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​短篇集22


 刀剣男士は、付喪神としては数百年もの時を生きてきた存在ではあるが、人のかたちとしての生はほんの一年か二年しか経験していない。思考は比較的若い、時には子供のそれに似ると、審神者は彼等と寝食を共にする中で薄々感じてはいた。
 ある日、主へ何か御礼がしたい、と長谷部は唐突に思い付いた。その方法は一旦置いといて、ひとまず彼は審神者に相当目をかけられている。与えられているものも際立って多く、自分だけが特別に思われていることに思いを馳せる度、長谷部の内心はまさしく狂喜乱舞だった。
 そういう訳で、日頃の感謝を表したい、と思ったのだった。元より長谷部は審神者の為に良く動いたが、審神者は指示した以上のことへ口や手を出されることを極端に嫌っていることは長谷部もとうに察していたので、最大限の早さと丁寧さを以て執務を手伝うこと、それに対する「ありがとう」を間近で聞くことができること、長谷部に許されているのはその程度なのだった。
 そう、審神者は必ず長谷部へ礼を言った。それは主従の線を引く為の行為だったのかもしれないが、取ってくれと言われた資料を手渡す時、長谷部が茶菓子を運んで来た時、連日の出陣で疲労困憊の審神者を労った時、長谷部は必ず「ありがとう、長谷部君」と言われていたことを思い出した。ただの近侍、ただの道具である自分へ欠かさず向けられている丁寧な感情が、長谷部には何よりも嬉しい褒賞だった。
 そんなことを自室に一人の時に考えて、長谷部は何か礼をすることに決めた。日頃の感謝を主へ表して、それで少しでも俺の感じた嬉しさを分かつことができたなら、毎日執務に追われている主の御心が少しでも慰められるのではないか――そんな風に楽観しながら、長谷部はさてどうしようかと鼻歌混じりに首を捻った。主に、何をしてさしあげたら良いのだろうか。
 長谷部が真っ先に思い付いたのは物を贈ることだった。審神者はクリスマスの時やバレンタインデーの時など、折に触れては長谷部へ贈り物をした。そこまで大きいものでなくとも、普段、町へ出向く用事がある時など、長谷部へちょっとした菓子を買い与えることは日常茶飯事だった。与えられることは、長谷部も好きだった。
 だが彼が審神者へ何かを贈るとなると、それは些か実現困難なことのように思えた。長谷部一人では買い物に出向くことは叶わず、ネットワークを介した通信販売は可能だが履歴は全て審神者から見えてしまう。加えて、何とも致命的なことに、長谷部は審神者の欲しいものが何一つ思い浮かばなかった。好きなもののただ一つすら思い浮かばず、長谷部は悄然とした気分で次の案を考えた。
 物を贈るのが駄目ならば、何か特別なことをしてさしあげれば良いのではないかというのが、長谷部が次に考えたことだった。例えば代わりに書類を片付けるとか料理を作るとか、背中を流すとか。しかしどれも審神者は喜びそうになかった。と言うよりも、それで審神者が喜ぶところというのを、長谷部には想像することができなかった。主は御自分の領分に踏み入られるのが何よりお嫌いだものな、と長谷部は肩を落として更に次を考えた。
 もうこれ以上は"夜"のことしか思い浮かばなかった。長谷部が自分の身体を差し出して、好きにしてくださいと言えば審神者は喜ぶかもしれない。或いは長谷部が自分から身体を傷付けて、審神者の感情を烈しく煽るというのでも目的は達成されるのかもしれない。だが一番最後のこの案こそ、長谷部が強く頭を振って忌避すべきアイデアだった。長谷部の脳裏に浮かぶのは嬉しさに顔を綻ばす審神者などではなく、君は淫売かと吐き捨てて長谷部を軽蔑の目で見下ろしている審神者だった。
 長谷部は半ば泣きそうにすらなって、文机の上に倒れ伏した。――主は俺に俺が望むものをあれこれと与えてくださっているというのに、俺は何一つお返しすることができない。俺が俺などでなければ、そう咽びながら、長谷部は審神者のことを考え始めていた。
 主、主と頭の中へ呼びかけながら、長谷部は審神者とのエピソードを色々に思い出していた。それは彼にとって唯一に等しい、心を慰める手段でもあったのだ。

