Sausage Factory
君と少し話がしたい
文机に向かっている審神者の口元からからん、と音がして、長谷部は思わず其方を見遣った。
唇の間からはみ出し伸びている白く細い棒を見て首を傾げていると、その視線に気付いた審神者が面映ゆい様子で笑って言った。
「見つかってしまった」
「煙草……ではないですね」
煙草にしては細すぎるし第一煙が出ていない。行儀が悪くてすまない、と前置きして審神者はそれを口から抜き取った。
棒の先端には丸く、半分ずつ淡いピンク色とクリーム色をしたものが付いていた。
「飴だよ。万屋で見かけて、久しぶりに食べたくなった」
ああ、と長谷部は合点が行った。午前中に審神者とともに万屋へ出かけた際、会計が終わった後で長谷部を待たせておいて何かを購入していたのを彼は覚えていた。
文机の端に寄せて置いていた他の飴を纏めて長谷部の方へ押し遣り、審神者は言った。
「長谷部君にもあげるよ。どれが良いかな」
包みはどれも派手な色彩をしていた。どの飴にも天辺には見慣れない文字で何かが書かれている、おそらく飴の名前だろうと長谷部は思った。
一つ手に取ってくるくると回してみるとプリンの絵が幾つも描かれていた。
「それはプリン味だね、こっちがコーラ味で、これがチェリー、さくらんぼね。で、これが……」
一つ一つ手に取って説明する審神者のもう一方の手の中で濡れた飴がぴょこぴょこと動いていた。長谷部はそれを指し、審神者に尋ねた。
「主が召し上がっているのは何ですか」
「これ? これはストロベリークリーム。苺」
「これですか」
長谷部が苺の絵の赤い包みを取り上げると、審神者は手を伸ばしてその隣にあったピンク色の包みをひょいと取った。よく見るとそれにも苺の絵が、それとアイスクリームの絵も描かれていた。
「それはただの苺味。クリームが入っているのはこっちだよ」
僅かに眉根を寄せた長谷部に審神者は笑いかけた。
「ややこしいね」
「……もう覚えました」
「流石だね、それで長谷部君はどれが良い?」
「……主はどれがお好きですか」
「私?」
私はこれ、と言って審神者は手に持ったままのピンク色の飴を軽く振った。そして、ではそれ以外にしようと考えている長谷部の前で、そのままぺりぺりと包みを剥がし始めた。やがて審神者が食べているのと同じ丸が現れて、長谷部の口へと優しく差し出された。
「はい」
「い、いえ、それは主の……」
「同じのは嫌だったかい」
「いえ、そうではありません」
「それは良かった。じゃあ、ほら」
長谷部がおずおずと口を開けると飴がそっと差し入れられ、柔らかい甘さが口中に広がった。
「美味しい?」
「はい、ありがとうございます」
「良かった」
再び飴を口中へ収め、審神者はふいと背を向けたかと思うと、「実は」と言いながら机の下から袋を取り出した。
文机の上でそれを引っ繰り返すと飴がばらばらと降ってきて、幾つかは天板や他の飴に当たって跳ね、畳の上に散らばった。
「あら、あらら」
慌てて拾い集める審神者に、長谷部も飛び散らかった包みをさっと拾って手渡した。
「ありがとう」
「いえ」
拾い終わって長谷部が机の上を見ると、飴は何十本も載っていた。二人で食べるには少々多すぎるような気もした。
「主、これは……」
「長谷部君も美味しいと言ってくれたし、皆にも配ろうと思って」
「そ、そうですか」
先程教えてもらった幾つもの味が転がっていて、その中には今二人が舐めている味を包んだ色もちらちらと見えていた。
横目でそれを見ながら長谷部が釈然としない気持ちを持て余していると、審神者は苺とアイスクリームの絵の包みだけを選り分け始め、「手を出して」と言って五、六本程あるそれを長谷部の手にぱらぱらと落とした。
「これは二人の分」
「……?」
「この味だけは皆には内緒な。私が持っていると食べてしまいそうだから、長谷部君が持っていてくれないかな」
