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​短篇集21

 長谷部の極が実装されるという〝お知らせ〟が届き、嬉しい報せかそれとも、と審神者が揺れているうちに本丸は実装前日の夜を迎えていた。
 一体どんなことになるのか、当人の長谷部ですら知る由もなかった。政府による極へのアップデートパッチの配布開始、それを確認してからの修行、と手順を踏まなければ何一つ変化は訪れず、現状審神者であっても修行先すら分からずに周章狼狽することしかできなかったのだ。
 修行道具は揃っていて、長谷部に本丸を三日も空けさせない為の〝鳩〟も審神者は購入済だった。後は明日の告知後に長谷部が修行行きの許可を願い出れば、全て事は始まり終わるという段まで来ていたのだった。
「不安で仕方がない」
 珍しく審神者が弱音を漏らし、向かいに折り目正しく正座をした長谷部がぴっと背筋を伸ばした。
「不安、ですか」
「君がどうなるのかと」
「……申し訳ありませんが、それは、俺にも……」
 そうだな、と呟いて審神者は手元の書類を弄ぶ。もう必要のなくなったそれを折っては開き、開いては折って、紙は皺くちゃになっていく。長谷部はそれを横目で見ていた。
「まあ君の方が不安なんだろう、今日は早く寝た方がいい。きっと身体にも……いや、頭か? まあ相応の負担があることだろうし」
「……はい」
 長谷部はまた視線を外し、隣室へと続く襖の方をちらりと見た。ぴったりと閉められた襖の向こう、きっと布団が敷いてあるものだと彼は思い込んでいたし、今から其処へ行くことになるものだと信じて止まなかったからだ。しかし審神者は「もう寝なさい」と繰り返すだけだった。
「あの……、はい」
「しないよ。別に最後という訳でもあるまい」
「俺が変わってしまってもですか?」
 審神者が言葉にしなかったその柔らかな不安へと踏み入って、しかし長谷部はそれにも気付かず何処か怯えた顔で答えを待っていた。つまらなさそうに頬杖を突き、少しだけ瞑目して、審神者は仕方なく言った。
「変わるって?」
「つまり、俺の性格が……既に修行を終えた連中の中には、些かの変化が見られる者もおりますし」
「その時はその時で、私の知る君は死んだということだ」
 相変わらず退屈そうに審神者は言った。それは寧ろ、心を揺さ振り続けているほんの僅かな摂動から目を背ける為の態度であったのだが、長谷部がそのような事情を知る筈もない。彼は一気に憂慮の波に飲み込まれた。
「主、俺は、俺は……」
「君が大して変わらなければそれで良いとも、また変わらず君を此処へ呼ぶよ。ただ私の知る君でなくなれば、私は君を忘れる。私が愛していた君はもう居らず、そもそも愛した事実などなく、此処には長谷部など存在しない」
「それ、は……」
「だから君が心配することなど何もないよ」
 呆然としたまま長谷部は自室へ返され、上の空でおやすみなさいませと告げた後も審神者の言葉が脳裏でくるくると回っていた。自分がどうなってしまうか本当に分からない、主の為にと向かうべき修行である以上は今よりもっと主の御役に立てるような進化を遂げて帰ってくるつもりだが、その自信も先の波に押し流され潰えてしまったようだ――強くなりたいと願っていた筈なのに、長谷部は主に見捨てられるのならそんなものは要らないとさえ思い始めていた。
 だが一方で、そろそろ自分の過去にもきっちりと片を付けてこなければいけないと考えていた。行き先が織田であれ黒田であれ、長谷部には審神者の為に精算してこなければならない過去があった。
「主……」
 視界が暗んでいく。身体はいつになく軽かったが、心は重かった。この目に何を突き付けられるのか、そう考えているうちに思考すらも真っ暗闇に落ちていた。

 政府による告知は十六時を予定されている、長谷部はそう告げられていた。
 時限の少し前、審神者は近侍を山姥切に替えた。物憂げな目で審神者の後を付いて行く彼に、長谷部は何ともやりきれない、焦げ臭い思念を抱いた。審神者が近侍を替えることなど、それこそ長谷部が顕現した時に初期刀である山姥切から受け継がされて以来、一度もなかったのだ。居場所を奪われたような、微かな冷たさが胸を通り過ぎて行く。強いてその感情に蓋をして、長谷部は自室で一人、最後の身仕度を整えていた。
