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​短篇集23

「一つ、可能性の話をしようか」
 薄い雲のかかる月が、透き通るように豊かな金色の光を湛えている。密やかな声で語られる言葉は、寝室ではない場所で繰り広げられる寝物語のようだった。
「此処が外の世界から途絶されて、私が不可避の事態によって死んだとする。私によるセキュリティを失った本丸は、すぐに敵が攻め入ってくることだろう。その時、君はどうするだろう。私の墓を作るかい、それとも墓など不要だと思うかい」
「……縁起でもない話を、されるのですね」
「だが可能性としてはゼロじゃない。それで?」
 促され、長谷部は不承不承に口を開いた。
「墓標を建て、主を弔うことに理由が必要ですか」
「いいや、別に。では話を進めよう。攻め入って来た敵によって、君が建てた墓の下から、私の遺体は引き摺り出されてくる。彼等にとっては敵の大将だ。引き回し、臓腑(はらわた)を引き摺り出し、引き千切った首を槍の先へ串刺して晒し者にするぐらいのことはするだろう」
「……俺が、そうはさせません」
「この場合君も死んでいるんだよ。それでも君は私の墓を作るのか、それとも墓など諦めるのか、それぞれの可能性の話をしよう」
「……」
 月の光を盃に映し、審神者はそれで少しだけ唇を濡らした。
「墓標も弔いも、全て君の為だけのものだ。私の死体が侮辱と悪意に塗れるのを良しとするならば、君の好きにすると良いだろう。だが私の望みを言うのなら、私はただ静かに眠りたい。墓など必要ない、遺灰が葬られることには何の価値も見出さない。君の自己満足か、私の安らかな眠りか、君はどちらを望む?」
「……」
 渇いた喉を潤す為の、とても苦い味のするアルコールを長谷部は欲していた。審神者が掲げる酒杯には生の穢れの一切が排除された清冽な月光、それに審神者の目から音もなく滴り落ちる、何れの波長の光も逃さない真っ黒な色がなみなみと満たされている。
 長谷部ならば、それは月の光に純潔の藤の色、そして何より暗く流れる雨のような血液だろう。
「俺にそれを決めさせるのですか、主」
「可能性の話だと言っただろう」
 だが、と審神者は長谷部の顔を引き寄せる。あまりに勢いよく引っ張った所為で、盃の中で大きく揺れた酒がぱしゃりと飛び散って長谷部の腿を濡らした。
「"可能性"の話だ。精々後悔のないようにするんだな」
 溢れた液体が長谷部のスラックスへと滲み込んでいき、ひやりとした感触が長谷部の脚へ広がり始める。滔々と輝く月を背にして、審神者は黒曜石よりもずっと黒く、鋭い瞳で長谷部を見つめていた。目を逸らすこともできず、長谷部は一言、弱々しい声で吐き出した。
「飲み過ぎですよ、主」
 それには答えず、酷く満足そうに片笑んで審神者は手を離した。酒瓶を傾け、盃を口へ運び、月の光に酔っている。その傍ら、長谷部は一人、墓と定めるのなら何処が良いだろうと考えていた。静かで、土の柔らかく、日中は陽の当たって……そして、人目に付かない場所。

***

 

 

 自分が愛されていることを長谷部は知っていたし、愛されることに異論もなかった。審神者は"痛いほど"の愛を彼へ注ぎ、ある時は甘美な歌を唄うように、またある時は苦痛に呻くようにして「愛している」と長谷部へ告げた。
 長谷部は何もする必要がなかった。ただ執務室へと赴けば後は自動的に進められて、彼は自分の身体を受け渡しさえすればそれで事が済んだ。審神者は長谷部を愛したし、それを言葉にも尽くして彼へ伝えた。
 それだけなら、長谷部は幸せだった。
 審神者は度々煩悶して、自分の愛を悉く否定した。長谷部は中途半端に服の脱げた格好で、或いは身体中切り刻まれた無惨な格好でそれを聞き、戸惑い、自分の無力さをただただ痛感した。時期が過ぎれば審神者はまた変わらず長谷部を愛したが、結局のところ己のこれは間違ってしかいないのだという思いを捨て切れず、懊悩は再び審神者を苛んだ。
 審神者は何も言わなかった。「愛している」と言い続けても、「愛されたい」とは言わなかった。長谷部を傍に置きたがったが、長谷部から何かを与えられたがる訳でもなかった。徹底して長谷部を求めておきながら、自分からは長谷部を遠ざけていた。理解されることを、そして当然、愛されることからも長谷部を拒絶していた。
 長谷部はそれを知らなかった。