「は、はい、お任せください!」
手渡された飴をいそいそと文机の抽斗にしまい込む長谷部を見て、審神者は咥内の飴を噛んだ。がり、と音がして棒が僅かに歪んだ。
見えるかい、と目の前に差し出された物体から長谷部は反射的に目を逸らしたが、再度言い聞かすようにゆっくりと同じ言葉を囁かれて首を軋ませた。
血の滴るそれは皮膚や脂肪がそっくりそのまま残ってさえいなければステーキ肉として売られてすらいそうだった。
(いや、骨もか……)
気味の悪い色と見た目をした骨髄がぼろぼろと端を覗かせていた。
赤にも多様な色があることを長谷部はその身に沁みて良く知っていた。おそらく他のどの刀剣男士よりも彼は赤の色を知っていた。昼間に見た飴の包み紙の赤を、皆には内緒なと言って長谷部に笑いかけていた審神者の表情を、彼は思い出した。
長谷部の思いなど他所に、審神者は長谷部の脚を薄く一枚ずつ切り落としては火を通すこともせず噛み締めて嚥下していた。
口の周りは血に塗れていて、下顎を伝って零れた深緋の滴が審神者の服を汚していた。当の本人は濡れそぼった服を気にする素振りもなく、ただひたすら切っては長谷部に見せ、それを食べることを繰り返していた。
審神者が咀嚼する度にぐちぐちと濡れた音が響き、長谷部は脳髄を侵すその音が苦手だった。
「……うぅ」
「……」
下腿の肉は十分に堪能したらしい審神者は一度口元を拭うと、切り分たれ中途半端な長さになった長谷部の脚を脇に置き、膝から上に手を付け始めた。
何故か一息に切り離すのではなくゆっくりと刃を滑らせてスライスしているので、長谷部は堪らず声を上げた。先までよりも身体の中心に近いところを切られている所為もあってか痛みが強かった。
束になった筋繊維がじりじりと切り離されていく感覚が鋭敏に脳を刺し、自然と叫び声が漏れた。
「――あ、ぅあ、っ……」
「痛いかい」
審神者は目を細めてそう言った。それが悲鳴であっても、虐げられた長谷部の声だからという理由で厭うことのない審神者だったが、聞きたくない気分の時というのもあるらしかった。
口の端がぐにゃりと歪み、ちょっと待っていなさいね、と言い残してへし切を床に置いて立ち上がり襖の向こうへ姿を消したかと思うと、ささやかな音がした後すぐに戻って来た。手に見覚えのある包みを持って。
「あ、っぐ、そ、れ、……」
「うん」
長谷部の言葉を聞かず、審神者は包みの端を捲って剥がすと「口を開けて」と言った。淡いピンク色とクリーム色が長谷部を見下ろし嘲笑した。
昼間の穏やかな時間の記憶が全て汚され塗り潰されるように感じて長谷部は思わず声を上げた。
「や、いやです、あるじ……どうか、それだけは」
「嫌?」
片眉を上げて審神者は問い返した。立ち込める血の臭いに血煙の幻影すら見えるこの部屋で飴は全てを圧倒する甘い匂いを放っていた。それが長谷部には耐えられなかった。
「ほかの、他のことなら、何でもしますから……」
「そう」
残念だ、と言って再び審神者は立ち上がり、ゴミ箱の所へと歩いて行った。ぽかりと口を開けているその上に飴を持った手を翳し、曇った顔でもう一度、
「残念だよ」
と言って手を離そうとしたので、長谷部は慌てて肘を突いて身体を起こし、
「ま、待ってください!」
と言い縋った。
「何? 嫌なんだろう、構わないよ」
「いえ……ぅ、あ……あの」
身体を動かす度に幾度も刃を入れられた脚が激痛を放ち、長谷部は苦悶に表情を歪めながら切れ切れに言った。
審神者はただそのまま佇んで、指先で飴をくるくると回しながら長谷部の言葉に耳を貸していた。
「り、りゆ……理由を、ぐ、お聞かせ、……」
「理由? これの?」
これ、と言って審神者は飴を傾けるのを見て、長谷部は小さく頷いた。
「二つある。一つは君の声を聞きながら君を食べる気分じゃなかった」
