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短篇集8

 君は神を信じるか、と尋ねられたことがあった。

 俺の服装は、神に仕える者のそれに似ているのだそうだ。だが、別に俺は信心深い訳ではない。

 答えを返すべく、俺は口を開いた。

 

 今夜はいつにも増して血生臭かった。畳には引き摺ったような赤い痕が伸び、その先には長谷部がいた。

 両脚を腿から切断され、腕だけの力で這うようにして、長谷部は漸く審神者の元へ辿り着いたところだった。畳に擦り付けられた切断面は肉が千切れかけていたが、痛みは意識の埒外にあった。

「良くできたね」

 審神者にゆっくりと頭を撫でられ、長谷部はそれだけで泣きそうだった。部屋が薄暗いので、火照る頬も俯いた体勢では見え辛いであろうことが救いだった。

 そのまま長谷部の脚へと手を伸ばし、審神者は熟れた肉に触れた。ぐちゃぐちゃと響く濡れた音に、審神者の喜色は深まっていく。

「うぅ……あ、」

 果実のように割れた肉へ血が滲み、長谷部は苦鳴を上げた。失われた筈の脚がずきずきと痛む。しかし審神者がこれ以上を求めていることは明らかだったので、歯を食い縛って耐えていた。

 カソックの上から粘着質な手付きで腕を撫で、審神者は低く囁いた。

「こっちも良いかな」

「あ、は、い」

「今日は、綺麗に切り揃えようね」

 そういえば、と長谷部は朦朧とする頭で考えた。――普段は左右ばらばらの長さで四肢を切断することを好む審神者が、今日は左右均等に、それも比較的胴の関節部に近いところで切り落としていた。

 審神者は血と脂肪でべたべたになった手を拭き、へし切を手に取って、長谷部の右上腕に当てた。一息に押し切られ、呻き声と共に血が溢れ出す。ごとん、と腕が落ちた。

「う、ぐ……」

「……ああ」

 零れた血が花のような模様を描いている。審神者は身を震わせ、そのまま左腕も切り落とした。支えを失い、長谷部は床へ倒れ込んだ。

 目の前に落ちている自分の両腕と、その周りに広がる血溜まりに頭がくらくらした。生臭い、金属のような独特の臭いが鼻に付いて、気が付くと長谷部は舌を伸ばしていた。しかし、

「長谷部君?」

 咎めるような声と視線に、慌てて舌を引っ込めた。

「君には相応しくないよ、そんなこと」

 審神者は落ちていた長谷部の両腕を優しく拾い上げ、部屋の隅に置いていた長い脚の傍にそっと並べて置いた。そのまま数歩歩き、長谷部の方を向くと、

「此処までおいで」

とにっこり笑って言った。

 距離にしてしまえば数歩だが、今や四肢を失った長谷部にとっては気の遠くなるような距離だった。――それでも、審神者が待っていた。待っていて、長谷部を抱き締める為に両腕を広げているのだから、血を吐いてでも辿り着かねばならないのだ。

 ほとんど残っていない腕を畳に擦り付けるようにして、長谷部はずりずりと這って動いた。醜い突起のような肉が引き裂かれ、のたくった赤い痕を残し、痺れるような痛みに長谷部は顔を顰めた。腕も脚も、断端は酷い有様だった。

 少しずつ、長谷部は審神者へ近付いていった。初めは醜い芋虫のような己の姿に羞恥を覚えもしたが、審神者が己を見る表情に、そんな感情は吹き飛んでしまった。

 ――こんな姿になっても尚、主は俺を棄てるどころか、手放さまいとしてくださっている。

 早く、早くと犬のように喘ぎながら長谷部は這い摺った。何度も審神者を呼びながら赤黒い線を伸ばし、断面の肉をぼろぼろにして、そして漸く審神者の腕の中に収まった。

「主」

 肩から生えた小さな肉の塊が揺れる。何かを訴えかけているかのようなそれを審神者は寵愛の目で見遣り、再び長谷部の頭を撫でた。血に汚れた髪がごわついていることに長谷部はその時初めて気付き、また恥ずかしくなった。

