top of page

 

あの喫茶店で / 甘い話

 チェーン店のコーヒーはいつも同じ味がする。ミルクもガムシロップも入れていないのにくるくるとストローで掻き混ぜ、いやこれは氷が融けたから混ぜているのだと自分へ言い訳する。
 ストローから口を離し、長谷部は物言いたげに此方を見る。グラスの中のクリームソーダは半分も減っていない。甘夏のジュースと迷っていたから飲み干したところですぐに注文してやろうと思っていたのに、長谷部はちらちらと此方を見てばかりだった。
「……飲まないのか」
「飲んでいますよ」
 長谷部は何処か素気ない。いつかの諍いを思い出し、一瞬で顔から血の気が引いていく。
「……私が何かしましたか」
「? いいえ、俺はてっきり、主の方こそ何か話したいことがあるのだとばかり」
「……あ、ああ、そうなんだけど」
 ソーダ水に乗ったソフトクリームを――このチェーンではクリームソーダには何故かアイスクリームではなくソフトクリームが乗っていた――長谷部はスプーンで掬って口へ運ぶ。
「話なら、家ですれば良かったのではないですか」
 確かに店内は喧騒で満たされており、何かを話し合うような雰囲気ではない。それでも此処を選んだことに何も意図がなかったというと嘘になるのだが、何処となく恥ずかしいのでそれは黙っておいた。
「別に大した話じゃない」
「はい」
 続きを誤魔化すように、汗をかいているグラスを指先でなぞる。
「ただ、あー……どうなるのかと、思って」
「何が、ですか?」
「ええと……死んだら、とか」
「死ぬ?!」
 がたがた、とテーブルに身体をぶつけながら長谷部は立ち上がる。倒れそうになったグラスを慌てて押さえるが、店内にいる他の客の視線までは抑えられない。方々に頭を下げて何でもないことを示しながら長谷部を席に着かせ、クリームソーダのグラスを握らせた。
「……申し訳ありません、冷静でいなくてはとずっと思っていたのですが、つい……」
「ああ、いや……言い方が悪かったよ」
「すみません、今度は落ち着いて聞きますから」
「うん」
 私は豆菓子の袋をぴりぴりと破きながら話を始める。
「私も人間だからね、いつかは死ぬだろう」
「……はい」
「君は私の存在が拠り所になっているから、私の命が終われば遅かれ早かれ消える」
「それは……存じ上げています」
「でもそれは、同時に起こることじゃないんだ」
 話したくない気持ちを飲み下そうと私はグラスを手に取ったが、中は空だった。今注文すると話し途中に店員が来てしまいそうだと考え、代わりに冷水のグラスを手元に寄せる。
「やはり、やはりね……君も皆と一緒に、刀解、してくるべきだったんじゃないかと……」
「……主」
「いや、この話はもう止めよう。まだ先の話だ」
 その筈だ、と続く言葉はグラスに融ける。
「……ソフトクリーム、溶けてしまったね。新しいのを頼もうか?」
 私も何か注文しようと思い広げたメニューを、長谷部の手がひょいと取り上げる。一つも食べていない豆菓子が皿の上を転がって、からんと乾いた音を立てた。
「長谷部君?」
「……主」
 視線に鼓動が早くなる。それは死の恐怖だった。こんな日々が、変わらない味のコーヒーが、クリームソーダを飲んで笑ってくれる長谷部が、全てが失われてしまう恐怖。怖かった。怖かった。だからこんな場所を選んだのだ。
「主」
「……何、長谷部君」
「お話は、これくらいにしておきましょう」
「……うん」
 長谷部はじっとメニューを見て、何度か頷いた後で目を上げて私を見た。
「帰ったら、話してくださいますか」
「いや、この話はもう……」
「主」
 長谷部の一言一言が、失いたくないものとして積み上げられていく。耳を塞ぎたかった。私が死んで、長谷部は一人取り残されて、独りぼっちのままで消えていく。そんな日は来ない。来てほしくない。目を背けていれば、無いのと同じだ。テーブルの下で長谷部の手が私の手に重ねられて、店の中だというのにそっと握り締められる。
「主、……いつかは来る話です」
「……」
「何か頼みましょう、主。それを飲んだら散歩でもして、それから家へ帰って話をしましょう」
「……」
 言葉にもならないような微かな声を、それでも長谷部は返事と受け取ったらしく、私へメニューを手渡してきた。
「何にしますか?」
「……アイスコーヒー」
「主は此処のコーヒーがお好きですね」
「ああ……」
 この店のアイスコーヒーは、銀色の樽のようなカップに入って提供される。それも私がこのチェーンを気に入っている理由の一つだった。それに、今は紅茶は飲みたくなかった。
 長谷部は店員を呼び、手早く注文を済ませると私へ向き直った。
「俺は甘夏のにしました。勿体ないのでこれも飲んでしまいますね」
 そう言ってクリームソーダのグラスを空ける。
 ……一人でも、十分にやっていけるじゃないか。そう言いそうになり、氷を噛み砕いて押し留めた。
 結局私は何が怖いのだろう。死ぬことか、長谷部を失うことか、長谷部を一人残していくことか。
 答えの出ないまま、新しいコーヒーが運ばれて来た。きっとこれも、いつもと同じ味がするのだろう。

