなく美味しい」
「あ、ありがとうございます。ですが、其処まででは……」
「其処までなんだよ」
堪えきれず両手で顔を覆った。
「長谷部君が居てくれて幸せだ」
「何かあったのですか?」
長谷部は困り果てているような声の調子だった。それも道理だ、普段は照れ隠しもあって私の受け答えはもっと淡々としている。
「何で?」
「いえ……ただ、いつになく直接的だと思いまして……」
「そういう日もあるよ」
適当に誤魔化して、その後は長谷部が私の為に焼いてくれたからという理由にまんまと乗じてほとんど全部を平らげた。大人気なかったかもしれないが、――長谷部が私の為だけに焼いてくれたのだから、仕方ない。
その後、上着を羽織って二人で外に出た。一月前の苦い経験から学習し、ホワイトデーは長谷部を連れて行って欲しいものを選ばせることにしていた。
街は飽きもせずに愛を謳う美辞麗句を溢れさせている。愛などそんなに綺麗なものではない。成立するまでが一番楽しくて、後は血を吐きのたうつほどの苦しみばかりということも珍しくはない。
「主?」
眉根を寄せた渋面を見られたのか、長谷部がそろそろと声を掛けてきた。慌てて表情を緩め、何でもない風を装った。
「ん? 何か気になるものでも見つけたかな」
「……いえ、ですがあのケーキは美味しそうですね」
長谷部は店頭のガラスケースを指して言う。色とりどりの果物で飾られたタルトがあった。
「食べてみたいなら買っていけば良い。君が欲しいものは全部」
「いえ、そういう訳にはいきませんから」
長谷部は両手を振って辞退する。今の職では給料は十分に貰っているし、何より長谷部のことを愛しているのだから別に遠慮することはないのだが。
そう伝えると、ですが主に其処までしていただく訳には……と唇を噛んでいる。甘えられることが嬉しいというのは、長谷部にはまだ理解できないのかもしれない。それを理解させるには、実地に体験させるしかないのかと――そう考えて、まだ今は良いか、と咳払いをした。長谷部の前で醜態は晒したくない。話題を変えることにした。
「今度はカヌレを焼いてほしいな」
「カヌレ、ですか? 一度買って来てくださった」
「うん、美味しかったから」
「練習しておきますね」
眩しい笑顔に頭を掻き毟りたくなる。長谷部は認めたがらないが、本当に、長谷部が隣に居てくれるだけで心は満たされていた。表情の些細な動きや私の姿を認めると小さく息を飲むことや、稀に見せる隣に立つ私の手を見て何かを躊躇っているような様子や、……。満たされるだけに留まらず溢れ出してしまえば、それは長谷部を害するものでしかなくなってしまう。どうかこれ以上踏み込まないでくれ、と願ってしまう。
「ありがとう」
或いは壁であったその言葉にも、長谷部は何も知らず微笑む。知らず俯いていて、長谷部の「彼処に入ってみても良いですか?」という言葉に顔を上げた。
「主、ありがとうございました」
大事そうに両腕で袋を抱えた長谷部が言う。これが良いですと言ってきたのは、長谷部がずっと欲しかった図鑑らしかった。確かに大きくて厚いとはいえそんなもので良かったのかと尋ねそうになるが、長谷部が自分で選び、これが欲しいですと告げてきたものにそんな言い方は相応しくない。
「うん」
街の灯りを背に、私達は歩いていた。青と黄が入り乱れて目を刺す光。私には眩しすぎて、影も形も失くなってしまいそうな気さえする鬱陶しい光。今日の夕食はあの中で摂った。
二十三世紀に――同性愛や両性愛や無性愛が少数派ではあっても市民権を得ていた二十三世紀になっても、そもそも審神者という者が極めて少数の存在であったこともあり、刀剣男士などを連れている人間は否応なく奇異の目に晒されていた。私も例外ではなく、時として長谷部にすら好奇と悪意は向けられる。そのことに腹が立った。
他の人間なら、その声にも反論できたのかもしれない。だが、私では……。
「長谷部君」
「はい」
「君は……」
今日という日にその話題は相応しくない。やり直しだ。
「今日は、楽しかったかな」
「はい、勿論です。ありがとうございました、主」
「うん……」
本当は、と胸の内で呟く。この無垢な青年を、この世界では自分が守ってやらねばならないのだと誓った筈なのに。
だが結局一人では抱えきれず、弱い私は深刻な響きに聞こえないように戯けて言った。
「私達をじろじろ見ている人間がいたのは、君を見て羨ましがっていたのかな」
「羨ましく……? いえ、見られているなとは度々感じていましたが。何故ですか?」
「何故って……」
君が羨ましいからではなく私との関係が異常だからだと答えようとして、長谷部にそんな価値観はないことに気が付いた。何せ長谷部が知っているのは私との関係だけだ。それを正常だの異常だの判断できるほどの価値観を育てられなかったのだ—私の所為で。
「……長谷部君が格好良いからだよ。端的に言えば好意だ」
「格好良い? 主にそう思っていただけるのは嬉しいですが、他の連中には……」
「嬉しくはないのかな」
「主でなければ、嬉しくなどありません」
憤慨して長谷部は言う。微塵も私の言葉を疑っていないようだった。
「……」
「……主?」
あらゆる感情が吹き荒れて、堪え切れずに長谷部を抱き締めた。痛かったかもしれない。ただそんな気を配る余裕はなくて、傍を通り過ぎた誰かがひそひそと交わす言葉を長谷部の耳に入れたくなくて、もっと近くに、と力を込めた。
「それなら……それなら良いんだ」
「……?」
「何でもないよ。ただ少し……今日は、幸せだったから」
「俺もです、主」
「……」
そんなものは――私が与えられる幸せなど、所詮は歪んだ紛い物なのだと叫びたかった。長谷部には到底不向きで、他の誰かならもっと綺麗で優しいものを与えられる筈の。長谷部を幸せにしようと誓ったのは、その時に私が夢見ていたのは、こんな失敗作ではなかった。
けれどもそれは、もっと昔――私が長谷部に手を出した時から決まっていたことなのだ。今更もう、遅すぎる。
しかし一方で、長谷部の心すらも無意識のうちに歪められていて、それはつまり、最早私でしか満たすことができないことを意味していた。であればやはり、私は私に誓うしかないのだ。
「……痛かっただろう、すまない」
「いいえ、……嬉しかったです」
身を離し、無言で家路を急ぐ。空は街の光に明々と照らされて、星など一つも見えなかった。