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 短篇集9

 

 

 

 

 

 審神者がその手に持っているのは肉だった。まだ生々しい血を滴らせている、両手で持っても尚少し余る、大きな肉。審神者はそれを食べるでもなく、ただ薄気味悪い笑みを浮かべてじっと立っていた。

 肉は一見すると牛や豚のもののようにも思えるが、大きな、薄黄色っぽい脂肪の塊や、何より生白い皮膚がべったりと残ったままなのがそれを否定していた。

 大きく抉れた臀部から血を垂れ流しながら、長谷部はぐったりと横たわっていた。何をなさるのですか、と尋ねる気力もない。元より、そんなことをする必要など長谷部の胸の裡の何処にも存在しなかった。

 相変わらずにたにたと笑ったまま、審神者は肉といつの間にか拾っていたへし切を手に、長谷部へと近付いてきた。

「長谷部君」

 ふふ、という含み笑い混じりの言葉の後で、さくりと裂ける感触がした。

 腹の中に冷たい空気が通って行く。痛みなど今更だった。中身を無理矢理引き摺り出されないだけマシなのかもしれない。

 内臓や神経が整然と収まっている其処へ、審神者は手に持った肉色の物体を押し込み、ぐいぐいと力をかけた。何度も滑り、肉は零れそうになったが、臓腑を押す圧力に苦悶する長谷部のことなどお構いなしに審神者は押し続けた。

「うっ、ぐ、……う」

 胃液が喉元までせり上がってきたところで肉は漸く納得の行く位置に収まったらしく、審神者は自分の服を探って次の道具を用意し始めた。長谷部は堪えた嘔吐感に涙が滲んだが、やはり何も言わずにいた。

 裂かれた腹は粗末な針と糸とで縫われ、長谷部の薄い皮膚と肉は引き攣れながら中の肉を押さえ込んでいた。呼吸の度に膨れた腹は苦痛を生み、長谷部は視線のみでそれを訴えた。

「長谷部君」

 審神者は彼の顔など見ていなかった。

 さながら妊婦のように――そう、何かを孕んだかのように――膨らんだ長谷部の腹を撫で、満足気に微笑んでいるだけだった。長谷部のことなど、微塵も見ていなかった。

 その満ち足りた表情も次の瞬間には憤怒に変わり、審神者は小さく震えながら血塗れの手を握った。

「……長谷部君」

「はい」

 億劫だった。また何事か、自分に非の無いことでわあわあと喚き散らして責め立てられて、折檻され、後から気が狂ったように泣いては謝られるのだろう。長谷部はそんなことは求めていなかった。

「君は、これ、これは……」

「……」

「誰の、誰との、こんな……醜い……」

 何も、求めてはいなかった。自分が何かを望むことなど、とうの昔に手放した。望むことも、求めることも、そしてそれが叶えられることも。全て、審神者一人が許されることだった。

 ぐち、と潰れた水音がした。縫い目から暗い血が飛んだ。

「君も、……君まで、そんなことをするのか」

 入れたのは主ですよ、などとは言える筈がなかった。その言葉を、審神者は求めていない。

 また足が振り下ろされ、長谷部の腹は歪にへこんだ。何度も何度も踏み付けられて、行き場のない肉は腹の中でもがき、突き上げ、長谷部はとうとう吐いたが、審神者はやはり彼を見ていなかった。長谷部の腹に――審神者にとってはまさしく胎に――在るそれを排除することだけに執心し、狂ったように蹴り続けていた。

「出さなきゃ、出さなきゃ、出さなきゃ――君のことは、私が綺麗にするから、長谷部君、綺麗にするからね」

 両手で顔を覆った審神者の前で、がくがくと揺すぶられるだけの長谷部の身体から肉塊がずるりと這い出し、力なく落ちた。血だけはばしゃりと勢いよく、派手に撒き散らされた。腹の縫い目は引き千切れていた。

「ああ」

「……」

「長谷部君、ほら、除去できたよ。出産みたいだったね、長谷部君」

「……はい」

 口元を拭うと、嗅ぎ慣れた酸っぱい臭いがした。込み上げる吐き気を無視し、長谷部は無残に破れた腹を見遣った。血は辺り一面を濡らしているし、黒ずみ始めた肉は何でもない様子で床に落ちている。内側から喰い破られたようだ、と思った。—何に?

