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​短篇集24

「おい長谷部」
 額を伝う汗を手の甲で拭いながら、俺は長谷部へ呼びかけた。両手でしっかりとシーツを掴んでいる所為で、長谷部の顔は丸見えだった。紅潮した頰は汗と涙で濡れている。あ、と掠れた声が喉から漏れるのが聞こえた。
「気持ち良いか?」
 長谷部は金魚みたいに口をぱくぱくさせて、
「い、きもちいいです、あるじ」
と即答してきたので、俺はその顔を強かに殴り付けた。
「良い訳ないだろ」
 冷笑してやると、長谷部は泣き笑いみたいな妙な表情を浮かべながら途切れ途切れに喘ぎ声を上げ、
「あ、ごめんなさい、あるじ、ごめん、なさい」
と謝ってきた。俺は丸きり無視をして、下腹部の快感に意識を集中させた。
 長谷部の腸は身悶えするみたいに捩れて絡まり合っていて、其処へ挿入した俺の陰茎を絞め殺さんばかりに巻き付いては絞め上げていた。血や粘液がちょうどいい潤滑剤代わりとなって俺の上を滑っていくので、気を抜くと一瞬で持っていかれそうだった。
 上目に見ると、長谷部は真っ白な喉を目一杯反らせて必死に空気を吸っていた。手を伸ばしてその首を無遠慮に絞めてやると、嬌声は一段と盛り上がり、全身が真っ直ぐに突っ張って押さえ付けるのに苦労した。それでも内臓だけは俺に全身で媚び続けていて、俺はそろそろ限界を迎えようとしていた。
 長谷部の首を両手でへし折らんばかりに絞めてやって、激しく腰を打ち付けるとやがて何かが上り詰めてくる感覚が俺を支配して、俺は呻きながら身を折って射精した。長谷部の中を、俺の体液が汚していく。快感と入れ替わるようにして何もかもが抜けていくような虚脱感が俺を訪れて、俺は転がり落ちるように布団の上へ寝転がり、枕元のティッシュを数枚取って後始末をした。
 下着姿のままで余韻に浸っていると、意識を取り戻したらしい長谷部がのそのそと起き上がって、開口一番「すみませんでした、主」と興の冷めることを言ってくる。
「主、あの」
「それ仕舞えよ」
 腹からはみ出して垂れ下がっている臓物を指して言うと、長谷部は慌てて腹腔へと押し込み始めた。他でもない俺の所為でそんなことになっているのだが、俺達の間ではそういった会話が交わされることはない。あくまで一方的な関係に過ぎないのだから、相互理解の為の会話など必要なかった。
 長谷部が腸を持って腹へ押し込む度に、官能的な水音が部屋を、俺の鼓膜を震わせる。俺は胸を大きく膨らませ、それから一つ、大きな息を吐いた。長谷部は怯えた様子で身を強張らせる。
「なあ」
「は、はい、主」
「気持ち良かったのか?」
「……」
 ぴたりと止まった手の隙間から、生々しい桃色をした腸がだらりと零れた。こうして見るとなかなかグロテスクだ。ところどころには俺の出した精液もこびり付いているし。
「おい」
「……すみません、主」
「何だってそう俺の顔色ばっか窺うんだよ」
 言いながら、手加減なしに殴った。
「良い訳ないだろ」
「はい、すみません、主、ごめんなさい」
「……」
 もう一度殴るとひゅっと息を吸う音がして、長谷部は両手で頭を抱えて身を縮こまらせた。虐待されてる子供みたいだな、と俺は内心で冷静にせせら笑っていた。ごめんなさい、と俺に許しを乞う声が聞こえない訳じゃない。だが許すも許さないもないこの部屋の中で長谷部がそう繰り返すというのはつまり、自分が楽になりたいからというだけなのだろうと考えていた。俺はそんなに甘くない。俺は長谷部を"使っている"だけなのだから。
「長谷部」
「はい……」
「痛いか?」
「……はい、主」
「痛いより気持ち良い方がいいよな?」
「……」
 長谷部は口籠って俺から目を逸らした。殴ると今度はちゃんと俺だけを見た。大方、引っかけ問題か何かではないかと警戒しているのだろう。だが俺はあまり気の長い方ではない。その気はないが手を振り上げてみると、慌てたように口を開いて喋り出した。
「い、痛いのは、好きではない、ですが、……主が、されたいように、してくだされば、俺は痛くても構いません」
「ふうん」
 俺が殴りも怒りもしなかったので、長谷部は拍子抜けしたらしかった。俺のことを何だと思っているんだろうか。別に暴力を揮うことが目的な訳ではないのだが。
「俺はいつもしたいようにしてるけど」
 そう言うと、長谷部は相好を崩して今にも「有難き幸せ」なんて言い出しそうだった。俺に諂うような長谷部のその態度が、俺は嫌いだった。俺に本音を言えないというのは、長谷部が俺を信用していないということなんだろうか。俺に身体を委ねて文句の一つも言わないというのは、それで俺の機嫌を取ろうとしているだけなのだろうか。
 苛々しながら眼前に意識を戻すと、涙で目を潤ませて、元々白い肌を俺からの殴打によって赤く染めて全身を小さく震わせている長谷部がいた。
 取り敢えずもう一回ぐらいしてから考えようか、と思い、俺はへし切を取って長谷部の身体に手を伸ばす。胸を開け、肋骨に擦り付けたら気持ち良いだろうかと考えていた。
「なあ」
 言葉が勝手に口を衝いて出ていた。
「俺に嘘は吐くなよ」
「はい、主」
 信用できねえな、と思いながらへし切を突き立てた。俺の下で、長谷部が苦痛に息を呑むのが見えた。

