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短篇集25

 長谷部にとっての夜は精々日付が変わるまでで、それは酷く薄くて短いものだった。彼にとっては審神者と二人で過ごす時間というものこそが夜であり、それ以外は希薄で空虚な時間だった。
「主」
 手入れ部屋でふと零した名に、審神者は耳聡く反応を返した。
「どうした」
「いえ、……何でもありません」
 寝かせられている布団はいつも初雪のように真っ新で、顔の近くまで引き上げた部分からは綿の匂いが微かに漂っていた。だがそれはいつも冷たく、どれだけの時間其処に横たわっていようと、少しも暖まらないのが常となっていた。
 審神者はいつもの陰鬱な顔をして長谷部を怪訝そうに眺めている。――一緒に寝たいです、などとは口が裂けても言えなかった。審神者はそういった言葉を嫌う。時として過剰に過ぎるほどに。
 長谷部を手入れして、自室まで送って行った後、私室で一人過ごす審神者の姿を長谷部は終ぞ見たことがなかった。長谷部を切り離した後の夜は一体どのような色に見えているのか、審神者の黒い双眸が視界に過る度、想像せずにはいられなかった。
 その心の深いところにまで触れるのを許されているのは、此処では長谷部一人だった。審神者という人の裡の奥深くには、長谷部には到底理解の及ばないようなものが黒々と渦巻いていて、審神者はそれをひた隠しにしながらも、時折一部分だけを少し掬っては長谷部の眼前に示してみせるのだった。
 あの淀んだ河の水のような夜を、きっと主は過ごされているのだろう――長谷部が考えたのはそういうことだった。寒気が背筋を走り、冷え切った布団の中で思わず身を縮こませる。
「主」
「何だい」
 審神者の目蓋は半分降りていて、それは眠気の所為かもしれなかったし、或いは憂鬱がもたらしたものなのかもしれなかった。いずれにせよ長谷部には区別が付かない。
「よく喋るね、今日は」
 揶揄するような口調で審神者が言うので、長谷部は羞恥を覚えて顔と目を伏せた。
「……夜は」
「夜?」
「御一人の夜は、どう過ごされているのですか」
「どうもしないよ。本を読むか仕事をするかで、後は寝ている」
 審神者はそれについて何とも思っていないようだった。元々自分というものを意図的に希釈している人間だったから、嘘偽りも何もなく一人の夜をただ流していることは容易に予想ができた。君はどうなんだと言いたげな視線を受けて、長谷部は布団の中に潜り込んで隠れてしまいたくなりながらも重い口を開いた。
「俺は……何もすることがないので、……何、も、していません」
 本は読みますが、と付け加え、一方でこの会話が――この夜が永遠に続けば良いのにと思いながら、繫ぎ止める為の言葉を必死に探していた。
 傍に居てくださいと言えたらどんなに良いだろうか、長谷部が望んでいるのはそれだけだった。夜が、二人で在る夜がずっと続くこと、審神者が彼を拒絶しないこと。こうしている間にも審神者は立ち上がり、「部屋まで送って行くよ」と言い出しそうなことが拍車を掛けていた。

***

 ネクタイを結んでいると、長谷部の視線が私の上に留められていることに気が付いた。結び目を滑らせながら、目を遣らないままで「長谷部君」と呼んだ。
「どうした」
「いえ、その……今日の夜、少しお時間を頂けませんか」
「構わないよ」
 身仕度を終えて靴を履いていると、縋るような感情が私の裾を引いた。振り切れずにいる自分に溜息が漏れて、私は髪を一度だけ撫で付けた。除いても除いても長谷部の不安は滲み出て、それを押し隠そうとしているらしいことが私は気に入らなかった。確かに私は主としても一人の人間としても頼りない、だが彼にとっては、――いや、私は長谷部の何なのだろう。パートナーというには、あまりに情けなかった。
「行ってくるよ」
「はい、主」
 長谷部はどんな顔をしていたのだろうか、と考えながら通勤路を辿る。嗚呼、私も長谷部に話すべきことができた。つい今しがた。

