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短篇集4


 

 午後、開かれた戸の向こうからは陽の匂いのする風が優しく吹いてきて、文机に向かう二人の髪をそよがせた。

「長谷部君、話があるのだけど」

 端末に目を落としたままで言った審神者に、長谷部は手を休めて向き直った。

「何でしょうか」

「私が君にしていることに気付いたのが一人居てね」

「……は」

 短い音だけを漏らして硬直している長谷を視界の端で捉えた審神者は苦笑し、付け加えて説明した。

「だから、私が君を虐げていることに気付いたのが一人居て、彼はご丁寧にやめてやれ、と諫言してきた訳だ」

「……誰が、いえ、それよりも、何故」

「さてね、その気になればいくらでも気付けるだけの手がかりは転がっているからね。君以外は代えが利くし、そんなことはどうでも良いよ」

「それで……主は、どうされるおつもりですか」

「うん? そうだなあ、色々考えたんだけどね」

 審神者は漸く顔を上げると長谷部を見た。風に靡く髪の向こう側に見える瞳が愉快そうに細められて言った。

「確かに彼の言う通り、君に非道いことをし続けるのは酷だろうから、もう止そうと思う。ただ、君が近侍として仕え続けていてくれる限りその欲求を抑えられそうもないからね、君を近侍から外そうと」

「お、お待ちください、主」

 長谷部は慌てて審神者の言葉を途中で遮った。思わず身を乗り出したまま、彼は言った。

「何度も申し上げた通り俺は構いませんから、近侍は、どうか」

「ううん、確かに君はそう言っているけどね」

 審神者は腕を組むと仕方なさそうに笑い、また何事かを続けようとしたがふと顔を背けた。

「まあ、今では何だし、続きは夜にでも話そうか」

「……はい」

「……主」

 夜、いつものように夕食も入浴も済ませた後で審神者が一人自室に籠もっていると、障子に落ちた夜の空気よりも一段濃い影が低く声を掛けた。

「どうぞ」

 入室を促すと戸がすっと滑り、変わらずカソック姿の長谷部が静かに入り込んできた。心なしかその眉間には皺が寄っていたが、審神者はそれに勘付いても相変わらず笑ったままで座布団を勧めた。大人しくそこへ腰を下ろした長谷部は両の拳を強く握って歯噛みをしており、審神者が口を開かなければいつまでもそうしてさえいそうな有様だった。

「さて、続きだったかな。近侍をどうするかだけど」

「……主、それより先に、お話があります」

「おや」

「俺は此処に居る全員に、主に何か申し上げたかと尋ねました」

「犯人捜しかい? ナンセンスな」

 思わず零された聞き慣れない言葉にも長谷部は耳を貸す余裕がないようで、そのまま話し続けた。

「これ以上主に余計なお手間を取らせることのないよう、事に気付かれた原因を知っておこうと思ったのです。……ですが、誰一人、主にそれを申し上げた者はおりませんでした」