「何? 御礼?」
 一体何事かと眉を顰(ひそ)める審神者の手には、長谷部が手渡した〝なんでも券〟があった。支給された黒と赤と青のペンだけで精一杯の装飾を施そうとした痕跡が、その券に描かれた枠線や塗り潰された飾り文字などから見て取れた。
「日頃の感謝と言いますか、俺の気持ちを主にお伝えしたかったので……」
 長谷部君が日頃の感謝とか言うと何だか嫌味のようでもあるな、と審神者は続く長谷部の言葉も碌に聞かずに逃避していた。子供が親へ渡す〝かたたたき券〟じゃあるまいし、どうしてこう突発的に思考の精神年齢が数百も下がってしまうんだろうなあ、と考えるも答えは出なかった。諦めて、大人しく長谷部の気持ちを受け取るしかないのだろう。
「有難く受け取っておくよ。ありがとう」
「はい、主!」
「それで、これはどう使えばいいんだろうか」
 どうしてこんな奇行に走ったのか、などという長谷部の暴走にとって火に油の結果にしかならない愚行は当然避けて、審神者は当たり障りなく話を進めた。券は五枚綴りになっていて、切り取り線らしき破線は描き込まれているが実際にミシン目などが入っている訳ではなかった。こういったチケットの類の実物を、長谷部は直に見たことがなかったのだろう。審神者は長谷部に対して、微かな憐憫のようなものを覚えた。
「一枚切って、俺にお渡しください。主の所望されるところを俺が叶えてさしあげます」
「何でも?」
「はい!」
 長谷部は期待に満ちた目で審神者をじっと見つめていて、この居心地の悪い空間から二人共が無傷で脱け出すには、結局自分が大人しく首を差し出すしかないのだということを審神者は早々に悟っていた。一生懸命にこれを作っている長谷部の姿が脳裏を過る度、審神者は言いようのない息苦しさと哀しみを覚えた。この近侍に報いてやることこそが、主である自分の責務ですらあるのだろう、と。
「……じゃあ早速、一枚使おうか」
 審神者は指先で裏表に鋭い折り目を付け、端から慎重に破っていった一枚を長谷部へ渡した。
「私を呼んでくれ」
「呼ぶ?」
 両手で券を受け取った長谷部は、その姿勢で固まったまま困惑していた。
「私を呼んでくれないか。主、と」
「あの、主、もっと……」
「願い事の大小が気になるのなら、次は君の為にもっと有意義な願いをするよ。今日はそれを願いたい気分なんだが」
「い、いえ、はい……あ、ある、じ」
 俺の為では全く意味がない、本末転倒だと焦り吃りながら長谷部は審神者を呼んだ。
「うん」
「あ、主」
「うん」
「……主、その、また使って、くださいね」
「使うのが勿体ないな」
「主」
「分かった。君にしてほしいことが出来たら使うよ」
「……ありがとうございます、主」
「ああ」
 長谷部が己を呼ぶその言葉の一つ一つに全身を愛撫されているようで、審神者は今すぐにでも彼を寝室へと引き摺り込みたくなっていた。長谷部の臓腑を手で、口で、喉で愛撫する方が、何もかもに勝る快感を得られることを審神者は知っていたからだった。
 残り四枚になった〝なんでも券〟を文机の抽斗に仕舞う。主、と押し殺した声が冷たい波のように身体を浸していく。
 今夜はやり過ぎないように歯止めをかけるのに苦労しそうだ――そう考えながら片笑んで、審神者はその後暫く、長谷部が「主」と呼ぶ甘ったるい毒のような声に溺れ酔い痴れていた。

***

 

 