 主、と呼ぶ透き通った声が響いて、審神者はふと顔を向けた。隈の出来て淀んだ目が近侍の姿を捉え、「何」と低い声がそれに答えた。
 折角の夜だったが、審神者は障子戸も窓も全て閉め切ってしまい、物憂げな様子で文机に向かっていた。手元には急ぎの用ではない資料が散らばっている。時折覗く几帳面な緑色は、審神者がラインマーカーで線を引いた跡だった。
「一つだけ、お訊きしたいことがありまして」
「……私にか」
「はい」
 きっちりと姿勢を正した長谷部へ半身を向けて、審神者は続きを促した。
「いつも俺のことを愛してくださって、とても嬉しく思っています」
 審神者はそれをただ鼻で笑った。
「俺も……俺も主を、お慕いしているんです。主のようにとは言いませんが、俺も主を愛することができれば、主は――」
「必要ない」
 え、と小さな声が漏れた。
「私は君を愛するが、君が私を愛さなくてはいけない理由など何処にもない。君からの愛など要らない」
「で、では俺はどうすれば良いのですか、主を――主を愛してはいけないのなら、他の連中に懸想していろとでも仰るのですか」
 鬱々とした笑顔に音を立てて罅(ひび)の入ったことを、長谷部はしかし気付いていなかった。
「……好きにすればいいだろう、端(はな)から君の心など宛てにはしていない。私の下で誰を想っていようがどうでもいい。君の身体が私の下にあればそれでいい」
「……」
「君の心など要らない。愛されたくもない。私は君を愛するが君は何も考えなくていい」
 やおら立ち上がり、審神者は長谷部の腕を無造作に掴むと寝室へ続く襖を開けた。冷え冷えとした空間に真っ白な敷布団が一組、闇の中に仄白く眠っていた。投げ捨てられた長谷部の身体に乱暴に叩き起こされて、布団は一つだけ息をした。
 間髪入れず、耳を弄するような衝撃と音を鳴らしながら、へし切の皆焼刃が長谷部の左腕に突き立てられた。反射的に跳ねた腕が滑りながら戻って行き、追って真っ赤な血がじわじわと滲み出した。暫し無言で見下ろした後、審神者がゆっくりと口を開いて言った。
「愛しているよ」
 へし切がずるりと抜き取られ、次は右腕を刺し貫いた。長谷部は小さく呻く。審神者は刀身を濡らした長谷部の血を指先で掬い取り、舌を出して下から上に舐め取った。
「可哀想に」
 憐憫と――明らかな軽蔑を含んだ微笑に見下ろされ、長谷部は泣きそうな声で弱々しい抵抗を見せた。
「どうしてですか、俺は主が愛してくださっていれば、それで……」
「君は私のことなど嫌っているのになあ。解いてやれば良かったな」
 一瞬呆気に取られた後、果敢にも反論を試みた長谷部の声は哄笑に掻き消され、滅茶苦茶に揮われたへし切は長谷部の身体中を切り裂いて生々しい傷跡を作った。食べられる訳でもなくただ徒に増やされていく傷は長谷部の心にまで深く達していたが、長谷部の眦に浮かぶ涙も審神者の目には映らなかった。
 次に長谷部が目を覚ました時、其処は手入れ部屋だった。すぐ傍に座っていた審神者は長谷部が意識を取り戻したことに気付くと、いつもの歪な微笑み方をして絞り出すように言った。
「君を好きにならなければ良かったな」
「……どういう、……」
「危うく君を折るところだった。好きでもない相手に殺されるなどあまりに憐れだろう。……だがどうせ君の心など手に入らないのだからそれでも良かったか」
 言葉を失った長谷部の前で、審神者は何も言わず片笑んでいた。罅はもう直っていた。

