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短篇集3

 

 それはある日の執務中のことだった。

「長谷部君さ、」

「はい」

 内番の割振表を手にした長谷部は、読み上げられたそれをパソコンで打ち込んでいた審神者に突然呼び掛けられて顔を上げた。

「もしもの話なんだけど」

「はい」

 表を文机に一旦伏せて置き、長谷部は審神者に向き直った。

 審神者はディスプレイをぼんやりと眺めたまま、頬杖を突いて続けた。

「一日だけ人間になれたら何したい?」

「人間、ですか」

 長谷部は突然の問いに困惑した様子を見せた。無理もない、彼はあくまで付喪神の身であり、審神者の所有物としての存在でしかなかったからだ。

「そう、人間」

「そうですね……。難しいですが、主と花を見たり、甘いものを食べて茶を飲んだり、そういうことがしたいですね」

「何だ、いつもやっていることじゃないか」

「そ、それはそうですが……。此の身でするのと人の身でするのとでは何か違うかもしれないと思いまして」

「なるほど、一理ある」

 私は人の身しか知らないから、そうなれば長谷部君が少し羨ましいな。審神者はそう言うとからからと笑った。

 長谷部は少し恥ずかしそうに顔を伏せ、審神者に尋ねた。

「そもそも、人の身と刀の身とでは何が違うのでしょうか」

「君も難しいことを訊くね」

「すみません……」

「謝ることはない、私も知りたいと思っているくらいだ。君と私、何が違うのか」

 審神者は頬杖を突いたまま長谷部の方を向き、ふっと微笑んで言った。

「一つだけ、確実なことがある」

「?」

「人間はいつか死に、そして彼岸へ渡る。君達は人間みたいには死ねない、折れて消えるだけだ」

「それは……どう、違うのでしょうか」

「長谷部君にはまだ難しいかもしれないな」

 眉を下げて顔を俯かせる長谷部を審神者は思わず撫でそうになり、伸ばした手を引き込めながら優しく言った。

「……それならば」

「うん」

「俺はもし人間になれたら、主と花を……叶うならば金木犀の花を見て、金平糖を食べて玄米茶を飲んで、そして主と共に死にたいと思います」

 呟くように言った後で失言だったと思ったのか、長谷部ははっとして慌てて取り消した。

「申し訳ありません、縁起でもないことを」

「いや、気にすることはない」

 審神者は身体ごと長谷部に正対し、何かを抑えようとする様子で身動ぎしながら言った。

「長谷部君がそう言ってくれて、嬉しいと思ってしまった……。叶うならば、君には私などの為に命を擲たないでほしいが」

「……何故、ですか」

「それもまだ、今の君には難しいかもしれない。いつか分かる日が来るだろうから、待っていてくれないか」

「……はい」

「そんな顔をしないでくれないか……。そうだ、少し休憩しよう。何か美味しい甘味でも食べに行こう」

「……はい、主」

 何とか笑顔を繕おうとする長谷部に、審神者は彼を無性に抱き締めたい衝動に駆られたが、自身にそんな資格はないのだと強く言い聞かせた。

(君を穢し、この上心中したいだなんて、赦される筈がない)

 こんなエゴのこともいつか長谷部は知ることになるのだろう、審神者はそう思ったが、今彼が知るのは世界の美しさだけで良いのだと頭を振った。


 

  ***


 

 審神者はほぼ毎晩のように長谷部を自室へ呼んでは虐げていたが、それも全て愛故の行動であったため、最中にはしつこいくらいに愛していると囁いた。

 それ以外の、例えば昼間に執務を行っているときであっても、長谷部に向かって君が大切だとか好きだとか言うことが度々あった。

 行為が終わってしまえば自身の愛情表現をひどく否定して長谷部に言い聞かせる審神者だったが、それでも長谷部は審神者に愛されていると信じていた。愛の意味を正しく理解していたかどうかはこの際問題ではなかった。