 白く滑らかな背中を刃がなぞって、後を追うようにぷつぷつと赤い血が浮いていく。やがてそれは互いに寄り合って血の薄衣を織り、陶器の背中をするすると滑り落ちていった。
 二度、三度と繰り返し、同じところをへし切が裂いていくと、長谷部は布団に伏せたままで小さく呻き声を上げた。これも真っ白に洗い上げられていたシーツは鮮血に濡れて赤に侵され、審神者が直視するには刺激的すぎるほどの赤の色を見せていた。
「……う、あっ」
 血を滴らせながら背中の肉を捲り上げられて、ぶちぶちと何かが千切れる嫌な音が鼓膜に響く。これでも行為としては穏やかな方の部類だった。審神者は何かを壊すまいとしているかのような酷く丁寧な手付きで、長谷部の背を切り開いていた。珍しく長谷部の血や肉に目をくれることもなく、ただ何処か一点を目指して静かにへし切を揮い続けている。
「う、ぐ、……っ、はっ……」
 息を荒く弾ませながら痛みをできるだけ逃がそうと、長谷部は喘ぐような声を漏らして額に汗を滲ませていた。審神者の手も、顔も、うつ伏せになった彼からでは少しも見えず、何をされているのか、されるのか分からない不安をも少しでも逃がそうとして、長谷部はまた喘ぐのだった。
 削ぎ取るようにして最後の肉を取り除き、手をしとどに濡らしていた甘い血を少しだけ舐めて、審神者は"其処"へ手を滑らせた。長谷部の身体がびくんと跳ねる。一定間隔で起伏を繰り返す椎骨の一つ一つをゆっくりと撫でながら、審神者はへし切を置いてもう片方の手で長谷部の頭も撫でてやった。
「長谷部君」
「っ、は、はっ、……」
 審神者は目を細めて口の端を僅かに持ち上げただけで、それ以上は何も言わずに行為を続けた。ぶつん、ぶつんと縄の切れるような感触が途切れ途切れに響いてきて、長谷部は顔の横でシーツをきつく握り締めて不安に耐えた。不快感に身を捩り、しかし彼の脚は動かなかった。
「……?」
 それどころか感覚すら消失している。背中を押さえ付けられたまま、長谷部は振り返って状況を確かめることもできず、ただシーツを握ることしかできなかった。
 ぶつん、と鳴る音は徐々に長谷部の方へと近付いて来ていた。審神者に分からないよう、しかし必死に脚を動かそうと試みて、長谷部は何もできなかった。顎から汗が滴って落ちる。切り落とされた覚えもないのに、何が、何が起こっているんだ、という叫びが喉を劈いて飛び出しそうになった。
 気付けば腰までが動かなくなっていた。
「長谷部君」
 どろりとした声が耳を舐め、長谷部は思わずシーツを握る手に一層の力を込めた。固まりかけた血のように粘っこい声だった。
「君は何処を開いても綺麗だ」
 ぶつん、と音が鳴る。嫌だ、と目を見開いて長谷部は額を擦り付けた。布団から、嗅ぎ慣れた匂いがすっと立ち広がってすぐに消えた。――瞬間、全ての音が遥か彼方へと遠ざかった。
「どうなっても綺麗だ、不具になろうと」
 長谷部はもう審神者の言葉を聞いてはいなかった。固く握ったシーツに顔を埋めるようにして呼吸をし、脳へ届いたその匂いは開かれた脊椎の奥の奥へ――そんなことは起こり得る筈もないのに――沁み渡っていった。
「主」
 全身を包んだその香りは、まるで審神者に覆い被さられているようだった。閉じた瞼の裏は真っ暗で、長谷部は其処へ曖昧に笑う審神者の顔を思い描いた。
「主、主」
 くぐもった声は決して届かず、審神者は何も知らない顔をして長谷部の背骨から出ている神経の束を一つずつ切断していった。腹の感覚が、胸の感覚が失くなって、それから腕の感覚すらも失われて動かせなくなった。そんなことにも気付かぬままで長谷部は虚ろな目でシーツの海へ口付けて、審神者に抱きすくめられているかのような幻覚を見ては〝主〟に溺れていた。
 何も感じず、動かすこともできない長谷部の身体を見下ろして、審神者は薄暗い笑みを浮かべた。それからもう一度、長谷部の背骨を緩慢に撫でながら「長谷部君」と呟いた。

***

 

 

