Sausage Factory
短篇集7
審神者の手に握られたスプーンは綺麗な銀色に光っていた。磨いたのは長谷部だ。
下腹部が疼くのを感じながら、審神者は口の端をわずかに持ち上げて言った。
「こんな簡単なことに気付かなかったなんてね」
「……」
長谷部は無言だった。彼の主が持って回った言い方をするのは今に始まったことではない。
床には糸鋸が置いてあったが、長谷部は強いてそれを目に入れないようにしていた。この部屋にあまり良い思い出がないのは言うまでもないことだったが、その中でも鋸というのは最悪の部類だった。
布団の上に座している長谷部に近付いて膝を突き、審神者は彼の髪を梳いた。煤色の下の肌を検分するような手の動きに、長谷部は背に冷水を浴びせられた気分だった。形を、硬さを、中身を確かめられている。
審神者は長谷部の頭頂から耳の上をすっと撫でながら、
「こう開くとね」
と言った。
「はい」
少し怯えて長谷部は答える。
「あまり見た目が綺麗じゃない」
「……はい」
笑みを絶やさないまま審神者はスプーンを置いて鋸を取り、長谷部の後頭部に当てた。刃に当たる髪を掻き上げ、ゆっくりと手を往復させる。ずり、ずりと音がして、暗い血が滲んできた。
暫く切り続けていると何かを通り抜けた感覚があり、続けて薄い膜のようなものを切り裂いた。滲んだ血に、鋸の細い刃が滑りそうになる気配がする。
長谷部は、寝所でも頭にはあまり触れられたことがなかった。時折眼や舌を捥ぎ取られる程度で、頭蓋にまで触れられようとしているのは初めての経験だった。
脳髄へ直接叩き込まれるような振動は決して心地の良いものではなかった。石を擦り合わせたような硬質の音が響き、骨を通して伝わってくる。
「主……」
「うん」
「少し、気分が……」
「止めようか」
一瞬だけ逡巡し、いいえ、と長谷部は首を横に振った。
「もし吐いたら、申し訳ないですが」
「ああ、それは気にしなくて良い」
その言葉を区切りに審神者は止めていた手を再度動かし始め、暫くの間せっせと頭蓋骨を切ろうと頑張っていたが、ふいに手をだらんと下げて息を吐いた。
頭蓋骨はそれなりの厚みを持つ上、一周全てを切ろうと思うとなかなか時間と体力を要するのだった。
普段嬉々として長谷部を甚振る様子を見ていると忘れてしまうが、審神者はごく平均的な人間であって、刀剣に憑いた付喪神を励起させられるという一点を除いて特に秀でたところがある訳でもない。だからこそ長谷部達刀剣男士がいるのだった。
「主」
長谷部は切り進められた後頭部を押さえながら言った。
「俺を使われますか」
「君は斬れ味が良すぎる」
それでは意味がない、と審神者は鋸を置いた。ぼやきながら背伸びをしたり肩を回したりして凝りを解し、鋸を再度手に取った。
長い長い時間をかけて、審神者は漸く長谷部の頭蓋骨を一周切り終わった。額には汗が光っている。煤色の髪には疎らに血が付いてごわごわと固くなっていた。
審神者はゆっくりと長谷部の髪を梳きながら、固まった髪の束を丁寧に解してやった。
「綺麗な髪が汚れてしまった」
「手入れすれば直ります」
「君はまた、そういうことを」
長谷部は何がおかしいのか分からず、僅かに首を傾げて見せた。手入れすれば全て治ってしまうからこそ、この行為があるのではないのか、と。
少しだけ唇を噛み、審神者は頭の切れ目を無理矢理開くようにして手を挿し入れた。軋む音がして脳が揺れる。長谷部はまた吐き気を覚えていた。
「ある、じ、一度に」
「やってしまった方が良いかい」
「はい」
「分かった」
審神者が腕に力を込めると、脳を覆う膜が千切れ、剥がされていく音が響く。骨と皮膚も一緒に頭から剥がされ、いよいよ長谷部は吐いた。
畳の上にばしゃりと溢れた漿液へ、どろどろした嘔吐物が降りかかった。口元を押さえる長谷部の頭から、透明な漿液がぽたぽたと零れ続けている。濁った臭いを、しかし審神者は気にも留めていなかった。