 

 

***

 

 

 見れば見るほど、長谷部の眼前に聳え立つそれは鋼色の棺のように見えた。審神者の私室――ごく一般的な和室に置かれていることには強烈な違和感があったが、審神者は何も意に介さず正面のパネルを優しく撫でていた。
 ロックを外して重たげな扉を開けると、もう一枚、薄い白色の扉があった。審神者はそれも開け放ち、身の毛のよだつ冷気が一度に溢れ出して長谷部の肌を撫でる。
「超低温のフリーザー、冷凍庫だよ」
「これを、どうされるのですか」
「冷凍庫の使い道など一つきり他にないだろう」
 冷え切った庫内を指して、審神者は軽薄な笑みを浮かべて言った。
「中へ」
 恐る恐る近寄って、長谷部は身を屈めると冷凍庫の中を覗き込んだ。細身とは言え長身の長谷部がその身を収めるには些か窮屈に過ぎるような気もしたが、その時はその時で手脚の骨を砕いてでも中へ押し込めようとするのが審神者だった。傷は少ない方が良い。長谷部は蹲るようにして庫内へ入り、どうにかして全身を収めると審神者を呼んだ。
「入りました、主」
「ああ」
 影を落として審神者が顔を見せ、すっぽりと収まっている長谷部を見て口の端を吊り上げた。
「それでいい。じゃあまた後で」
 そう言って審神者は扉を閉めようとするので、長谷部は不敬だと分かっていながら焦燥の滲む声を上げた。
「あ、主、まさか」
「冷凍庫だろう、これは。使い道は一つしかない筈だが」
 やはり、と長谷部は青褪めた。既に指先の感覚は失われつつある。震える息を吐いた。白く凍っていた。
「ああ、言い忘れていたが」
 狭まっていく光の向こう、審神者が目を細めて微笑んだ。
「このフリーザーはマイナス八十度に設定されている」
 ぱたん、という音と共に扉が閉まり、ロックの掛けられる音がくぐもって響いた。

 寒い、寒いとぶるぶる震えていたのは初めのうちだけだった。すぐに身体の震えは止まり、庫内には長谷部の荒い呼吸音と冷凍庫の立てる低い唸りだけが響いていた。
 失神に似た眠気が長谷部の身を蝕み始めており、肺と喉を必死に喘がせながら、長谷部は審神者の意図を推し量ろうとしていた。長谷部の肉を切り刻むのでも臓腑を弄ぶのでも自らの腹に収めるのでもなく、ただひたすらに自分の手の届かない場所で長谷部を凍らせるという行為の意味。審神者がこの行為に望むこと。
 殴られている時に身を守るかのような体勢で蹲り、今しがた考えたばかりのこともあっという間に凍ってしまって、長谷部が考えられることと言ったらただただ寒いというそれだけだった。冷たすぎて痛かった。指先も、足先も、鼻も頬も、目も。
 不意に胸の辺りが苦しくなり、長谷部は身を捩って手の甲を胸へと当て、拍動のリズムが滅茶苦茶になっていることを感じ取って小さな悲鳴を上げた。真っ暗な庫内では何も見えない。凍てついた呼吸の音、それと出鱈目に打つ心臓の音とが不協和音を奏で、長谷部の正気を奪おうとしているかのようだった。
「はっ、はっ、……は、……っ」
 気を抜くと意識は霧散しそうだった。手も頭も動かなくなっていて、心拍は長谷部を寝かせつける為の酷くゆっくりとしたリズムを刻んでいた。吐いた息が霜となって顔に凍り付き、さりさりと見えない音を立てた。
 主、という一言を意識の俎上に乗せるのですら非常な時間を要した。あ、と考え、次の一文字を探している間に"あ"は真っ白な霜に覆われてしまっていて、もう一度それを払うところから始めなければならないといった有様だった。
 繋ぎ合わせてもそれは、ごく単調で大した意味も持たない欠片でしかなかった。――主。主。ここは寒いです、主。主、早く、――
 呼吸は既に止まっていた。肺の中までも微細な氷が侵食して、膨らむことも縮むこともできずに長谷部を苦しめていた。尤も、長谷部はとうに、そのことを知覚できる段階ではなくなっていたのだが。
「……」
 脳が少しずつ、少しずつ凍っていく音を長谷部は聞いていた。瞬きもできず、涙も出ない。痛くもない。審神者のことを考える為の領域が凍り、今までに見た全ての表情を覚えておく為の領域が凍り、この先のことに恐怖を感じる為の領域が凍り、長谷部の身体を維持しておく為の領域が、凍っていった。
「……、……」
 眠い、と長谷部は思った。心臓は動くことをほとんど止めていて、時折思い出したようにとくりと打つだけだった。
 眠い、ともう一度、長谷部は思った。
 全てが凍った。