 シャツもスラックスも、いつも以上に時間を掛けて皺を伸ばしておいた。ハンガーに掛けられて音もなく揺れているカソックも同様だ。手袋は一等白いものを選んでおいたし、何よりへし切が十全の状態であるように一層気を配っていた。――俺は刀だ。主の、刀だ。
 姿見をもう一度だけ振り返り、それから長谷部は部屋を出た。
 ――この部屋へ戻って来る時、俺はどうなっているのだろうか。

「主、お話があります」
 声はそれと分かるほどに震えていたが、室内からは色の無い「どうぞ」という声が返ってきただけだった。長谷部はそろそろと障子戸を開き、「失礼します」と一礼してから敷居を跨ぐ。山姥切と、それに審神者が揃って長谷部を見ていた。
 山姥切は部屋の隅に片膝立てて座っていて、長谷部は一瞬空っぽの近侍席に腰を下ろしかけたが、審神者が殊更に真正面の座布団を指し示すのでそちらへ落ち着いた。近侍の為に――つまりは実質長谷部の為だけにあった――用意された場所は空席のまま、審神者は長谷部へ話を始めるよう促した。
「主、本日は、大事なお願いがあって参りました」
「何かな」
 いつもと同じ部屋、いつもと同じ相手との会話なのに、長谷部は胃の辺りが妙に締め付けられて仕方がなかった。審神者はまるで知らない人間のようで、長谷部をその刀の一口として所有する人間であるかのように振舞っていた。今この瞬間、部屋に在るのは間違いなく、主とその刀だった。
 空気に気圧されてばかりもいられず、長谷部は懸命に続く言葉を絞り出す。
「修行の許可を、頂けますか」
「修行か」
 長谷部は其処に、何の感情も意図も見出せなかった。台本を読み上げているような審神者の言葉は次いで長谷部へ、
「許可しよう」
と告げ、修行道具の一式を音もなく取り出すと長谷部の前に置いた。旅道具、旅装束、手紙一式。審神者から何日も離れたままとなる刀剣男士の存在を維持させる為に必要な道具なのだと、いつか審神者が話して聞かせたその一揃いだった。これがなければ、修行先で消滅してしまうのだと。
 長谷部は深々と頭を下げてそれを受け、「有難うございます」と声を震わせた。そうして頭を上げる瞬間、視界を過った審神者の手は端から見て分かるほどに震えていたのだが、幸か不幸か、長谷部はそのことに全く気が付かなかった。
 道具を両手でそっと取り、立ち上がって、長谷部は言った。
「行ってまいります、主」
 言った瞬間何故か泣き出しそうになり、長谷部は忙しなく瞬きをした。誰も居ない文机には、しかし長谷部の使っていたペンが、書類が、今も残ったままなのだ。
「ああ」
 審神者は言って、
「無事を祈っている」
と短く付け加えた。長谷部は慌てたようにまた一礼し、足早に部屋を出て行った。数秒か、数十秒か、審神者は詰めていた息を大きく吐いて喉の様子を確かめる。湿っぽい言葉の気配は、すぐ其処まで達していた。
「鳩」
 唐突に、部屋の隅から陰鬱な声が上がる。
「使わないのか」
「使うよ、勿論」
 端末の画面を点け、審神者は操作を始める。手はまだ震えていて、山姥切はそれにも目敏く気付いていたが、敢えて指摘しようとは思わなかった。そんな思いをしてまで大事にしたい刀というのは、あの長谷部という刀は、審神者にとって一体どれほどの存在であるのか、彼にはよく分からなかった。審神者は裏表のない人間だとは分かっていたから、わざわざ訊くほどのことでもないと判断したということもあったのだが。
 どのメニューから操作するんだったか、などと言いながら審神者は尚も端末を触っている。被っている布を少しだけ引っ張り下げ、それから目を閉じて、山姥切は一眠りしようと壁に体重を預けた。やがて審神者の「あ、これか」という声があり、遠くから急ぎ足で執務室へ向かってくる足音があり、足音の主が止まるや否や「主!」という聞きなれた声が辺りへ張った。