その答えは長谷部が予想した通りだった。頷いた瞬間目が霞むのを感じ、少し血を流しすぎたかと思いながら長谷部は審神者の言葉を待った。
「もう一つは今君と二人きりだから」
「ですが、そ、それは、昼、も……」
「うん、でもそれだけ君を愛しているんだ。まあ君が嫌だと言うから止めにするよ」
「あ、あるじ」
改めて手を離そうとした審神者に長谷部は尚も言い募った。
「まだ何か?」
「おれ、俺……食べます、口、入れてください」
「何故?」
審神者は眉を下げたまま可笑しそうにそう言って「無理しなくて良い」と付け加えたが、長谷部があまりにもしつこく繰り返すので根負けして隣へ腰を下ろし、
「はい」
と飴を差し出した。長谷部は縺れる舌で何とかそれを咥え、
「甘いです」
と言って笑った。
「そう、良かった」
審神者はそう言ってへし切を手に取り、喜色を浮かべながら振り下ろした。どす、と鈍い音がして布団までも切り裂かれ、長谷部の肉はまた一つ身体から切り離された。
審神者が肉を摘み上げて長谷部の目の前に掲げると、彼は飴を咥えたまま強いて微笑んだ。
「美味しいですか」
「ああ」
「俺も、美味しい、です」
「それは良かった」
滴り濡れる血も肉の赤も脳髄を侵す音も長谷部の涙も、全て飴の甘さにどろどろと溶けていった。
それから毎回の行為の度審神者は長谷部に飴を咥えさせるようになった。昼中であっても飴の包みを見る度に身を竦ませるようになった長谷部を審神者は盗み見て、その日の夜「二人だけの秘密だ」と言って笑っていた。
*
長谷部はここ最近どうにも憂色を浮かべたままの様子で、かさりと鳴ったビニール袋にまで身を竦ませる彼に審神者が手招きして向かった先は厨房だった。
時刻は三時を少し回ったところで、今頃皆は用意されたおやつを銘々に食べている筈だった。そんな人気のない厨房で長谷部は「座っていて」と言われ、戸惑ったまま腰を下ろした。
長谷部はテーブルクロスの折り目をぼんやりと眺めており、後ろから卵の殻が割れる音やボウルに何か液体が注がれる音、それに何かを掻き混ぜているような小気味好い音が聞こえても僅かに身動ぎを見せるだけだった。
やがて点火の音の少し後にバターが溶ける匂いが漂い、長谷部にはその香りが黄色く見えた。
「長谷部君」
「はい」
呼びかけられて振り向くと、審神者がボウルとお玉を持って立っていた。何故か困ったように笑っているので長谷部が「どうかされましたか」と問うと、「何でもない」とだけ返ってきた。
何でもないのに何故呼んだのだろう、と長谷部は思ったが、すぐに例の折り目へと目を戻してしまった。背後から肉を焼くときのようなじゅう、という音がして、長谷部は益々眉根を寄せた。
黄色い香り、肉の音、がこんとコンロに何かが置かれる音を数回繰り返した後、再び審神者が長谷部を呼んだ。
「はい、主」
「お待たせ、出来たよ」
審神者が目の前に真っ白な皿を置いた。其処には少々不格好なホットケーキが三枚重なっていた。
「バターとメープルシロップでいいかな」
「ご随意に」
長谷部が答えると、バターナイフで切り分けられた黄色い塊がまず載せられ、その上からねばついたシロップがとろとろと降ってきた。シロップは紅茶のような栗色をしていて、前に皆のおやつがホットケーキだったときのシロップとは違う色をしている、と長谷部は思った。
「どうぞ」
ナイフとフォークを差し出しながら審神者が言った。
「使い方は知っていたかな」
「はい」
「そうか、一応教えておいたんだったかな。まあ召し上がれ」
「いただきます」
バターは熱でほとんど溶けて形を失い、微かに泡を立てながらシロップと醜く混ざり合っていた。俺みたいだ、と思いながら長谷部はナイフを入れ、一番上の一枚を切ってフォークで口に運んだ。水を含んだスポンジのようなそれを噛み砕いて飲み込み、いつの間にか正面に座って長谷部の様子を窺っていた審神者に一言言った。