「先に君の話を聞こうか」
 入浴も済ませてしまってから、長谷部をベッドに座らせて私は床の上に腰を下ろした。長谷部はこれも気に入らないようだった。主人である筈の私が彼より下に座っていることが受け容れられないのだと言う。私は彼の主にはなれないし、一対一で付き合うことのできる人間にもなれない。情けないことだ。
「はい、主」
 言いながら、長谷部は手をきゅっと握っていた。
「俺は、重荷になってはいませんか」
「一点を除いて不満はないよ」
「……教えて、いただけませんか」
 震える声に思わず目を伏せた。私はいつも、伝え方を間違える。そうじゃない、と言葉が漏れた。
「私も話したいことがあった、ちょうどそのことだ。それに君が話したいことは、私が話したいことと同じだったらしい。私は君の重荷になってはいないかと、そう訊きたかった。君は私に何も言ってはくれないが、それは私が主として頼りないからなのかと」
 重荷でなくても、枷でも呪縛でも何でも良い。その考え自体がみっともないと分かっていても、私は長谷部の前でだけはただただ格好付けていたかった。彼を巻き込んだ張本人として。
「俺は、そんなつもりでは」
「長谷部君」
 止め処ない自戒の言葉を遮って、私は言った。
「君の不安は何処から来るんだろうな。私の何が悪いのか、ずっと考えている」
 私が悪くないとは言わないでくれよ、と先回りして、私は手を伸ばし長谷部の左手をそっと握った。
「君を幸せにすると誓ったのに、不安にさせたままではいられない」
「……主にとって俺の存在が枷になってはいないかと、不安になってしまう時があるんです」
 うん、と私は頷いた。
「大丈夫だと、そんなことはないと何度繰り返し言い聞かせてくださっても、また何処からか同じような不安が湧いてきてしまって、俺は主にとって迷惑なのではないかと考えてしまうんです」
「私も同じだよ」
 胸の奥が強く締め付けられるような痛みを覚え、微かな呻き声が肺から逃げて行った。長谷部は痩身を折るようにして、じっと何かに耐えていた。
「外からではなく内から湧いて出る不安というのは、どうしたって消せるものではない。君は君のままで、私は私のままだからね。それは誰かの声が届くほど浅い場所にあるものではないから、自分一人で潜って行って戦わなくてはならないというだけだ」
 私達は途方もないほどに孤独だった。自分というものの奥深くに潜り、己の不安と対峙する。そんな骨の折れる仕事を、誰の助けもなくやり果せなければならなかった。
 同じ悩みを持ち、握った手の温かさを知り、それでも私達は膜一枚のところで隔たれていた。
「何度でも、……君を愛していると、不安になることなどないと、そう伝えることしかできないが……傍にいてくれないか、どうか」
「主、……俺も、」
「良いんだよ、君は君の幸せだけを考えていれば。それが私にとって何よりの幸福なんだ」
 それだけ言い終えると私は長谷部から目を背けて、冷たい布団の中に潜り込んだ。指先にまだ残っている長谷部の体温だけが、私の心を此処に繋ぎ留めていた。
「おやすみ、長谷部君。愛しているよ」
「……おやすみなさいませ、主」
 目を閉じて、私は裡へ裡へと潜り始める。愛している、と呟いてみると、気泡がこぽりと上がって行った。

***

 

 