「君に、子宮があったら、こんなことをしなくても……」

 —この人間に、だ。

「いや、どのみち私は君を孕ませられない。そんなことをする訳がない、穢い……それに、私では、……」

 審神者は頭を抱えて座り込むと、後はもうぶつぶつと独語するだけだった。その姿を見て長谷部は腕を伸ばし、少し考え、結局ぱたりと落とした。

 ――主は、こんなこと望まれていない。それなら俺には、関係のないことだった。

 

 ***

 障子戸は大きく開け放たれ、近付く春の色が見えていた。枝の上の蕾ははち切れんばかりに膨らみ、緩んだ空気は氷の匂いを含まなくなっている。

 一つ溜息を吐いてから審神者は机に半身を伏せて、

「冬は良かった」

と言った。

「冬、ですか?」

 長谷部は問い返した。

 実体こそあるがその性質は寧ろ仮想空間に近い本丸という場所では、自在に気候を操ることができる。庭に満開の桜を咲かせたり、紅葉を散らしたり、はたまた雪を積らせることなど造作もないことだった。そんな庭の景趣と屋内とは切り離して構築されていたので、雪が深々と降り続けている中、薄着のまま縁側で何時間も過ごすことすら可能だった。

 長谷部達刀剣男士には、自らの身体で触れることのできる四季というものが珍しかった。桜の花弁の透けるような薄さや落ち葉が積もった上を歩く時の乾いた音、何もかもが新鮮で且つ喜ばしく、誰もが庭でそれらを愉しむことを習慣としていた。だが、審神者はそうではない。散々見慣れている光景を今更楽しむでもなく、それどころか庭に降りることすら滅多にしないで、部隊を見送る時以外はずっと部屋の中に居た。

 そんな審神者が特定の季節を指してあれは良かったなどと言うのが、長谷部には不思議に思えた。

「理由を訊いても宜しいですか?」

 審神者は唸るような声で返事をする。

「冬は、色々あっただろう、クリスマスとか、バレンタインとか……」

「ええ」

 審神者が何かにつけてそういったイベントを皆に広め、楽しんでいたのは長谷部も覚えていた。賑やかなのが好きな訳でもないのに、せっせと用意に勤しんでいたのだ。

「ああいったのが、お好きですか」

 律儀なのか几帳面なのか、それが贈り物をするイベントであれば、審神者は大抵の場合全員分のプレゼントを用意していた。時にはあちこちを駆け回るようなことをしてまで五十人以上全員の分を揃え、皆を集めては歓声の中でにこにこと笑っているのが常だった。

「うん」

 長谷部には皆と一緒の時に渡したものに加え、後から此処――執務室であり審神者の私室でもある――で特別に選んだものを渡すこともまた常だった。部屋においで、と誘い、ほんの少しだけ照れた様子でそれを差し出す。最初だけは、此処ではなく、冬の町だったが。

 胸の辺りがもやついて微かに痛むのを、長谷部はしかし何とも思わなかった。彼にとって、身体と心を切り離してしまうことはそう難しくなかった。伏せたままの審神者を空見して、自分の指の数を数えるのと同じように淡々と、今までに審神者から与えられたものを頭の中で挙げていた。

