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聖痕

 

 

 

 犬を飼っていたことがあるような気がするし、猫を飼っていたような気もする。いずれにせよ、私の手元には一枚も写真が残っていないので、何も思い出すことができなかった。

 街を歩いていると、赤や緑が目につくようになった。浮かれ具合を象徴するかのように、金色もそれに加わって鈍く光っている。突然気温が下がったように感じ、コートの襟を掻き寄せた。外気に晒され続けている鼻と頬は、触らなくともそれと分かる程に冷えていた。

 長谷部は元の肌の色が白いので、冬の寒さですぐ鼻や頬が赤くなる。冬に連れ立って出かけた時、幼子のようなその様子が私には心配になるのだが、本人は「これがあるから大丈夫です」と言ってマフラーを振って見せる。その後ろを通り過ぎる男女は、互いに暖め合うように手をしっかりと繋いでいた。主こそ寒くはありませんか、と尋ねる長谷部の顔を、私は碌に見ていなかった。

 今思うと、飼っていた筈の何かの表情を、私はほとんど見ていなかった気がする。自分には無い柔らかな尾や丸っこい手足にばかり惹かれ、顔は眼中になかったのだろうか。だから思い出せないのかもしれない、その色すらも。

 無事に帰宅し、出迎えてくれた長谷部と夕食を摂る。二人共変わりない一日を過ごしたことをそれとない言葉で伝え合い、やがて食事が終わると長谷部が茶を淹れてくれた。食器の下洗いを済ませた長谷部が、私の前に戻って来て腰を下ろし、茶を一口飲んだところで私は声を掛けた。

「そろそろクリスマスの準備をするべきかな」

「もうそんな時期ですか」

 準備と言っても、特に飾り付けなどはしない。話を始める為の口実のようなもので、私はそれを考えるのがどうにも下手だったのだが、長谷部は茶化すこともせず普段通りに言葉を返してくれる。おそらく口実など口にしなくとも、彼は私の話を聞いてくれる筈なのに、と思う。

 もしかすると、私は何かと理由をつけては写真を撮らなかったのではないだろうか。時間は無限に湧き出て流れるもので、命すらもそうだと信じていたのでは、ないだろうか。

「今年は君に何を贈ろうか」

「そのことですが、主」

「ん?」

 湯呑から目を上げると、長谷部が真剣な顔で此方を見つめていた。

「今年は、俺も主に何かを贈りたいです」

「そんなことしなくとも」

 本心だったが、感謝からか祝福からか、はたまた他の感情からか、何にせよその気持ちを抱く相手に何かを贈りたいという感覚は理解できるし、それを断られた時どれほど消沈するかも知っていた。だから次に長谷部が、

「俺が贈りたいんです」

 と言った時、私はもう否定はせずに「分かった」とだけ言った。

「主は何を御所望ですか?」

 湯呑を両手で包み込むように持ち、面映ゆい様子で長谷部が言った。

「今から考えてみるよ。長谷部君は?」

 再度尋ねると、少し思案して、

「身に着ける物が良いです」

 と言った。

「マフラーのような?」

「はい」

 それだけで構わないのか、他に何か欲しい物はないかと尋ねたが、「主が色々と用意してくださるので」と返してきた。本当にそうだったら良いが、知らず知らずのうちに、この部屋が長谷部にとっての牢獄になってはいやしないかと不安になる時がある。欲しい物があるのであれば、何だってそれを与え、充たしてやりたかった。

 そもそも私は犬だか猫だかを本当に飼っていたのだろうか。写真も何も手元には無いのに。確かにそれを可愛がっていたという記憶すら、朧気なものに思えた。

 憂いを悟らせまいと、一口だけ茶を飲んでから冗談めかして言った。

「長谷部君が居てくれさえすれば、私は何も要らないというのに」

「俺だってそう思っていますよ」

 屈託なく言って、長谷部ははにかんだ。

「ですが、主は持ち物がとても少ないですから、時折不安になるんです。偶には良いかと思いませんか」

 言われてみれば、私物はほとんど持っていなかった。仕事用の服と鞄と靴、それに休日用の服と靴、数冊の本と筆記具。しかし長谷部が居るというのに、これ以上何を望もうか。

 そうだ、首輪は赤だった、とふいに思い出した。少し焦げた茶色を含んだ、落ち着いた赤。リードは? 首輪から繋がっていたかどうかまでは思い出せない。目を瞑って考えながら、私は言った。

