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短篇集6


 ***


 風が髪を揺らす気配で長谷部が目を覚ますと、時計の針は十時を指していた。飛び上がるように跳ね起きると、肩から何かが落ちた。畳に目を遣ると、審神者の膝掛けだった。
 尚も吹き込む風の気配に、長谷部は部屋の入り口を振り返った。少しだけ開いた障子戸へ僅かに背を凭せ掛けるようにして、審神者が立っている。背後の庭で、すっかり色付いた紅葉の葉が風に靡いていた。
「起こしてしまったかな」
 少しだけ寝顔を見たら戻るつもりだったんだ、と静かに言う審神者へ、長谷部は平伏しかねない勢いで頭を下げた。
「主、申し訳ありません、今から参りますので」
「何処へ?」
「主の、御部屋へです」
 血の気の引いた顔で焦っている長谷部に対し、審神者は手を振って柔和な顔で言った。
「疲れていたんだろう、それなら構わない。入浴は済んでいるのかな」
 そして長谷部が声もなく頷くのを見て、
「そう、なら今日は早く寝ると良い。邪魔したね」
と言って踵を返そうとした。
 長谷部が焦っていたのは、今日の昼も彼に告げられた「夜、部屋に来てくれるかな」という審神者の言葉を承諾したにも関わらず、夕食と入浴を済ませた後自室で寝入ってしまったからだった。結果として今此処に審神者が訪ねてきている。
「主、お待ちください」
 立ち去りかけた背を呼び止めた長谷部へ審神者は振り返り、彼の言葉を先回りするように微笑んだ。
「別に私は怒ってなどいないし、寧ろ君に無体を働いたことを申し訳ないと思っている。私の部屋へ来る、来ないは君が決めることなのだから、君が謝る必要などない」
 それでも、長谷部は依然白い顔をしていた。「まだ憂いがある?」と促され、漸く口を開いた。
「ですが……俺は、主命を……」
「主命じゃない。ただの誘いだ」
「いえ、それでも、俺は……。主、今からでも、御部屋に」
 縋るような目をして言い募る長谷部を審神者はちらと見て、呆れとも怒りともつかない息を吐いた。
「それなら――今すぐ、此処で君を食べても構わないと?」
 青白い月光が頬へ落ちかかっている。庭の木々が波打つように揺れ、落ち着かない音を立てた。
 長谷部は思わず文机の上に目線を遣った。空になった乳白色の包み――金平糖が入っていた――以外にも、審神者から与えられた物が幾つも鎮座している。此処では、此処は、綺麗な思い出だけにしておきたい。そう考えている自分、審神者の行為を何処か罪や疫病のように思っている自分に気付き、長谷部は口を噤んで俯いた。
 自らの思考に恥じ入っている長谷部へ、審神者はまた一方的に言葉を叩き付けた。
「君は私の為に死んでくれと言われたら、ただ馬鹿みたいに首を振って死ぬのか」
 ――おそらく、審神者がそれを願うことができる対象も、そして一も二もなくそれを首肯し実行することができるのも、この本丸では自分しかいない、という確信が長谷部にはあった。審神者がこうも執心する対象は自分だけで、その尊い、ただ一つの願いを叶えることができるのは、自分だけなのだ。
「主が死ねと仰るのであれば死にます」
 と長谷部が答えると、審神者は激昂して、しかし無表情に障子戸を叩いた。木枠が揺れる大きな音に、長谷部は身を強張らせた。
「君は、少しは頭を遣ったらどうなんだ」
 審神者は強いて怒鳴るのを堪えているようで、深く息を吸い、吐いてから言った。
「少しは自分のことを考えろと言っているんだよ。其処らの淫売みたいに私の言葉に唯々諾々と従って身体を開いておけば私が喜ぶとでも?」
 長谷部が言葉を失くして茫然と自分を見ているのを見遣り、審神者は冷ら笑った。
「分からないか、分からないなら売女のような君の身体と頭へ思い知らせてあげようか」
「……俺、は」
 気力を振り絞って長谷部は言った。
「俺は、ただ、主が御所望であれば、それを叶えてさしあげたかっただけです」
「だから、私のくだらない望みと君とは等価値ではないと、私は言っているのだけどね。頭を遣って考えろ、と言っているんだよ」
 自分が統べる法廷を見下ろし、審神者は今度こそ長谷部の部屋を出た。
「この話はもう終いだ。今日は早く寝るように。明日からも、君には私の近侍として仕えてもらいたいからね」
 ぴしゃりと閉じられた障子戸を、長谷部は暫くの間ぼんやりと眺めていた。心臓はどきどきと五月蝿く脈打って、頭は痺れている。身動ぎすると、審神者がそのまま置いていった膝掛けが手に当たった。返しそびれたが、今から返しに行くのは憚られた。
 押入れから布団を取り出して敷き、シャツとジャージに着替えて滑り込んだ。その晩、長谷部は初めて夢を見た。