 自分に向かって繰り返される審神者の言葉はとても心地良いもので、長谷部は其処にずっと浸かっていたかった。温かく肌を撫でる其処は審神者の言葉と愛撫だけではなく寧ろ長谷部の血や漿液やそんなものから為っていたが、長谷部はそれに縋り、凄惨な夜を越える支えとしていた。

 それがある日を境に、審神者は愛しているとはぱったりと口にしなくなった。

 出陣の前や無事に帰還したとき、折々に触れて「長谷部君のことは大切に思っているからね」とは言ったが、寝室での行為の最中に囁くことはなくなった。

 何かを押さえつけているかのように口を噤んで押し黙り、黙々と長谷部を切り裂いては中身を引き摺り出して食したり、無言で長谷部の顔や身体を打ったりした。

 長谷部は審神者の下、嘗て見せたことのないような怯えた目でその仕打ちを受け、時折悲痛な叫び声を上げては慌てて掌を口に押し当て、それを殺そうとした。勿論それも手首から先が残っていたときの話ではあったが。

 愛していると言わなくなった審神者だが、長谷部の名前だけは頻りに呼んだ。

「長谷部君」

「はい、主」

 その言葉に縋るしかなくなった長谷部は必死で答え、主、主と呼び返した。

 長谷部が自身を呼ぶ声を聞く度、審神者は何処か苦しそうな笑顔を返しては手を止めた。しかしそれも一瞬のことで、すぐに長谷部から顔を背けては苛烈な痛みを伴う行為を再開した。

 全てが終わった後、審神者は長谷部を手入れ部屋へ連れていって丁寧に治し、長谷部の部屋まで彼を送った。

「おやすみ、長谷部君」

 行為が終わってしまえば審神者は長谷部の頭を撫でるどころか衣服に触れることもしなかった。良い夢を見るんだよ、と言い残して自室へ戻っていく審神者の背を見送ってから長谷部は布団に潜り込み、頭まで掛け布団を被ってしまうと目を閉じた。

 先程まで自分がもがき苦しんでいた布団とは異なり審神者の匂いがしないそれは、長谷部の涙を吸い込んで冷たく湿った。

「……主」

 一言尋ねてしまえば済む話だった、「何故愛していると言ってくださらなくなったのですか」、と。

 長谷部は審神者の答えが怖かった。ただの気まぐれだったらそれで良い、何か事情があったとしても構わない。

 しかし万一、事情があったのだとしても、「もう長谷部君のことは愛していない」と返ってきたら、と長谷部は戦慄した。自分に対する愛などは一片も残っていないけれども、欲を満たすためだけに仕方なく自分を虐げているのだとしたら、それは長谷部にとって非常な恐怖だった。

 勿論それで審神者が満足できるのであれば長谷部は構わないと思おうとした。だが一度温かさを知ってしまった長谷部は、審神者に突き放されたまま彼の言葉も愛もない身も凍るような場所であの行為に耐えられるとは思えなかった。