 審神者が昂奮を抑えきれない手付きでロックを外し扉を開け放つと、真っ白な冷気が一斉に外へと逃げ出してきた。
 何時間待ったか分からない。其処には白に覆われて凍りついている長谷部がいた。素手で触れれば遅れて鈍い痛みが走ったが、構わず審神者は長谷部を引き摺り出した。蹲った姿勢のまま、ごろんと畳の上に転がり落ちても尚、長谷部は目を覚まさなかった。
 傍目に見れば長谷部は死んでいて、だと言うのに審神者は嬉しそうに笑っていた。
 突き立てられたへし切はその刃を容易に弾き返されて、部屋には幾らかの氷が飛び散った。数度頷き、審神者は長谷部を手入れ部屋へと運んで行った。

「で、どうだった」
 目を覚ました長谷部が布団を掻き寄せる暇もなく、審神者は彼へそう言ってのけた。既に身体は治されており、手入れ部屋も布団も暖かい筈なのに、それでも長谷部はあの寒さに取り憑かれたままでいた。
「……どう、とは」
「少しずつ全身が凍っていくのはどんな感じだったかと訊いている」
「……」
 寝返りを打って審神者から顔を背けてしまいたいと長谷部が考えていることも、審神者には手に取るように分かっていた。分かった上で、今の状況を楽しんでいた。
「……寒かったです。末端から少しずつ凍っていって、呼吸や心拍がおかしくなって、最後はただ眠かったです」
「なるほど、そうして最後には心肺停止か。予想通りだ。それで?」
「……?」
 流石に無礼だろうと身を起こしかけたまま、長谷部は何を尋ねられているのかと首を捻った。
「中はどうだった? 楽しかったかい? 一人きりで自分が凍っていく音だけを聞いているのはどんな気持ちだったのかと思ってね、中から引っ張り出した君の顔はあまりに綺麗で可愛くて私はどうかしそうだったんだが……君はどうだったのかと」
 呆気に取られ、とうとう長谷部はその一言を口にした。
「……俺は……、死んでいたのではないのですか、それを……」
「死なないよ。あくまで仮死状態だ。君達はこんなことでは死なない」
 勿論人間なら死んでいるが、と付け加えることを審神者は忘れなかった。絶句した長谷部はやがてゆっくりと口を閉じ、暫し言い淀んでから恐々口を開いた。
「……俺は」
 皮膚の下がゆっくり凍りついていく感触を覚えている。
 血流が滞っていき、体内で沈んでいく感触を覚えている。
 身体中の組織が動くことを止め、じわじわと死んでいく感触を覚えている。
「……覚えていません、脳も凍ってしまっていたので」
「ああそう」
 特に不満な様子もなく審神者はそう返し、長谷部を再び布団へ横たわらせてから部屋の隅から毛布を持って来ると優しく掛けてやった。異を唱えかけた長谷部に向かって一つ息を吐き、
「寝ていなさい、分かるだろう」
「……次はきちんと覚えてきます」
「そうじゃない」
 冷凍庫はもう撤去したよ、と審神者は床に向かって言った。
「そうじゃない。凍った君は綺麗だった。凍っていく君の心境を考えるだけで私は私を抑えられなくなる。だから今は寝ていなさい、そういうことだ」
「……はい、気遣っていただいて申し訳ありません、主」
 掛けられた毛布の端を握り、長谷部はそれをぐいと引き寄せた。暖かかった。あの暴力的な寒さの後では恐ろしくなるほどに。
「主」
「うん」
「……もう少しだけ、此処に居てくださいませんか」
「いいよ」
 審神者は腰を下ろし、布団の上から長谷部の身体をゆっくり撫で始めた。凍っていた涙は今漸く融け、長谷部の頬を静かに滑っていく。
「……寒かったです、主」
 答えはなかったが、今はその沈黙さえも暖かかった。