***

 毎晩寝る前、金属のシートから錠剤を押し出す。一回に三錠。グラスに用意しておいた水でそれを流し込み、深い溜息を吐く。
 私が自らの欠陥を強く意識するのは、こうして掌に薬の粒を取り出している時だった。じっと此方を見ている長谷部に呼びかけると、何でもないといった風な顔をしていいえ、とだけ言う。そして二人それぞれに布団へ潜り込み、灯りを消すのが毎日の習慣となっていた。
 長谷部は度々、何か私に負うところがあるような目をして此方を見た。一番多いのは私が仕事から帰宅した時だった。私の鞄を受け取りながら、靴を脱ぐ私の顔をじっと見つめているのだ。
 夕食の席、汁椀に口を付けながら、そういえば前に長谷部のことを殴っていた時期にもああいう表情(かお)をしていたな、と思い出した。私が散々に殴り付けた後、息を弾ませている私の下で、赤く腫れた顔にあの目をしていた。
 殴られている側が、というのはどうにも解せなかった。私は長谷部が謝罪の言葉を口にすることを許さなかったから、代わりに視線で、とでも考えていたのだろうか。だがあの頃の、そうした自分を責めることになるだけの行動に敏感だった私が気付かない筈がない。気付いて、また滅茶苦茶に長谷部を打ち据えた筈だ。
 今でもそうしないとは言い切れなかった。やってしまった後は毎回正気に戻るのだが、殴っている最中は長谷部のことが可愛くて仕方がないのだ。或いは"私の長谷部から外れた"言動をした長谷部を直す為に殴っていたのだとすれば、それも納得のいく話ではあると思う。
 何処か怯えた顔をして、長谷部は私を見ている。

 あるとても憂鬱な夜のこと、私は思索に耽っていた。仕事には特に不満はなかった。業務関連のこと以外では私に話しかけてくる者もいない。快適な職場だった。
 考えていたのは当然長谷部のことだった。彼が彼の存在を肯定できないこと、行動による結果を以てのみそれを可能にできることの原因は何なのだろうと。私が何度言い聞かせても、長谷部は「自分は此処に在るだけで良いのだ」ということを理解できず
――付け足しておくと、これは私の暴力以前からの話だった――私の為に役立てなければ存在してはいけないとでも思っているようなのだった。
 長らくこの理由が分からずにいたが、何故かこの夜は、信長という男が原因に決まっているだろうということに唐突に思い至った。下げ渡されたこと、即ち棄てられたことの苦い経験が理由でなければ他に何があろうか。
 斬れ味を誇りにしていた長谷部は呆気なく下げ渡され、黒田では碌に働くこともないままにただ飾り続けられていたと聞く。その後は博物館で展示されるだけの日々だったとも。働かなければ、役に立たなければまた棄てられてしまうという恐怖の中、ただ飾られるだけというのは長谷部にトラウマのようなものを残したのだろう。なればこそ彼は、本丸に居た頃から主命を強請り続けていたのだ。
 