 


 ***

 


 常々機会を窺っていたのだが、とうとうある日主が「パンケーキでも食べに行かないか」と仰ったので、俺は間髪入れずそれに飛びついた。
 少しだけ電車に乗り、目当ての駅で降りると、人が盛んに行き交う町があった。手こそ繋がないものの、主は俺が人波に押し流されてはぐれてしまわないようにそれとなく誘導してくださる。だから手も繋げたら良いのに、などとは間違っても思ったりしない。
「ああ、此処だ」という声がして、俺は自分が何だか小洒落た煉瓦造りの建物の前に立っていることに気が付いた。主が入口の扉を引いて手招きしている。俺は慌てて其処をくぐった。

「うーん……」
 俺はいつ、どんな風に切り出そうかということで頭がいっぱいで、目の前でメニューを開いて唸っている主には今初めて気付いたのだった。
「どうされました?」
「これ、このクリームは、全部こんな山盛りなんだろうか」
「そのようですね。あ、クリームのないメニューもありますよ」
「うーん、それはなあ……」
 何だか勿体ない気がするんだよなあ、と萎んでいく言葉が愛おしい。他でもない、俺も同じようなことを今まさに考えていて、だが俺が主と共有できるものなど本当にごく僅かな範囲に限られていたのだ。
「それに何が載っているのか良く分からない。これとこれはどう違うんだ」
 主はチョコソースのパンケーキ二種類の写真を指して憤慨したように仰る。俺は何だか可笑しくて仕方なかったが、頬が緩まないように注意を払いながら答えた。
「此方にはバナナが載っているようですね。此方は……これもバナナでしょうか……。いや、それにしては形が……」
「……まあ良い、それは子供っぽいから止めよう。こっちの苺のにする」
「では俺はこのバナナのものにします」
 主は俺にしか分からないような微妙な不機嫌さのままに店員を呼び、それぞれのパンケーキと紅茶を二人分注文された。ぱたん、とメニューを閉じてスタンドに刺す。
「悲しいことに、もうこういうのには付いていけないようだ」
「そうですか? でも主から誘っていただいた時は嬉しかったです」
「……一度来てみたかったんだよ」
 主は店の壁に掛けられている派手な絵画を見ながら、バツが悪そうに仰った。趣味の悪い絵だな、と俺は思った。

 運ばれてきたパンケーキは確かに美味しそうで、ホイップクリームにチョコソースにバナナというのがまた心を躍らせた。メニューの不可解さにへそを曲げていらした主も、ホイップクリームの山と苺とベリーソースを前に若干機嫌を直して嬉しそうだった。
 いただきます、と手を合わせてからパンケーキを切り分けて口へ運ぶ。見た目通りの味ではあるが、それが良いのだと思えた。甘くてどろどろに溶けていくようで、俺は多分、幸せというものに味があるのならばこういうものだろうと思う。
 それでいつにしようか、とタイミングを窺いながら主と主のパンケーキをうろうろと見ていると、ふと顔を上げた主と目が合ってしまった。
「何? 長谷部君」
「え、いえ、何でも……」
「ああ、こっちも食べてみたい? 良いよ」
 どうぞ、と皿ごと差し出され、「好きなだけ食べて良いよ」と付け加えられる。何が何だか分からなくなってしまい、もう今しかない、と血迷った俺は震える声で言った。
「あ、あの、主」
「うん? それとも交換したい?」
「いえ、そうではなくて……あの……」
 ぼそぼそと聞き取れるか聞き取れないかという声で言い、主は――何とお優しいことか、俺は今すぐ自刃したくなるほどだった――俺の方へ身を乗り出して耳を傾けてくださった。
「食べさせてほしいって?」
 俺は無言でただこくこくと頷くだけだ。とうとう言ってしまったが、きっとにべもなく断られるに違いない。主はそういう冗談を好まないことぐらい分かっていたのだから、言わなければ良かったのに。
「ううん……」
 渋っている色の声にああ、と胸が苦しくなった。俺は、……。
「此処では人目があるから、家でも良いかな」
「はい、申し訳……え?」
「食べさせてほしいんだろう? 帰ったら幾らでも付き合うよ」
 そのまま全く変わらない声の調子でそれ食べた? と問われ、俺は慌てて苺のパンケーキを切り分け始めたが、心はとうに此処から離れていた。ずっと夢見ていたことが、こんなに呆気なく叶うとは思わなかった。テレビや漫画で見た、恋人同士の甘い交歓。
 帰り際、主はどうしても気になって仕方なかったらしく、店員に「もう一つのチョコソースのパンケーキ」について尋ねていた。バナナではなくチーズのクリームか何かだということだった。