 本心でなくとも良い、長谷部はただ一言愛していると言ってほしかった。

 独りで夜を越えるには、もう限界だった。

「長谷部君、今夜部屋に来てくれるかな」

 執務の合間、審神者はいつものように長谷部に尋ねた。無理にとは言わないからね、と付け加えるのも忘れなかった。

「……はい」

 長谷部もいつも通りにそれを承知した。彼が審神者の申し出を拒否したことは一度たりともなかった。

 ちょうど話題が出たために長谷部は審神者に何故と尋ねようかと思ったが、陽が昇っている時間からそのようなことを口にするのは躊躇われて唇を噛んだ。

「長谷部君? どうかした?」

 眉を顰めた長谷部を見て審神者が尋ねたが、長谷部はいつものように綺麗に笑って答えた。

「いえ、午後の執務も主の期待に沿えるように、と思っておりました」

「そう?」

 審神者は納得がいかない様子で首を傾げ、低い声で言った。

「何度も言っているが、君が来たくないと思うのであれば私はそれを尊重する。君の本音が聞きたい」

 長谷部は心臓が跳ねるのを感じた。審神者に誤解をさせてしまった、決してあれから逃れたい訳ではないのに、と焦って手を付き、答えた。

「主、誤解を招くような態度を取ってしまい申し訳ありませんでした。俺はそのようには感じておりません、どうかご随意に扱ってください」

「……君がそう言うなら私はそれを信じるが、気が変わったらすぐに言うんだよ。分かったね」

「はい」

 危なかった、と長谷部は一人胸を撫で下ろした。

(主はいつだって俺のことを気遣ってくださっている、そのご厚意を無下にするところだった)

 執務に戻った審神者の横顔を長谷部はちらりと盗み見た。閨でのそれと変わらない柔らかい表情に、長谷部は安堵すると同時に淋しさを覚えた。

 自分の筋繊維が引き千切られていく音を聞きながら、長谷部は腕で目元を覆って悲鳴を上げた。

「いっ、いた、あぁああああぁあっ、あ、」

 涙も唾液もぼたぼたと垂らしながら喉を反らせる長谷部を、審神者は暗い目で見てふと手を止めた。

「っ……あ、あるじ……?」

 何か自分の態度が気に障ったのかと顔色を悪くして怯える長谷部の煤色の髪を掻き上げて、審神者はぽつりと言った。

「長谷部君、最近様子がおかしいね」

「え……? ごめんなさい、俺……」

 震える小さな声でごめんなさいと繰り返す長谷部を馬乗りになって見下ろしたまま、審神者は尋ねた。

「責めてはいないから、落ち着きなさい」

「は、はい、ごめんなさい……」

「それだ、それ」

「え、」

 審神者は長谷部の髪を撫でながら、幼子に言い聞かせるように話した。

「長谷部君、最近前よりも痛そうに見える。よく叫ぶし、すぐ謝るし、おまけに何かに怯えているようなその目だ」

「そうですか……? 申し訳ありません」

「ほら」

 謝ることは何もないのに、と審神者は言った。

「君を身勝手な理由で非道い目に合わせているのは私だ。君が私に遠慮する必要は何処にもない。何か言いたいことがあるんだろう」

「いえ、ありません、主」

「昼間」

 びく、と長谷部の肩が跳ねた。

「君は何か言いたげだった」

「いえ、本当に何もないんです、主」

「長谷部君」

 髪を撫でていた手を長谷部の顔の横に突き、審神者は苦々しげに言った。

「主命だ。言ってくれ」

「……」

 滅多に遣われることのないその単語に長谷部は言葉を詰まらせた。ただ主命に、審神者がそう表していなかったとしてもその主命に応えたい一心で封じ込めていた言葉を、今言わなくてはならない状況に置かれていた。これで主を失望させたら俺は主命を果たせないままになるのか、長谷部はそう考えると泣き出しそうな気分になったが猶予はない。何とか涙を押さえ込んで審神者に言った。

「……主」

「うん」

「最近、その」

「うん」

「最近……ある、主は」

 長谷部はじわじわと涙が溢れてくるのを感じ、もう言うより他はないと諦めてほとんど叫ぶように言った。

「主、何故俺に愛していると言ってくださらなくなったのですか」

 温い涙が頬を伝うまま長谷部が審神者の顔を恐る恐る見ると、審神者は動揺しているようで言葉にならない声を漏らしていた。

「あ、え、そ、その」

「主、俺は」

「待って、待ってくれ」

 審神者は手で口を覆うと長谷部から顔を背けた。長谷部にはその反応の意味するところが分からなかったが、失望されずには済んだのだろうか、と啜り泣きながらぼんやり考えていた。