 


 ***

 


 長谷部君、あの星の光が見えるかい。……そう、あの大きくて青い星の隣の、青白くて小さな星。こう結ぶと、小さな菱形を作れるだろう? 何、星座の話がしたい訳じゃない。
 星の光は綺麗だ。夜毎同じように輝いて、私の心を慰めてくれる。……悩み? いや、そういうのではなく。ただ夜空を見上げるのが好きなんだよ。
 あの光が何処から来ているか、君は知っているかな。数十光年から数百光年先にある星々だから、今見ている光は数十年、数百年の昔に放たれた光ということになる。今こうして君とあの光を見ているけれど、あの星々が今この瞬間も存在している保証はない。――そう考えると、私は時々不思議な気分になる。
 言葉も同じことだよ、長谷部君。君が誰かへ発したメッセージが届いた時、君が同一の状態のままであるとは限らない。私がこうして話している時も、もし私が次に何かを言った瞬間に絶命したとすれば、その言葉は君にとって特別な意味を持ち得るという訳だ。……心配せずとも、自害する訳じゃない。ものの喩えだと言うのに……君を置いては行かないよ。
 いいかい、何もかも不変では在り得ない以上、言葉は良くも悪くも人を変える呪いとして作用するんだ。最期の言葉が永遠の縛めとなることもある。星の最期のことを言っている訳ではないけれど――まあ、似通ったところがあるかもしれない。
 それなら言葉を遣わなければ良いと思うかい。君は、君ならその手段を取れるかもしれない。だが私は人間だから、誰かのメッセージを受け取り、また発信して、自分の存在を顕し、そうやって言葉を遣わざるを得ない。傍に居てもらう為にね。……弱いんだよ、人間は。君とだって言葉がなくては何も伝え合うことができない。……あれは、……。あれは、故障みたいなものだから、君は理解すべきじゃない。異常な交信手段など、知らなくて良い。
 ――星が、綺麗だ。私の言葉が君にとって永遠の縛鎖になると分かっていても、言わずにいられないのを、赦してほしいとは言わない。避けられないと分かっているから、長谷部君、せめて君には、……。