「写真、」

「はい?」

「君の写真が欲しい」

「写真、ですか」

 長谷部は戸惑った様子で繰り返した。煤色と藤色、暖かな部屋着はモノトーン。其処にあの緋色はない。

 写真の大きさはどのくらいにしますかと問われ、立ち上がり財布を持って来て手渡した。これに入るぐらいの大きさ、と告げると眉を僅かに下げる。

「持ち運ぶのですか」

「勿論」

「……」

「女々しいと、嗤っても構わないよ」

「そうではありません」

 慌てて否定し、長谷部は私の財布を物珍しそうにぱかぱかと開閉しながら言った。

「恥ずかしいだけです」

「私以外には見せないよ」

「そうですか……」

 整った顔を写し取った写真よりも、もっと羞恥を覚えるべきところをとうの昔に見られていることには気付いていないようだった。何一つ纏わない裸体どころか、その奥の奥、あらゆる血と肉を見られてきたというのに。長谷部の血は昏かった。止め処なく溢れ出して私の手も布団も畳も、黒い赤に染めたものだった。

 どうして居なくなってしまったのかも思い出せない。事故か、病気だったか? 寿命を全うしたのか、それともある日突然、暴力的な死が訪れたのか? イメージは集合と離散を繰り返し、赤い首輪だけを残してさらさらと霧散してしまう。

「そっちへ行っても良いかい」

 尋ねると長谷部は小さく「はい」と返し、身体を動かして私が座れるだけの場所を空けてくれた。背後に落ち着いて両腕を回すと、心地良い体温が伝わってくる。本当に、この温度さえあれば他には何も要らないのに。

 首筋に鼻先を埋めると、柔軟剤のそれとはまた違う、甘いような不思議な香りがする。目の前に見える肉の色と匂いに、知らず喉が鳴っていた。私の両腕と両脚の間にすっぽりと収まって、長谷部は私を妨げない程度に身動ぎした。胸の奥が痛くなる。心まで覆い尽くされているのは私の方だった。

「主、お疲れですか」

 小声のままで長谷部は言う。顔を見られない、見たくないなどと言える筈もなかった。

「今日は寒かったから」

 答えになっていない尻切れの答えを返して腕に力を込めた。自分の鼓動が長谷部を通して聞こえてくる。音は次第に大きくなり、いつしか私は長谷部を抱きかかえたまま眠ってしまっていた。墓標の無い墓から誰かが私を呼ぶ夢を見た。

 

 街は目に痛い程の光で飾り付けられ、其処彼処から漏れ出したクリスマス・キャロルが光の隙間を埋めるように流れ続けていた。少し洒落たレストランで食事を終えた長谷部と私は街をぶらついていた。クリスマス当日というだけあって、其処ら中で男女が熱い愛の下に交歓している。衆目を気に懸けることなく抱擁や口付けを交わすのも、またそれらの行為を目にして顔を真っ赤に染めるのも若さの証だと微笑ましくすら思う。つまり後者は長谷部のことだった。

 この後は適当に家へ帰ってシャンパンでも空けながらプレゼントを贈り合うつもりだったが、このまま長谷部の様子を眺めているのも悪くはないかと思っていた。すると長谷部は逸らした目を俯かせたまま、「主」と呼んできた。