 審神者はその心情を無言で察し、固まった髪の束を少しずつ解(ほぐ)すようにして酷く丁寧に梳いてやった。やがて煤色が淀みなく流れるようになったのを確かめ、審神者は短く息を吐いた。

 長谷部の左目に添えられた審神者の手を、ぱさ、と落ちた髪が叩いた。手はとても熱かった。

「長谷部君」

 捕食者の目だった。

「君は、私を恨むかい」

「え、いい、え」

 長谷部は無い腕で縋り付くようにしながら必死に言った。身を灼き滅ぼすほどの苦痛とて、愛の—或いは執着の証だと知っていた。

 腕だったものを懸命にばたつかせる長谷部を審神者は見ず、ただその瞳の藤色ばかりを凝視していた。感情の結晶たる、透き通ったそれを。

「っあ、あがっ、……」

 衝撃に思わず暴れ、仰け反った拍子にバランスを崩し、長谷部は畳に転がった。眼窩から千切れかけた血管と神経とでぶら下がった眼球が頼りなく揺れ、ぱたぱたと暗血を零した。痛みにもがく暇もなく右眼も取り出されて切り取られ、長谷部は突然暗闇に一人放り出された。

「あ、主、ある……」

 声すらもぶつん、と途切れてしまった。己の耳の辺りを何かが貪る感覚と、石が擦り合わされているような硬質の振動とに、長谷部は何も見えず聞こえなくなって気も狂わんばかりになりながらも、鼓膜とその周辺の構造をまとめて破壊されたのだと理解した。

 真っ暗だった。その上無音だった。

 焦燥感のままに審神者を求めて手を彷徨わせようとして、既に其処も失われていたことを思い出し、長谷部は絶望した。

 もしかして、先の言葉は前払いの謝罪だったのではないかという考えがふいに浮かび、戦慄が長谷部の身を貫いた。審神者を追うことのないように芋虫のような姿にしておいて棄てる為なのではないかと恐れ、必死に手脚を動かそうとしていると、不意に舌を掴まれた。

 そのまま舌を引っ張られ、長谷部の頬と喉が引き攣った。何が起きているのか見えない上に聞こえない。怖くて涙すら出そうだった。

「長谷部君」

 呼びかけてから、ああもう聞こえないんだった、と審神者は一人頭を掻いていた。仰向けにひっくり返った長谷部は鰭(ひれ)のような手脚をぱたつかせ、青褪めた顔で「主、主」と呼び続けている。掴まれ、乾き始めた舌では上手く話せないようだが、怯えに駆られて何度も何度も審神者を呼んでいた。

 審神者はそんな長谷部を見て緩く微笑み、手にしていた刃物でその舌をやすやすと切り裂いた。口腔にはあっという間に血が溢れてグラスワインのようになり、憐れな叫び声はごぼごぼと泡になって消えた。溺れないように長谷部の身体をうつ伏せに返してやり、切り取ったばかりの柔らかい舌を食べながら、審神者は長谷部の頭を割った。

 鈍い音を響かせながら数度叩き割り、とうとう弱々しい薄桃色の大脳がはみ出した。畳の上へ零れ落ち、僅かに震えるそれの横で、長谷部は力なく呻いていた。時折もぞもぞと手脚の成れの果てを蠢かせ、意味のない音を口から漏らし、頭蓋の割れ目から脳を零し、しかも彼は、無音の暗闇の中に置き去りにされているのだった。

 少し離れた場所で、手の中の舌を食べ終わるまで、審神者はそんな長谷部の様子をじっと眺めていた。ああ、あう、と呻きながら、審神者を探しているのか手脚を闇雲に動かし、落ちた脳が身体で磨り潰される度にびくりと身を強張らせる。可愛いことこの上なかった。

 嚥下が終わり、手と口を拭ってから審神者は長谷部の傍へ寄って行った。血や脳漿で濡れた頬にそっと触れると、一瞬だけ身を竦めた後で胸が痛むような表情をして取り縋ってくる。

「あ、うぅ、あ」

「うん」

 あ、聞こえてないんだった、と再度呟き、審神者は随分と軽くなった長谷部を抱え上げた。赤子を抱くように両腕で包んでやると、胸の辺りに頭を押し付けてくる。シャツがじわじわと生温くなった。余程心細かったのか、それても、他の感情か。