 全て夢であったという夢を見たのだと長谷部は言う。夢の中で夢を見るとは何とも器用なことだ、と審神者は胸中で独り言ちた。
 視線を湯呑の中に落とし、長谷部はただ淡々と〝夢〟の話をし続けた。全てが夢であったということは、すなわち今のこの現実が何もかも反転していたということに等しい。長谷部だけが長谷部たるまま、彼を取り巻く環境の全てが今とは真逆の位置に座していたのだろう――審神者すらも。
 長谷部はその一点、審神者がどういう人間として彼の夢の中に立ち現れていたのかについて言葉にすることは慎重に避け続け、故に彼の瞳は決して己の主を映そうとはしなかった。藤色に波紋が揺らいだかと思うと、それはすっかり冷めてしまった煎茶の水面なのだった。
 本丸ではない世界があったと長谷部は言った。其処に戦いはなく、彼はもう刀を握ってはいなかったと言った。それでは何の為に立っていたのかと問うと、暫し言い淀んだ後で長谷部はぽつりと呟いた。
「分かりません」
 愉快なことだ、と審神者は笑った。何とも夢らしい夢ではないかと。長谷部は僅かに震える手で湯呑を置いて、何処まで見透かされているのかと恐る恐る審神者の顔を覗き込んだ。審神者はいつも通りの微笑を浮かべているばかりで、長谷部は濃い霧に覆われた山道の向こうを必死で見通そうとしているような気分になった。遭難して途方に暮れる長谷部を、審神者はただ微笑んで見守っているのだった。
 言うべきこともなくなって、いよいよ審神者について言及しなければ不自然な場の空気が出来上がりつつあった。夢であった夢の中で、長谷部にとっての審神者はどのような人間であったのか。
「私はどうだったんだい」
 何でもないことのように、審神者が言葉を滑り込ませた。
「君の夢の中で、私はどう在った」
「主、ですか」
「そう、私」
 それとも私は居なかったのか、と冗談めかして言う審神者へ長谷部は慌てて否定をして見せた。審神者は淋しそうに、しかし何処か嬉しそうに小さく首を傾げ、それで? と続きを促した。
「主は……主のお言葉をお借りするならば、正常、でした」
「正常? へえ」
 それはいい、と審神者は肩を揺らして笑った。細部まで語らずともその意味は通じたらしく、正常、正常かと繰り返し呟いている。
「嘗ては私もそうだった。顕在化していなかっただけで」
「顕在化」
「あの頃の私であれば、君を今とは違ったやり方で愛せただろうな」
 君の良く知るやり方ではなく、と審神者は付け加える。目は剣呑に光を呑み込んで、細められたそれが長谷部を見据えた。
「隠されていたということですか」
「押し殺していた」
 審神者は僅かに表情を歪めて言った。
「表に出なければ、それは無いのと同じだろう。あの頃の私であれば、君も想ってくれただろうか……」
 懐かしくも苦しげに、思い出したくないかのように眉を顰めて審神者はぽつりと言った。審神者の胸を刺す苦痛は、長谷部の身体をも貫き苛んでいた。審神者が片笑みながらしていることは己の存在の否定であって、長谷部はその点において非常に無力だった。のろのろと胸の辺りを這う右手が、長谷部を審神者の懊悩に関わらせることを拒んでいるかのようだった。
「また、夢を見られると良いが」
 そして審神者は話を打ち切り、
「……はい、主」
長谷部は曖昧に微笑んでそれを受け容れた。