 ……愛しているよ。


 ***


 部屋へ射し込んでいるのは藍白の月光だった。審神者はその光を背に座っていたが、長谷部が目を開き身を起こすのを認めると口を開いた。
「おはよう、長谷部君」
「……はい、主」
 時刻は深夜近い筈で、手入れ部屋の外からは草がそよぐ音すら聞こえなかった。審神者は座ったまま、身体を傾けて頬杖を突いた。
「長谷部君」
「はい」
「私が正気に戻っている僅かな間に、君が知りたいこと全てに答えようと思うのだけど」
「……は、」
 逆光で、審神者の真意は見えなかった。ただじっと長谷部の方を向いて、続く言葉を待っている。
「……俺は」
 腹を括り、長谷部は布団を握り締めた。
「俺は、主に応えられていますか」
「応える? それは勿論。君は近侍としても部隊長としても、私の期待以上の働きを見せてくれている」
「それは、ありがとうございます。……ですが、当然のことをしているまでで、俺がお尋ねしたいのは、その、……夜の、方です」
「ああ、それも勿論君は良くやってくれているし、私は言葉に尽くせない程感謝している」
「……御不満な点、などは」
「無いよ。君はいつだって可愛いし、とても美味しい。強いて言うなら、胃の中身をもっと食べさせてくれたらとは思うが」
「それは、主に申し訳ありませんから……」
「私はそうは思わないのに。今度、果物が食べたいと思っているくらいだ」
「……はい」
「そうだな、苺が良いかな。他には?」
「他、ですか」
「別に君が何を訊いたところで腹を立てたり厭気が差したりはしないから、何でも訊いてご覧」
「……はい」
 長谷部は口籠る。
「主は、燭台切や山姥切、薬研とは、幾分気安い仲であるようですが、どう思われているのですか」
「うん?」
 酷なことを訊くね、と審神者は笑った。
「君以外だと思っているよ。君は愛しくて、代えが効かない。他は皆、君以外だ」
 それは単に唯一であるだけで、一番だという訳ではないのだろうか、と長谷部は暫し苦悶した。
「単純に見目の問題だけで言えば、光忠君は格好良いと思うよ、好きかどうかは別の話だけども」
「どうして、俺なのですか」
 言うつもりのなかった言葉が口を衝いて出ていた。嫉妬だなどと生温い感情は捨てたつもりでいたのに。
「どうして? それは君がへし切長谷部だからに他ならない。君が国重に打たれ、信長にその斬れ味を見出され、黒田へ下賜され、その後長きに渡って人目に晒され続け、そして私の下へと顕れてくれたからだよ。君が信長に対して抱いている渇望と憎悪、それに長政へ抱いている忠心と悔恨は余り気分の良いものではないけれど、それらが無ければ私が好きな君では在り得なかったのだから呑み込むことにした。偶に辛抱できなくなるのが君には申し訳ないと思っている」
「俺は、ただ……いえ、申し訳ありません。俺にはまだ至らない点が多く、不安になるのです、時折」
「気に病むことは何もない。君は君のままで構わない。不安にさせているのは何かな」
 長谷部は再び言葉に詰まった。閊(つか)えているものを、何と説明すれば良いのか分からない。それに彼は審神者の言葉を理解できないことも多々あって、そのことも気に懸かっていた。
「つまり……私の言葉と行為、どちらが君にとって過剰なのか、或いは不足なのか」
「……おそらく俺は、主の仰ることを全て理解できていない所為で、不安になるのだと」
「それは――それは君が悪い訳ではないから、その……泣きそうな顔を、止めてくれないか」
 言われて、長谷部は慌てて顔に手を遣った。眉間の皺を揉み解し、頬を押さえた。
「回りくどい言い方しかできなくて悪かった。要するに私は君を愛しているし、幸せで在ってほしいと思っている。それだけだ」
「俺は……」
 幸せです、と言いかけ、止めた。それを言えば、きっと審神者は酷く哀しそうな顔をする。正気だと言っていたから、尚更だった。
「俺は、いえ、俺を、主は、本当はどうされたいのですか」
「――それが最後の質問で、構わないかな」
 翳は一段濃くなっていた。長谷部は月を、星を、夜を恨んだ。
 長谷部が一つ頷くと、審神者は下を向いた。
「本当は、本当はだって? 決まっている。君を閉じ込めて、痛みに窒息させて、全て食べ尽くしてしまいたい。君の血も肉も内臓も一欠片だって誰かには渡したくない。君がただ好きだから君の胎(はら)へ入って眠りたいし、君と中身を入れ替えたい。私以外を見て、私以外の声を聴いて、私以外と話をして、私以外に触れたり触れられたりしているのが厭で堪らない。私だけを必要として、捨てないでくれと縋り付いてほしい。そうしたら私は君を壊して、食べて、君と一つに成ることができるのに。君に伝わらなくたって構わない、ただ君を食べたい」
 そこまで言うと、審神者は息を吐いて顔を拭った。最後の一言を飲み込んでしまったことに、長谷部は気付いてしまっていた。
「主」
「うん」
「俺が壊れて、主に捨てないでくださいと縋り付けば、主は、主の憂いは、少しでも晴れますか」
「何を馬鹿なことを」
 審神者は淋しげに笑った。
「君まで狂う必要など何処にもない」
 さて、と膝を突いて立ち上がり、
「そろそろ終りにしようか。長谷部君、話に付き合ってくれてありがとう。――最後に一つ、いいかな」
「はい」
「君にとって、私は何だ?」
 審神者の問いかけに、長谷部は真っ直ぐ答えた。
「俺の、一番の主です」
「……そうか。部屋まで送って行こう」
 背を向けた審神者は主か、と繰り返していた。もう長谷部が何を尋ねても、首を振るばかりだった。