 審神者はゆっくりと長谷部の背を撫でた。長谷部が必死に自分を求め、縋り付いている。

 まだ味覚も嗅覚も触覚も残っている。胸と腹の中の臓器も、性器も、頭も残っている。心も。

 何もかもを奪ったら、彼はどうするのだろう。

 

 目を覚ました長谷部は勢いよく布団を跳ね上げ、そのまま傍に座っていた審神者へとしがみついた。

 審神者がやんわりと引き剥がすより先に長谷部は正気に戻り、平謝りしながら俯いた。手を開いては握り、握っては開いた。

「謝らなくて良いよ。君が可愛くて、やりすぎてしまった」

「いえ……俺は……」

「君でも、縋り付いてくれるんだね」

 長谷部ははたと動きを止めた。覗き込んでいるような声の調子だった。

 見えないのも聞こえないのも、途方もなく怖かった。それに加えて手脚は失(な)く血を大量に流した所為で酷く寒くて、……その状況を作り出したのは他でもない審神者であったのに、長谷部は縋らずにはいられなかった。

「長谷部君が私を――私の存在を求めてくれて、嬉しかったと言いたかったのだけど」

「……俺は」

 長谷部は小さく布団を握り締めた。

「主が、俺を棄てられるおつもりなのではないかと、……一瞬でも、思ってしまったことが……」

「私がやったのに?」

 手と脚を、それから眼と耳を、そして脳を奪ったのは審神者なのに、それでも長谷部は、一瞬間恐れを抱きながらも、主は絶対に俺を手放さないと分かっていた。

「……」

 しかしそれを口にはできなかった。自負心とはまた異なる場所にある確信は、一種傲慢ですらあった。

「長谷部君」

「はい」

「もし、私が君の四肢も五感も、臓腑も、何もかもを奪ったら、君はどうするのかな」

「……」

 長谷部が顔をあげると、審神者と目が合った。先までの闇よりもずっと昏い色をしていた。

「……俺は」

「うん」

「それでも、主を信じます」

 審神者は皮肉気に嗤った。

 

 ――神など信じていなかった。主もそうであるらしい、というのが理由ではない。

 ただ俺は神を知らないだけだ。その姿貌も、奇跡も、傲慢さも。

 だが――それが〝信仰を向けられるべき対象〟として定義されるものであるならば、俺はそれに当て嵌まる人を一人知っていたし、信じもした。

 それだけだ。

 

 ***

 二人の関係は恋人という訳ではなかった。

 かと言ってただの主従でもない。間にある感情に名前を付けられるほど、長谷部は人間に詳しくも慣れてもいなかった。

 審神者の特別な存在になってまだ日は浅く、長谷部は無意識に確信を求めていた。言葉でも行動でも構わないから、他でもない、自分だけを審神者は特別に思っているのだという証拠が欲しかった。

 それは折檻とは異なる虐待や愛寵の言葉ではない、もっと穏やかなものだった。長谷部が嘗て与えられたことのない、そして今後も知ることのないであろうものだった。

 考え、長谷部が思い付いたのは、恋人同士が交わすような他愛のない悪戯だった。

「主」

「うん?」

 夜、審神者は珍しく寝室ではなく執務室で過ごしていた。手ずから淹れた茶を飲み、長谷部にも一杯勧めていた。

 ことりと置かれた湯呑の中で萌黄色の茶が揺れた。不安と期待が入り混じった長谷部の顔が映っている。

「……あの、もしも、の話ですが」

「うん」

「俺以外の奴が、主に懸想していたら、どうされますか」

「誰だろうが長谷部君でなければどうでもいいよ」

 即答だった。長谷部は小躍りする心に頬が緩みそうになるのを押し留め、もっと強い実感が欲しい、と口を開いた。

「で、では、主」

「うん? 今日は良く喋るね」

「あ、申し訳ありません……」

「いや、別に怒ってはいないよ。それで?」

「あの……」

 照れ臭く、長谷部は伏し目がちに言った。

「俺が、主以外の奴に懸想されたら……」

「誰」

「え?」

 湯呑が落ち、審神者の腿が盛大に濡れた。火傷でもしたのではと長谷部は焦ったが、審神者本人は全く気にも留めていない。先程までの穏やかな空気は一瞬で霧散していた。

「だから、君に好意を寄せているのは誰」

「あ、主……」

「言えないのか? もしかして君も其奴のことを憎からず思っているんじゃないだろうね? 何れにせよ君が穢れる前に刀解してくるから、早く誰なのか教えるんだよ、ほら、早く!」