 山姥切はつい先程閉じたばかりの目を開けた。障子戸へ映る影は何処か仰々しい。
「主、長谷部です!」
 もう戻っていいか、という意味を込めて山姥切が視線を送ると、審神者は「近侍を交替するまでは頼む」と耳打つように囁いて、それから長谷部へ入って来るよう促した。
 静かに滑っていく障子戸、その向こうに立ち現れた影は見慣れた顔をしていたが、しかし些か趣きが異なっていた。胸を張り、左手を其処に当てて、長谷部は厳かに言う。
「へし切長谷部、戻りました」
「お帰り、無事で何よりだ。早速で悪いが、近侍を君に戻そう。山姥切君、もう退がって良い。ありがとう」
「……ああ」
 去り際に長谷部へ妙な視線を向け――もしかしたらそれは、好奇心と憐憫と憧憬を綯い交ぜにしたものだった――山姥切は執務室を出て行った。僅かばかりの足音も絶え、部屋が夕刻独特の焼けた静寂に包まれて、先に口を開いたのは長谷部だった。
「主」
「うん」
「俺は、この刃が主の、今代の主の為だけにあるということを、思い新たにして戻ってまいりました」
「ああ、お帰り。修行はどうだった? ……ああ、手紙は全て、私のところにも届いているよ。そちらは後で読ませてもらおうか」
「はい」
〝鳩〟を使ったことで、長谷部が修行先から書いて寄越した手紙は三通纏めて端末へ届いていた。此方の世界ではほんの一瞬のことでも、長谷部は向こう側の世界でしっかりと三日間の道行を終えてきたのだ。毎日、他に頼るものもない世界で彼が何を感じていたのかが其処には綴られていた。
 審神者はそれよりも長谷部の言葉を直接に、その口から聞くことを望んだ。何を見、何を思ったのか、それを教えてほしいと静かに告げたのだった。

「安土に、行きました」
 長谷部はいつもの場所に座り、姿勢を正したままで報告していた。
「安土に」
 審神者は一見するとうっとりと眠っているかのような表情でそれを聞いていた。少し上擦ったようにも聞こえる長谷部の声が新鮮で、同時にそれは戸惑いをもたらすものでもあった。
「俺はあの男に、会わなければならないのだと思いました。それが、俺の修行ですから」
「信長に?」
「はい」
 それは黒田ではなかったのだな、という確認を含んだ問いだった。知ってか知らずか、長谷部はただ文字通りにそれを受け取って話を続けた。
「俺は……少し、迷いました。俺はもう人を斬るだけの道具ではない、主の為に、主の刀として敵を斬り、歴史を守る。この身体も、心も、その為に授かったものなのだと理解してはいました。それでも少しだけ、あの男を斬ってしまうかもしれない、そう迷ったんです」
「うん」
 瞑目したままで審神者は頷く。
「迷いはしましたが、俺は主の刀です。怖れる道理などない、……そうですよね? 俺は会いに行きました、そして拍子抜けするほど呆気なく、事は終わりました」
 其処で一旦言葉を切り、胸元を――新しくなった戦装束を軽く握り締め、長谷部は決心したように口を開いた。
「俺がずっと考え続けていたことは、本当に何でもない思い違いだったんです。俺はずっと……黒田家へは下げ渡されたのだと、捨てられたが故の結末だったのだと、そう思っていました。でも、でも俺が知った事実は違っていて、俺は……俺は、あの男が一等大切にしていたものだからこそ、懐柔の為の道具には相応しかったのだと、そう、教えられました」
「……」
「俺の憂いは、それで晴れました。ずっと心の片隅に引っかかっていて、時には主をも煩わせてしまった俺の過去は、もう精算できたのだと……。だからこれからは、主、ただ貴方だけの為に、貴方の刀でありたいと思うのです」
「……」
 審神者は俯いて、何事かを考えているようだった。時折苦鳴に似た声を漏らし、うっすらと目を開けて、掠れた声で「それで」と呟いた。
「はい?」
「君は、私の刀になったと」
「ええ、主がそれを望むもの、主に仇なすもの、全部完膚無きまでに切り捨てて血の海に沈めることを誓います」
 酔ったように長谷部は朗々と詠い、審神者が小さく眉を顰めたことにも気付かなかった。そのまま彼は付け加えて言う。
「どうか俺をお使いください、他の連中などよりずっと忠実で、主だけの為に動く俺を」
