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​讃歌(V)

 i 

 

 

「バレンタインデーの贈り物というのは、チョコレートだけなのですか」

「は? 何で?」

 休憩がてら庭で一服している最中に背後から突然そんなことを訊かれ、俺は思わず聞き返してしまった。長谷部は相も変わらず純粋な目をしている。多分愛の天使とかが本当に居たらこんな感じなんだろう。

「何故、と言われましても……その、もうすぐその日ですから」

「はあ」

 その様子でピンと来た。甘いものが苦手な誰かに何かを贈りたいんだろう。その誰かが誰なのかは分からないが、俺はあまり愉快な気持ちではない。

「それで、あの……」

「あー、花とか手紙でも良いんじゃないの。相手が好きなものによるだろ」

「好きなもの……なるほど」

 そういえば、長谷部はまだ人間の身になって日が浅かった。ただでさえややこしい人間の機微に疎いのは仕方ないことだった。その真っ白さが俺には好都合だったり果ては好印象だったりするのだが。だからこそ面白くない。

「長谷部」

「はい」

「誰に渡すつもり」

「えっ、あの……申し上げなければいけませんか……」

「ん」

「主命ですか……?」

「主命」

「あの……」

 長谷部はあの、ええと、と吃っている。俺が快く思わない相手なんだろうか。そう考えている俺の表情は険しくなっていたようで、長谷部は慌てて息を吸っていた。

「あ、主は……いえ、主に、お渡ししたいのですが、あの、何がお好きですか」

「は? 俺?」

「はい」

 小さく震えながら消え入りそうな声でそう言うので、俺は自分の勘違いに腹が立った。余計な感情を浪費したという意味で、だ。

「好きなものは長谷部かな」

「あ、え」

「冗談に決まってるだろ。もし俺にくれるなら別に何でも良いよ」

 長谷部が選んだものなら。そう付け加えたら、長谷部は分かりやすく相好を崩した。花が咲いたみたいな笑顔だ。彼はそのまま俺の邪魔にならないよう、自室へ戻って行った。

 俺は紫煙を吐きながら、何を選んでくるんだろうなあ、とぼんやり考えた。

 

 十四日、長谷部はチョコレートの箱と花束とメッセージカードとを持って現れた。俺が挙げたもの全てを律儀に用意している姿に、何なんだ此奴、と俺はちょっと呆れた。

「主、受け取ってくださいますか」

「あ、ああ」

 受け取ると見事に両手が塞がった。仕方ないので一度机に置き、一つずつ確かめていく。チョコは至って普通のものだった。白い箱に黒いリボン、中はプラリネ。花は赤いバラだのかすみ草だの、これまたオーソドックスなものが束ねられている。本当に真面目な奴だなと思いながらカードを開いた。

「主、いつもありがとうございます」云々と書いてあるのを読み、俺はとうとう我慢できなくなった。

「長谷部」

「はい」

「何ていうか……真面目だな、ほんと。こっちが恥ずかしい」

「そうですか?」

「今日日珍しいよ、長谷部みたいな奴は」

「? はい」

 俺は思わず胸元を探り、此処が執務室で、目の前には長谷部がいることを思い出した。基本的に吸うのは庭で、且つ長谷部がいない時だけにしていたので、代わりにチョコを一つ口へ放り込んでみた。

 長谷部は期待するような目で此方を見ている。何も知らない顔をして。

「美味いよ」

 今日一日、今までで一番の笑顔を咲かせ、長谷部は「良かったです」とはにかんだ。純粋な奴。

 花瓶を持って来ますと言って、長谷部は執務室を出て行った。後にはチョコレートの箱と花束、メッセージカード、それに俺が取り残される。溜息を吐いて天井を仰いだ。

 本当は、長谷部が渡してきたものをその場で壊すか捨てるかしてやろうと思っていた。欲しくない訳じゃない。ただ、そうしたらどんな表情をするだろうかと思っただけだった。何せ長谷部には裏表がない。俺を好きだと言ったのを何か裏があるのではないかと疑ったこともあったが、長谷部は嘘が吐けない男であることを、俺はもう知っていた。