「主、ちが、違うんです、もしもの話で……」

 詰め寄られ、長谷部はほとんど涙目になって答えた。長谷部の言葉に審神者はぼんやりと宙を見つめていたが、ややあってゆっくりと視線を下ろした。

 焦点の合わない目というものを、長谷部は初めて見た。

「それが仮定の話でなくならない保証が何処にある? 君までがその誰かを好きに――好きになって、私から離れていくようなことが起きない保証なんかない。大体、君が私を見放す理由こそあれ、私の傍に居る理由だって一つもない。そうだろう? ……君を繋いでおくにはどうしたら良いんだろうね。君が私以外を見ないように目を潰して、私以外の声を聞かないように耳を壊して、ああでも声が聞けなくなるのは哀しいから喉は残しておくとして、後は自由に動けないように手脚を潰してしまえば私の元からは逃げられなくなるのだろうが、……心はどうすれば良い? 君が私だけを見て、私を……」

 それ以降はぶつぶつと呟くのみになったので長谷部には聞き取れなかった。長谷部が何を言うべきか分かりかねておろおろしていると、不意に審神者が立ち上がり、へし切を手に取った。

「……主?」

「長谷部君」

 どす、と腿を貫かれ、長谷部は身を折って苦痛に呻いた。乱暴に肩を押され、仰向けに転がされると次々に刃を突き立てられた。

「ぎっ、あ、っぐ、ある、う、あるじ、主」

 声は無視された。四肢を滅多刺しにされ、初めは堪えていた長谷部も、やがて咽び泣きながら許しを乞い始めた。

「主、あ、が、ごめ、ごめんなさい、主、主、う、っぎぃ、ゆるして、許してください」

 審神者は尚も長谷部を無視してへし切を振り下ろし続けた。全身に浴びた返り血も無言だった。

 長谷部が恐る恐る自分の腕を見ると、至る所で生々しい色をした肉が剥き出しになり、更には骨が覗いている場所すらあった。辺りは—執務室は血の海だった。

「は、……あ、主……申し訳、ありません、主……」

 聞いてか聞かずか審神者は手を止め、長谷部でない何かを見つめながらまたぶつぶつと独り言を繰り返していた。

「……他の誰かを、……好意? きっとそうだ、……を見ていたし、……とは会話をしていた。私以外と、私以外を知ったら……」

 逃げるなら、今だった。腕も脚もほとんど千切れかけていて用を成さなかったが、何とか這って行って、部屋の外へ出るぐらいはできる筈だった。泣き叫んだ所為でまだ呼吸が苦しかったが、そうも言っていられない。今此処で逃げなければ、逃げなければ――

「殺すしかないか」

 ――殺されるのに、動けなかった。

 かちゃりと音を鳴らして、審神者はへし切を握り直した。

「長谷部君」

 手を突こうとして、ぬるついた体液に滑り、長谷部は審神者を見上げるような体勢になった。手が震え、何度も床を滑った。

(――俺が)

 長谷部の鼻の奥がつんと熱くなった。

(俺が、望んだのは、こんなことでは……)

 救いを求めるように見上げた長谷部と審神者は漸く目が合った。見慣れた異様なまでの黒に映るのは、情けないほどに怯えた自分の顔だった。

 長谷部のそんな表情を暫くの間眺め、そして審神者はへし切を収めた。

「……主?」

 怖々声を掛けた長谷部へ審神者が向けたのは、微笑に悲哀やその他幾つもの感情が混ざり合った複雑な表情だった。

「やめた」

「あの……」

「君を殺してどうなる? 確かに私以外の方を向くことはなくなるが、私のことだって永遠に見ないだけじゃないか。君の死体も可愛いに決まっているが、生きていなければ虚しいだけだ」