 赤い首輪は私の前を歩いていたのだったか、それとも後ろを? 長谷部は私の隣に立ち、所在無げに地面を見遣っている。隣に。

「どうした?」

「そろそろ、帰りませんか」

 人に酔ったのかもしれない。そうしようか、と返して街に背を向けた。ほっとした様子で長谷部も踵を返し、その拍子に彼のマフラーがふわと舞った。

 きっと私の後ろを、困ったように付いて来ていたのだろうという気がしていた。そしてその影すらも、砂のように脆く崩れて散ってしまった。

 見慣れた扉の前に辿り着き、二人してどちらからともなく嘆息した。誰もが幸せで在るべき喧騒の中、知らず気を張っていたらしかった。手洗いとうがいを済ませ、いつものテーブルに腰を落ち着ける。淡い金色のシャンパンの中で立ち昇る細かな泡は意識の外へと追い遣って、私はワインレッドのリボンが巻かれた箱を取り出した。

「長谷部君、メリークリスマス」

「ありがとうございます、主」

 律儀に頭を下げ、長谷部は受け取った包みのリボンと包装紙を剥いだ。中から黒い二つ折りの財布を取り出して、花の咲いたような笑みを此方に向けた。

「嬉しいです、主」

「ラム革だそうだよ」

 食料品を買いに行く度、私のことを思い出してくれたら、なんて醜い期待は口にはしない。それに、いつかはぼろぼろになって捨てられてしまう物だ。

 財布を大切そうに包装紙の上に置き、長谷部も薄い包みを取り出した。

「主から素敵な物を頂いた後でこれを出すのは、少し気が咎めるのですが……」

 小さなその包みを開けると、紺色のシンプルなクリスマスカードが入っていた。開くと、綺麗な筆跡で書かれた〝Merry Christmas〟の文字と、眉間に皺を寄せ、困り果てた表情で写っている長谷部が居た。思わず笑みが零れてしまう。

「履歴書に添える写真みたいだ」

「履歴……」

「つまり、政府なんかへの提出用みたいだ」

「……ですから、恥ずかしいと……」

 拗ねたように俯く長谷部の頭を撫でると、艶やかな煤色の髪がぴょんと跳ねた。

「可愛いよ。ありがとう、長谷部君」

「……」

「仕事中、君に会えない時間がどれほど辛いことか」

「……俺もです」

 唸るような、泣いているような声だった。聞き覚えがある、私の後ろから幾度も聞こえていた声にはっとした。

 立ち上がり、テーブルを向こう側へ回って長谷部の隣に腰を下ろした。微かに震えた肩も、思わずきつく閉じられた目も、全部慣れきったことの筈なのに胸が締め付けられる。触れても良いかと尋ねると、頬を僅かに染めて頷いてくれた。

 何でもないことのように装って、長谷部の手に自分の手をそっと重ねる。冷たくも血に濡れてもいなかったが、小さく震えていた。

 抑えていたものが噴き出してしまうことが怖かった。首輪だけを残して、顔の無い死体が私から逃げ出してしまう。だから枷が必要だった。檻が必要だった。

 瞳の色も、毛の色も覚えていないし思い出せもしないのは、しかし、私にとって――そして長谷部にとっても――福音であるに違いなかった。何もかもをみているつもりで、だがあの緋色しか見ておらず、そしてほとんど全てを忘れ去ってしまっている。福音だった。

 白い頬に触れると、長谷部は私の手から逃げるような素振りを見せた。心臓が早鐘を打ち始める。自分こそが死をもたらしたと思ったのは全くの自惚れであったことを思い知らされた気分だった。死ぬことすら赦されず、永遠に苦痛を与えられ続けることの恐怖など理解する術はない。

「長谷部君」

 呼ぶと、恐る恐る私の方を向いてくれた。添えた手の下に熱が集まり始める。

「その……君に、もっと触れても」

「俺は、構いませんが」

 主は、厭なのではないですか。俺を穢してしまうことが、怖いのでは――? 私の心情を汲み、慮らせていることに嫌悪感と吐き気を覚えた。最大の穢れは性などではなく、死であった。しかし、私が私であるからこそ、自らの手でそれをもたらさねばならないことにも、もう気付いていた。