「……君は」
 小さく開いた審神者の口腔にはぽかりとした闇があった。
「少しばかり、愉快な性格になって帰って来たようだ」
「あの、それは……」
「さてね、全てを判断するには些か尚早に過ぎるが、今は少し休んだらどうかな」
 高速処理というのはなかなかに疲れたんじゃないか、と審神者は長谷部の目を見て言う。気分が高揚していた為に休息の必要など微塵も感じてはいなかったが、長谷部は審神者が言外に「休んで来なさい」と仄めかしていることを悟り、大人しく腰を上げた。
 長谷部を送り出しながら、後で部屋へ行くよ、と言い添える審神者へ、彼はただにっこりと微笑むだけだった。黒いカソックの裾を翻らせながら思うことは、あの手紙を読まれるのは今更ながら恥ずかしいな、ということだった。

 その後、長谷部は何度かの出陣と演練に出されて、審神者は同じ部隊の面々にこっそりと何かを尋ねては度々何かを考え込んでいた。そして夜、長谷部はいつものように審神者の部屋へ呼ばれていた。
「皆に話を聞いたよ」
 茶を出すでもなく、寝室へ移動するでもなく、審神者は頬杖を突いたまま面白半分な様子で言った。長谷部は相変わらず背筋を正して対面している。夕方の時と少し違うのは、武装を解き、カソックだけを纏った姿で座っていることだった。修行前と違い、カソックの喉元から腹の辺りまできっちりと釦が掛けられて、中に着ている筈のシャツなどは見えなくなっていた。
「君は随分と自分に自信を付けて帰って来たらしい」
「主の刀で在るに相応しく、と心がけているだけです」
「ふうん」
 審神者は少しだけ身を引いた。
「別に何を言うつもりもないが……まあ、此方へおいで」
 手招きされ、長谷部は膝行する。審神者の手が下されるまでそれを続けていたらいつの間にか目と鼻の先に審神者が座っていて、流石に長谷部も驚いたが、以前ほど狼狽えはしなかった。
「主」
「うん?」
「俺を」
 言い淀み、その隙に審神者の手が伸びた。する、と髪を除けるように動いて首筋を捉え、其処へ審神者の口を引き寄せる。長谷部は気付かない振りをしていた。
「俺を、……」
 ぶつり、と嫌な音が響く。何も変わらない、肉の引き千切れていく音と咀嚼する音とが長谷部の鼓膜を濡らし、溢れた暗血はあっという間にカソックへ吸い込まれていった。
 審神者は赤く弾けた肉の塊から顔を離し、長谷部の肉を飲み込んでから血の雫で濡れた唇を拭った。暫く言葉はなかった。ただ首筋をか細い血の川が流れていく感覚だけがくすぐったくて、長谷部は小さく身を捩った。
「君は、何も変わらない」
 手の甲の、掠れた血の痕を見つめながら審神者が唐突に言った。
「君の本質は何も変わっていない。ただ、そう、そのカソックのように見た目だけが変わったんだろう。血は確かに痕を残しているのに、黒くなった所為で何も無いように見えているだけだ」
「……どういう、ことですか」
「君は何も変わらない。勘違いをしているだけだ。自分の憂い事は無くなったのだと」
 困惑する長谷部を他所に、審神者は一人、嬉しそうですらあった。
「良かったよ、君を忘れずに済んで。私はまだ、君を愛していられるみたいだ」
 尤も、君には不幸でしかないだろうね――そう言って審神者は嗤う。長谷部は何が何やら分からないままだったが、どうやら自分は主の刀でいることを許されたらしいということだけは理解できたので、いつもの恭しい態度を作って目を伏せた。
「有難き幸せ」
「ああ」
 目を細め、傅く長谷部を見遣って審神者は片笑んだ。長谷部の憂いが晴れたなどと、本人がそう思い込んでいるだけでとんだ大嘘だ。長谷部は捨てられたという思い込みを捨て去ることもできないまま、傲ったような態度で他者を蔑み、自分こそが主に相応しい刀なのだと思い込む術を身に付けただけなのだ。怪我を負って帰って来た長谷部の独り言を、審神者は耳聡く聞いていた。――死んだら死んだで、捨てられることもない。
「長谷部君」
 立ち上がり、審神者は襖を小さく開けた。敷かれた布団は真白く、長谷部の纏う黒とは悲劇的なまでに対照的だった。