――また〝前の主〟か、と私は溜息を吐いた。テーブルの向かい側で湯呑を手にしていた長谷部がびくりと反応する。別に何もしやしない。テーブルをひっくり返して長谷部の胸倉を掴んだり、……そういうことは。
「長谷部君」
「はい、主」
「……君は」
 下げ渡されたことを今でも抱え続けているのか、そう尋ねようとしたが、あまりに直接的すぎるかと思い直した。
「いつも、良くやってくれている」
「そう、ですか? まだ至らぬ点ばかりで」
 本丸に居た頃の虚勢は何処へ行ったのだろうか、自分こそが最も私の役に立てると豪語していたあの長谷部は。……私が殺したのだろうな、とまた溜息を吐いた。長谷部もまた、誤解をする。
 何のことはない。私はただ長谷部に、彼の存在だけで私が救われていることを理解してほしいだけなのだ。掃除も洗濯も料理も、私の為に茶を淹れることだって必要ない。傍に居てくれさえすればそれで構わないのに、……どうして長谷部は、分かってくれないのだろう。
「長谷部君」
 声は不機嫌さが透けて低くなっていた。
「居てくれるだけで良いと言っているだろう、いつも」
「はい、……理解はしているつもりなのですが」
「君が居るだけで私は救われるというのに」
 そう言うと、長谷部は唇を噛んで押し黙った。長谷部の方は微塵もそう思っていないのが一目瞭然だった。私は自嘲した。
――長谷部の目は、薬袋の上に留まっていた。
「君は私を信じていないようだ」
「……そんなことは」
「居るだけで良いのなら、本丸であんなことはしなかったとでも思っているんだろう? それともこんなものを服みはしないと思っているのかな」
 長谷部はまた黙り込んだ。比例するように私は饒舌になっていく。
「君を棄てたのは私ではないし、私は君を棄てないと言っているのに。君は此処に居るだけで良いんだ、どうしてそれを分かってくれない? 君は私の傍に在るのでは、自分を肯定できないということか。君を棄てた男でも、君を丁重に仕舞い込むだけだった男でもない私では、君に相応しくないと」
 喋れば喋るほど、長谷部は泣きそうな顔になっていった。それなのに否定の言葉一つ吐かず
――これは私を逆上させるだけだと知っていたからなのだろう――健気に耐え続けていた。
「どうしてそんな目で私を見るんだ」
 憐れんでいるつもりか、と空になっていた湯呑を投げ付けると、長谷部に当たって鈍い音を立てた。微動だにしないまま、長谷部は口を開いて震える声で弁明した。
「俺は、主に申し訳ないと思っているだけです」
「何を」
「……主の御役に立てないことが、俺の、主の仰る存在意義というものを、削り取っていくんです」
「役に立てないというのなら、君は居てくれるだけで良いと」
「主が」
 長谷部は私の言葉を遮った。
「主が俺を殴られていた時、本当はこんなことしたくないのだと仰っていたのを聞いて、俺は主の苦痛を何も取り除いてさしあげられないのだと思いました。……最近は、薬に頼られはしますが、俺には何でもないと無理をして笑われるばかりで、……俺は無力感で一杯でした。俺にはもう、主の仰る俺というものが分かりません。俺は、必要ですか、主」
 今度は私が寡黙になる番だった。それであんな目をしていたのか、と合点がいった。
「……私の所為だったんだな」
 立ち上がり、床に転がっている湯呑を拾って流しへ置きに行った。
「薬が良いのは」
 再び腰を下ろしたが、長谷部の顔は強いて見ないようにした。
「夜の間見続ける悪夢の輪郭を、目が覚めるその瞬間に酷く曖昧なものにしてくれるという点だ。私は〝悪夢を見た〟という感覚しか覚えていないから、夢の内容によって苦しめられるということがない。……現実での悪夢は、君を苦しめているというこの事実だ。これは薬でどうにかできるものではない。私は私を救えない所為で、君を傷付ける」
 