 引き留めようとする拍動を強いて無視して、私はみっともなく震えながら長谷部との距離を縮めていった。恐怖から逸らすように目をきつく閉じて、それから漸く、長谷部の右頬に口付けた。死を遠ざける、柔らかくて温かな肉の感触に恐れ慄き、私は慌てて身を引いた。

 長谷部は目を丸くして、それでも寧ろ冷静そのものといった体で私を見ていた。それからゆっくりと口を開いて、言った。

「主が本当に望んでいたのは、俺と――」

「待て」

「……」

「君は、言わなくて良い」

「……」

 瞑目し、小さく首を振って長谷部は言った。

「――俺と、普通の人間のように、生きることでしょう」

「……」

 ――誰もが恋人の写真を撮って、表情に一喜一憂して、共に歳を重ね生きていくのを、羨んでいた。

「ずっと、そうではないかと思っていました。差し出がましいようですが」

「ずっと?」

「俺は貴方の近侍でしたから」

 言って、長谷部は淋しそうに笑った。其処に臆病さは欠片も存在しない。

「それに、俺が此方へ来てから本心で望んでいたのもそのことです。触れ合って、主と生きていきたい」

 赤黒い首輪などなく、それすらも忘れて生きられたらと望んでしまう。

 長谷部を説得しようとする言葉は全て涙に変わって零れてしまった。いつの間にか長谷部は私の頭を抱え込むようにして抱き締めていたので、熱を持った涙は彼の胸に吸い込まれてしまった。

 

 シャンパンはすっかりぬるくなっていた。肩を寄せ合って座ると、途方もない幸福感に包まれた。それでも尚、眩しすぎる光に一層濃く感じられる翳が私は怖かった。

「いつか、君とのことも、何もかも忘れてしまうんだろうか」

 死と共に。長谷部は少し首を傾げ、グラスの縁を指でなぞりながら言った。

「俺が覚えていますよ、全部」

「まだ君に触れることすらままならないのに」

「俺は主が居てくだされば、それだけで幸せです」

「君を散々傷付けて、それすらもずっと覚えているのに?」

「はい」

 何処か遠い所から、クリスマス・キャロルが聞こえてくる。目を伏せ、歌うように長谷部は言った。

「俺を愛していると、幸せにすると誓ってくださったのですから、それで十分すぎる程です」

 そして言葉を一旦切って、右の頬を手で押さえながら窺うように、

「左には、してくださらないのですか」

 などと言うものだから、私は敢えて冗談めかして、

「その顔を写真に撮ってくれれば良かったのになあ」

 と言った。

 どうして思い出せなかったのだろう。それは多分、赤色ばかりが心に焼き付いて離れなかったからだ。それはきっと、長谷部のことを壊し尽くさない為だ。

「メリークリスマス、長谷部君」

 そう言って素早く口付けて、私は長谷部を抱き締めた。私の背中にも、腕が回されるのが分かった。長谷部が囁くように口にした言葉は、窓の外、今降り出した雪に吸い込まれることもなく、私の耳に届いてくれた。

「メリークリスマス」

 

  *

 

 朝、目が覚めると長谷部は台所で一人、本を読んでいた。私が身を起こしたのに気付くと本に栞を挟み、「おはようございます」と律儀に頭を下げてきた。

「主、良く眠られましたか」

「うん……うん」

「朝食は何にしましょうか」

「……フレンチトースト」

「分かりました。用意しますね」

 欠伸をしながら顔を洗い、服を着替えている間に朝食の用意が出来ていた。

 黄金色のふわふわしたフレンチトーストと、私の分はブラックコーヒー、長谷部の分は砂糖とミルクの入ったカフェオレ。皿にはキャラメリゼしたバナナまで添えられていて、私の中の子供の部分が諸手を挙げて歓んでいた。

「……自分で言っておいて何だけど」

「はい」

「こんなにすぐ作れるものだったか」

「裏技があるのです」

「へえ……」

 胸を張る長谷部を可愛く思いながらコーヒーを一口啜り、ナイフとフォークを手に取った。パンの外側にはきつね色の焦げ目がしっかりと付いていて、刺したナイフが浮くことなく沈んでいくし、内側は火が通っているのにふかふかしていて、気を抜くとフォークが逃げそうになる。