***

 

 

 手入れ部屋での目覚めというものは、比して気分の良いものではあった。
 傷は治り、疲れは取れ、真新しい気分での目覚め。次の戦場へ早く向かい、主の為に一つでも多くの敵を屠って帰還したいと逸る気持ち。戦で重傷を負った後の手入れなどであれば、長谷部は主の手を煩わせて申し訳ないという気持ちを覚えつつも、早く治していただきたいとばかり思うことさえできた。
 長谷部が手入れを受けるのは専ら深夜、それも戦とは全く関係のない傷によってであった。
 身体はそうプログラムされているかのように定められた昂揚感を伴って再起動し、現実を認識する為の一瞬の間を置いて、走りかけた全ての回路を停止させるのが常だった。

「おはよう」
 意識を取り戻した長谷部を迎えるのは、決まってその言葉だった。
 長谷部の思考を止めてしまうそのたった一言を放つのは彼の主たる審神者であって、嬉しそうに、或いは苦しそうに口元を歪めて放つ言葉は長谷部の全てを縫い止めた。
 手入れを受けて眠りに落ちている長い時間、長谷部は無意識下であれこれと考えを巡らせていた。あの時の言葉を、行為を謝罪しよう、主にこれをお訊ねしよう、主にこう申し上げるのだ、主に……。
 それらは叶うことなく破棄されて、審神者が吐き続ける呪詛にも似た言葉をただひたすらに長谷部は聞き続けた。
 そして暴力的に投げ付けられる、「少しは自分の頭を使え」という言葉に、長谷部は自分の頭がすっかり錆び付いてしまったかのような錯覚を受けるのだった。
 然して長谷部にとり手入れ部屋での目覚めというものは、比して気分の良くないものであった。

***

 

 

 執務室へ呼ばれていない夜、それでも長谷部が訪れると審神者は読書や仕事の手を止めて、手ずから茶を淹れて寄越すのが常となっていた。
 何のことはない漠然とした感情を、しかし人の身を得てまだ浅い長谷部はどうにも持て余し、そんな時彼は審神者の私室を訪れた。来いと言われていないのに訪ねることへ審神者が良い顔をしないのではないかという不安もあったが、書類などを全て机に置いたままで小さな卓袱台へ場所を移す審神者の姿に、長谷部はどうしても甘えてしまうのだった。
 審神者は長谷部の顔を見て、緩く頷きながら二言三言を返してはまた黙していた。長谷部の口からは驚くほど軽やかに言葉が出て行った。昨夜布団の中で考えたこと、湯に浸かりながら頭に染み付いて離れなくなった怖れ、何か月も何年も抱え込んでいる些細なずれ。審神者の身体は文机に残してきた書籍や端末ではなく、しっかりと長谷部だけを向いて其処に在った。
「俺は」
 長谷部は言った。
「主に報いられているのかと、何度も不安に感じてしまうんです」
 湯呑の中で優しい栗色が揺れる。長谷部の瞳に浮かぶ動揺を写し取ったかのような水面を少し眺めて、審神者は漸く口を開く。
「それはきっと、棄てられやしないかという不安に因るものなんだろう」
 肩を小さく強張らせた長谷部は、きっと〝下げ渡された〟日のことを脳裏に蘇らせているのだろうと思われた。審神者は卓上に置いた手をぴくりと動かして、それを抑え付けるような有無を言わせない語調で長谷部へ言った。
「棄てないよ。君にとっては限りない不幸なんだろうが、私は君を棄てられない。それを差し置いても君は私の期待に本当に良く応えてくれるし、私は君を近侍として、第一部隊の隊長として据えていることに満足している。他ならぬ君の働きによってね。だから君は今まで通りに仕えてくれればそれで良い。……任を解いてほしいと申し出られた時に、きっと私は君を離してやれない。君が案ずる点は此処だけだろう」
 長谷部は過分とすら思われる賛辞に小さく身を震わせて、それでも自らの主を立てることは忘れなかった。
「不幸などではありません、主」
 審神者は嘆くでも憤るでもなく、慈しむように微笑んで、長谷部の頭を視線だけで撫でた。
「私は幸せなのに、君をそうさせてはやれないのが心苦しい。……お茶のお代わりを持って来ようか」
 立ち上がり、急須を手に取ると審神者は部屋を出て行こうとした。開いた障子戸の向こうに見える空は今日も過剰なまでに澄んで、深い藍色の中に瞬く星々から一斉に射竦められた審神者は視線を俯かせた。
「今日も、好きなだけ此処にいて構わない。飽いたら部屋へ帰って眠りなさい。それまでは付き合うよ」
 はい、とだけ返す長谷部を振り向いて笑う審神者の顔は、やはり主として相応しい人間のものでしかないように見えたのだった。