「嘘を吐いているんじゃないかい」

「いえ、連中は嘘など言いません。寧ろ……主、何故俺に嘘を仰ったのです」

 やれやれ、と審神者は肩を竦め、

「参ったね、君がそんなことをするとは」

 と言った。

「否定されないのですか」

「時間の無駄だからね」

「では、理由をお聞かせ願えますか」

「理由? そんなもの、私が吐いた嘘の内容をちょっと考えれば分かるだろうに」

「……酷だと? ですが、重ねて申し上げますが、俺は主にでしたらどう扱っていただこうと一向に構いません」

「ううん」

 審神者は唸り、前のめりになって口元を押さえると長谷部に言った。

「もうしたくない、と言ったんだよ、長谷部君。私はもう君を陵辱したくないんだ」

「それは……つまり、俺をもう……」

 長谷部は視線をうろうろと彷徨わせ途切れがちに言ったが、それすら審神者の失笑を招くだけだった。

「愛していないかって? 悪いけど、初めから君のことは愛してなどいなかったよ」

「え……」

「愛していたらあんなことする訳ないだろう、人間は愛しい相手とは閨においては交合をするものだよ」

 そして戦慄く唇で何かを呟こうとした長谷部の機先を制し、審神者は心底面白そうに言った。

「それとは別の欲を満たす為に嘘を吐いて君を使わせてもらっていたんだよ、長谷部君。興味本位と言い換えても良い。でも最近君で遊ぶのも飽きてしまってね、もう止めようと思ったんだが、正直に言うのもと思って気を回した結果がこれだ。嘘など吐くものではないね。さ、何か訊きたいことはあるかな? なければもう下がってくれて構わないよ」

「……」

 茫然とした表情のまま長谷部は固まっていたが、やっとのことで息を吐き、言葉を絞り出した。

「俺は……俺は、それでも、主のお役に立てたのなら……。それで、近侍は……」

「さあ、どうしようかな。それは即ち次を誰にするかということだからね」

「次、」

「別に私の欲が消えた訳じゃないからね。厄介なものだけれど何とか解消しないといけないし、君じゃない誰かを充てがうよ。その誰かは可哀想だけれど」

「……可哀想、ですか」

「君のことはずっと可哀想だと思っていたんだよ。でも、それももう終わりだ」

 審神者は何処か安堵したような表情で言ったが、長谷部はただ頭に一度は引いていった血が昇るのを感じた。

「俺を憐れんで……優越感でも充たされましたか」

「優越感? 君はそう感じるのか。だがそうじゃない、耐え続けた君にとっては私のこの憐憫は救いだろう」

「救いですか。俺はそれを求めていたと、主は仰るのですね」

「ああ」

「……救いを求めているのは俺ではなく貴方の方でしょう」

「何?」

 片眉を上げて怪訝な顔をした審神者と対照的に長谷部は傷付いたままの、しかし不敵な笑みを浮かべて言った。

「人間はいつか死ぬというのにあれこれと思い悩み苦しんでは救いを求めて何かに縋るものだと、俺にだって分かっていましたよ。主はいつだって上辺ばかりで笑われて、本当は苦しそうな顔をして俺を使われていましたから、俺はただ少しでも主がそれで救われるならと思って耐えていたんです」

「……それで優越感でも覚えていたのかな、君は。だがまあ良い、君の本心は其処にあったということだ。それが知れたのだから私の目的は果たされたよ」

「……は?」

 今度は長谷部が眉根を寄せる番だった。審神者はあっさりと笑い、手をひらひらと振りながら種明かしをした。

「やはり君は私のあれを好んで受けていた訳じゃなかったんだな、まあそれは当然のことだがね。さ、もう下がって良いよ。ああ、近侍から外しはしないから安心しなさいね」

「ま、待ってください、俺を試されたのですか」

 思わず縋り付こうとした長谷部から身を躱して立ち上がり、審神者は明るく笑って言った。

「確認しただけだよ、長谷部君。君はまだ穢れない天上に居るし、私は穢れきった地の底で君を想い続けている。それで良いんだよ。……救いなど、私は欲してはいないことだけは理解しておいてほしいけどね。さて、明日は一緒に甘いものでも食べに行こうか? 君の好きなものを食べようじゃないか、私がただ一人愛している君の、ね」

 にこにこと微笑んでそう言った審神者の目が一瞬だけ昏く剣呑な光を宿したのを、憔悴した長谷部はしかし見逃していなかった。


 

  ***


 

 審神者の寝室で布団の上に横たわる長谷部の会陰をそっと撫で、

「此処を抉っても良いかな」

 と尋ねた審神者の言葉に長谷部は色を失った。

「……あの、主」

「何かな」

 一瞬の躊躇の後に細い声で漏らされた言葉に審神者は笑顔で応え、続く言葉を待っていた。

「……申し訳ありませんが、それにはお答えできません……」

「ふうん、そうか」

 示し合わされた結果のように審神者は特に驚いた様子もなく長谷部の返答を聞き、笑ったままでへし切をすらりと抜いた。切っ先を濃い紫色のスラックスの上から会陰に添える審神者に、長谷部は慌てて身を起こし言った。