「だから、冬は」

「はい」 

 身を起こすか起こすまいか迷った後、審神者は結局起こすことに決めたようだった。のろのろと這うように頭を上げ、長谷部の方を一瞥し、壁に目を戻した。

「……」

「……」

「……楽しいことは無い?」

「え?」

 呟くようなその言葉は聞き取り辛い。

「……君に何かを贈った時は、笑ってくれたから……その機会が沢山あった冬は、良かったと思って」

「俺が?」

「普段は、あまり笑ってくれないから」

 審神者はまた身を伏せてしまった。その肩は寒くもないのに強張って、自分を守ろうとしているのか、酷く力が入っていた。

「どうしたら君を笑顔にできるのか分からない。君にとって此処での毎日は、楽しくないんだろうな。だから春が来たら、あまり笑ってくれなくなるのかと思うと……」

「俺は……」

 楽しいと言えば嘘になるような気がした。隊を率いて戦場へと出陣し、敵を次々に斬り斃していくのは確かに愉しかった。血の臭い、刃から伝わる骨肉の感触、断末魔—全てに長谷部の身も心も躍った。審神者から教えられた昂揚感という言葉がぴったり合うような感覚だった。

 だが、それは審神者の前に在る時の話ではない。人間である審神者は時空を移動する術を持たない以上、長谷部は戦場では一人で立つしかなかったのだ。そしてこの昂りは、本丸に—審神者の居る本丸に帰ってきた後では、もう得られなかった。所詮自分は刀の身でしかないのだと考え、頭を振ったことも一度や二度ではない。

 敵を斬ることだけが、楽しみを生むのではないことは知っていた。しかしそれ以外を、長谷部はもう分からなかった。何が楽しいか、そうでないかが分からなくなったのではなく、自分がそれを感じているのかどうか、判別することができなくなっていた。そのことに対して思うのは、

「長谷部君に、笑っていてほしいだけなんだよ」

「はい」

 己の主の要求を満たせないことに対する不甲斐なさだけだった。

「主にお仕えできるだけで、俺は果報者です」

 嘘だ。頭の片隅で呟く自分がいる。最近はこの感情すらも、混濁して曖昧だった。

「どうしたら笑ってくれる?」

 目だけを自分へ遣った審神者へ、長谷部はにっこり笑って見せた。

「主の御傍に在れるだけで、俺は幸せですよ。顔に出していなかっただけです。もっと笑った方がお好みでしたら、このように」

 つられてか審神者も漸く微笑み、「そうか」とだけ言った。空気は暖かい筈なのに、長谷部の胸の内に吹く風は空々しく冷たかった。

 

 笑った顔を見ていたい、それは確かだった。

 だがそれは心底からの幸福感、愛を受けることによる笑顔である必要はなかったし、そうするつもりもなかった。したくともできない、と言う方が正しいのかもしれない。

 動機も手段も関係ない、ただ長谷部が笑っていれば、それで良かった。

 血と傷塗れの笑顔でも。

 

 がりがりと耳障りな音を立てながら、自分の右手首が少しずつ腕から切り離されていく。正気であれば気が狂いそうなその光景も、長谷部には—全くの正気で在り続けている彼には、無感情に受け止められていた。

 断面に目を遣れば、筋繊維の塊と二本の骨の端が覗いている。骨は汚い色をした骨髄をぼろぼろと零していた。そして全てが、真っ赤な血に浸って濡れていた。

 へし切でない、安っぽい鋸を使えば、たかが手首一つ切るのにも時間を要する。そのことは審神者も理解している筈なのに、敢えてへし切を床に放ったままでちゃちな鋸を振るっているようだった。

 肉の繊維が引っ張られ、千切られ、掻き回される。畳の上には幾つもの血溜まりが出来ている。ああ痛い、と長谷部は声に出さないように独り言ちた。痛くない訳がない。切れ味の悪い刃物で、何度も傷口をぐちゃぐちゃと痛めつけられながら身体の一部を切断されようとしているのだ。もっと必死に悲鳴を上げて、逃れようともがいたっておかしくないどころか、寧ろそう振舞うべきですらあるのだ。