 ***


「夢を見た」
 審神者の発言はいつも唐突だった。それでいて賽子の目のようにころころと移り変わる。
「今朝のことですか?」
 長谷部はシーツの海に揺蕩う意識を浮上させる。外からは夜の雨の気配がした。何処へ落ちるともなく雨垂れが滴っている音がする。
「君が私を見て、止めましょう、とだけ言った」
「止める? 何をですか」
 訊く必要などなかった。見ずとも雨が降っていると分かるのと同じくらい、分かっている。
「主、愛など辛くて苦しいだけだから、止めましょう、と言う。辛いのかと訊くと、俺は辛くありません、でも主は辛そうに見えます、と言って後は押し黙っている。そうか、君は愛が何なのか分かっているのか、と思って、何かを言う前に夢は醒めてしまった」
「変わった、夢ですね」
 勿論長谷部は愛など知らない。夢も知らない。審神者の心など何も分からない。
「そうであればどんなに良かったか分からない。私は愛など存在すらも知らなくて、君を諦めて、手を離してしまえたらどんなに楽か。……無論、君を棄てる訳ではなくて」
 長谷部の顔すら見ず、審神者はそう付け足した。言葉にせずともこの人へは感情は透けてしまう。自分の主は何でも知っていると、長谷部は思っていた。戦のことも、甘味のことも、季節のことも、長谷部のことも、自分のことも、そして愛が何なのかも。
「君が一言、愛するのを止めてほしいと言えば、もうそんなもの振り翳すのは諦められるのに、君は言ってくれない」
 何故か笑って審神者は口にした。責めている訳ではないことは長谷部にも理解できたが、何も言わずにいた。――その代わり、いつだって責任を背負いすぎるから、その重みに押し潰されてしまうのではないですか、とこっそり胸の内に呟いた。
「諦められたいのですか」
「君を?」
 意味を取り違えられた疑問を、長谷部はまた胸に仕舞い込んだ。嘘を吐いたこの舌を切り取る人は、しかし主のみで良いと、長谷部はほとんど信仰に近い気持ちで仰ぎ見た。
「……さて、どうだろうね」
 ――うたた寝の隙に零した独り言も、夢のままにしてしまえば良いと。


 ***


 通信からはごうごうと風が吹き荒れる音が聞こえてきた。ノイズを背景に、と言うよりも寧ろノイズの背景として、審神者の声がのんびりと流れてきた。
「其方はどうだい、長谷部君」
「変わりありませんね。何の変哲もない、ただ白っぽいだけの土地が延々と。散歩してみても、何処までも同じ風景で」
「そういう時は空を見ると良い、君のところからなら、太陽が見えるだろう」
「ええ、ですが、ずっと見ていると目が痛くなりますよ。焔が噴き上がるのは、なかなかに見応えがありますが。主にも、御覧に入れたいですね」
「ああ、それは良い。こんなところ、選ぶんじゃなかったなあ」
「何故です? 綺麗だと、仰っていたではありませんか」
 一際大きいノイズがざあっと通り過ぎて、長谷部は思わず耳を遠ざけた。声だけを通信させる機能は備わっているのに、何故だか審神者はそれをあまり好まなかった。
「そう思っていたよ、来るまでは。綺麗なものは遠くから見るから綺麗なんだと気付いた時には、遅かった」
「哲学ですね」
「そう言うけどね、こんな寒いところにぷかぷか浮いて、見えるものと言えばお隣の変な岩の星と暗闇ばかりで、少々倦んでいるんだよ」
「もう一方に、青い星があった筈ではないですか?」
「まあ、あるけれども……」
 ううん、と溜息を吐いた音すら、機械は漏らすことなく集音する。凍てつく星が光る音すら届くのではないかと、長谷部は瞑目した。
「とにかく、此処は陰気で良くない。せめてもう少し暖かければ……」
「お言葉ですが、寒暖の差が激しすぎるのも、考えものですよ」
「無いものねだりだよ、お互いに」
「本当ですね」
 どちらからともなく笑い出し、二人は一つ息を吐いた。
「また明日、ですか」
「明日、の定義によるのだが」
「時計は動いていますよ、主」
「地球からは離れられないんだなあ、私達は」
 通信が切られ、長谷部と審神者は数十億キロ離れた星に、また独りになった。