 俺がしてみたいことをする度、長谷部は泣き喚いたり苦しんだり懇願したり涎を垂らして失神したりした。愉しかった。何のリスクもなしに、したいことを存分にできるのだ。

 だが今日は、何となく毒気を抜かれてしまって、差し出されたものをそのまま受け取っていた俺がいた。罪悪感とかじゃない。ただ、その気を削がれてしまっただけだった。

 何でだろうなあ、と呟きながら俺は再び胸元を探って、取り出した箱から一本抜き取りながら庭へ出た。煙を吸っては吐いていると長谷部が戻って来た。水を入れた花瓶をそろそろと両手で運んでいる。火を消し、俺は可愛い俺の近侍を手伝うことにした。

 

 ii

  

 

 夕食後部屋においでと誘われて、長谷部はまたとない機会だと思った。審神者から離れる時といえば出陣と入浴、就寝時くらいのもので、後はほぼ一日中付き従っているものだから、どうしたものかと悩んでいたのだ。そんな時のこの誘いなのだから、断る理由などなかった。

 一旦自室へ退がり、小さな鏡で何度も髪や服が乱れていないかを確認し、手袋も真っ新なものに取り替え、漸く部屋を出て執務室へ向かった。息を吸う前にもう一度だけ身体を見下ろしてカソックの襟をぴっと伸ばし、

「主」

と声を掛けた。

「どうぞ」

「失礼します」

 音を立てないよう戸を開けるのに苦労した。部屋にはいつもと何ら変わらない表情をして審神者が座っている。

「今お茶を淹れようね」

「ありがとうございます」

 審神者は嬉しそうににこにこと笑っていた。以前長谷部が尋ねたところによると、部屋へ来て一緒に一杯やりながら話に付き合ってくれるだけで心底嬉しいのだと言う。

「ですが、」と長谷部は口籠った。口にし難いその言葉を審神者が引き継いで、宥めるような視線で言った。

「君を甚振れるから好きなんじゃなくて、好きだからそうしたい、その違いだよ」

 遠回りな言い方に長谷部が首を傾げていると、要するに一緒に居てくれるだけで嬉しいのだ、と言う。――そういうものだろうか。人間というのは不思議な生き物だ、とその頃の長谷部は思っていた。

 今は――今は自分までもが、此処に在れることを喜んでいる。内心を顔には出さなかったが、審神者の私室で、こうして向かい合って他愛ない話をしていられることは長谷部の心の柔らかな部分に触れて震わせた。少なくとも表層は。

「あ、主」

「んー?」

 酒は呑んでいないのに、審神者は何処か酔ったように蕩けた顔をしていた。緩んだ、穏やかな幸福を自分の言動が壊しはしないかと、長谷部は小さな不安に襲われた。だが審神者は続く言葉を待っているので、やっぱり何でもありません、などと拙い誤魔化しをする訳にもいかなかった。

「あ、あの、俺から主へ……」

 後ろ手に隠し持っていた箱を恐る恐る差し出し、上目で審神者の様子を伺った。

 審神者はというと、唖然として目を瞠り、そのまま何も言わなかった。やはり出過ぎた真似だったのだ、と途方もない後悔が長谷部を襲った。前向きに捉えようとしても、日付を間違えた可能性など微塵もなかった。先程、男士達全員にチョコレートを配った後なのだ。

「……」

「これ、私に?」

「……はい、ですが御迷惑でしたら、処分して――」

「迷惑? まさか。君から貰えるなんて思わなかったから、その……不意打ちは、少し狡いんじゃないか」

「狡い?」

「いや、何でもないよ。長谷部君が選んでくれたんだ、勿論嬉しいよ。開けても良いかな」

「はい」

 感情に身体が追いついてきた審神者はふんふんと鼻唄混じりに包装を開けている。包装紙を取り去って、中から出てきた小さめの箱を開けると、丸く平たい缶が入っていた。バレンタインに相応しく、チョコレート色のラベルが貼られている。