「美味しいです」
「そうか」
審神者は微笑み、シロップのたっぷり入った瓶を手に取ってラベルを眺めた。
「前はその……たくさん使うから少し安いシロップだったけど、長谷部君にはこれをと思って」
「俺に」
長谷部は皿に視線を落とした。シロップは次々にホットケーキへ滲み込んで、乾いていた生地を濃い色にじっとりと濡らしていた。彼はこれと似た光景を見たことがあった。……赤銅色に濡れる布団だった。
「だから甘さが強いんですね」
「そうだね。好かなかったかな」
「いいえ、美味しいです」
「良かった」
甘いと言っても様々な甘さがあるのだ、と思いながらまた一切れを切り出して、長谷部は口に入れた。咀嚼する度シロップとバターが滲み出して長谷部の舌を濡らした。嚥下すると喉の入り口までもが甘い液体に濡れる、不思議な感触だった。
「長谷部君」
「はい」
三度目の呼びかけは何処か色が異なっていた。
「美味しい?」
「? はい」
「それ……ホットケーキは、好きかな」
「はい、美味しいので好きです」
「そうか」
食べて、と促し、審神者は一人で話し続けた。
「昔、こういうホットケーキが憧れだった。何枚も重なっているようなのがね。押し付ける訳じゃないが、君にも喜んでもらえないかと思って……そう、それだけなんだ」
「はい」
ごくりと喉を鳴らして飲み込み、長谷部は答えた。皿に残っているのは後一枚だったが、シロップに浸っているのはその外周だけだった。
「掛けるかい」
「はい、いただきます」
審神者から瓶を受け取り、長谷部はゆっくりと手を動かしてのの字にシロップを掛けた。ありがとうございます、と言って瓶を返すと審神者が少しだけ首を傾げた。
「……すまない」
「何故主が謝られるのですか」
「長谷部君が、あまり笑わないから」
「そうでしたか? 申し訳ありません」
「どうして君が謝るんだ……」
肩を落とす審神者を見て長谷部は無言でホットケーキを切り、フォークで刺すと審神者へと差し出した。
「主、どうぞ」
「え」
「どうぞ」
美味しいですよ、と微笑む長谷部に審神者が思わず口を開けると、少々しっとりしているものの柔らかくふかふかとしたそれがそっと押し込まれた。よく噛まないまま飲み込んで審神者は言った。
「甘いね」
「はい」
「……今度は、長谷部君が作ってくれたのが食べたいけど、どうだろう」
「主の命とあらば十枚でも百枚でも」
「六枚で良いよ、それで半分ずつ食べよう。……良いかな」
「勿論です」
シロップがまだまだ残っているからですか?と言いながら長谷部は漸くにっこりと笑った。どうだろうね、と審神者は押し殺した笑みを見せ、誰か来る前に食べてしまいなさいね、と言った。
長谷部は嬉しそうにナイフを持つ手を動かしていた。そんな彼を見ながら、もうあんなことに食べ物を使うのは止めようと審神者は後悔していた。
*
長谷部が執務室に足を踏み入れると七輪が置かれていた。その横に座った審神者はにこにこと笑いながら彼を見上げていたので、長谷部は思わず、
「自死なさるおつもりですか」
と尋ねていた。
「自死? 何故」
不敬なことを言ったにも関わらず、審神者は何も気にしていない様子で相変わらず笑んだまま長谷部に問い返した。
「七輪と練炭で自害するのが昔流行ったと、何かで読みました」
「勉強熱心だね」
良いことだ、と審神者は何度か頷いて言った。長谷部はいつ何処で、そもそも何故そんなことを読んだのか思い出せなかったが、少なくとも今審神者が自死しようとしている訳ではないことに胸を撫で下ろした。
「それで、何故それを」
「うん? 焼く為だよ」
他に何があるんだい、と言って審神者は尚も笑っていた。確かに七輪は何かを焼く為の物だった。魚、或いは肉を。長谷部は努めて平静を保ったまま言った。
「肉なら、暫くは見ずとも構わないぐらい食べましたが」