「あ、主、あの」

「うん?」

「他のことなら何でも耐えますから、それだけは、どうか」

「はは」

 想定外に手を退けることなく声を上げて笑う審神者に長谷部は訳も分からず恐怖を抱いたが、その後続けられた言葉に慄然とした。

「可笑しなことを言うね。君は私の物なんだから、私がそうすると言ったら拒否権など無いんだよ」

「……で、ですが、……」

「うん」

 震える声で必死に言い縋る長谷部を審神者は愉快そうにその視線で舐め回し、品定めするように目を細めていた。長谷部はその視線の意味を考える余裕もなく、またその様子が審神者を喜ばせることにも気付かないまま自分は何を間違えたのかと懸命に記憶をなぞっていた。

「主は、主は俺の思ったままを、申し上げるように、と……」

「ああ、そう言ったね」

「……」

「それで、君はこれを嫌だと?」

「……はい、主」

「ああそう。でも私は愛しい君の此処を色も分からなくなる程に穿ってその熱を浴びたい気分なんだ。さ、お喋りは終いにしよう、恨み言なら後で幾らでも聞くから」

 言い終わるや否や審神者は空いている方の手で長谷部の肩を軽く押し、茫然と自分を見つめている彼の身体を再び横たわらせた。長谷部はいつかの行為を思い出しているようで、焦点の定まらない目を審神者に向けたまま真っ青な顔をして何事かをぶつぶつと呟いていた。審神者の鼻歌の向こうに聞こえるその声は謝罪を繰り返しては赦しを乞うているようだった。

 審神者はへし切の切っ先で正しい位置を探すかのようにぴたぴたと会陰に触れていたが、途端その腕は震え出し、とうとう堪えきれず哄笑と共にへし切を取り落とした。

「はは、あはは、ははは。冗談だよ、長谷部君。そんな顔をさせて悪かった」

「……冗談?」

 長谷部は憔悴した表情に若干の非難の色を混ぜてぼんやりと審神者を見たが、審神者はその色だけを躱して言葉を続けた。

「今日が何の日か、君は知らないだろうな。今日はね、一年の中で一度、嘘を吐いて良い日らしくてね。尤も、君を傷付けるような嘘は言いたくなかったんだが、君への嘘など他に思い付かなかったものでね」

「……そういう、ことでしたか」

「怒ったかな。許さなくて良いよ」

「怒ってなどいません」

「ひょっとしてそれが君なりの嘘かな。しかし、もう少しまともな嘘を吐きたかったものだな。君のその表情はこの上なく私の欲を掻き立てる。この埋め合わせは幾らでもするよ」