「紅茶か」

「はい」

「長谷部君が選んでくれたんだろう?」

「そうです、主。チョコレートの香りがするので、今の季節にぴったりだと、書かれていて、それで……」

「確かにいつもお茶ばかり飲んでいるからね、嬉しいよ。ありがとう」

「……はい!」

「それに、ちょうど良かった」

 怪訝な顔をする長谷部を他所に、審神者は缶を箱に戻してから机の下を探り、紺色の紙袋を取り出した。

「私からも君に」

「俺は先程皆と一緒に頂きましたが……」

「あれは、君達の主としての、だから。開けてご覧」

「はい」

 革のような質感の焦茶の箱に、金色のリボンが巻かれていた。そっと引っ張って解くと、丁寧に作られたらしいチョコレートの十粒程が入っていた。

「私の部屋へ来たらいつでも紅茶を淹れてあげるから、それを持っておいで」

「宜しいのですか?」

「勿論。折角だから君と一緒に飲みたいしね」

「では、俺のチョコも……」

「それは君のだから、一人で食べなさい」

「でも……」

「ね」

「……はい」

 渋々聞き入れて早速一つを摘み、長谷部は口に含んだ。甘いのに甘いだけでなく、何やら複雑な味がするのにシンプルに纏まっていた。

「美味しいです」

「そう、それは良かった」

「ありがとうございます、主。俺に、このような……」

「どうして君がそんなことを言うのかな」

 長谷部はそれを聞いて反射的に怯えたが、一方で審神者は面映ゆげに目を伏せているだけだった。手にはまた、長谷部が贈った箱があった。

「……主、俺、嬉しかったです。他でもない主から素敵なものを、頂いて」

「……うん」

 ぼんやりと顔を上げ、審神者は長谷部を見据えた。酷く遠い表情をしていた。

「……私も、嬉しかったよ」

「はい、良かったです」

「君が私の好みに合わせてこれを選んでくれたということが、どういう意味を持っていて、どんなに嬉しいか。……うん、君は分からなくても構わないのだけど、私はてっきり……いや、止めよう」

 紅茶缶の入った箱を胸元でぎゅっと抱き締め、審神者は感慨深い様子で箱を撫でていた。長谷部はというと、審神者の言うことはいつも通り訳が分からなかったが、無事にプレゼントを渡せたこと、それにその行為が無事受け入れられたことは分かっていたし、そのことが堪らなく嬉しかった。

 二人が共に同じ不安を抱えていることを知るには、バレンタインデーという日は間違いなく相応しくなかったが、この日以上に相応しい日もおそらくなかった。

 何と言っても、その晩、二人のどちらも、相手に貰ったものを自室で何時間も眺めていたのだ。

 

 

 iii

 

 

 仕事帰りに店へ寄り、小さな箱を提げて家に帰る。扉を開けると長谷部がにこにこしながら待っていた。

「おかえりなさい、主」

「ただいま」

 今日もお疲れ様でしたと言いながら私の鞄やコートを受け取り、食卓を調えてくれる。手洗いと着替えとを済ませ、長谷部が用意してくれた夕食を摂った。今日のメインはクリームシチューだった。

「主」

「うん」

「今日は、デザートがあるんですよ」

「へえ」

 何かな、と言うと嬉しそうにしながら冷蔵庫へ向かい、皿を両手に持って戻って来た。

「今日は、バレンタインデーですから、作ってみたんです」

「……ん」

 色を見て、嫌な予感がした。切り分けられた断面を見てそれは確信に変わった。

「主、どうかされましたか?」

「……」

 何と説明して良いか分からず、私は黙って箱の中身を取り出した。ちらと伺うと、長谷部の手が止まっている。慌てて、取り繕うように私は言い訳をした。

「長谷部君が手作りで用意してくれているなんて勿論知らなかったんだ、偶々被ってしまった、だけで……」

 長谷部は泣きそうな顔をしていた。おそらく菓子を作るのは精々数度目の筈で、プロが作ったものに比べればそれは多少見た目では劣る。だが、私にとっては勿論長谷部が作ってくれたものの方が遥かに――比べるまでもないほどに――価値がある。しかし、そんな言い訳が何になろうか。

 出したものを箱に戻し、上着も着ずに急いで外に飛び出した。長谷部の反応が一瞬遅れたのは幸いだった。長谷部は私の顔色を伺いすぎる。

 早足に外を歩き、やがてそれは駆け足になり、ゴミ捨て場に着いた。手に持っていた箱を叩き付け、柔らかいものが潰れる音を背後にさっさと歩き出した。まだ店が開いている時間で助かった。走っている所為で、二月の寒さも気にならなかった。

 再び家に帰ると、長谷部は膝を抱えて俯いていた。私が帰宅した音に一瞬だけ顔を上げたが、また膝に顔を埋めてしまった。自分を罵るのは後回しにし、長谷部の正面に腰を下ろした。