 冷蔵庫にはプリンがあった。俺は何日か前の自分に感謝した。
「あんなに甘いものを食べておいてプリンか……まあ君が良いなら何も言わないけど」
「プリンはそんなに甘くないですよ」
「……」
 歳か、と主が呟かれているのが聞こえたが、俺にはその意味は分からなかった。それよりプリンだ。
「主、お願いします」
「はいはい」
 アルミの蓋を捲り、主はスプーンで一掬いすると、
「はい」
 俺の前へ差し出された。俺はそれを口に含む。主が恋人相手にするように食べさせてくださっている! 甘い痺れのようなものが身体中を刺す。名残惜しいが口を離す。嚥下する。
「満足したかい」
 反射的にふるふると首を振ると、主は肩を竦めてからもう一度同じ過程を繰り返してくださった。途方もない歓喜。正直に言って良かったという狂喜。
 結局プリン一個分全てを食べさせてもらい、俺は胃の中から全身の隅々までが幸せに浸っていることをじわじわと感じていた。主は何処か呆れ顔で俺をご覧だが、そんなことも気にならなかった。またやってもらおう、そう思いつつ、俺はあることに注意を引かれた。
「主」
「何? 二個目?」
「いえ、その、恥ずかしいとか、感じられていないのですか」
「どうして? 別に恥ずかしいことじゃないだろう。看病と変わらない」
 看病……。何が甘い交歓だ、と俺の方が恥ずかしくなった。外では恥ずかしいから家で、と言ったのではなかった。俺が必要としていたからそうした、それだけのことだったのだ。何故か鼻の奥が熱くなって泣きそうにすらなった。
 しかし、と俺は一方で冷静に思考を働かせる。それは裏を返せば、俺がしてほしいと言ったからそうした、とも考えられるのではないか。その可能性の方が、俺が感じた甘さや幸福感にはずっと馴染んでいた。
 立ち上がり、俺は冷蔵庫から二個目のプリンを取り出してきた。これは一種の賭けですらあった。
「主」
「うん?」
 こういう時に限ってなかなか開かない蓋を引き千切るように剥がし、俺は其処にあったスプーンで一匙掬う。
「あ、主、あの……」
 決まって書いてあったその言葉は言えなかった。主だって一度も仰らなかったのだからこれでも良いのだと自分に言い聞かせ、俯いた俺は必死で腕を伸ばした。
「……どうぞ」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……あのね、私は別に、良いから」
 すみません、と呟いて顔を上げた。主は顔を背けられている。嫌われたのだ、とせっかちな自分が結論を下すが、幸いなことに冷静なままの俺は――あり得べき可能性を客観的に挙げることのできる俺は――まだ残っていてくれた。俺は主の御顔を覗き込もうとし、主はふいと不自然に見えないように身体を捩って逃げた。
「主?」
「何だい、恋人ごっこはもう満足しただろう」
「主、俺、分かった気がします」
「何を」
 此方を向いてくだされば良いのにな、と俺は思う。こんなことを思ったのは初めてで、俺は自分に驚きつつも言葉を続けた。
「俺は食べさせていただくのは恥ずかしくありませんでしたが、自分が食べさせる段となると些か恥ずかしかったんです。主はそれとは反対だということですね」
「……君は馬鹿か」
 両手で顔を擦ってから主が此方へ向き直る。口の形が拗ねた時のそれだった。
「証拠もないのにそんなことをべらべら言うもんじゃない」
「はい、主」
「……何故笑いながら返事をする」
「すみません、主」
「君ね……」
 言いながら主も笑っていらっしゃったので、俺も遠慮なく満面で笑った。思い悩んでいたのが馬鹿馬鹿しかった。俺の主はいつだって俺に全てを信じさせてくださる。
「長谷部君は悪い子だし今度は一人でチョコのやつ食べて来ようかな」
「あの空間に御一人でいらっしゃるんですか?」
「……」
 主は無言でプリンを手に取ると俺へスプーンを差し出した。俺は大人しく口を開き、二個目のプリンも平らげた。何処へでも、何処までもお供しますよ、などという言葉が喜ばれないのは分かっていたから、俺は始終無言を貫いていた。

 

 それにしても、と後になって思うことだが、こんなにあっさりと承諾していただけるのならもっと色々ねだってみても良かったのかもしれない。一緒に昼寝をするとか、内緒話をするとか、手を繋ぐとか。……いや、いつかきっと、叶う日が来る筈だ。

bottom of page