 俺の部屋へ来た長谷部は朝からぐずぐずと涙を浮かべていた。自分からは何も言ってこないが、わざわざ陰気臭い顔をして俺の前で泣くということは何があったのかを聞いてほしいという意識をばしばしと閃かせてきていることに全く変わりない。
 だが長谷部が泣こうが笑おうが俺には関係のないことだったので、俺は綺麗に無視をして今日の執務に取りかかっていた。
「主」
 そうしていたら自分から話しかけてきやがった。全く面倒でしかない。「何」とだけ返しておくと勝手に話を続けてくる。
「夢を見たんです。主が……その、いなくなる夢を見て、夢だとは分かっているのですが、俺は、ええと……」
「……」
 何を言っているんだか分からんな、と俺は紙に今日の予定を書き付けながら無言だった。長谷部はそれでもめげずに――というより、こいつは俺の都合なんか少しも気にしていない――うだうだと夢とやらの話をし続けている。
「それで今朝から、俺はあまり気分が良くなくて……悪い夢というのは、」
「今日の出陣は極連中と長谷部とで墨俣な、検非違使はまだ避けた方が良いだろうし」
「……あの、主……」
「あとの部隊は食事や休憩に合わせて適当に遠征、資源集めだな」
「主……」
「分かったか、隊長」
「あの……はい」
「よし」
 じゃあ俺は第一部隊の連中に声掛けてくるから、長谷部も仕度済ませておけよと言い残して部屋を出ようとすると案の定呼び止められた。
「何だよ」
「……」
「おい」
 黙りこくったままの長谷部に苛々してきたので蹴り飛ばしてやろうかと考えていると、散々に言い淀んだ後で漸く口を開いたので俺はすんでのところで脚を下ろした。
「主がいなくなったら、というのが怖かったんです」
 俺は溜息を吐いた。
「嬉しいの間違いだろ」
「何故ですか」
「こういうことをするから」
 言うが早いか俺は長谷部を蹴飛ばして、突然の衝撃に咳き込む奴を見下ろして言いようのない快感を得ていた。長谷部を殴ったり蹴ったりした時の硬い肉へめり込む感触が俺は好きで、さっと恐怖に塗り潰される長谷部の顔もセットになっているのだから堪らなかった。腹が立ったから手を上げるというよりも、長谷部のそういうところを味わいたくなったから手を上げるということの方が余程多かった。
「嬉しいだろ? 俺がいなくなると。殴られることも臓物掻き混ぜられることも犯されることもないしな」
「……」
「なあ」
 もう何発か蹴って殴ったら、長谷部はぐったりと脱力して畳の上に横たわってしまった。
「おい起きろ」
 しゃがみ込んで胸倉を掴み、出陣だよ、と頬をぺちぺち叩きながら声を掛けると、呻きながら目を開けた。
「……主」
「出陣」
「……はい」
 緩慢に身を起こしたがそのまま座り込み、長谷部は惚けた顔でどこか一点を見つめていた。出陣前から手入れしないといけないのか、と俺がうんざりして頭を掻いていると、長谷部が虚ろな声で「主」と呼んできた。
「あ?」
「嬉しくは、ありません。……俺は、悲しかった、んです」
「馬鹿馬鹿しい」
 俺は嗤って、長谷部の顔は見ないままで部屋を出た。図らずも、長谷部が相当に俺へ依存していることを知ってしまった訳だったが、俺はそれをどう利用しようかとだけ考えていた。ただ単なる依存は容易く移ろい得るような脆いものだ。一度心をへし折って、俺へ依存する根拠を跡形もないぐらいに破壊した後に再度たった一言を囁いてやれば、長谷部は間違いなく、もう二度と壊れることなどないような強固な依存をあっという間に築き上げることだろう。
 俺はそれを手に入れてみたかった。

 長谷部は今日もつつがなく部隊長としての任を務めてきた。俺はこの、俺が下した命は全て果たしてくる近侍に、執務の面では何らの不満も抱いてはいなかった。
 俺に消えてほしかったのか、と言いながら首を絞めてやると下も良く締まった。血塗れになって張り詰めた筋肉の束が、俺へ縋り付いて締め付けている。腰を引くと、追い縋るように長谷部の腕が伸びてきた。
「ちが、違い、ます」
「どうだろうなあ」
 事実お前は夢に見た訳だろ、と耳の中へ言葉を滑り込ませてやると、長谷部は発作でも起こしたかのようにしゃくり上げて俺への言葉を紡いだ。
「ごめ、ごめんなさい、あ、ある、あ、ぁ……」
 何とも可笑しかった。確かにこの行為は愉しいが、別にこんな程度で俺への"償い"になるとは思っておらず、そもそも夢のことなど俺は毛ほども気にしてはいなかったのだが、長谷部はこれを〝自分が見た夢に関しての主への償い〟か何かだと思っているらしかったので俺は益々愉快だった。
 引いた物をまた奥まで叩き付けると長谷部の身体が跳ねて、ついでに裂け目が広がって生々しい桃色の肉が新たに覗いた。すぐに鮮血が溢れ出して、作り物じみた肌の上をするすると滑って行く。俺は詰めた息を吐いて、長谷部の首に回した手へ力を込めながら何度も何度も腰を引いてはぶつけ、長谷部を責める言葉を繰り返した。
 呼吸も儘ならない長谷部は朦朧とする意識の中、俺の丁寧な言い聞かせによって「自分は本当に主がいなくなることを望んでいるのではないか」と思い込み始めているようだった。同時に俺を締めていた肉が弛緩して、俺は慌てて長谷部を呼んだ。
「……、ぁ、……」
「長谷部、おい、何一人で楽になろうとしてんだ」
「あ……」
 何度か瞬きをしてから長谷部は俺を見上げ、掠れた声で酷く聞き取りにくい「ごめんなさい」を呟いた。長谷部の下腹部の筋肉がぬめぬめと蠢いて俺を絡め取り、俺はそろそろ中へ出したくなってきていた。
「今日はこれぐらいにしといてやるよ、長谷部」
「……あ、るじ、……」
 抽挿を速めると真白い喉が反った。俺が絞めた指の痕が惜しみなく赤々と残っている。目一杯奥を突きながら、俺の頭にあるのは長谷部のこと、奴を壊してしまうにはまだ早いということだけだった。
「長谷部、っ、許してないからな、俺……っ」
 ひゅ、と散った瞳孔が透明な藤色を押し遣って、其処に涙が綺麗な膜を張ったことを確認してから俺は達した。へし切でぐちゃぐちゃに穿った長谷部の下腹の中へ射精して、俺だけが気持ち良くなった行為の余韻を、俺は一息吐いて静かに眺めていた。
「主」
 無粋な奴だ。
「俺は、悦かった、ですか」
 俺は無視をした。
「……つ、使って、ください、主……俺、を……」
 欠伸を噛み殺してから陰茎を抜き、精液と血の混ざり合った液体をぽたぽたと垂らしながら俺は俺の後始末をした。ちょっとだけ考えて、布団の上で力なく横たわっている長谷部の上にも上掛けを放り投げてやった。
 長谷部は静かに泣き始めたらしかった。汚れを拭いたティッシュを集めてゴミ箱へ捨て、俺はシャワーを浴びに音もなく部屋を出た。