――言葉でも、暴力でも。それ以上言うこともないので黙っていると、長谷部がおずおずと口を開いた。
「……俺はずっと、申し上げたかったことがあるんです。ですが主の命に背くことになると思い、言えずにいました」
「言ってくれ、何もしないから」
「……主の役に立てなくて、ごめんなさいと言いたかったんです」
「……」
 今この現実の輪郭を失わせる薬があれば良いのに、と思った。長谷部は静かに泣いていて、私は戸惑うばかりだった。
「主の、苦しまれている主の為に何もできないことを、ずっと謝りたかったんです」
「何で
――どうして謝るんだ、君は居てくれるだけで良い、謝ることなど何もない」
 長谷部を殴ったのは、長谷部に非があったからではない。本丸の時だってそうだ。私がしたくてやったことで、私は私を赦すことができず、それで長谷部を苦しめている。
「私が
――私が自分を肯定できない所為で君も君を肯定できていなかったんだな。謝るべきは、私の方だ」
 強張った両手を床に突くと、動揺した長谷部が止めてくださいと縋ってくる。安い私の謝罪に一片の価値もない。顔を上げた。
「私は、馬鹿だ」
 見ないでくれ、と声にならない叫びが出た。
「君を不幸にするだけだと分かっていても、君を愛した過去も、君を愛している現在(いま)も捨てられない。君を、捨ててやれない」
 自分の所為だと罪悪感を募らせる藤色の双眸に、私はもう耐えられなかった。
「君は、私に負うところは何一つないんだ。だから……そんな目で、私を見ないでくれ」
 ふらふらと立ち上がり、薬を一錠、二錠と手に出しては噛み砕いた。三、四、五。六錠まで数えたところで突然に吐き気が込み上げてきて、慌ててトイレに駆け込むとそのまま吐いた。
 薄黄の嘔吐物を眺めながら、嗚呼、過剰摂取はできないようになっているんだな、と冷静に考えている自分がいた。半ばの放心状態でも情けなくて情けなくて、消えたいとすら思った。
「主、大丈夫ですか」
 様子を見に来た長谷部は、きっとまたあの目をしているのだろうと思った。顔を上げる気にならず、磨かれた便器を抱えたまま、私は自分が吐いた物へ向かって話しかけた。
「酷い主だ、なあ」
「……俺は、そうは思いません」
 "長谷部は嘘を吐いた"。
「嘘を吐くなよ、私は最低の主だ。そうだろう?」
「……主はそう思われるのですか」
 口の端から、唾液がつっと垂れていた。か細い理性の糸は、毎晩、薬を押し出す度に切れてしまいそうな危うさを孕んでいた。
「思うよ」
 糸は切れ、嘔吐物の海へと落ちていく。
「君の為に命を絶ちたいと願うほどにね」
 笑い出したいほどに惨めだった。息も整ったので身を離し、ボタンを押した。私が吐き出した物が流れていく。
――私の存在は、ああもたやすく押し流せはしないのに。
 口を濯いでから振り返ると、長谷部はまたあの目で私を見ていた。
「なあ、私は最低だが」
 私の輪郭は、厭というほど明瞭だった。
「せめてそんな目で私を見るのは止めてくれないか」
 私以外の何者も、私を殺せない。
――すみません、主に不快な思いをさせるつもりでは」
「分かっている」
 近寄って、抱き寄せた長谷部の髪を優しく梳いた。私が少しだけ、融けていく気がした。
「俺は、何か御役に立てませんか」
 呟くような声が聞こえる。長谷部を抱く腕に力を込めた。
「ついさっき、言っただろう」
「他には、ありませんか」
 私は少しの間、言葉を失った。
「君は私の為に家のことをしてくれるし、他にも菓子を作ったり茶を淹れたりしてくれる。それで十分だと言いたいが
――
 もう一度髪を梳いた。穢れのない、煤色。
――君を愛しても良いのだと、こんな私が君を想うことを赦してほしいと願うのは……」
 傲慢だろうな、と零して、後は黙っていた。
「主」
 声はくぐもって聞き取り辛かった。
「俺も、……」
 だから続きは、聞こえなかった。