「そうだね、楽しかったかい」
「……ええ、まあ」
その日の夕方、審神者は突然庭へ何やら妙な器具を持ち出すと炭を入れて着火し、呼び集めていた刀剣男士達に「今日の夕食は此処で肉を焼こう」と言い出したのだった。
午前中、審神者と共に肩が抜けそうになる程大量の肉を買って帰ってきた長谷部は、審神者が何を企んでいたのかこの時になって漸く知ることとなった。
延々野菜と肉を切り、焼いては皆の皿へ載せていた審神者から受け取ったものを長谷部も幾度か口にしていた。
肉は牛や豚だけでなく鶏、鹿、果ては羊まで用意されていたが、どれも食用であるので当然血は滴っておらず味も申し分ないものだった。長谷部はそれを自分が食べていることよりも、審神者が長谷部の肉や臓腑でない、本来の食材であるものを口にしたことに内心非常な安堵を覚えていた。
「主があれほど働かれずとも、俺や他の者に命じてくだされば良かったのですが」
美味しかったかと尋ねようとした審神者よりも早く、長谷部が口を開いた。長谷部が何度か交替を申し出て燭台切と共に半ば無理矢理トングを奪うまで、審神者は一片たりとも口にすることなく肉を焼き続けていたのだった。
「ううん、皆そう言ってくれるけどね、私は肉を焼くのが好きなんだよ」
「食べるのはお好きではないと」
「嫌いじゃあないけど、別に食べても食べられなくても、とは思う。だから偶には皆を労おうと思って」
「……ですが、主は人の御身です。俺達よりも御自分の――」
「分かった分かった、もうそれは光忠君に散々言い聞かせられたよ」
「……燭台切に?」
「うん」
そうだけど? と言いながら審神者は七輪の網を指でなぞった。長谷部の様子を横目で窺うと、そわそわと落ち着きなく身体を動かしては唇を噛んでいた。言葉にして伝えることこそないが、こうも分かりやすいところがこの近侍の可愛いところだと審神者は常々感じていた。
「長谷部君」
「はい」
「ちょっと諌められただけだから」
「……何の話ですか」
拗ねている、と審神者は思った。普段礼儀を欠くことはしない長谷部がそっぽを向くとは非常に珍しかった。しかしその向き方も、完全に横を向くのではなく少しだけ、審神者の顔が視界から完全に消えない程度の傾き方しかしていなかった。
「長谷部君」
「何ですか」
「やっぱり一緒に死のうか、これで」
「なっ……」
何を、と言う長谷部の前で審神者は相好を崩しながら七輪をぽんぽんと叩いていた。目に見えて顔色を失い始めた長谷部に審神者は少々やりすぎたと思い、慌てて付け加えた。
「ものの例えだよ」
「……?」
訳が分からない、という表情をしている長谷部を見て審神者は苦笑し、七輪を部屋の片隅にぐいと押し遣ってしまってから長谷部に手招きした。
「もう少し近くにおいで」
「……宜しいのですか」
「構わないよ。ほら」
促され、長谷部は渋々膝行した。それでも敢えて距離を保ったままでいるともう少し、と声を掛けられることを数度繰り返し、ほんの近くまで近付いてしまったところで審神者がすっと手を頭上に差し伸べたので、長谷部は思わず目を瞑った。
「……」
極々小さな溜息が一つ聞こえた後で、長谷部は打たれるのではなく撫でられていることに気が付いた。
おずおずと目を開けると、審神者が目を合わせないようにしたままで手をぎこちなく動かしていたので長谷部は大変に驚いた。
「あの、主……?」
「……嫌だったか」
すまなかった、と言って審神者が手を退けようとする気配を察し、長谷部は思わずその腕を掴んだ。息を呑む音に再び目を瞑り、そのままじっと黙りこくっていたが、
「……撫で方が分からない」
と苦い声で審神者が零すので思わず口を開いていた。
「暖かいです、主」
「……そうか」
閨ではあんなに自然に髪を撫でられるのに、と長谷部は思ったが口にはしなかった。襖の向こう以外の場所で触れられることなどまず無かったので、今の時間をむざむざ終わらせたくはなかったからだった。