***

 

 

 今日の長谷部は憂愁を押し隠しきれない様子で、何かを躊躇うような素振りを一日中見せていたが、とうとうその憂鬱の色を唇から滲ませて審神者を呼んだ。
「うん」
 審神者は振り向かず、端末から目を離さないままで短く答えた。今はまだ執務中で、審神者から話を振ったのでもない限り、二人はあまり雑談もしないのが常だった。やはり止めておこうかと逡巡し、それでも長谷部は不安と誘惑に勝てず、幾分か暗い声で言葉を続けていた。
「今朝、夢を見ました」
「ふむ」
 審神者は視線を自分の机の上に固定したままで相槌を打った。執務中なんだから黙って手を動かしなさいと言われればそれまでだったが、何も言われないということはまだ話を続けていても良いのだということだった。審神者は余計な言葉は言わないし、必要なことを言わないということもなかった。長谷部は内心で些かの安堵を覚えながらまた言った。
「その、主が、いなくなってしまう夢だったので、あまり気分の良いものではなくて」
「……」
「……悪夢、というのですか、その……」
 ふっと息を吐いて端末を待機状態に落とし、審神者は目を閉じて長谷部に言った。
「その話は、また後でも構わないかな。できれば、今夜、此処で」
 此処で、というのは即ち、審神者の寝所である隣室のことを指していた。俯いて、長谷部は少し言い淀んでから「はい」と答えた。言い淀んだのは、夜にこの部屋へ来るのが嫌だったということではなく、執務に関係のない話をし始めたことを案の定咎められたような気がしたからだった。
「はい。申し訳ありません、主に御手間を」
 審神者は煩そうに手を振った。
「それより、今訊いておきたいことが一つだけある。気分が良いものではないと言ったのはどういう意味だ」
「……そのままの意味です。考えたくもないことですが、俺の主が突然いなくなったとあれば、俺は不安や恐怖を覚えます」
 それを聞いた審神者は何処か悪戯っぽく、そして何処か皮肉気に笑って長谷部へ言った。
「歓喜や希望の間違いではないのか」
「何故ですか? 俺は本当に――」
「何故って、君が分からないならそれも後で教えてあげるとも」
 審神者が長谷部の言葉を全く聞き入れていないことは、長谷部の目にも明らかだった。今日の執務は完了し、暮れる空の色は炭を舐める火の舌の赤さにも似ていた。
「夕食に行こうか」
「……はい」
 机の上を整えて立ち上がり、目の前を過ぎた審神者の背を追いながら、長谷部は歩いて行く廊下の隅へぽつりと落とすように独り言を言った。
「喜ぶ筈などありません、……俺は、悲しかった」
「妄言だ」
 しっかり聞かれていて、長谷部は頬が熱くなるのを感じた。夕食にはまるまると太った鰯とはち切れそうに身の詰まった茄子が出て、長谷部が隣をちらと盗み見ると審神者は何ともつまらなさそうにそれらを口へ運んでいた。