 だがそうする気にはなれなかった。審神者は長谷部には目もくれず彼の肉と玩具を前に笑うことしきりで、長谷部が苦鳴を上げようが気絶しようが何も気に留めないであろうことが容易に想像できた。流石に逃げ出そうとすれば反応するだろうが、それも能動的な反応ではない。「嫌だった? なら止めようか」とだけ言って何の未練もない様子で片付けを始めるので、長谷部の方が焦ってどうぞ続けてください、と言い募るだけの話だった。どれもこれも、茶番に過ぎない。

 そして理由はそれだけではなかった。

「っぐ……」

 長谷部の呻き声と共にごとんと手首が落ちて、すぐに審神者が拾い上げた。興味深そうに眺め、はい、と長谷部の顔の傍に置く。断面から僅かずつ血を滴らせている腕の方を撫でて、審神者はしみじみと言った。

「不思議だと思うのはね」

 粘つく黒い血が手を汚す。

「手というのは、人間らしさ、と言うのかな、それが単なる物体ではなく人間の一部であることを明確に意識せしめてくれる。これが上腕や大腿の一部だったり、臓腑の一つであったりしたらそうは思わないのにね。無論、頭は言うまでもないけれども……。だから切り離された手や足というのは、あまり好きではないんだ」

「それで、手袋や靴下を?」

「良く分かったね」

 優しく笑い、審神者は長谷部の頭を撫でた。腕と頭とを一緒に撫でられて、長谷部は何処か気恥ずかしくなった。どうして、と自分が呟く。

「君から切り離したところでどれも長谷部君であってただの人間やその肉ではない筈なのに、何故手や頭や足だけは違うように感じられるんだろうね? これを切断する前と同じように愛せないのは、君への愛が不十分で未完成なものだからなのかな」

「……」

 長谷部は黙っていた。楽しいだの悲しいだのも分からない自分が愛を語ろうなど可笑しなことだ。長谷部には、ただ審神者が行使する愛とやらを信じて従うしかなかった。言葉も表情も行動も、何もかもを審神者の求めるがままに繕った。今更自らの意思など持ち得る筈がない。全く可笑しなことだった。

 結局、長谷部には笑うことしかできなかった。喉が嗄れるほどの絶叫を、潰された手脚で這い摺っての逃走を、それだけは止めてくださいと足元に縋り付く懇願を、審神者は求めていない。どれだけ長谷部を虐げようが、陵辱しようが、それが愛だと宣う限り、長谷部は逃げも泣き叫びもしなかった。

 作ったような綺麗な笑みを浮かべる長谷部に、取り乱しかけた審神者も落ち着きを取り戻したようだった。深い息を吐き、頭を掻いて、

「少し不思議に思っただけなんだよ」

と言った。髪は長谷部の血で絡まり汚れてしまっていた。

「はい」

 へし切を取り、鞘から抜いて振り下ろす。左の手首が飛んだ。

「長谷部君」

 右足、左足。左腕。左耳。右頬。頸。右腕。大腿と胴は突き立てるような一太刀では断ち切れず、深い傷ばかりが増えていく。血の海の中、切り刻まれた長谷部は僅かに顔を歪め、肉の色をしていた。

「笑ってくれないか」

 酷く哀しそうな顔で審神者は言った。散らばった肉の中、長谷部だけを見て。

「笑って」

 ぎこちなく微笑んで、それを見て奇妙に歪む審神者の表情に長谷部はふとした衝動に駆られ、そしてそれを抑え切れなかった。

「幸せですか、主」

 最早幸せなど解り得ない自分が、そんなことを問うのは馬鹿馬鹿しいことぐらい、分かっていながら。

 ***

 

 異性愛はおろか、同性愛も両性愛も、凡そ性愛と名の付くもの全ては穢らわしいのだと、目の前の審神者は呪詛のように語り続けている。長谷部が何度も聞かされてきた話題で、つい先日も一演説打たれたばかりだった。

 いつだったか、性欲は生物の第一にして唯一の目的を果たす為に必要なものではないのかと疑問を呈した結果、長谷部は上半身と下半身に千切れて分たれるまで切り刻まれた。何が逆鱗に触れたのか見当も付かないほど稚(おさな)くはない。