「本当は今夜、君を焼いて食べたかった」
「はい」
「でも止めだ、今夜はこうしていることにする」
「宜しいのですか」
「良いんだ」
ゆっくりと手が往復して、きっちり整えてきていた髪はきっと乱れてしまっている筈だった。しかしその程度のことは今の長谷部にとってどうでも良かった。
「……主、死にませんよね」
「何故? 死なないよ」
「……先程、仰っていたので」
「ああ」
俯いたままの審神者の言葉は少々聞き取り辛かったが、長谷部の耳にはどの言葉もはっきりと届いていた。
「例えだよ。君以外の誰でもない、長谷部君が良いんだと言いたかった」
「俺以外、」
「妬いていただろう」
「……」
黙っていれば肯定だとみなされると分かっていたが、長谷部は何も返すことができず口を噤んだ。少しだけ笑う気配がして、更に小さい声で審神者が言った。
「長谷部君は可愛いなあ」
「……可愛くはありません」
長谷部は口を尖らせて言ったが、あっさりと返された。
「そういうところが好きなんだよ。愛しい」
「……ありがとうございます」
「はは」
笑っている筈の審神者が何故か泣いているような気がして長谷部はそっと顔を盗み見たが、その頬は乾いていたものの表情までは見えなかった。
「主」
「うん」
「明日、肉を焼きますか」
「……かもしれない」
「分かりました」
「……」
審神者はもう何も言わずただ長谷部の頭を撫で続けていたが、時折掠れた声で「ごめんな」と言うのが長谷部には聞こえた気がした。
*
その日は買うものもないのに、審神者が突然「出かけないか」と長谷部を誘った日だった。
前日に大量の肉を買いに出たついでに必要なものは全て購入を済ませていた筈だった。長谷部は首を傾げたが、さして裏があるようにも見えず大人しく誘いを受けた。
「何方へ向かわれますか」
「甘いものはどうかな」
「ご随意に」
長谷部が答えると、審神者は嬉しそうに笑って言った。
「ありがとう」
町へ下り、向かった先は甘味処だった。赤い布の被せられた縁台が並んでおり、疎らに人影が見えた。
「団子が食べたくなってね」
「団子、ですか」
審神者は置いてあった品書を手に取り、長谷部に手渡した。
「勿論それ以外もあるから、好きなものを頼むと良い」
「はい」
受け取って長谷部が目を通すと、団子からぜんざい、あんみつと様々な甘味が並んでいた。飲み物も煎茶だけでなく抹茶やほうじ茶など幾つもある中から選べるようになっていた。
「話を聞いたら、何だか俺も団子が食べたくなりました」
「そうか、どれが良いかな」
「ええと……」
長谷部は再び品書に目を落とした。
「迷うか」
「はい」
「じゃあ二種類頼んで分けようか、長谷部君が嫌じゃなければ」
「はい、お願いします」
審神者は長谷部に向かって一つ微笑むと、店員を呼んだ。
「みたらし団子とあん団子を二本ずつと……長谷部君、お茶はどうする?」
「あ、煎茶でお願いします」
「煎茶二つで」
店員は畏まりました、と言って厨房へと姿を消した後、少ししてから盆を持って戻って来た。
「お待たせいたしました」
「ああ、どうも」
二人の間に団子の皿と湯呑を二つずつ載せた盆が置かれ、店員が場を離れたのを見送った後で審神者は長谷部に言った。
「美味しそうだね」
「はい」
いただきます、と二人揃って手を合わせ、銘々にみたらし団子の串を取って頬張った。弾力のあるそれを黙々と咀嚼しては飲み込み、串だけが残ったところで審神者は手を拭いて言った。
「美味しいね、長谷部君」
「はい、主」
同様に食べ終わっていた長谷部が答えると、審神者は目を細めて片笑んだ。
「どうだった? 味は」
「味、ですか」
「うん」
長谷部は顎に手を当てて少し考え込んだが、「そう難しく考えることはない」と言われて顔を上げた。