「……埋め合わせなど、そのお気持ちだけで構いません」

未だ浮かない顔をして淡々と受け答えをする長谷部の藤色を覗き込み、審神者は少しだけ眉を下げて言った。

「……私の物だと言ったこと、気にしているかい」

「……」

「沈黙は肯定とみなすよ。本心でないとは言え、言ってはいけないことだったな、すまなかった」

「……いえ」

「長谷部君」

 仄かな暖色の香りを放ちながら柔らかい硬さを残す煤色の髪をくるくると弄ぶ審神者の手に、長谷部はまだ終わっていないのだなとだけ思って目を伏せた。

「はい」

「誰が――それがたとえ君であっても――何と言おうと私は君をただ虐げるために虐げている訳じゃない」

「……手段、ですか」

「そう、手段だ」

「良く、分かっているつもりです」

「そうか」

 求めていた答えが得られた筈なのに何処か苦しそうに表情を歪める審神者に長谷部は首を傾げたが、審神者はそんな長谷部を強いて見ないままで長い息を吐き、尚も言った。

「こんな手段しか取れなくて、すまない」

「いいえ、主」

「……続けても構わないかな」

「はい」

 畳の上に落としていたへし切をそっと取り上げ、愛おしそうにその刃文と長谷部とを見る審神者の影の下で長谷部は一つ微笑むと言った。

「主」

「うん?」

「申し遅れましたが、明日のおやつは無いそうです」

「え?!」

 絶望した顔でへし切を持ったまま硬直して自分を見つめる審神者に長谷部は苦笑し、

「嘘です。お返しですよ、主」

 と言った。本心は言わずとも嘘を吐くことの滅多にない長谷部の言葉は流石に堪えたらしく、行為が終わった後も審神者は何度も明日のおやつのことを長谷部に尋ねていた。


 

  ***


 

「君は私が間違っていると思うかい」

 染み一つないシーツの上で突然審神者に問いかけられ、長谷部はまた何か始まったのかと審神者に分からないように身を竦ませて聞き返した。

「すみません、今何と?」

「長谷部君は私の愛し方が間違っていると思うかどうかを訊いたんだよ」

「……申し訳ありませんが、俺には意味が、良く……」

「そう、なら答え易くしてあげるよ。君は私が間違っていると思うかどうか、はいかいいえで答えれば良いんだ」

「……仮に、主が間違っているのであれば、俺は臣としてそれを諌めます」

「ああ、素晴らしい答えだね」

 審神者は全く本心からの言葉ではない様子でそう言った。シャツの袖が捲られた長谷部の腕をそっと取り、肘の内側を優しくなぞりながらぽつぽつと話を続けた。

「君が何も言わないということは、まだ私が間違っているとは思わない――いや、言わないだけなのだろうな。長谷部君は私が間違っているとは言わない、そして自分が間違っているとも思わない。……君は西洋で、嘗て魔女と呼ばれる存在が探し出され、裁判という名の場を借りて一方的な宣告をされ、死を以てその罪を贖わされたことを知っているかい」

「……いえ」

「別に西洋に限った話ではない。古く日本に於いても、そのような歪んだ裁判というのはあった。此処に水で充たされた浴槽があるとしようか」

 手で浴槽程の大きさの四角を描き、審神者は唇を吊り上げて笑った。

「例えば疑わしき対象として長谷部君が選ばれたとする。そうすると衆人環視の中、裁判官は君を此処へ沈めるんだ。君が魔女でなければ、そのまま抗う術もなく沈んでいって死ぬ。もし君が魔女ならば沈むことなく浮き上がるが、その場合魔女であるが故に処刑されて結局死ぬことになる」

「……」

「これが水でなく熱湯になれば神明裁判だよ。君は煮え滾る湯の中に手を入れる。後は分かるだろう」

「……それで、一体」

「君を試したいんだよ、長谷部君」

「……はい」

 試したい、と真正面から言われているだけましなのだろうかと長谷部は思った。長谷部の脳裏に浮かんでいたのはいつだったか、審神者に試される形で本心を吐露させられた時のことだった。とん、と審神者は僅かに隆起した長谷部の静脈を指先で叩き、静かに言った。

「私は君を問う為に此処を穿つ。私が間違っていると思っているなら、君は失血して死ぬ。私が間違っていないと思っているなら、君は幾ら血を流したところで死ぬことはない。でもそれはつまり、私に嘘を吐いているということなんだよ。分かるかい」

「……」

 あまりに滅茶苦茶だ、と長谷部は思った。結局俺の意思がどうあれ、主は間違っていると言われたいのだろうか。そんな長谷部の心中を見透かしたように審神者は頬を引き攣らせ、肩を揺らした。

「意味を成さないと思っているだろう、それで良いんだよ。理由なんて後付けだ。間違いだ何だなんて、君が考えることではない。君はただ愛として受け取っておけば良いんだ」

「……愛、ですか」

「ああ」

「……」

「何か言いたいことがあるようだね」

「……いえ」

「言ってご覧、それで君を裁いたりはしないよ」

 長谷部は暫し言い淀んでいたが、審神者に再三促されて漸く口を開いた。

「……主は、どう思われているのですか」

「何をだい」

「俺に与えてくださる、御自身の愛についてです」

 その言葉を聞いた審神者が身を強張らせたのを見て、長谷部は力なく投げ出していた両手を固く握り締めた。皮膚が僅かに引き攣れる感覚に、何とか意識を正常に保つことができた。