 審神者は喉を鳴らして唾を飲み込んだ後、観念したように長谷部に向き直った。

「長谷部君」

「っう、はい、……」

「まず誤解の……誤解の、ないように言っておくが、私は君のことを今でも愛している」

「はい、主」

「だけど君を……その言葉で此処に縛り付けて、君にひたすら耐えさせるのは間違っていると思っていた」

「主……」

「愛だなどと、口にしなければいつか君は私のことを断るだろうと思って……言うのを、止めた」

「……」

「昼間、君はとうとう私から離れてくれると思った。だけど君はやはり此処へ来て、痛いと泣き叫んでも耐え続けて、挙句私の所為でまた辛い思いをさせた」

「主、」

「分かっている、どれもこれも私の身勝手だ。勝手に君に愛を囁いて、勝手にそれを止めて、今また君に言いたくて堪らなくなっている……。君を無理矢理にでも遠ざけるべきだったのか、こうなる前に」

「主、聞いてください、俺はそんなことは思っていません」

「君は勘違いしているんだよ、私に刷り込まれた言葉に縋っているだけだ」

 審神者までもが泣きそうに顔を歪め、長谷部を思い切り抱き締めた。

「あ、主……」

「どうして君はそう純粋なんだ、お願いだから私のこれを愛だなどと思わないでくれ、私などの言葉を欲しないでくれ!」

「主、主、お願いです、ただ一言、俺に仰ってください」

「駄目だ駄目だ駄目だ、また君を縛り付けてしまう、君をこれ以上穢れさせる訳にはいかない!」

「お願いです、主、お願いします」

「君は幸せにならなくちゃいけないんだ、長谷部君、そんなことを言うのは止めてくれ、頼むから、お願いだ!」

「……主」

 長谷部は審神者の腕の中で身を捩り、叫ぶような審神者の言葉を遮るように言った。

「主、お慕いしております、主」

「あ、長谷部、君……?」

「主、神罰があるのなら俺も共に受けますから、あの世での永遠の責め苦があるのなら俺もお供いたしますから、どうか俺をお傍に置いて、一言愛していると仰ってください」

「駄目だ、君は此方へ来てはいけない」

「主、俺の本音が聞きたいと仰ったではないですか」

 絶望に染まった審神者の顔を真っ直ぐに見て、長谷部は言った。

「俺は貴方に愛されていたい」

「……」

 遅かった、と声もなく審神者の唇が動くのを長谷部は見た。左腕を引き千切られたので、審神者を上手く抱き返せないのが長谷部は口惜しかった。それでも何とか残っている腕を回し、審神者の胸元に頬を寄せた。

「主、愛しています、俺も」

「長谷部君……」

「主」

「……愛、している、……」

 掠れた声で呟かれたその言葉を聞いて、ああ温かい俺の場所が戻ってきた、と長谷部は目を閉じた。


 

  ***


 