 本当はお優しい方なのだ、と長谷部は血に濡れたシーツの上で考える。俺よりもずっと大きな不安を抱え込んで、それを吐き出す相手も居らず――
「長谷部君」
 はい、と返事をする。
「愛しているよ、長谷部君」
 審神者は大きく抉られた長谷部の腹部と、手に掴んだ臓器とに語りかけていた。目は汚れたシーツを虚ろに見つめていた。
 長谷部だけが審神者のことを真正面から見据えていた。

***

 

 

 触れないと、部屋へは呼ばないと一方的に宣言したのは審神者の方だった筈なのに、その審神者が今、長谷部の胸倉を乱暴に掴み上げて寝室へと突き飛ばしたのだった。尻餅を突いた長谷部の方は目を白黒させて、今の審神者には常に纏っていた筈の余裕というものが一切見受けられないことに気付き、背を粟立たせていた。
「あ、主……」
 何かしてしまったのか、と思った。何もしないと言い渡されて一週間、審神者は有言実行で長谷部を寝室に連れ込むことはなく、二人共ただ淡々と日常――出陣やその他の執務――をこなしていた。何か審神者の逆鱗に触れるようなことをした覚えは毫もなかった。
「主、俺、」
「……君は」
 業火に焼け爛れたような低い声が響き、長谷部はそれ以上何も言えなくなってただ彼の主の言葉を待った。
「君は、私以外の連中にあんな顔をするのか。目を向けて、口を利いて、私でなくても良いと言うのか」
「……主?」
 途切れ途切れの言葉を漏らしながら審神者はへし切を鞘から抜き去って、何らの躊躇もなくそれを長谷部の眼窩へと突き立てた。
「がっ、……ぐ、……あ、ある、じ」
「君が悪い、私以外を見るから悪いんだ、君が」
 切っ先が激しく突き動かされて、長谷部の左目からは濁った水音が卑猥に響いていた。へし切を放り投げ、審神者は長谷部の眼窩へと指を挿し入れる。右も、右もだと呟きながら審神者は自分の言葉に半狂乱になって、血塗れの両手で頭を抱えたかと思うとその場へ蹲った。
「舌も斬り取らないと、耳も、全部壊さないと、壊さないと、壊さないと」
「主……?」
「厭だ、私だけを見てくれ、他の奴なんかに笑わないでくれ」
「主、それはどういう……」
 言いながら、長谷部の脳裏に一つだけ可能性が閃いた。
「……部隊の連中と会話をしていたことですか」
「行かないでくれ」
 話は噛み合っていなかったが、これが正解だという謎の確信が長谷部にはあった。昼間、出陣の際に部隊員の何人かと言葉を交わしていた場面を、見送りに出た審神者も当全目撃していた。それは別段和気藹々とした楽しいものではなく、極めて事務的な性質のものだという認識が長谷部にはあったのだが、彼の主はそうは見なさなかったということのようだった。
 そしてそれはおそらく、一週間の謂わば〝禁欲〟のようなものによって歪められた認識なのだろうということも、長谷部には想像が付いていた。
「主」
 審神者は抑揚のない声で何かを呟き続けていた。
「主、主の御心がそれで安らぐのであれば、幾らでも俺をお使いください」
 審神者はぴたりと呪詛を止めて、今度は獣の唸り声じみたものを上げ始めた。
「君が悪いんだ、こんなこと私はしたくない」
「……はい、俺の所為です」
「どうして私を否定してくれないんだ」