「……これをどう思うかって? 残酷なことを訊くね、君も」

 審神者の声は震えていた。だがその腕は確と長谷部の前腕を掴み、空いた手でポケットを探っていたかと思うと小さな細い包みを取り出した。

 それは、と長谷部が声に出して問う前に、パッケージされた注射針が薄暗い照明を受けて鈍く光った。冷たい文字で17、と書かれていた。何を意味する数字なのかも長谷部には分からなかったが、今から何をされるのかは問わずとも分かっていた。

「……他に何もないんだよ、私には」

 審神者はパッケージを口に咥えてぺりぺりと捲った。片手が塞がっているのでパッケージを潰すようにして中身を畳の上にぽとりと落とし、空になった包みを投げ捨てて審神者はそれを拾い上げた。

 身に迫る針を見て長谷部は本能的に身体を引いたが、無慈悲に掴まれた肘の内側、蒼く小さな膨らみにゆっくりと針先が侵入していった。皮膚が突き破られるその瞬間に鋭い痛みが走ったが、痛みは掻き消えてしまうことはなく、そのままじわじわと内部を侵し鈍く留まり続けた。

 針先の逆、不思議な形をした青緑色の部分から数滴の暗い血液が零れ落ちたが、それ以上は滴ることなく止まってしまった。

「上手く血管に入らなかったようだね、もう一度だ」

「……、あっ」

 無遠慮に針を抜き取られ、長谷部は微かな呻き声を上げた。抜いた針先に付いた甘い血を審神者は舐め取ろうとしたが、雑菌が入ることを危惧して踏み止まった。

「長谷部君、手を握ってくれないかな」

 痛みと恐怖から長谷部は既に緩く手を握り締めていたが、審神者の言葉を聞いてより一層の力を込めた。審神者は自身の腰からベルトを抜き、長谷部の上腕をきつく締め付けて血管の様子を確かめた。

「そう、そのまま」

「……うぅ」

 ずる、と入り込んでくる感覚の一瞬後、生温い液体が大腿を濡らすのを感じて長谷部は思わず声を上げた。元々濃い紫色をしていたスラックスに赤黒い静脈血が次々と暗い染みを作り、それを見た審神者の目は対照的に爛々と輝いた。

「ああ、忘れるところだった」

 審神者は傍に置いていた透明なグラスを手に取り、滔々と流れ出す長谷部の血をそこへ溜めた。グラスの壁を伝ってぬめる血液が膜を張り、審神者はそれを見てうっとりと舌舐めずりをした。

「これを飲めないなんて惜しいな」

「……?」

 てっきり審神者がそれを飲むために溜めているのだと思った血液を、審神者は飲めないと言っている。長谷部は自分の血が流れ出していくにつれ咥内が急激に冷えるのを感じとても気分が悪かった。

「いや……うん、良い方法を思い付いたよ。さて、少し時間がかかる。チューブも用意しておけば良かったな」

「……」

「痛いかい、長谷部君。そうだな、十分もあれば終わるだろうから、我慢してくれるかな」

「はい」

「ありがとう」

 それきり口を噤んでいる審神者の顔を長谷部は窺い見たが、いつも通りの笑みを浮かべたままなので仕方なしに口を開いた。

「……主」

「うん」

「俺は……美味しいのですか」

「ああ」

「そうですか……」

 話が続かない、長谷部は目を伏せてそう思いながら腕に目を遣った。太い針が皮膚を貫いていた。黙り込んだ長谷部を一瞥して、今度は審神者が口を開いた。

「……へし切を二口顕現させたとしようか」

「? ……はい」

「出陣、錬結、内番、それに当然近侍と、刀剣男士が為すべきことは色々とある。だけどこの二人を、全く同じように過ごさせることができると思うかい」

「……難しいのではないかと、思います」

「その通り。その身体も心も全く同じに作られていても、経験する環境が異なれば君達の心は、そして勿論身体も影響を受け変化していく。愛されなければ私が間違っていると諫言してくるようになるかもしれないし、愛を受けたがために私に諫言すらできなくなるかもしれない。全ては日々を過ごす環境と相互に作用して形成されていくものなんだよ」