 甘さと柔らかさを噛み締めながら、幸せな休日の朝とは斯くあるべきだよなと涙が出そうになった。

「美味しい」

「良かったです」

 強いて目の前のフレンチトーストだけに集中して、私は昨夜のことを考えないようにしていた。

 勿論、無かったことにはしない。しないが、長谷部とこれまで以上に深い身体的な接触を持ってしまったことなど忘れてしまいたかった。

 バナナをきっちり等分に切り分けようとしている私を、長谷部がじっと見ていることには気が付いていた。バナナを切る、切る、切る、口へ運ぶ、咀嚼する、飲み込む、次の――ああ、目が合った。

「主」

 やはり話しかけられてしまった。私は大人しく手を止め、朝食のことは一旦意識の埒外へと追い遣った。

「うん」

「……その、昨夜、のは」

「昨夜の、とは」

 冷静を装いながら、私は頭の中で必死に別のことを考えて落ち着こうとしていた。――二人の接触面積をS、接触部位から最も近い粘膜までの距離をd、接触時間をt、定数をAと置くと、二人の間に降り積もっていく澱の量は関数として――?

「その、俺の、頰に」

「……した、ね。嫌だったか」

「いいえ!」

 長谷部は勢い良く立ち上がって否定し、慌てて腰を下ろした。直情的なその態度に、少しだけ驚いた。

「いいえ、俺には勿体ないほど、嬉しいことでした」

「……ああ」

 厭に窺うような言い方だった。とすれば、この後に来るべき台詞は二種類しかない。もう一度を請うか――

「主の、御気持ちは、以前と変わりないままですか」

「つまり?」

「つまり……あれ以上先を望まれてはいないのですか、という、ことです」

 ――分かっていた。長谷部が最も話題にし辛いその話を、最も刺激の小さいタイミングで出せる時など今しかなかった。

 別にもう、その程度のことでいちいち怒っては喚き散らすような情熱は持ち合わせていなかった。此処は—この世界は長谷部と二人きりの、謂わば理想郷のような場所ですらあったのだから。

 それでも彼は、捨てられるかもしれないという恐怖を圧してでも、私が望むか望まざるかを確かめておきたかったのだろう。

 私が望むならば、それを叶えるのが彼であるからだ。

「……望んではいないし、そのことで君を叱りつけたりもしない」

 ゆっくり言うと、長谷部は何処かほっとした顔をした。それもその筈で、本丸に居た頃はこういった話は口にするどころか考えることすら禁じていたに近かったのだ。

 再びナイフとフォークを動かし始め、私は自分の思ったままを話した。

「昨日の……口付けぐらいでは、まだ水面に浮かんで唄でも口ずさんでいるようなものだ。だがそれ以上を望めば、諸共に水底へと沈んでいくのは避けられない。水に濡れた服では重くて引き返せやしないし、最後には――最後は、水の底で、互いの小さな吐息を吸って生きるしかなくなってしまう」

 言い終わってから、随分と詩的な言い回しになってしまったと反省した。案の定、長谷部は眉根を寄せて難しい顔をしている。

 先に考えていた数式の方が余程分かりやすいかと思い、最後の一口を食べてしまってから再度話し始めようとすると機先を制された。

「主がそう思われるのでしたら、俺に異論はありません。俺にはまだ知り及ばない事情がお有りでしょうから……。ですから、俺は、昨夜のような時間を過ごせただけで幸せです」

 そして何でもないことのように笑ってカップを傾けて、眦の涙を無視しようとするものだから、つい

「不能なんだよ」

と付け足してしまった。

「だから、長谷部君は悪くない」

 空になった皿とカップを流しへ持って行って、それから私は笑って見せた。

 半分は正しかったし半分は間違っていた。だがそんなことはどうでも良かった。

 長谷部は何も背負わず、ただ綺麗な花を見て唄っていれば良いのだ。それが私の望んだ世界だった。

 

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