 長谷部の左目から、眼球の中身がぼたりと零れ落ちた。
「否定してくれ、私は間違っているんだと言ってくれ。一週間、一週間気が狂いそうになって今すぐ君を此処へ連れ込んで君を喰らいたいと思っていた私を否定してくれないと、私は、私は――」
 其処で力尽きたようにがっくりと項垂れて、審神者は最期の吐息を吐き出すような調子でぽつりと言った。
「頼むから」
 起き上がり、蹲っている審神者の傍へ長谷部は寄って行って、少し迷ってから「主」と声を掛けた。
「俺は、主しか見ていませんよ」
「否定してくれ」
 審神者は壊れたテープレコーダーのようだった。人が自我を保つことは斯様に困難を伴うのだと、長谷部はよく理解してはいなかった。戸惑い、向けるべき言葉を知らず、それでも彼の主が望むままに否定の言葉を吐くことはできなかった。
 腹を裂かれ喰らわれる方が、ずっとずっとマシだった。
「すみません、主。俺は主に申し上げるべき言葉を持ちません。……主命は、果たせません」
 棄てますか、と尋ねたくなる本心は押し殺して、長谷部はそれだけを言った。否定されたいのは長谷部も同じことだった。自分は棄てられたのだという思い込みを、いずれ今の主にも見放されるのだろうという一種前借りの安堵にも似た恐怖を、本当は否定されたかった。審神者は棄てないよと何度も囁いてくれていたが、長谷部はそれよりも遥かに強い、いっそ自分を陵辱するのにも似た強大な否定が欲しかった。
 暫くの間唸り、頭を掻き回し、胸を掻き毟って、審神者はぼんやりと顔を上げた。へし切は見当たらなかった。
「一週間、気が触れそうだった」
「はい」
「君が欲しかった。私以外の誰もが君を持っていて、私だけが君を持たなかった」
「……はい」
 俺は主だけの物ですよ、という言葉は飲み込んだ。
「愛しているんだ、分かるだろう。だから否定してほしいんだ。……君の所為だなどと酷いことを言った。君は何も悪くない。悪いのは私なんだ、私が悪いんだと君が言ってくれさえすれば、私は……」
「……申し訳ありません、主」
 ああ、何と強い肯定だろうか、と長谷部は空を仰ぎたい気分になった。勿論其処にあるのは板張りの天井だけで、長谷部が普段使われている時に嫌と言うほど見てきた木目が走っているのだった。長谷部の存在理由は益々強くなる一方で、審神者は長谷部の話を少しも聞いていないのと同じことだった。
 長谷部が思索から目を戻すと彼の上には審神者の身体があり、頬を伝って落ちていた硝子体を小さく舐め取っていた。熱い舌のざらついた感触が懐かしく、長谷部は僅かに身を捩らせた。
 直に首筋へ身の竦むような痛みがじりじりと走り、〝禁欲〟は完全に終わりを告げたらしかった。長谷部の身体と脳髄は歓喜に打ち震え、甘やかな侵食を全て喜悦に変換し、そうして審神者の存在を全身で肯定し始めていた。
「私だけを、見てくれ」
 主しか見ていませんのに、と長谷部は思ったが、言葉は微かな悲鳴に置き換わって霧散した。覆い被さる審神者の身体へ腕を回そうとして、伸ばしかけた腕をそっと引っ込め、後はただ、審神者を受け入れ続けていた。

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