 はい、と審神者が差し出した盆には、ガラスの器に入った苺と銀のフォーク、そして赤いチューブが載っていた。

「今日のおやつだよ」

「ありがとうございます、主」

「これは練乳って言って、苺にかけると甘くて美味しいから使ってご覧」

 長谷部はチューブを手に取ってまじまじと眺めた。審神者はそんな彼の様子を見て微笑ましそうに言った。

「さ、食べて」

「いえ、主から召し上がってください」

「私は後から食べるから、長谷部君から、ね」

「……? はい」

 普段と異なる審神者の様子に長谷部は違和感を抱いたが、審神者のことだからきっと何かしら理由があるのだろうと考えてチューブの蓋を開けた。

 乳白色のとろりとした液体が真っ赤な苺にかかっていくのを長谷部は嬉しそうに眺め、チューブが器を一回りしたところで蓋を閉じてフォークで苺を刺した。

「頂きます、主」

「うん」

 長谷部が苺を口に含むと練乳が唇の端に残り、審神者はそれを見て目を細めた。

「主、美味しいです」

 長谷部が破顔してそう言ったのを聞いて審神者も嬉しそうに笑い、

「私の分は心配しなくて良いから、沢山食べなさい」

 と言った。

「主、甘くてとても美味しかったです。ありがとうございました」

 空になった器をフォークと共に盆へ戻し、長谷部は頭を下げた。

「それは良かった」

「空になってしまいましたが、主の分は……?」

 必要とあらば俺が取りに行きますよ、と言う長谷部を遮って審神者は立ち上がった。

「私の分なら此処にある」

 審神者の発言の意味を掴めない長谷部がきょとんとしていると、審神者は長谷部の隣に置かれていたへし切を手に取った。

「主?」

「うん」

 審神者は静かに抜刀するとそのまま長谷部の胴を薙いだ。一瞬遅れて暗い血がごぼりと溢れ出し、長谷部は目を見開いた。

「あ、主、何を」

「私の分、と言ったろう」

 一文字に切り裂かれた皮膚と筋の間に手を突っ込んで、審神者は長谷部の胃を無理矢理に引き摺り出した。

「ぐぁ、あ、いた、あぁ、あるじ、あ……」

「ああ、言い忘れたが、少しだけ我慢してくれないか」

「な、や、やだ、あるじ、……」

 噴門と幽門のそれぞれ近くで胃を切り離し、審神者は長谷部の体内から胃を取り出した。そして内容物が零れないうちにさっと切り開き、空になったガラスの器の上で引っ繰り返して崩れた緋色の物体をぼたぼたと落とした。

「ほら、見えるかい。私の分だ」

「あ、なん、で……」

「うん? 何でかって?」

 審神者は長谷部の胃から取り出した、彼が咀嚼し嚥下した後の苺をフォークで掬い上げて舌に載せた。

「君が食べたものを食べてみたかったんだ」

 崩れて練乳と混ざり合ったそれを飲み込んで、赤い舌が唇をするりと舐めた。

「うん、美味しいね、長谷部君」

「……」

 目の前に星が飛ぶ痛みと血を流しすぎた暗さとに包まれながら、長谷部はああ主が喜んでくださって良かった、と思った。


 

  ***


 

 ――「自己犠牲は美徳でないことをよく覚えておくように」

 審神者の言葉だけで頭を埋めて、長谷部は眼前の扉の向こうから響く音を聞くまいとした。

 耳障りな水音と何かがぶつかり合う鈍い音、それに絶えず聞こえる悲痛な叫び声を聞かされている彼は後ろ手に縛られて、鎖の先は天井に吊るされていた。

 一際大きく耳を劈いた悲鳴に長谷部は目を瞑り、思わず漏らしそうになった言葉を唇を噛んで押さえ込んだ。とうに破れていた其処からは血が滴り、冷たい床に一つ染みを残した。

 ――「良いかい、君は何も言ってはいけない。ただ耐えているように」

 審神者が言ったことを一つ一つ脳内で繰り返し、長谷部は正気を保とうとした。

(主が仰ったことを思い出せ、厳守しろ)

 目を見開いて何度も何度も自らに言い聞かせる長谷部に、誰かが嘲笑うように声を掛けた。

「主人を助けないのか」

(自己犠牲は、美徳ではない……)

 何も答えず俯いたままの長谷部を見遣り、声を掛けた誰かは扉を二、三度叩いて言った。

「まだまだ余裕そうだ」

 扉の向こうから何事かが返され、途端泣き叫ぶ声は一段と大きくなった。その内容も、最早人の言葉ではなく獣の咆哮に近かった。

 ぽたり、と長谷部の頬を伝って汗が垂れ、床の赤黒い染みを滲ませた。

(自己犠牲は、……、俺が……)

「このままだと壊れるだろうな」

 先程とは異なる誰かが言い、他の誰かがそれを聞いて笑った。

「なあ、助けないのか」

 知らない顔が長谷部を覗き込むようにして言ったが、その顔は翳に塗り潰されて見えなかった。長谷部はその問いには答えず、見知らぬ相手に吐き捨てるように言った。

「いつまで続ける気だ。主はずっと耐えていらっしゃるし、決して屈することもない」

(ただ耐えているように、私も耐える、と仰った……そうだ)