「俺のこと、ですか」

「例え話だよ。……愛しい君のことを私は食べる、君の身体は食べられることを覚える、脳はそれに縋り付いて私に気に入られるよう身体を作り変えていく。過つきっかけとなったのは私だが、その後も続けさせたのは誰の過ちなんだろうな」

「……」

 長谷部は話を振ったことを後悔しているような表情を見せた。音もなく血液だけが流れる部屋で、長谷部は灯りが点滅するような幻覚を見た。

「……そんな顔をしなくとも、これも冗談だよ。君がどう思っているか、君の身体に訊いている最中じゃないか」

 なみなみと暗赤色の液体で満たされたグラスを空のものと取り替えながら、幻覚の向こうで審神者は言った。確か肝臓もあんな色をしていた、と長谷部は声に出さず呟いた。

 相変わらず審神者の言っていることは支離滅裂で、ただ一つの細い糸を残して他の思考はふらふらと移り変わっているようだった。審神者が珍しく動揺していることを長谷部はまた感じ取ってもいた。

「……今日までの積み重ねで、主に愛されるに相応な俺が此処に居る、のですか」

「そう言っても良いだろうね」

「では俺とは別の、真新しい長谷部では……応えられないと、思っても」

「構わない」

「始まりが違っていたら、どうなっていたのでしょうか」

「君でなければ、今の私に至ることもなかった。全く違う世界の話だよ」

「……今の俺には、少し難しいです」

「そうかな」

 審神者はグラスを逆の手に持ち替えた。先まで差し伸べていた方の手をぷらぷらと振って痺れを取りながら、薄暗い襖へと目を遣って審神者は続けた。

「なら君を殺してやり直そうか? それとも君がやり直すかい。何れにせよもう変えられないんだよ。時間を巻き戻して全てを正すことなどできない、君は私より骨身に沁みて理解している筈だね」

「……はい」

「だけど君はいつだって正しかった。間違っていたのは私の方で、それは君があれこれと気に病むことじゃない。変えられないんだ」

 それから数分の間、グラスが再び満たされるまで二人は無言だった。抜くよ、と一言だけ言って審神者は針を抜き取り、手繰り寄せたシーツの端を当てて思い切り圧迫した。

「血が止まるまで押さえておいてくれるかな」

「はい。……もう、宜しいのですか」

「君を無為に死なせてまで得た偽物の正しさなんて要らないよ」

「……」

 やはり良く分からない、と長谷部は思った。傷跡から少しだけ流れ出した血の染みがシーツの白に広がっていたが、それも直に止まってしまった。部屋の全てが動きを止めていた。

「はい」

 審神者にグラスを差し出され、長谷部は思わず受け取った。目を落とすと黒々とした血で満たされたグラスだった。戦場に漂うのと同じ臭いがして長谷部は顔を顰めた。

「君の分だよ」

「これを……」

「飲むんだよ」

 私の分はこっち、と審神者もグラスを掲げた。そのまま傾けて喉へと流し込んでいく。僅かに溢れた血が一筋だけ口唇の端からつっと伝って落ちた。昏い赤だった。

「ほら」

 促され、長谷部もグラスの中身を無理矢理に呷った。生臭く、ぬるぬるとした液体が喉を滑り落ち、食道を伝って胃へと溜まっていくのが生々しく感じられて途端に吐き気が込み上げた。何を飲んでいるのかを意識しないよう目を瞑ってどんどん流し込んでいったが、吐き気は益々大きくなり、突然に閾値を超えた。