 一緒の布団で寝ないかと言うと、長谷部はきょとんとして私を見るばかりだった。
「これは服むが、その
――君に触れていると少しだけ、私は私を忘れられるんだ」
 そう告げると、長谷部は嬉しそうに、そして何処か気恥ずかしそうにベッドから下りてきて、私の前に敷かれている布団の傍へ座った。
 先に布団へ潜り込み、長谷部を呼んだ。失礼します、と硬い声で言い、恐々私の隣に収まった。リモコンに手を伸ばして灯りを消し、それから長谷部を腕の中に閉じ込めた。清廉な花のような香り、
――
 薬の粒を押し出した、あの感覚を思い出す。便器の中で水に揺蕩っていたものを思い出す。私を見る長谷部の、揺らぐ藤色を思い出す。そしてその全てが融け、私の形と混ざり合い、私は私を失って夢に落ちた。
「主」
 血溜まりが長谷部の声で呼んだ。一歩踏み出すと、私の足元は一等黒い血で満たされていることに気付く。
「主」
 どうしたんだ、そんなところで。一歩、また一歩と近付いて行くと、仄白く光るものが転がっている。訝しんで屈み込むと、よくよく検めるまでもなく、それは死体だった。
 見渡すと、辺り一面、死体に埋め尽くされた赤い海だった。声が幾重にも響く。
「主、主、主
――

 ――起きてください、主」
 そっと身体を揺すられて、薄く目を開けると朝だった。一際清潔な光が、微笑む長谷部を照らしている。
「良く眠られていましたよ、主」
 面映ゆげに長谷部は言う。大方昨夜のことを思い出しているのだろう。朝食の仕度をしますねと言って去って行った。
 貼り付けた笑みで見送って、私はいよいよ自分の"欠陥"が、行き着くところまで来てしまったことを悟っていた。夢は濃度を増して、私の裡に酷く凝(こご)っていた。最早その存在は私では太刀打ちできないものとなり、ただ一つ、希望があるとすれば、それは長谷部ではなくあの錠剤だった。
 
――それと、もう一つ。
「長谷部君」
 振り返った長谷部はもうあの目はしておらず、透き通ったそれで私を見た。
「君は
――居るだけで良い」
 それに「愛しているから」と付け加えると、ありがとうございますと言ってはにかむ長谷部がいた。
 顔を洗い、鏡を見る。隈の出来た、陰鬱な人間の顔があった。これが私だった。指先で鏡をなぞる。
――私を。
 私を否定できるのは、私しかいない。
 私の裡にある悪夢には、長谷部は決して触れさせない。私の傍に居てくれるだけで良い。居てくれさえすれば、それで良いのだ。
 もう一度鏡を見る。極めてソリッドな輪郭を持った私が、其処に居た。

***

 薬というものは多岐に渡る用途で使われてきた。嘗てはその作用機序も分からなかった薬達も、今では完全に解明されたものが数多あり、また活用されていた。その中には当然、以前は麻薬や覚醒剤と言った名で呼ばれたものもあり、無論安全適切な使用方法でのみ処方が為されていた。
 それを知っているのは審神者だけだった。向かい側に座る長谷部は何も知らず、薬の盛られた煎茶を少しずつ飲んでいる。舐めるような目で喉を撫で、
「飲んだら退がって構わない、私はやることがあるから」
と生温い声を出した。
「はい、主」
「また明日。おやすみ」
 部屋を辞した長谷部が残していった湯呑の底、深緑の滓が緩やかな円を描いていた。この夜に残された最後の、穏やかなものの一つだった。