空気に晒された長谷部の頭の中では、濡れた薄桃色が頼りなく揺れていた。脳だった。
審神者はくすくすと含み笑いをしたが、あまりに嬉しそうな笑い方だったので長谷部は朦朧とする意識の中で目を見張った。嘘めいていない、心底からの笑いというのは珍しかった。どうやら力仕事で散々に疲れ、気分が高揚しているらしかった。
「これを見せられないのが残念だよ、長谷部君」
「はい」
「何て可愛らしいんだろうね、君の脳は!」
「……気分が悪くはありませんか、主」
長谷部は眉根を寄せていた。
「何故?」
「……その、臭い、が」
「ああ」
鼻をひくつかせ、審神者は相変わらず笑んだまま言った。
「臭いなどほとんどないよ。脳脊髄液というのが何で出来ているんだったかは忘れてしまったが、多分タンパク質とか糖とかその程度だろう。臭うようなものではないんじゃないか」
「……」
嘔吐物のことには触れなかった。何度繰り返しても長谷部は己の主の前で吐くというのは慣れなかったし、その話題に触れることも気不味かった。嘔吐物は薄められた黄色でだらしなく広がっている。
「一匙だけにするからね」
「はい」
スプーンを持ち、審神者は一匙だけ長谷部の脳を掬い取った。
「あ、が?!」
幾つもの記憶が、思考が弾け、熱が渦巻き、長谷部は一瞬、感情を、思考を言語化できなくなった。
涙が勝手に零れ、嗚咽のような声を漏らしている間、審神者は長谷部の脳を味わっていた。
掬った時の感触は豆腐に近かったが、豆腐よりもずっと舌触りが良く、脂っぽさがあった。何より長谷部の脳であるというだけで、非常に滑らかで甘く、全身が疼くようだった。
飲み込むと、長谷部の脳が――彼を彼たらしめている数万ものニューロンが—胃へ落ちていく。審神者は食べ物としては肉や内臓の方が好みだったが、脳を食べるというのは宗教的な意味を其処に求めるのであれば何より理想的な行為だった。勿論、審神者は神も宗教も信じていなかった。
一匙分の脳はすぐになくなってしまった。量にすれば僅かなものだったが、それでも審神者は満足していた。充足を感じていた。
そうして今宵は長谷部のことをあまりに愛おしく感じていたので、涎を垂らしながら痙攣している彼の傍に跪き、その脳に、審神者は直接口付けた。
***
柘榴の味に似ているなどと言われているが、全くもってそんなことはない。ただ、見た目に限って言えば、歯なら幾分似ているかもしれないね。血に塗れれば。
—審神者は目を細めてそう言った。柘榴の味も人肉の味も知らない長谷部の手の中で、飾り気のない工具が小刻みに揺れている。
毒のように身へ滲み込んだ「自分でできるかい」という言葉に、長谷部は呼吸すら忘れそうになっていた。一本だけで良い、と言われたが、その一本ですら長谷部が恐怖に呑み込まれるには十分すぎる。
長谷部が試しに指で触れてみた時、歯は少し揺すったぐらいではびくともしなかった。力を強めてみても同じことだった。だからこその工具だった。
これを使うと良い、と手渡されたペンチで、長谷部は己の犬歯を挟み掴んだ。微かな金属の臭いが鼻腔を突いた。
正座して大きく口を開けている長谷部の前で、審神者は目を輝かせて身を乗り出していた。長谷部は急かされている気分になり、まだ心の準備ができていなかったが無理矢理手に力を込めた。
がり、という音と共に、頭蓋へ直接響くような衝撃があった。思わず仰け反って口元を押さえ、手袋を唾液で濡らしながら震えている長谷部へ審神者が言った。
「やはり難しいかな」
長谷部は涙目で首を横に振り、もう一度ペンチを握り直した。
強引に力を込めて引っ張ると、歯肉が千切れて出血する感覚があった。怯みそうになる気持ちを叱咤して、長谷部はぐいぐいと引っ張り続けた。