 

 小さく千切られて撒き散らされた長谷部の腸のピンク色に埋(うず)もれて、審神者は長谷部の首を両手で絞めていた。酸素を求めて長谷部の喉が大きく喘ぐ度、締め付けられた気道がそれを阻むかのようにもがいては押し返し、長谷部の身体はびくんと跳ねた。
「ああ、そうだ。君の見た夢の話をしなくてはいけなかった」
 声になる前の音が小さく漏れる。長谷部の眼の藤色が恋しくなって力を緩めてやると、長谷部は盛大に咳き込みながら意識を取り戻し、苦痛に浮かんだ涙で潤んだ目を向けて審神者を見た。話をしてください、目は窒息した長谷部に代わってそう語っていた。
「私に消えてほしかったんだろう、君は。こういうことをされるからね。夢とは無論、現実に起こり得るあらゆる恐怖への対応練習の場であると言えるが……自分が心の奥底に隠している、秘めた切望の現れであるとも言える」
「そん、な、……」
 違います、と掠れた声が付け加えたが、事実君は夢に見たんだろう、と返されると何も反論できなくなった。
「申し訳ありません、主、俺、俺は……」
「良いんだよ、別に」
 床に置いていたへし切を取り上げて、審神者は長谷部の腹の中――すっかり血みどろに切り混ぜられていた――をくるりと掻き回した。呻き声を上げながら長谷部が身を捩らせたところへ跨るようにして、審神者は後ろ手で器用に長谷部への責め苦を続けながら首へも手を伸ばす。長谷部の下肢がばたばたと何度も跳ねた。
「長谷部君、君がそう望むことには何も思わないよ、私は。寧ろそれが正当なのだから、君はそう思っていれば良い。所詮は夢だ」
「主、ごめんなさい、ごめんなさい」
 僅かな間隙から息を吸って、長谷部は健気にその言葉を繰り返した。〝ごめんなさい〟。己の主の存在を否定するなど、忠臣として赦されない行為だった。
「君が望まぬ限り、私は何処へも行かない。消えてほしいと願うなら命さえ断つよ。その代わり、私は君に此処へ居てほしい」
 へし切の先が長谷部の骨盤を叩き、こつん、というその小さな衝撃も長谷部には非常な痛みだったらしく、彼は彼らしからぬ叫びを上げて、喉にかかった審神者の手すらを跳ね除けた。咄嗟に手に握ったへし切を跳ね飛ばされることだけは阻止して審神者は手元を見遣り、それから荒い呼吸を繰り返している長谷部を見下ろし、恍惚とした表情を浮かべて何度も何度も肉を掻き散らした。
「あ、あぁっ、あ、あるじ、ぁがっ……」
「何かな」
 一際強い激痛が長谷部の身を刺し貫いて、彼は散々に絞め上げられた後の赤い痣を晒しながら真っ白な喉をぐいと晒した。
「嗚呼、君は本当に愛おしい」
 言って、審神者は長谷部を抱え起こすようにして緩く抱き締めてやった。それだけで痛みが何割か引いていく、我ながら都合の良い身体だ、と長谷部は酸欠で麻痺した脳で夢想するように考えていた。
「ある、じ」
「何かな」
「俺、は……役に、立って、います、か……俺の、から、だ、は」
「うん」
「悦かった、ですか……何処へ、も、……」
 審神者が目を瞠っている間に長谷部はそれきり気を失ってしまい、途端にずしりとした重さが審神者の肩へとのしかかった。慎重な手付きで布団へ寝かせてやり、どうせ手入れで綺麗になるのだとは分かっていたが身体を綺麗に拭いてやり、それから審神者は長谷部を手入れ部屋へ運んで行って治してやった。
 また夢を見ているのだろうか――手入れ後、眠っている長谷部の傍へ腰を下ろし、審神者は手持ち無沙汰に彼の顔を眺めていた。何処へも行かないよ。君を置いて行ける訳がない。それに、いなくなってほしいと願われることなど、承知の上での関係だった。
 愛していると、何処にも行かないとその耳へ囁いてやれば、長谷部の不安を少しは取り除くことができたのかもしれない。それでも審神者には、たった六文字の、或いは三文字の言葉でさえ口にすることはできなかった。死ねと言われた方が、心は幾らか楽だったのになあと独り呟くのが精一杯だった。
 審神者からは見えないところで長谷部は静かな眠りに抱かれながら、片方の眦から小さな涙の滴を零し続けていた。

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