 額面通りに受け取れば、審神者は自分のそれと異なる嗜好を—性的欲求に基づいた嗜好の全てを軽蔑しているようだった。だからそれを何度も言い聞かせ、長谷部が性愛に基づいた行為について実行に移すどころか、言葉で触れたり、果てはそもそもそれを知ることすら厳しく禁じていたのだろうと長谷部は考えていた。

 何もかも分からなかった、顕現したばかりの時の自分ではない。学ぶ先はただ一人の人間である審神者しか居なかったが、学ぶ為の言葉や行動は多かった。

 腹の中身を撒いて血塗れで壁に凭れかかっている長谷部がじっと自分を見つめていることに気付き、審神者はふと口を噤んだ。

「どうしたのかな」

「……」

 言ってしまうのは簡単だった。自分が行き着いた結論を突き付けて、如何ですかと尋ねれば良いのだ。言ってしまおうか。言って。腹の中は酷く濡れて暖かい。小さく動かした指先に赤い液体が触れる。……言ってしまおう。

「……主は、どうしていつもそう仰るのかと思っていましたが」

「え?」

「初めはやはり多勢を憎んでいるのだと思ったのです。唾棄すべき行為に手を染め続け誰も主の主義を認めない、そんな連中を。初めはそう思っていましたが」

「……何を」

「違う、主は認められないだけでなく謗られ、嘲られていたから自分から他を捨てたと信じたくてそう仰っているのではないかと思いました」

「……」

「多数の中にあってはどうしようもなく孤独で、其処から抜け出す手段は自分が上か下か――異なる平面へ行ってしまうことだった。主が選んだのは全てを蔑む上でこそありましたが、心はずっと、誰からも――或いは御自分からすらも見下される、そんな底の場所にあった。俺はずっと気付けませんでしたが」

 審神者は茫然として長谷部の言葉を聞いていた。目の前のこれは一体誰なのか、という表情をして。

「俺が何も知らないままでいられるとは限らない、だからこそ先回りをして同じ場所へ連れて行ってしまおうと考えられていたのですか? ……せめて事情を説明された上でのことなら、と思いもしますが、きっと主にはそれも怖かったのではないかと思うんです。俺すらも皆と同じ側に回ってしまったらと。今でも完全には信頼されていないから、こうして……」

 それ以上は胸倉を掴まれたので話せなかった。

「……五月蝿い」

 声の震えを抑えきれないまま審神者が言う。

「いつからそんなお喋りになった? 普段はずっと押し黙っているくせに」

「ずっと、考えてはいました。口にしなかっただけで」

「それで私を内心で嘲笑っていたのか、それは良い」

 滅茶苦茶な理屈で審神者は言う。手を離し、ふらふらと立ち上がって長谷部から距離を取る。長谷部はいっそ哀れに思っていた。元々人間というのは彼とは異なる生き物で、言ってしまえば脆く不完全だ。目の前の人は、特に。

「俺は、……貴方の近侍ですから。ずっと理解しようとしていたんです」

「理解? 君が? そんな必要何処にもない」

「俺が主のことを解りたかったんです」

「五月蝿い」

 嘘吐きめ、と言って何かが飛んで来る。長谷部の額にがつんと当たったそれはへし切の鞘で、すぐに赤く腫れ始める其処を無視して長谷部はまた口を開く。

「俺には主しか居ないから理解したかったのだと言ってはいけませんか」

 五月蝿い、と叫んで今度はへし切が真っ直ぐに飛んで来る。流石に目を瞑った長谷部のすぐ隣の壁にがんと突き立ち、刀身が低く唸った。

「何故です、主。俺が居れば一人ではなくなります。心の中で嗤いもしませんよ」

 五月蝿い嘘吐きめ、黙れと叫ばれて、長谷部は一瞬怯んだが、謎の感情と義務感に駆り立てられて必死に言葉を続けた。

「どうしてですか、理解されたくな――

 