「長谷部君」

「……」

 啜り泣く音が聞こえて、とにかく何か言わなければと焦った。傷付けたくなかった。いや、既に傷付けてしまっていたが、これ以上は、と思っていた。

「長谷部君、これ、君に」

 つい先程買ってきたばかりの袋を無理矢理押し付けるようにすると、やっと少しだけ顔を上げて見てくれた。

「これは……」

「さっきのケーキ、食べたいのだけど」

「……ですが、あれは……」

「冷蔵庫だね、貰うよ」

 ケーキはそのまま残っていた。長谷部が私のように食べ物を粗末にする性格でなくて良かったと胸を撫で下ろした。フォークを出し、切り分けられていた一切れを食べた。――美味しかった。残りはナイフで切らずにそのままフォークだけで食べ進めた。長谷部はそれを茫然と見ていた。

 半分ほど食べ終わったところで、泣き止んでいた長谷部に声を掛けた。

「美味しいよ。すごく美味しい」

「……でも……」

「それ」

「え?」

「見てくれた?」

 長谷部は紙袋の中に手を入れ、一つずつ中身を取り出した。ケーキ型だのハンドミキサーだのスパチュラだのをあれこれ買ってきたのだが、私には菓子作りなど分からないものだから長谷部が何を持っていて何を持っていなくて何が欲しいのかも分からない始末だった。

「嬉しかった。今でも君から何か貰えるなんて思っていなかったから、本当に嬉しかった」

「ですが、主が買ってきてくださったのは、きっと……俺のより、美味しいです」

「あれはもう捨てた」

「……え?」

「君を哀しませるだけならあんなものは要らない。私は長谷部君が作ってくれたものを食べたいと思っているだけだよ」

「だから、これを……」

 贈ったばかりの製菓器具を見渡して、長谷部はまた俯いた。

「……すみません、主がわざわざ選んでくださったのに、我儘を言って」

「それはもう気にしなくて良い。どうしても気になるなら、これでまた私の為に菓子を作ってくれれば良いから。わざわざ私の為に作ってくれたことがどんなに嬉しかったか、足りないなら何度でも伝えるから、ゆっくりで構わないから、分かってくれないか」

 言いながら、長谷部に縋り付くような格好になっていたことに気付き、急いで身を離した。長谷部は眉を下げ、まだ言いたいことの整理が付いていないようだった。ふと思い出したが、今日は愛を誓う日だった。

「長谷部君」

「……はい」

「本丸に居た頃ならともかく、君がまだ、私に進んで何か与えてくれると思っていなかった。君は……私を恨んでいる筈だと、思っているから」

「恨んで……? 何故ですか」

 長谷部は本気で理解できないという顔をしていた。私がそう歪めてしまったからこそ、彼は私を恨んで然るべきだと思っていた。

「何故って、……私が君にしたことを忘れた訳じゃないだろうに。君を散々に傷付けていたのに、毎年私の為に折につけては贈り物をしてくれて、何一つ返せないまま此方へ連れて来て、また傷付けて……それで、恨んでいない筈が……」

 言っていて自分の言葉に胸が苦しくなってきたが、頭の片隅で何て都合の良い自己嫌悪だろうと冷笑しもしていた。たとえ罪悪感を抱いたところで、それは結局、自分が楽になりたいが為の免罪符でしかない。ならいっそ、罪悪感など綺麗さっぱり無くなってしまえば、長谷部はもっと楽になれる筈なのに、私は弱い人間だった。

 そして今は、長谷部の優しい言葉は聞きたくなかった。

「……とにかく、君のことを今でも変わらず愛しているのは本当なんだ。信じられないかもしれないし、そもそも長谷部君は私のことを、嫌っているかもしれないけど……だけど、もしそうじゃないなら、傍に居て、それで偶にケーキを焼いてくれたりしたら、それで……」

「主、俺も主のこと、お慕いしていますから、傍に居ますから、そんな顔をなさらないでください」

 気付かぬ間に随分と情けない顔をしていたらしい。顔を背けてごしごし擦っていると、長谷部は漸く笑ってくれた。

「ケーキを焼くのは少し楽しかったですが、前なら俺自身を差し上げることができたのに、今は少しもどかしいですね」

「……そんなの必要ない、必要ないんだ」

 全ての辛いことを、長谷部から奪い去ろうと誓った。せめて此処では、私自身がどうなろうが、長谷部のことだけは幸せにしようと。それが多分、今の私なりの愛だった。

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