 睨みつけた長谷部の眼光すらも笑い飛ばし、また他の誰かが言った。

「まあ、後の楽しみが増えるだけだ」

「どんな表情をするか見物だ」

「手入れで治る身体じゃないというのに」

(俺なら手入れすれば幾らでも……触れさせたくない、と……)

 ひそひそと、しかし喧しく交わされる会話に長谷部の意識は混濁しかけており、時折胸を穿つ叫び声にびくりと肩を震わせては審神者の言葉をひたすら脳裏で唱えていた。

(自己犠牲は美徳ではない……俺はただ耐えていなければいけない……主は心配するなと仰った……主は手入れでは治らないのに、俺なら……俺が……ああ、主)

 長谷部が口を開こうとしたそのとき、不意に大きな音を立てて扉が開かれ、何か重たいものが長谷部の眼前へどさりと放り投げられた。

 乾いた瞳の焦点を無理矢理に合わせるとそのぼろ雑巾のような物体は審神者で、長谷部は手を伸ばすことを阻む鎖を引き千切ろうと身を捩って必死に叫んだ。

「主、主! 俺です、聞こえますか、主!」

「…………ああ、長谷部君、か」

 赤や白、色も判らない液体に塗れた顔を長谷部に向け、審神者は息も絶え絶えな様子で何とか微笑んだ。

「……言いつけ、守っているね」

「っ、はい、主命ですから、主」

 絶望と憤怒と惨憺で染め上げられた長谷部の表情を見て、審神者はぞくりと身を震わせた。

「はは……良い顔に、なったじゃないか、……帰ったら、また」

「はい、主、俺は待っていますから、どうか」

「ああ、良いか……言ったことは、絶対に、守れ」

 命乞いぐらいするかと思ったが、と誰かが言い、審神者の髪を乱暴に掴んで引き摺っていった。引き摺られた身体が通った後には歪で斑な跡が残り、再び閉ざされた扉がそれを断ち切った。

(全てが終わってあの部屋へ帰ったら、また俺の上で笑ってくださる)

「……俺は耐えます、主」

 助けないのか、とまた声が降った。長谷部はうっそりと笑い、それに答えた。

「生憎、それは主命ではないのでな」


 

  ***


 

 執務に関わることで政府のところまで出なければいけないのだ、と審神者は説明し、長谷部に同行を求めたのが昨日の出来事であった。

「主命とあらば」

 近侍である長谷部は一も二もなく承諾し、今朝は朝食を摂るとすぐに自分と審神者の外出の仕度を調え、本丸に残る他の男士達に粗相のないよう言い付けていた。

 普段、何がしかの用で万屋やその他のちょっとした店へ出向くことはよくあることだったが、今回の様な遠出は二人のどちらにとっても初めてだった。

 用事は滞りなく済み、審神者は夕方の少し前には解放されて長谷部と共に街を歩いていた。空は蒼と朱が静かに混ざり合ったような、形容し難い色をしていた。

 政府で働いている人間の為に誂えられているらしいその街には店だけでなく住宅も並んでおり、審神者は立ち並ぶこじんまりとした、しかし幸せを具現したような家々やブロック塀などを眺めては何処か面白くなさそうに目を逸らした。

「本丸や万屋のある町とは少々様子が異なりますね」

 審神者の一歩と半分だけ後ろを歩く長谷部が言い、審神者は少し言い淀んだ後でぽつりと返した。

「……此処は、本丸や政府の外の世界に似ているよ」

「そう、ですか」

 長谷部は審神者の所有していた書物に載っていた写真を思い出した。あまり過去のことは話したがらない審神者であったが、長谷部にそれらの本を見せて「私も元々はこんな世界に生きていたんだ」と話して聞かせたことがあった。