 ***


 昨夜、長谷部は審神者に呼ばれなかった。その理由は大したものではなかったと分かったのは、審神者が浴室の扉を開けた時だった。
 ひんやりと白い壁と床、その向こうに広々とした浴槽がある。長谷部は此処へ一度足を踏み入れたことがあった。――あまり良い思い出ではなかった。
 鉄錆の臭いと、顔に纏わり付く脂の臭い。長谷部は思わず顔を顰めた。靴下の裏では冷たい水と血とが混ざり合い、足を絡め取ろうとしている。
 血でなみなみと満たされた浴槽を見るのはあまり気持ちの良いものではなかったが、しかし浴室の片隅に乱雑に積み上げられた肉の塊を視界に入れたくはなかった。視野の端の端、色の集合体にしか見えない世界でも、それが何なのかぐらいは判る。—白磁と煤色を、見紛う筈もない。
「片付けるのが間に合わなかった」
 審神者はそう言って。重い肉の身体をぐいと押し遣った。何て醜悪な、と長谷部は思ったが、何に対してそう感じたのかは断言できなかった。
 隅に置かれているのは精々三、四人分の身体だった。つまり、浴槽を満たすだけの血液量にはどう考えても足りなかった。……何人が使われたのかなど、考えたくもなかった。審神者は何も言わずに突っ立って長谷部をじっと見ている。今考えていることも見透かしていて、今にも「数十人は必要だった」などと言い出しそうに口元が歪んでいた。
 互いに無言のままでいるので、長谷部は自分の足元に目を落とした。水で薄まった緋色の血液が音もなく排水口へ流れ込んでいる。自分ではない長谷部の命が落ち、流れ、失われていく。同情や悲哀はなかった。そんなものを抱いたところで、正気が壊れ、潰えるだけだ。
「其処に」
 やおら口を開き、審神者は手を掲げて指し示した。
「入ってくれないか」
 長谷部は「はい」とだけ返し、カソックを脱ごうと手を抜きかけて、
「ああ、……服はそのままで」
 と制された。
 体液を吸ってぐっしょり濡れたものであっても、それでも一糸纏わぬままであるよりは心が安らぐことを、長谷部は何となしに知っていた。部屋の空気に裸体を晒されて横たわっていると、自分が惨めに思えてどうしようもないのだ。
(……それに)
 長谷部は壁に手を突き、ゆっくりと浴槽の縁を跨いだ。
(俺の中身は、主にお見せするような、綺麗なものではない)
 ぬる、と厭な感触の後、スラックスが脚へべっとり貼り付いてきた。腰の辺りから背骨を縦に走る怖気を無視し、長谷部はもう一方の脚も其処へ沈めた。粘つく赤黒い液体のなか、膝から下は見えない。汚い、と長谷部は益々顔を顰めた。
 経験はなかったが――これからもない方が僥倖ではあるが――審神者のものであれば、その血や肉も神聖な、口にすることも厭わない葡萄酒とパンですらあることだろう、と長谷部は感じていた。
 彼自身の血肉は、臓腑は、更にその中身は、審神者が何故それを口にしたがるのか理解できないものだった。審神者は長谷部を崇めない。跪きもしない。四つ足の獣の肉を喰らうように、泥濘の泥水を啜るように長谷部を食べるのだ。
「腰を下ろして、そう」
 水嵩は増し、長谷部の下半身全てと胸までが血に浸った。水面に歪な自分の顔が映っている。波紋に従って輪郭はぐにゃぐにゃと曲がっていた。
 何故ですか、とは回数も覚えていない程何度も尋ねた。審神者はいつだって全くの正気だった。「愛しているからだよ」と言われ、長谷部は自室で一人、辞書を捲った。「いつくしみ合う気持ち」、「いとしいと思う心」、「大切に思う気持ち」――長谷部は「幸せを願う深く温かい心」という説明が気に入った。温かい。
 血が抜けていく感覚は好きになれなかったが、審神者と夜を共にしているという事実は確かに温かかった。口の中、頭の中、指先がすっと冷えていっても、審神者が自分の傍で、自分だけを見てくれているというだけで、身体の奥は熱かった。もしかしたら主は寒いと感じていらっしゃるのだろうか、というのが長谷部が次に考えたことだった。冷たい水の中よりも、冷たい独りの夜よりも、ずっと。
「目を閉じて」
 命じられた通りにすると何もかもが闇に沈む。赤い水面も、審神者の顔も、長谷部の死体も。
 ぽた、と生温い液体が頬を叩く気配がした後、長谷部の眉間はぐにぐにと揉み解された。
「もう少し、力を抜いて」
 長谷部ができる限り身体から力を抜くと、嗚呼、と嘆息とも囁きとも取れるような声が浴室に響いた。
「長谷部君、本当に死んでいるみたいだ」
 氷水のように冷えきった血液に、長谷部の体温はじわじわと奪われていく。舌が縺れ、脳が痺れ、混迷した記憶を吐き出し始める。
 長谷部の愛を、しかし審神者は酷く拒絶した。俺なら主を温められます、という言葉は何処までも思い上がったものでしかないのだと、長谷部は打ちのめされ、蒼白な顔で私室を辞すしかなかった。
「長谷部君、長谷部君……」
 死体のように血に沈んで横たわり、体温は下がり続けている。冷え切った温度をもつ審神者が望んでいたのは、おそらく、愛などではなかった。――それは全てが凍りついた死なのだ、とまで考えて、長谷部は眠った。

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