「……主」

 無理矢理に動かそうとした左腕が千切れ、長谷部は押し殺した悲鳴を上げた。空気に晒された骨が焼けるように痛かった。

「……だが、君が私以外を好きになったら、私以外が君を好きになったら、どうしたら良い? 君のことを思えば、身を引くべきなんだろう。分かっているよ、分かっているが、君を放したくない……。君がいないと、私は……」

「っ、主、俺は」

「だけど、長谷部君、そういう状況になったら、すぐ私に教えてくれないか」

「……はい」

「君が穢される前に、其奴を殺しに行くから」

「は、い?」

 硬直した長谷部に、審神者はにっこりと笑った。長谷部の血に染まったままの笑顔は不気味に歪んでいた。

「冗談だよ」

「あ、はい……」

「君以外を傷付けたり況して殺したりする訳がないだろう。私がそうしたいのは、君を愛しているからなんだよ」

 審神者は幾分落ち着いたらしく、その言葉もそれほど支離滅裂ではなくなっていた。勇気を振り絞り、長谷部は〝もしも〟ではない問いを投げかけた。

「主」

「ん?」

「主が、俺に抱いている感情の名を、教えてくださいませんか」

「それは勿論、愛だよ」

「……」

 初めから、こうしていれば良かったのだ。意識に上り始めた激痛の中、長谷部は後悔に――知らずにいた方が二人共に幸せだったであろうことを知ってしまった、その後悔に――苛まれていた。

 それに多分、二人を繋ぎ、同時に隔てている感情は愛ではないことに、長谷部は薄々勘付いていた。

 しかしその感情を、二人の関係を知る頃には、とうに長谷部すらもそれに呑み込まれ、そしてそのことに気付きもしないまま、ただひたすらに愛されるだけの――多くを失った存在になっていることなど知る由もなかった。

 ***

 

 

「あの、主」

「ん?」

「腹を壊されはしませんか」

 思わず手を止め、何て暢気なことだ、と審神者は半ば呆れて長谷部を見た。長谷部は身体のあちらこちらを切り取られ、食べ残しのようになって横たわっていた。

 切り取られた肉は生々しく重い桃色で、審神者の手の中で血を滴らせている。これでも、普段の食事の光景としては比較的綺麗な方なのだった。部屋中が――それこそ壁から天井まで血塗れになって、その中で長谷部は肉片と形容した方が適当な姿になっていることも珍しくなかった。

「今更何故そんなことを」

「何故、と言われましても……」

「これを逃れる為の方便かな」

「違います」

 長谷部は慌てて訂正したが、審神者の口調はゆったりしたものだった。機嫌の悪い時や腹を立てた時は饒舌になる性格であることを、長谷部は幸か不幸か知っていた。そのことを自分に言い聞かせ、今度は落ち着いて言葉を紡いだ。

「生のままの肉は、胃腸に良くないと聞いたので」

「うん……それで?」

「火を通されてからでは、御不満ですか」

「君に?」

「はい」

 正確にはその肉に、だったが、長谷部は口を噤んで審神者の言葉を待っていた。審神者は気怠げに背を丸め、手を伸ばして長谷部の身体を—刃を入れられて肉が露出したところを—弄り始めた。ぐちゅぐちゅと音を立てて肉が抉られ血が滲む。呻き声を押し殺そうと、長谷部はこれも肉を削がれていた腕を口に押し当てた。