身体が震えて仕方がなかった。戦場ですらこれほどみっともない姿を晒したことはなかった。長谷部にとって唯一の救いは、審神者の慈しむような表情の中、確かに喜悦が覗いていることだった。
強固にしがみ付いている歯根と上顎骨を膂力でとうとう引き剥がすと、一拍遅れて血が溢れ出した。
「ああっ、がっ……」
顎を伝う血を押さえようとするも手はぶるぶると震え続けているので、畳に零れて幾つも染みができた。長谷部は血溜まりの中に落ちていた犬歯を拾い上げ、息も荒く、それを両手で差し出した。
「……あ、主……で、でき、ました」
掌の上のそれは、ルビーのように紅く、輝いていた。審神者はにっこり笑い、それをそっと摘み上げ、
「上手にできたね」
と言った。その言葉だけで、長谷部は天にも昇る心地だった。歯を抜いたところは酷く痛み、血液と唾液が混じり合って溢れ続けていたが、主の期待に応えられたのだと思えば彼にとっては安いものだった。
「畳が」
緩みかけた頬がはた、と引き攣れた。
「汚れてしまったね」
畳の目の奥まで、長谷部の血で赤く染まっている。主の寝所を汚している、という意識は初めの数回でとうに吹き飛んでいた。それに、審神者からそのことに触れることも凡そなかったのだ。
「い、今、綺麗にします」
慌ててそう言った長谷部に、審神者は床を指し、短く言った。
「舐めてみようか?」
「は、」
「無理にとは言わないよ」
「い、いえ」
自分の血を口にするのが厭なのでも、床に這い蹲って其処を舐めるという行為に抵抗があるのでもない。他でもない主が望むのであれば、長谷部にとってそれは何の苦にもならない行為だった。
ただ、審神者自身は微笑みながら座って見ているだけで長谷部を味わおうともせず、ただ彼に彼を食させようとしていることに、長谷部は戸惑ったのだった。
ずりずりと後ずさり、平伏するような姿勢で長谷部は畳に舌を這わせた。ざらりとした青臭い藺草(いぐさ)の感触に、生々しい鉄臭さが混じる。吐くほどではないが、気分は悪かった。
「長谷部君」
名を呼ばれ、長谷部が不躾だと思いつつも上目で応えると、審神者はやはりにこにこと笑っていた。手を伸ばし、長谷部の煤色の髪をゆっくりと撫で、彼の姿を堪能したと言外に伝えている。
長谷部は抜歯の痛みも忘れて身を起こし、主、と呼びかけようとしたが、それより先に審神者が取り出したものに気が付いて言葉を失った。
「偶には君にやってもらうのも悪くはないね。……何て可愛いんだろう」
審神者は長谷部を仰向けにし、頬に添えた手で口を大きく開かせた。ひんやりとした硬質の感触が――金槌が歯茎に触れた。
「柘榴は果実一つにたくさんの種子が包まれているけれど、そのことに感謝したのは初めてだね。やはり自分でやらないと治まらない」
腕が振り上げられ、がん、と鈍い音がして、長谷部の脚が跳ねた。がん、がん、がん、と音がする度、長谷部は陸に揚げられた魚のようにびくびくと跳ねた。
「あ、あ、がっ、あ」
声は泡になり、口腔に出来た血の池の中でこぽこぽと弾けた。その中から、審神者は叩き折るように抜いた歯の一本一本を拾い上げ、真っ白な皿の上に並べていった。
呼吸ができなかった。血は長谷部の喉から気管までをも侵そうとしていた。
意識が暗む中、長谷部が必死で酸素を吸おうとした瞬間に臼歯を思い切り叩かれ、ごぶ、と泡を吐いて長谷部は溺れた。
死んではいなかった。布団の上で目を覚ますと、顎と頭が割れるように痛んだ。口の中はひび割れて生臭い。目元を押さえながら審神者の姿を探すと、すぐ傍で長谷部の歯を眺めていた。
紅玉のような輝きは既に失われていた。無論、柘榴の種皮のような瑞々しさもない。それでも審神者はそれを――一際尖った形をした一本を――じっと見つめ続けていた。
「主」
長谷部が声を出してみると酷く掠れていた。喉に何かが貼り付く感じがあって気持ち悪い。
審神者は長谷部を見、顔に笑みを浮かべると首を傾げながら言った。