 長谷部の返事を聞いた後、審神者はもう何も語ることなく黙々と歩いていた。長谷部も審神者の胸中を察し、何も言わずにただ付いていった。

 舗装された道、壁のように聳え立つ建物と灰色の塀、時折髪を掬う冷たい風、そんなものの中を審神者は歩き続け、偶に曲がり角や突き当たりに行き当たると其処で曲がっては止まることなく歩を進めていた。

 街は次第に橙色に染め上げられ、家々の影からちらと見える太陽は卵の黄身のような濃い金赤色をしていた。物言わぬ長い光が眩しかった。

「……主?」

「うん」

 当て所なく歩き続ける審神者に、もしかして道に迷ってはいないだろうか、長谷部はそう思い始めていた。

 しかし審神者は予め政府から用意されていた地図を持って来ていた筈であり、長谷部はそれを確認しようと思い審神者に声を掛けた。

「地図を、確認いたしませんか」

「地図? ああ、あれか」

 審神者はしばらくぶりに足を止めると長谷部の方を振り返り、スラックスのポケットに手を突っ込んだままくしゃりと笑って言った。

「地図なんか捨ててしまったよ」

「え」

 長谷部は審神者の答えを聞いてさっと青褪めた。迷子になってしまったのだ、俺が付いていながら――。

 今にも手を突いて謝り出しそうな長谷部を見て、審神者は宥めるような調子で言った。

「まあ、大丈夫だ」

「あ、主がそう仰るのでしたら……」

 そう答えたものの長谷部はそわそわと落ち着かない様子で、審神者は長谷部のその様子をこっそり盗み見ると再び前を向いて歩き始めた。

(……本当は地図なんてなくても、道は分かっているけど)

 審神者は胸の内だけでそっと独り言ちた。

(このまま迷った振りをして、誰も居ない、知らない場所へ行ってしまいたいな)

 空はもう群青に染まり始めており、黒い鳥の影が群れを成して音もなく何処か遠くへ飛んで行った。

 審神者は一言「さて、帰ろうか」とだけ言うと、長谷部の隣に並んで歩き始めた。

 伸びた二つの影が、ゆらゆらと揺れては遠ざかった。


 

  ***


 

「今まで色々なことがあった気がする」

「そうですね」

「穏やかに最期まで全うできたことってあったっけな」

「ありましたよ、多くはありませんが」

「そうだろうなあ、大抵は私の自死で終わったんじゃないかい」

「困ったことに」

「……悪かった」

「腹を切るだけでなく入水したり首を括ったり燃えてみたり……。貴方のお陰で俺は自死の方法に詳しくなりました」

「怒っているのか」

「いいえ。腹を切る時に決して俺を使っていただけなかったことにだけです」

「私のような者が君など使って良い訳がない」

「……心中の際もそう仰っていましたね」

「……本当に良く覚えているね」

「近侍として当然です」

「……まあ……。何度も終りを迎えてその度また此処へ戻って来て、最初の日に君と邂逅した」

「偶然ではありません、きっと」

「そうかもしれない」

「そうです」

「君も言うようになったものだ」

「貴方の近侍ですから」

「……まあ、何の因果か、私と君は気の遠くなる時間主とその近侍で在り続けた」

「喜ばしい限りです」

 

 黒く濁った、形を持たない身体をぐちゃりと捩らせ、審神者はやはり真っ黒な眼窩と思しき穴を長谷部に向けた。

「……もう、光も音もほとんどわからないんだ」

「……はい」

「それでも君の声はとても透き通って聞こえるし君の姿も眩しいほどはっきり見える」

「……」

「……何処から間違えたんだろうな。初めからかな。出会うべきではなかったんだろうか」

「貴方は間違ってなどいませんでしたよ、最初から最期まで」

「……こんな、因果を溜め込み過ぎた、人ではない形の私でも主だと言って仕えてくれた君を、また待ち侘びてしまうことを赦してくれないか」

「……貴方が俺に赦しを求めたのは初めてですね」

「その資格がないことは分かっているよ」

「……必ず迎えに行きますから、それまで待っていてください」

「ああ」

 

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