 目が覚めても天井は寝室のもののままだった。

 頭が酷く痺れていて、髄まで響くような痛みがあった。顔もあちこちが痛い。

 痛みに遅れて、曖昧な境界の上に揺蕩っていた意識がのろのろと浮上してきた。左目の視界はほとんど潰れている。身体は――先に切り刻まれていた腹の中以外は――特に傷付けられていない。これは長谷部にとって意外なことだった。審神者が我を忘れるほどに激昂すれば大抵の場合は長谷部を切り刻むのが常であったものだから、まさか四肢が満足に残っているとは思わなかったのだ。呼吸は少しし辛くて、長谷部は数度咳き込んだ。

 昏倒しないようそろそろと立ち上がり、長谷部は部屋を見渡した。誰も居ない。襖のところまで歩いて行ってそっと開ける。何故か安堵の溜息が漏れた。審神者は文机に突っ伏していた。

「……起きたのか」

 伏したまま長谷部の気配を察して審神者は言う。長谷部は戸を閉めながら「はい」と答え、中身が零れないかがふと心配になって自分の腹を見た。

「部屋に戻ってろ」

「ですが、まだ傷が……」

 確率は低いとは言え、此処から自室へ戻る間に誰かに出くわさないとも限らない。戦で負ったのでもない傷口を開けて歩いていれば、間違いなく騒ぎになる。審神者の為にそれは避けたかった。

 それを審神者も分かっている筈なのに、返ってきた言葉は「退がれ」だった。

「主、ですが、それは不味いかと」

「君は棄てられたいのか」

「は……?」

 表情は見えないが、長谷部には審神者が口の端を上げて皮肉気に片笑んでいるのが分かっていた。決して愉快がってはいない時の表情だと。

「今の私には君すら酷く憎いんだよ。それも無くなる前に此処から消えてくれないか」

 或いは心を傷付ける為の言葉ですらあったそれを長谷部は何度か反芻し、泣きそうな顔で微笑んだ。――自分はこれを知っている。否、主に喚ばれるずっと前から知っていたのだ。

「……俺は部屋に居ります。主、……ありがとうございます」

 

 自室に入り、自覚のなかった疲労が押し寄せて布団も敷かず横たわる。このままでは布団が汚れてしまうから仕方ない。ああでも、畳に血と肉が零れてしまった。……腹から溢れた赤に向けていた目を離し、長谷部は仰向けになった。

 嘗て審神者が長谷部のことを暫くの間軽蔑の目で見ていた理由も、審神者の繰り返しの言葉の意味も、その奥に隠された複雑なようで単純な本心も、長谷部はもう理解していた。人間の思考は時として予測できない飛躍を見せることもあるが、基本的にはオンかオフで組み立てられた論理的なものだ。長谷部にとって理解は容易かった。

 今のも、そうだ。愛は時に行き過ぎて時に裏返り憎悪になることすら長谷部は知っていた。審神者はその点に於いて比較的危うい。だからこそ余計に、献身的な態度を見せ続けることが重要だろうと長谷部は判断し、実行していた。人間でない身には造作もないことだと感じながら。

 ――そして、愛の反対は憎悪ではない。それを態々告げることをした審神者の態度の意味も長谷部は分かっていたが、その理由だけは分からなかった。後はそれさえ分かれば主にとって非の打ち所がない忠臣で在れるのに、と望みながらも、最後の砦であるかのようにそれは—人間の感情は—理解されることを阻んでいた。

 忍ばせた足音が聞こえてくる。迎えに来てもらえたことに気が抜けて瞼が下りる。

 一人が怖いのは自分の方だ。俺の代わりは居るが主の代わりは居ない。それなのに、俺は主を傷付けようとすらした。何故かも分からないままに。

 謝ろう、長谷部はそう思った。打算的な、感情の真似事しかできない紛い物の自分が悲しくなり、涙が一筋だけ零れた。主のことを理解しようとしなければ、どうして自分は人間でないのだろう、なんて思い煩うこともきっとなかったのに。

 音もなく、戸が開いた。

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