 頰に零れる生温い液体に、長谷部はふと我に返った。審神者はつい先刻まで長谷部の内にあった臓器を捧げ持ち、その表面を小さく噛み切った。ぼたぼたと滴った血を避ける為、長谷部は片目を閉じた。
「……少し苦い」
 言って、審神者は手にしていた肝臓をぼとりと落とした。では肉を召し上がりますか、と長谷部が問うことはない。長谷部はあくまで求められるだけの存在であるようにと、審神者は言外に望み続けていた。審神者は自分が望むところを長谷部に為すだけだった。この寝室において、長谷部はただ与えられるだけの存在だった。
 審神者はへし切を取り上げて、長谷部の脇腹から肉を削いだ。噛み千切られるよりも遥かに弱い痛みに、長谷部は小さく息を吐いた。苛烈な行為は好きではなかったが、全てを否定する気にはなれなかった。どのような形であれ、それは審神者の愛に他ならなかったからだ。長谷部という刀がそれを拒む筈がなかった。肉は咀嚼され、喉を降りて行く。
「君が愛しくて堪らない」
 心底から慈しむような声だった。
「夢の中の私は、君を大切にしていたのか」
「……え?」
「君はちゃんと、私に大事にされていたのか」
「あ、はい……俺を愛してくださっていました、今と同じくらいに」
 無言で少しだけ笑い、審神者は握ったままだったへし切を畳の上へ置いた。「そうか」と力ない声が部屋の空気に凝って落ちた。今夜の行為はそれきりで、しかしすぐに手入れ部屋へ行く気力はないのか、審神者は血塗れの長谷部の身体に布団を掛けてやったきり動こうとはしなかった。
 長谷部は気を遣って黙っていた。正常たり得ないことが審神者を苦しめているのだと、そう納得して彼なりに己の主を気遣っていたのだった。今にも「夢が夢でなければ良い」と言い出すのではないかと思っていた。
 だがそうではなかった。長谷部から想われること、情愛を返されることを審神者に赦さないのは他でもない審神者自身であり、それは長谷部への愛寵が今のような形を取り続けている以上は決して破られてはならない禁則だった。愛とは受容であると、審神者はそう考えていたからだ。
 だからこそ長谷部の夢を、想われる自分という可能性、分岐し廃棄された自分の存在を、審神者は羨んでいた。長谷部から想われること、それは渇望して止まない一つの状態であり、決して手に入らない紅い実なのだった。
「すまない」
 座り込み、頭を膝に埋めて審神者は言った。
「手入れは、もう少し後でする」
 はい、主という声は無視をする。長谷部の心が諦めきれず、それでもできることといったらただ彼を陵辱するだけで、行為は空白を埋めるように激しさを増すばかりだった。
 あの頃のままなら、と審神者は自問する。自分を諦めて押し殺していたあの頃の私なら、長谷部に愛されることも叶ったのだろうか。こんなことには、ならなかったのだろうか。横たわる長谷部をちらと見て、早く眠らせてやらなければと考えるも手脚は鉛のように重かった。

***

 

 

 雨は好きか、と問う声が、雨樋から静かに流れていく雨の音に乗って消えていく。或いは畳の上を音もなく流れる血と共に、流れていっているようにも感じられた。
 霞む目で見上げた審神者がどのような表情をしているのか、長谷部には分からなかった。首筋からはただ滔々と命が流れ出て、しかし長谷部にとって命とは、審神者が在る限り枯れることなく無尽蔵に存在するものでもあり、思考はいつもの通り澄んでいた。
「嫌いではありません」
 自分の血に濡れそぼって体温は下がり続け、長谷部はまるで大雨の中に横たわっているようだと考えていた。主、と声もなく呼びかける。お身体に障ります、戻りましょう――何処へ?
「私も」
 言葉と共に、力無い腕が長谷部の身体へ回された。

「雨は好きだ」

 

 執務の合間の緩んだ時間のこと、審神者がふと口走ったのは、
「君は神ではないものな」
という一言だった。
「……?」
 困惑して自分を見つめる長谷部へ、審神者はまた付け加えて言った。
「私を神域とやらへ連れて行ってはくれない」
「神域、ですか」
「そう、君の依り代、この世との境を超えた場所。君を閉じ込めておける場所」
 長谷部は戸惑ったようにペンを置き、審神者へと向き直って言葉を探した。
「俺を閉じ込めておくと言うのであれば、主の御部屋であっても可能なのではないですか」
 あの、押入れですとか――そう言って、長谷部は奥の寝室をちらと見た。審神者がそれを望むのであれば、臣下である長谷部に拒める筈もない。手足を縛るような真似をしなくとも、黙って何日でも何月でも押入れに仕舞い込まれているだろう。
 仕舞い込まれることには慣れ切ってしまっていますから、と長谷部は声には出さず独り言ちた。一方で審神者は小さく目を瞠って、それから「君を閉じ込めるのか」と言って笑った。
 その晩は雨が降った。

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