「ぅ、おえ、……っぐ、……」

「ああ、やはり駄目だったか。血液には催吐性があるからね。私は慣れてしまったけど」

 胃液が逆流して喉を焼き、長谷部は涙を滲ませた。シャツが、スラックスが、そして審神者の布団が嘔吐物に叩かれてじっとりと湿った。激しく収縮した腹筋がまだひくついて、息をするのが難しかった。

「……っ、はっ、ぅ……」

「……誤解のないよう言っておくけど、試した訳じゃない。ただ飲ませたかっただけだよ。叶うならそれを飲みたかったけれど、これでは流石に難しいね」

 それ、と言いながら審神者はシーツの上に留まりきれず畳の目へ染み込んで色だけを残す胃液と血液の混合物を指でなぞった。温かい、と呟いて審神者は目を閉じた。

「愛について君は尋ねたね、長谷部君。これが正しい筈がないだろう。君に裁かれることなど望むべくもないが、もし君がこれを愛だと思っているのならばそれこそ他ならない私の過ちだよ」

 長谷部は口元を袖で拭い、荒い息を吐きながら審神者の言葉を聞いていた。今度は愛ではないと言う。長谷部は審神者のことが本心から分からなくなった。

「……主は、間違ってなどいません。……俺の言葉など、求められてはいないかもしれませんが」

「間違っていない? 今それを言い切ってしまうのか、君が」

 あくまで笑ったままで審神者は言っていたが、床に突いた手が小さく震えているのを見て長谷部はつい手を伸ばした。審神者の口から零れた血の跡を拭おうとしたが、つい先程自分の口元を拭った所為で袖が汚れているのに気が付き、捲られていた方の袖を覚束ない手で下ろした。

「……主」

「何かな」

「……その、失礼でなければ、口を」

「ああ」

 審神者は長谷部の手が彷徨っている間に自分の服で口を拭ってしまった。固まりかけていた血は擦れて伸び、綺麗になるどころか醜い跡を残しただけだった。

「後で洗うよ。どうせ汚れてしまったなら、此処に這い蹲ってこれでも舐めようか」

 そう言って畳を撫でる審神者を長谷部は慌てて止めた。審神者はその言葉に耳を貸さず、脱力して畳にぺたんと伏せると頬を擦り付けた。遠くから悲鳴のように上がる長谷部の声が聞こえたような気がしていた。

「罰が欲しいんだ、裁きなどではなく……。君に誤った愛を教えてしまった、その罰が」

 

  ***

 

 今夜は久々の宴会だった。本丸に居る全ての刀剣男士が食事部屋に介し、審神者と各々が思い思いに用意した酒や料理を楽しみながら部屋中に話の花を咲かせていた。

 初めは普段のように隣に並んで座っていた審神者と長谷部だったが、干した瓶の数が増えるにつれその距離は離れていき、審神者は鶴丸や三条の面々に囲まれてあれやこれやと尋ねられ、一方長谷部はというとここぞとばかりに短刀や脇差達がその周りを固めていた。

 今剣や三日月が審神者に何事かを尋ね、答えを聞いた岩融や鶴丸の笑い声が響く。自分がその輪の中に居ないことを思うと、長谷部は暗い澱のようなものが胸の辺りを侵食しているような気がした。時折審神者の方へ投げた視線が少なくない回数確かに受け止められていたことを長谷部は感じていた。

 まだ飲み足りないと言う面子を部屋に残して二人は審神者の部屋へ下がったが、部屋を出た後二言三言交わしただけで審神者はずっと押し黙っていた。慣れない酒に酔ってしまったのかと懸念した長谷部が床を調えようかと申し出ると、掠れた声で「……腕」とだけ返ってきた。