「甘い、のと」
「うん」
「何と言うか……柔らかい味でした。郷愁、と言うのでしょうか」
「ふむ」
そう言うと長谷部は気恥ずかしそうに俯いて、
「俺が郷愁などと言うのは、変な話ですよね」
と言った。
「変ではないよ。君は言葉の遣い方を良く分かっている」
「遣い方ですか?」
「うん」
審神者は言って、あん団子を手に取った。白い団子に艶のないこしあんがたっぷり載せられているそれは審神者の好みだった。
「君は」
白い肌の団子が引き伸ばされては犬歯に噛み切られ、喉を隆起させながら下りて行く。長谷部が幾度となく見たその光景は夜を象徴するものだった。
「頭が良いから、話していて楽しいよ」
「……そう、ですか?」
長谷部は慌てて審神者の喉から目を離して答えた。自分の視線の意味を考え直すと顔から火が出るようだった。
「美味しいね」
「……はい」
「長谷部君にはもっと色々なことを知ってほしいんだ、まだまだ知らないことはたくさんある筈だから」
湯呑を手に、審神者はぽつりと零すように言った。長谷部の視線には気付いていなかったか、気付かずにいた振りをしているようだった。
「君は頭も良いし、何でも素直に受け取ることができるから心配はしていない」
「ありがとうございます」
「知識も経験も増えれば、長谷部君も何が正しいのか自分で判断できるようになるからね」
審神者が何を意図しているのか悟り、長谷部は青褪めた。いつもの発作と言ってしまえばそれまでだったが、それがいつまでも発作で済む保証は何処にもなかった。
「ね、長谷部君」
「……はい」
それでも、長谷部はただそれに気付かない振りをするだけで精一杯だった。
本丸への帰り道、二人が少し道を逸れて歩くと藤棚があった。ちょうど花盛りの頃だったようで、重たげな藤紫の房が数え切れないほど垂れ下がってはそよ風に揺れていた。審神者は躊躇うことなくその下へ足を踏み入れ、ついと藤を見上げて立ち止まった。
「綺麗なものだね」
「はい」
長谷部もそれに倣って上を見た。上から下へと次第に細っている房が幾つも幾つも無言で並んでいる様は何かを思い起こさせそうだった。
審神者は藤の花の匂いを楽しんでいるらしく一際長く垂れ下がった房の前にじっと立ち止まって目を細めていたので、その瞳には花の色が映り込んで濃淡のある紫色のように見せていた。
「……長谷部君の眼の色だ」
しかし審神者はそれきり何も言わないままでいたので、長谷部も何かを発することなくただ花の下に佇んでいた。他に人気がない所為もあり、此処が本丸でも町の中でもない、遠く離れた二人きりの世界であるように感じられた。
長谷部に愛寵の言葉を降らせるときであっても、綺麗だ、といった漠然とした言葉で表すことこそあれど、審神者がその容姿に言及することはあまりなかった。
食する対象としてその肌や肉や内臓にばかり情愛は向けられていたが、言うことを聞かず跳ねている束のある煤色の髪も、左右対称に整った顔貌も、それから勿論、非常に澄んだ藤色の瞳のことも審神者は大変に気に入っていたし愛していた。あくまで長谷部の持つ形質だから、という理由ではあったが。
長谷部自身は自分の容姿がそれなりに整っていることを良く知っていたのでそれを誇る気持ちもないではなかったが、何より自分の中身が愛されていることもこの上なく熟知していたので、審神者に対して今更訴えかけるような真似をすることもなかった。
それでも、時折審神者が他の男士について「格好いいな」などと零すことがあると、何処となく燻ったような気持ちになるのも事実だった。
「長谷部君」
そんなぐるぐると暗闇を五里霧中に駆けるような思考も露知らず審神者は長谷部に呼びかけ、藤の下で振り向いた彼を見て、
「君は綺麗だね」
と言って微笑んだのだった。