「手入れしようか」
「はい」
しかし長谷部が答えても、審神者が動く気配はなかった。
「主?」
「痛かったろう」
自分で歯を抜いたことだった。
「……はい」
「頑張ったから、何か……褒美を、と思ったのだけど」
「いいえ、その御言葉だけで」
ぎこちなく首を振る長谷部に審神者はあっさり引き下がり、長谷部が立ち上がるのを待って襖を開けた。
二人が望んでいたことは同じだった。道具越しでの接触は味気なく、得られるのなら歯を抜くことでも何でも容易いと思っていた。
皿の上の、柘榴のような歯の粒は黒く変色していた。血はすっかり乾ききっていた。
***
下腹部の違和感に、長谷部はまだ慣れることができなかった。
「隊長?」
どうかしたのか、と訊きたげな様子で長曽祢が声を掛けた。
「何でもない」
首を振り、長谷部は刀を握り直した。夕焼けに染まる白壁の町の中、遡行軍がぬるりと這い出してくる。
一歩踏み出すと、布地が擦れて股間がじりじりと痛んだ。無視しようにもしきれない痛みに、長谷部は審神者の視線を思い出していた。
「やはり我慢できない」
と審神者は言った。いつになく苛々したその様子を内心で恐れつつ、長谷部は続く言葉をじっと待った。
審神者は長谷部の前で胡座をかいて自分の頭を掻き回し、乱れた髪の間から睨めつけるような視線を向け、唸るように言った。
「君は綺麗でなくては」
「……はい」
「分かってくれるかい、それなら話が早い」
胸元を乱暴に掻き毟った所為で、審神者の着衣も乱れていた。普段、その近侍と同じように隙なく着込まれている衣服が崩れていることが、今夜の異質さを象徴しているようだった。
下を脱いで、と命じられ、長谷部はカマーバンドの留め金に手を掛けた。スラックスと下着も脱ぎ去って、身に付けているのはシャツと靴下だけになる。心細さに生白い脚が小さく震えた。
「座って、脚を広げて」
長谷部が躊躇しつつも両膝を立てて広げると、突然審神者が逆上して捲し立て始めたので言葉を失った。
何とか聞き取ったところによると、その売女じみた格好を止めろ、と言っているらしかった。自分だってこんな姿勢は恥ずかしいとか、それでも命じられた通りにしただけではないかとか反論したくなる気持ちもないではなかったが、どうせ今の審神者は聞く耳を持っていない。へし切を抱えてぶつぶつ呟き続けている審神者の前で、長谷部はそっと膝を閉じて待っていた。
綺麗だの汚いだの、審神者の言うことは意味が分からないと思うことが多かった。長谷部はまだ、人の身体を得て日が浅かった。思考や感情どころか、身体の生理的な機能ですら持て余すような有様だった。
分からないなら分からないなりに審神者の言葉と行為を信じて付き従うしかなかった。たとえ自分は正しくない、罪深い人間だと執拗に言い聞かされても、その相手は長谷部にとってただ一人の人間であり、主であった。
幾分冷静さを取り戻したらしい審神者は長谷部の膝を押し開き、其処にあるものを見て顔を顰めた。
「穢らわしい」
長谷部も其処へと視線を落とした。髪と同じ煤色の下生えと、柔らかな肉の排泄器官――陰茎と、二つの陰嚢が並んでいる。
排泄をするから汚いのかと思い、長谷部は顔を上げて言った。
「きちんと毎日洗っていますよ、主」
審神者は目を瞬かせ、少しだけ考えた後で口元を歪めた。
「そうか、君は知らないのか」
「?」
「いや」
審神者が鯉口を切ると澄んだ音が響いた。すらりと抜き出されるへし切の皆焼刃に長谷部が息を呑む。
長谷部の主である人間は、彼の身体を傷付けることを好んでいた。戦場で敵の手足を切り落とし、その血を浴びることに昂奮するのとは違うと言う。「愛だよ」、と。
長谷部には愛など分からない。それは彼がかろうじて知っていた人間の感情の数種類では定義できないものだった。審神者は自分の愛以外は知らないと言い、唯一知っているその〝自分の〟愛についても苦しげに顔を歪めて説明を拒んだ。