 身体が熱い、というよりも全身を巡る血液が熱されているかのような熱さだった。特に下半身へ凝り固まった熱は酷く生々しい硬さを持って、長谷部は床に投げただけの布団の上で蹲っていた。
 味わったことのない熱、頭の中をどろどろに熱して掻き混ぜられているような感覚が絶えることなく長谷部を襲っていた。
(これは何だ、何が起こっている)
 無意識に揺れる腰が熱を布団へと押し付けていることに気が付いては、唇を噛んで身体を強張らせ耐えていた。いつしか切れていた唇からぽた、と鮮血が垂れる。審神者が長谷部の為に用意した真っ白な敷布(シーツ)が汚れることも、今の長谷部には気に留めている余裕がなかった。
 焦れるような衝動で脳内は真っ白に爆ぜ、押し付けられる刺激すらも長谷部の思考を白く染めていく一方だった。次第に何も考えられなくなり、昇り詰める何かに恐怖した長谷部の眦(まなじり)から温い涙が零れた時、栓が抜かれたような感覚があった。
「え……?」
 布団の上で縮こまり、長谷部は何かが零れてしまうのを堰き止めようとするかのように息を詰めた。脳裏にはまた色が戻ってきて、それでも白の萌芽は変わらず其処にあった。再び熱が高まり始め、ぽこ、と泡の弾けるような刺激が脳から脊髄を伝って出て、全身の末梢にまで甘い疼きを運んだ。
 長谷部はされるがままだった。自分の身に起こっているこれが何なのか、憐れな彼は手掛かりの一つも持たなかった。放っておこうが抗おうが"それ"は断続的にやってきて、頂点に達すると長谷部の熱は何かを吐き出した。吐いても吐いてもそれはなくならず、長谷部はただ一人を呼んでいた。
(……主、主)
 だが声に出してはいけないという直感が長谷部にはあり、それは凝(こご)った熱の行き場が審神者の嫌悪し忌避するただ一つの場所であることにも無意識で気付いていたからということがあった。それは即ち、審神者が繰り返し繰り返し、穢らわしいものなのだと長谷部に説いた場所であるということだった。
 今このような
――どうなっているのかは怖くて見れたものではなかったが――状況に陥っているところを目撃されてしまえば、きっと主は酷く腹を立てるに違いない、そう思っていたからこそ、長谷部は審神者を呼べなかった。ただいつか治まるものと信じて耐え続けるしか手段はなく、長谷部はくしゃくしゃに乱れた布団を強く握り締めた。