「はい?」

「腕、触れられていただろう」

 宴会の最中のことを仰っているのだ、と長谷部は悟った。重なり合うように長谷部を取り囲んだ男士達は、またとない機会であるかのように長谷部の袖を掴んだり腕にしがみ付いたりしていた。酔った打刀か太刀に肩を叩かれたような記憶もあった。

「はい」

「……切り落として」

「すみません、今何と?」

「切り落とせと言ったんだよ、触れられたところ、今すぐに!」

 聞き返した長谷部に審神者は声を荒げた。滅多に聞かない怒鳴り声に長谷部は肩を竦ませた。

「あ、あの……」

「君に私以外が触れるようなことがあって良いと思っているのか」

「い、いえ、この身は主の物です……」

「分かっているなら早く切るんだよ、汚れた君なんて触れたくない、ほら」

 審神者は長谷部が携えていたへし切を指差して言った。顔は赤く目は据わっていた。酔った時にこそ本音が顕れるものだと次郎太刀か薬研かが言っていたことを長谷部は思い出した。

 長谷部は正座し、震える手でへし切を抜いて左肩に当てた。カソックは脱いだ方が良いのではないかと思い一度へし切を置こうとしたが、審神者が早く早くと喚くので諦めた。軽く力を入れると僅かに肉が切り裂かれる感触があった。時間をかければかけるだけ苦痛が長引くだけだと思い、長谷部は一息に腕を引いた。

「……っぐ」

 ごとん、と肩から左腕が切り落とされ、血を撒き散らしながら正面に立っていた審神者の足元に落ちた。審神者は舌打ちしてそれを蹴り飛ばし、ぱしゃぱしゃと音を立てながら長谷部の左腕は数十センチを這い摺った。

 長谷部はというと鼓膜に血が勢いよく溢れ出て畳を叩く音ばかりが響いていて、脳は激しい痛みに灼かれていた。普段もっと酷い痛みを伴う行為を受けている筈なのに、審神者の手で為されたものでなくその視線と体温も離れた場所にあるというだけで今の痛みの方が遥かに大きかった。霞む目で審神者を見上げると、平坦な色を塗った表情で長谷部のことを見下ろしていた。

「右は」

「今、ただ今切りますから……」

 左腕がなくなってしまったのでこうするしかない、と長谷部はへし切を畳に突き立て、柄を口で咥えた。全ての歯を噛み締めて刀身を固定し、其処へ右肩を当てた。「両肩を触られたのか」と審神者が蔑む調子で言った。長谷部は情けなさで泣き出しそうになったが、何とか堪えて目を閉じた。

「……、あ、ああぁっ……」

 やはり手で振るうのとは違い右肩は上手く切り落とせず、中途半端な深さの傷が肉を開いただけだった。焼けるように熱い傷口から流れ出した血がシャツを染め、べたべたと身体に貼り付かせた。とても不快だったが、そう言ってもいられなかった。――まだ主命を果たせていない。

「う、っぎ、……ぐ、……」

 長谷部はその皆焼刃へ叩き付けるようにして右肩を切り落とそうとした。とうに切り開かれていた肉を割って少しずつ骨が刻まれていき、ずる、と通り抜けるような感覚がしたと思った瞬間右腕が身体から離れていた。

 突然バランスを失った身体は無様に倒れ、長谷部は抗う術もなく血溜まりの中に突っ伏していた。倒れる時に刀身を掠めたらしく、頬からもぬるりと血が溢れているのが感じられた。両腕がないので起き上がることもできず、長谷部はただ必死で審神者へと目線を遣った。

「それで全部か」

 審神者は相変わらず抑揚のない声で言った。

「首は代えが利かないからね。精々気を付けるんだよ」

 その言葉と共にへし切が振り下ろされ、長谷部の胴を貫いた。どす、と音がした。長谷部は血液混じりの息を押し出されるままに吐き、暗くなる意識を懸命に保とうとした。

「……主命、と、あらば」

 その晩はそれが最後の言葉だった。意識の遥か彼方、酒に酔った連中の朗らかな声が響いていた。

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