結局、長谷部に残された道は信じることだけだった。
さく、と肉が裂かれる音がして、長谷部の腹の内部が空気に晒された。つやつや光る桃色の肉が、赤い血で斑に染まっている。審神者はその中から腸をすっかり抜き出したので、腹腔の中はがらんとした空洞になった。
積み上げられた腸の山はすぐに崩れ、ぐずぐずとした薄桃色の塊になっていた。これを気味が悪い、穢らわしいと言うのであればまだ長谷部にも理解できた。しかし実際には、そうであれば良かったのにと願うしかできなかった。
審神者は手に付いた長谷部の体液を拭き取ってへし切を握り直し、逆の手で長谷部の陰茎を取った。まさか、と焦った長谷部が審神者を見遣ると、ただ憂鬱そうな笑いを返すだけで何も言わず、小さく刃先を動かした。
「え? ……あ、あぁ、ああああっ、」
鮮血の奔流の中から審神者は三つを拾い上げ、溜息を吐いてからそれを長谷部の腹腔へとそっと置いた。
長谷部はと言うと、切られたところが真っ赤に焼けるように痛み、やっとのことで正気を保っていた。
「ああ、が、っあ」
濁った苦鳴の声に混じって何で、何でという言葉が漏れた。あまりの激痛に、涎と涙が零れた。
激痛のあまりに身を捩ると転倒し、シャツが大仰に血で濡れた。後から後から溢れ出す涙の合間、長谷部は必死に息を吸った。ぼやけて映る審神者の姿が立ち上がり、歩き、再びしゃがみ、そして口を開いた。
「長谷部君」
「はい、は、い」
腹の上へ手を伸ばし、うっそりと笑って、審神者は指先を切った。
暗い血が滴って、既に血塗れになっていた長谷部の外性器と混ざった。直に満足したのか審神者は手を下ろし、未だ呻いている長谷部の顔を見た。
「これで綺麗になった。君も、私も」
理解不能を通り越して恐怖だった。涙や唾液や血液や—それにいつの間にか漏れてしまっていた尿にまで塗れてぐちゃぐちゃに汚れているのに、審神者はそんな長谷部が綺麗だと笑顔で言っている。皮肉や冷語などではない、心底からそう言っているのだ。
審神者は長谷部の下腹部に手を入れると、膀胱や腎臓と同じような顔をして其処に収まっている性器を撫でた。固まりかけた血に濡れた、粘着質な音が響く。
「君は此処に在るべきものを知らない」
長谷部は発作のように首を振った。
「在るべきものが無く、在るべきでないものが在るのなら、取り除いてしまうしかない。……分かってくれるね? 君が抱くべきでも抱かれるべきでもない、忌々しいあれを」
その後の言葉は聞き取れなかった。偶々聞き取れた単語も、長谷部には馴染みのないもので、当然意味は分からなかった。
そのまま手入れ部屋へ連れて行かれ、一度全ての傷を治された後、長谷部は再び性器を切り取られた。今度こそ痛みに気絶している間に手を加えられ、排泄孔を残して其処はぴったり閉じられていた。
審神者は整形の跡を検分してから昏い目で長谷部を見上げ、
「今日からこれで過ごすように」
と一方的に告げた。
「はい、主」
長谷部はそう答えるしかなかった。
縫って閉じただけの傷は手入れなしでは塞がることはなく、些細なことで痛み、時には血を流すそれを長谷部は若干疎んじていた。
こんな姿を他の男士には見せられないと、入浴は審神者用の浴室で済ませるようになっていたが、度々扉が小さく開けられてその隙間から審神者がじっと見ていることもあり落ち着けなかった。何を言うでもないが、梅雨時の空気のようにじっとりとした視線を向けているのだった。
出陣、それに勿論夜の行為で傷付けばそれまで通り手入れが施されたが、決まってその後に切断と整形が待っていた。
何度もそれを繰り返し、長谷部が下腹部の違和感に慣れ、審神者の技術が向上し、出血が減ってきた頃、長谷部はふと疑問を抱いた。
――結局、主の仰る綺麗や汚いと言うのはどういうことなのか?