 気持ちの良い朝だった。空気は澄んで陽の光は清く、息をする度に程よく冷たい空気が肺を洗った。普段であれば仕度を終えた長谷部が執務室まで来て朝の挨拶をする筈だったが、審神者が顔を洗い着替え終わっても、長谷部は一向に来る気配がなかった。
 欠伸を噛み殺しながら部屋を出て、審神者は廊下を歩いて行く。良い朝だ、と口笛を吹くが、音は誰にも聞かれることなく薄光の中へ溶けていった。やがて長谷部の部屋の前に立つも、灯りも点けていないらしい部屋の中からは物音一つ聞こえてこなかった。
「長谷部君」
 答えなど返ってこないことを解っていながら審神者は声を掛け、誰も返事をしないのを待ってからもう一度「長谷部君、入るよ」と白々しく言った。
 手前の部屋は平穏そのものだった。小さな机とその上に整えられた少しの私物、後は防具が掛けられているきりで、閑散とした雰囲気があった。奥と手前を隔てる襖、それを審神者は遠慮なく開いてしまい、途端に生臭く吐き気を催すような異臭がぶわりと広がって審神者を迎えた。
 隅には黒い塊
――長谷部が蹲っていた。目を凝らすと背中は僅かに上下していて、どうやら眠ってしまっているらしかった。
「長谷部君」
 審神者が三たびそう呼ぶと、布団の上の塊はもぞりと動いた後で徐に起き上がった。
「あ、主、主……」
「おはよう」
「す、すみません、すぐに……」
 着替えを、と言いかけて、漸く自分の置かれている惨憺たる状況に思い至ったらしかった。
「あの、主、申し訳ありません、昨夜急に
――
「手を」
「え?」
 審神者はあくまで落ち着き払って言った。
「手を見せてくれないか」
「は……はい」
 長谷部が慌てて両手を差し伸べる。執務室から戻って脱ぐ暇もなかったであろう、いつもの白手袋が嵌められたままの両手。それは皺だらけになってこそいたが、しかし濡れも汚れもしていなかった。
「……」
 続けて審神者は視線を長谷部の上半身から下半身、そして布団の上へと遣って、冷たいそれで以て全てを検分していたようだった。釣られて長谷部も自分の身体を見下ろし、皺の付いて釦は外れ、ぐちゃぐちゃに濡れている下腹部を認めると罪悪感と羞恥心とでかっと顔を熱くした。
「あ、あの、主」
「ん?」
「昨夜、急に身体の調子がおかしくなってしまって、あの、これは何なのですか」
「ああ……」
 己を守ろうとするようにいじらしく身を縮めていた長谷部の姿を思い出し、審神者は薄く笑った。それが長谷部には、何かまた長谷部を追い詰める為だけの残虐な罰でも思い付いたかのように見え、怯えて一層身を小さくしながら座り直した。
「気が狂いそうだっただろう? 身体も熱くなってしまって」
「はい、そうです」
「それは性欲だよ」
「これが、ですか……?」
 それが薬により故意にもたらされたものであるとも知らず、長谷部は自分の身体を何か悍ましいものででもあるかのような顔をして眺め回した。
「どれほど恐ろしく、穢らわしいものであるか分かっただろう? 自分の意思では制御できず、ただただ欲によってのみ身体は支配されみっともなく動き、部屋は酷い有様だ」
 だからね、と声を潜めて審神者は続ける。
「抱くべきでも認めるべきでもないんだよ、こんなものは。一度そうなってしまえば、私では君を助けられない。救うことはできるがね……それは本望ではない」
「……はい」
 身体を洗っておいで、と言いながら、審神者は長谷部の方へ一歩も近付こうとしなかった。今が夜ではないという、ただそれだけの理由だった。その代わり新しい服を一揃い出してやって、長谷部が布団の上から退いた後はくしゃくしゃになった敷布を引き剥がしに掛かっていた。
 長谷部の方は何か言いたげに立ち竦んでいて、結局言うことに決めたらしかった。
「主」
「何かな」
「……腹を立てられないのですか、俺に」
「何故」
「……欲を、抱きました」
 丸めた敷布を片隅に投げ捨てて、審神者は口の端をちょっと上げて笑った。
「それは初めてで、君が何も知らなかったからだ。今後はそもそも抱かないようにできる筈だし、もしそうなっても、君は私の知らないところで"手を汚さずに"対処できる」
「……」
 暫しの沈黙の後、はい、と蚊の鳴くような声で返事があって、長谷部は泣きそうな顔をして審神者を見た。次、次は上手くやれる根拠などありません。もしも次失敗したら、主の言う穢い欲を抱いた俺はどうなるのですか
――
「大丈夫だよ」
 声は優しかった。
「私の為に、君は失敗などしない」
「……はい、主」
「それに万一失敗しても、君の陰茎を切り取るだけの話だ。簡単だろう?」
「それは……」
「冗談だよ」
 青褪めた顔で器用に安堵の溜息を吐き、長谷部は今度こそ風呂場へ身体を流しに行った。汚れた服も替えていけと言われ、ジャージに着替えて人目を忍ぶように。

 ――さて、薬とは何と便利なものか、と審神者はくつくつ笑い、ポケットから小さな包みを取り出して開いた。真っ白な結晶、大きさは〇・一ミリメートルにも満たないそれを指先に微量取り、舌に乗せればあっという間に溶けて消える。中枢神経に作用して伝達物質の放出を促したりはたまた回路を遮断したりして多大な幸福感をもたらすそれ、勿論過剰に摂取すれば回路のストッパーを破壊してしまうことすら可能だった。例えば、性的快楽の。
 それは最早薬ではなく毒だという声もあった。だが元々毒と薬は表裏一体の存在なのだから、何を今更、と審神者は冷笑していた。考えようによっては、この結晶は審神者を正常に治す為の特効薬でもあるのだ。
 少なくとも今回、長谷部に〝性欲に対する恐怖〟を植え付け、正しい価値観に直すことができたのだから、審神者にとってこれは十分に薬だった。部屋へ向かって歩いてくる足音を聞きながら、審神者は元通りに折り畳んだ包みをポケットへ滑り込ませた。

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