「……はあ」

「……」

「それなら、君を焼いても構わないということ?」

「主が、望まれるのでしたら」

「ああそう」

 のろのろと立ち上がり、審神者は自分の机から小さな器具を持って来た。軽く捻ると眩い橙色をした火が現れる。

「……火刑は」

 何処か虚ろにその火を見つめながら、審神者は気乗りしない様子で話す。

「煙ばかりでなかなか死ねず、非常に苦しいものだと聞くけれど」

「火刑……?」

「焼いても良いと言ったじゃないか」

「え、そ、それは、そうですが……食肉の焼き方では……」

「食肉、そうだね」

 長谷部がその言葉を口にしたことが愉快だったらしく、審神者は億劫そうに笑って続けた。火を消し、掌中の小さな玩具をくるくると弄ぶ。

「あの、主」

「何?」

「俺、何か間違ったことを申し上げましたか……?」

「いいや、別に」

 頬杖を突き、審神者は口元を覆い隠した。手にこびり付いた血液は乾き始めていて、黒っぽい欠片がぼろぼろと床に落ちた。

「庭へ出ようか? 此処で焼く訳にもいかない」

「あ……あの……」

 目を泳がせる長谷部へ、審神者は深い溜息を吐いた。相変わらず怠そうに、そして長谷部に言い聞かせるように重い口調で言った。

「出来ないなら、口を出すものじゃないよ。嫌なら嫌と言えば君にはもう何もしないんだから、遠回しな言い方は止めてくれるかな」

「主、違うんです、あの……」

「違う? なら火を点けても構わないと」

「いえ、そうでなくて、俺……」

 審神者は仏頂面で長谷部の言葉を聞いていたが、身を起こし、泣きそうに口籠る長谷部を見ているうちに少しだけ表情を緩め、ひらひらと手を振った。その所作の意味を理解できないらしい長谷部がますます眉を下げると、もう一度溜息を吐いた。今度のそれは僅かに軽かった。

「ただ私の身を案じてのことだったと言えば済む話だろうに」

「……はい」

 ふうと息を吐いて瞑目し、審神者は何かを考えている様子だったが、やがて目を開くと長谷部の肉を一つだけ削いだ。真新しい血がひたひたと滴って、錆びた甘い匂いに審神者は目を細めた。そしてそのまま手に持った肉を長谷部の口へぐいと押し付け、無理矢理に食べさせようとしたが、長谷部は審神者のような嗜好は持ち合わせていないので当然その感触も臭いも気味が悪いものでしかなく、しかもその肉は他でもない自分なのだから堪らなかった。

「っう、げ、うえ……」

「おや」

 長谷部の口から溢れ出したものは、まだかろうじて判別が付いた。審神者の隣で共に摂った夕食を吐き戻してしまったことは、長谷部の心を酷く傷付けた。顕現してまだ日が浅い長谷部の心は、整いすぎているようにも思える冷然とした外見から予想されるものに反し、依然柔らかいままだった。

「……はぁ、っ……う……」

「ああ、やりすぎたか……悪かったよ、長谷部君」

 長谷部の涙を拭ってやり、嘔吐物の上に自分の上着を掛けて隠してしまってから、審神者は長谷部の頭を撫でた。いつ触れても、洗って乾かしたばかりのようにさらさらと指の間から逃げて行く髪だった。啜り泣く長谷部を、小さな子供を宥めるようにあやし、審神者はぽつぽつと零した。

「腹を壊したりなどしないよ」

「……」

「君のことを、ただの食肉だと思っている訳じゃない」

「……そう、ですか」

「うん」

 其処まで話したところで、何故か審神者は悲痛な顔をして口を噤んだ。長谷部がどうしたのかと問う暇もなく、審神者は嘔吐物に塗れて落ちていた肉に目を遣り、手を伸ばしては躊躇った。

「流石にこれでは、食べられないな」

「……すみません、主」

「責めてはいないよ」

 切っても良いかと尋ねられ、長谷部は首肯した。審神者は彼の大腿から肉を小さく削ぎ、そのまま口へ運んだ。これ以上ないほど柔らかく、甘く、満たされるのは腹ではなく胸だった。その事実が罪悪感を呼び、言い訳するように長谷部へ言った。

「これも、肉なんかじゃない」

「……?」

「これも長谷部君なんだ、ただの筋肉やタンパク質なんだと言うのは違う……君だから、食べたいんだ」

「……はい」

「いや……理解できないよな、良いんだ、それで」

 長谷部は何も答えられなかった。何だか主はころころと気分が変わっていられるようだ、とぼんやり考えていた。

「嫌なら嫌と言ってくれないか」

「いいえ、俺は構いません、主」

「……そう、か」

 審神者は喜ぶと思ったのに、長谷部の予想に反して苦しそうな顔をしただけだった。

「もっと召し上がりますか、主」

「……」

 無言で手を伸ばす審神者に、もしかしたら、先の行動も俺を単なる肉だと思ってはいないことの証左だったのかもしれないと思ったが、長谷部にそれを確かめる術などなかった。

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