夜、審神者の寝室に招かれた長谷部がその疑問を口にすると、審神者は不機嫌そうに口を引き結びながら布団を指し示した。
長谷部が大人しく腰を下ろすと、審神者は一言、「交合だよ」とだけ言った。音と漢字が結び付かず、長谷部は首を傾げた。
「……性交」
苛立った様子で審神者は言い換え、長谷部は漸くああ、と合点がいった。
「……性欲も、それに伴う行為も穢らわしいものだ。性器だってその元になるのだから綺麗な筈がない。君はそういうものと関わりない存在でなくてはならないのだから、必要ないだろう」
「食欲や睡眠欲とは何か違うのですか? 併せて三大欲求と呼ぶと、本で読みました」
審神者は一瞬口を噤み、長谷部を睨みつけた。食べることというのは、審神者自身の愛情表現の一つだった。
「君は知らないようだが、人間の性的な発達においては性器期より遥かに先立って口唇期が訪れる。つまり交わることなどよりも食べることは本能に近い、より純粋な行為なんだと思わないかい」
長谷部は何処となく居心地が悪く、審神者の言葉を聞きながらもぞもぞと身動ぎしていた。縫い目が引き攣れて血が滲む。
「……俺には少し、難しいです。ですが……」
「ですが、何?」
「……いえ、何でも」
「何、と言ったんだよ、長谷部君」
「……はい」
最悪な雰囲気の中、長谷部は口を開いたが、
「人間の――生物の目的の第一というのは、交わって自分の遺伝子を残すことではないのですか」
すぐにそれを後悔した。
審神者は嘗て見たことのないような物凄い形相をして長谷部に詰め寄ると、力任せに頬を打った。長谷部は目を白黒させながら布団の上に倒れ、謝罪の言葉を口にするより早くへし切で貫かれていた。
下腹部、臍の下を滅茶苦茶に切り刻まれて、悲鳴も何もかもが間に合わなかった。空気は次々に肺から押し出されて、頭の中には靄がかかり始めていた。考えられることといえばただ一つきりだった。――何で、どうして、何故。
「……ない、残す、必要なんか、ない」
返り血をしたたかに浴びて、審神者は暗い部屋の中、紅く光って見えた。目だけがこの部屋ではない何処かを見ていて、影よりも暗かった。
長谷部の上半身と下半身が千切れて分かたれても、暫くの間審神者はへし切を振り下ろし続けていた。畳には数十では済まない数の傷が刻まれていたが、審神者は目もくれなかった。
赤黒い肉塊と化した長谷部の断面には、当然、子宮など存在しなかった。脚の間にも性器はない。不恰好な孔(あな)と縫い目を晒し、泡を吹いて、長谷部は倒れていた。
審神者は薄く笑い、へし切を鞘へと収めた。
その日以降、長谷部は日常的に性器を切除されることはなくなった。審神者の態度が変わるということもなく、依然寵愛を受け続けていた。
ただ時折、軽蔑を載せた昏い視線を向けられているような気がするだけだった。