視界いっぱいの藤の花と審神者の姿とが一瞬で暗転したかと思うと、長谷部ははっと覚醒した。見慣れた天井の木目が自分を見下ろしている此処は間違いなく審神者の寝室だった。
「目が覚めた?」
審神者の言葉で感覚は一斉に目を醒まし、身体の中身の至る所が空気に晒されているのを感じた。
部屋は肉の焼けた後の香ばしく、しかし本能的に拒否したくなる臭いで満ちていた。痛みは何処へ行ったのだろうかと考えながら長谷部は返事をしようとしたが、いつの間にか気管はぴったりと閉じていて、喃語のような音しか発することができなかった。
「……ぅ、……」
「死んでしまったかと思って心配したよ」
視界も翳ってしまっており、長谷部は審神者の顔すら良く見えなかった。何度か息を吸っては押し出していると漸く気管が開き、藤、とだけ言葉にすることができた。
「藤?」
「……」
長谷部が首を縦に振ると首元からぐち、と濡れた音がした。審神者はその音を気にも留めず何事かを考えているのか無言のままで、やがて合点が行ったのかああ、と声を上げて言った。
「黒田にでも逢ったかい」
少し暗んだ紫の瞳が見開かれ、長谷部の肺がごぼりと音を立てた。
「彼岸でも見えたか。君が渡りたかった場所だ、君が逢いたかった人間だろう」
黒と緋の世界の中、長谷部には審神者の口元だけが見えた。ただただ長谷部を責め立てるときと同じように其処は歪められていた。違うんです、という言葉が肺に泡立っては消えていく。逢えませんでした、見えませんでしたという言葉も浮かぶことすらなく次々と消えていった。
「駄目だったのか、なら何度だってやり直せば良い」
そう言うと審神者は長谷部に馬乗りになって首に手を掛けた。粘ついた音が響いて、手はぬるぬると滑る血と肉を押さえ付けるようにして締め上げていた。再び気道が塞がれて、長谷部は息苦しさで肉を削がれた腕を審神者の手に重ねようとした。
「何で抵抗する」
「……!」
「逢いたかったんだろう、送ってあげようと言うのに」
その時長谷部の喉が一つだけ大きく波打ち、審神者は思わず手の力を緩めた。空気が一度に流れ込んで長谷部は咳き込み、雑音混じりの呼吸をした。
「……はっ、げほ、……げほっ……」
「……」
血塗れになった自分の手をじっと見つめた後、審神者は長谷部の上から転がり落ちるように降り、畳へ仰向けに倒れ込んだ。滲み込まず残っていた血溜まりが小さく跳ねてぱしゃりと音を立てた。
部屋には長谷部の荒い呼吸音だけが響き、やがてそれも小さくなって静寂を取り戻した。二人とも黙りこくっていたので長谷部はまた藤棚の景色を思い出した。
「……長谷部君」
審神者が小さく口を開き、ゆっくりと呼びかけた。
「一緒に死のうか」
「やはり自害されたいのですか」
不思議と声は透き通るようにはっきりと発せられた。本当に死ぬのかもしれないな、と長谷部は思った。
「死んでくれるのか」
「主の為に命を捧げる覚悟はできています」
「……」
「主」
「何だ」
「ですが俺は、好きと仰ってくださった主に死なれたくはありません」
「……」
審神者は何事かを言い返そうとして口籠り、また仕方なさそうに口を開いた。
「……なら嫌いだと言おうとしたけれど、君には言えない」
「……そうですか」
長谷部は審神者の方を向くことなく答え続けていた。泣きたい気分だったがもう体液は流し切ってしまっていた。
「死は救済だ」
「……」
「だから私は君と死にたい」
「……主、死は冷たくて昏くて虚ろで、何より淋しいものですよ。俺は主と生きている今がとても暖かくて柔らかくて優しくて、生きている方が好きです」
「そうかな」
審神者は涙声で言った。
「君の言葉が好きだ」
「ありがとうございます、主」
「君と話がしたいから、まだ生きていることにする」
「はい、いくらでもお付き合いいたしますよ」
血溜まりが小さく波打った。
「長谷部君の好きなものの話が聞きたい」
「そうですね、俺は――」