 長谷部もゆっくりと立ち上がって、僅かばかりの羞恥や喜びに唇を噛んで頷いた。主は――主は俺が、悦ぶことを喜ばれない。それなら俺は、主の下に置いていただく為には――
 全身を噛み千切られ、気を失った長谷部へ審神者は呟いた。捨てやしないよ、と。端から私は、心中すら選ぶつもりだったのに、と。

 


***


 目出度く修行から戻って来て、これで主に相応しい、主だけの刀になれるのだと長谷部は思っていた。審神者は度々、長谷部の前の主のことで苦鳴を漏らす。長谷部の心はずっと其処に取り残されたままなのだと言っては、懊悩し長谷部を引き裂いて時にはその死体を作り上げていた。
 取り残されていたのは決まって俺の方でしたよ、とは長谷部は態々口にすることはしなかった。そんなことを言えば、やっぱり付いて行きたかったんだろうと喚き散らされるのは目に見えていた。信長に、或いは長政に、あの世までも付いて行きたかったのかどうか彼にはもう分からない。嘗てはそう願ったこともあったが、今の主に出会ってから、それが正しいことなのかどうか自信が持てなくなってもいた。
 そもそも長谷部は、今回の修行でそういったしがらみは全て断ち切ったつもりでいた。そうでなくてはならないと自分を固く律して、審神者の下へと帰って来た筈だったのだ。
 薄暗い寝室で、審神者は纏わり付くような視線を長谷部の肌へと這わせて言葉で舐めた。
「君は、……随分と死に近しくなったようだ」
 真新しいカソックとその下を粘付く視線でなぞり、それから長谷部の顔を見据える。長谷部は落ち着かない様子で両腕を身体に回し、抱き締めるようにして力を込めた。審神者の目が煩そうにそれを払い、長谷部はまた両腕を力なく下ろした。代わりに、「どういうことですか」と望まれている言葉を小さく呟いた。
「さて、確信はないが」
 左右に一度、身体をゆらりと動かしてから審神者は薄らと笑って言う。
「もしかして、君は死ねるんじゃないかと思ってね。正確には、死後も何処かへ向かうことができるのではないかと」
「死後、ですか。ですが主は……」
「だから、修行だよ。君はもう、川を渡れなかったあの頃と同じ存在ではない。此処に居る長谷部は、私の刀となって、そしてあまりに人へ近付きすぎた。人として死ねるようになったことを知ったからこそ、君は死について度々口にするようになった」
 違うかい、と向けられた視線は些か悪戯っぽいものではあったが、長谷部にとってそれは、底冷えのする悪意にも等しい意味を持っていた。
「俺が知ったのは、主が仰ること、なさること、全て其処からのものだけですよ」
「君は死にたいのか」
 随分と直球な質問に長谷部は動揺した。付いて行けなかったことを嘆いているのだろうと責められているような気がしたからだ。「いいえ」と否定する声も掠れて蚊の鳴くようだった。
「向こう側へ行けるから、戦で傷付く度に死を口にするのだと思っていたが」
「……主を置いて、ですか」
「君の主は誰なんだろうな」
「それは、今の主に決まっています……!」
「……はは」
 ぱっと腹の弾けるような熱さがあって、長谷部は思わず身を折って呻いた。真横に大きく裂けた腹から臓腑や何かがどろりと飛び出して、心臓の拍動に合わせてじくじくと周りを焼いていた。反射的に手で押さえると仰け反るような痛みが走り、血に塗れた手を血管の浮き出るほど握り締めて長谷部は必死に耐えた。
 これではまるで、身体までもがすっかり新しくなってしまったようだ――脳裏の片隅では、甚く冷静にそんなことを考えていたりもした。
「何故ですか、主」
「何が?」
 審神者は素知らぬ顔をして、へし切を軽く振って血を払っている。
「俺は、修行を終えて、これで漸く、俺こそが主に相応しい刀だと思いながら帰って来たんです」
「知っているよ。近頃の君は些か高慢だった」
「それなら……それなら、何故俺を認めてくださらないのですか、主。俺はもう主だけの刀だと、申し上げたではありませんか」
「認めているよ。言っただろう、愛しているとも。ただ偶に発作が出るだけだ、君の中身はやや複雑にすぎる」
 尤も、と言いながら、審神者はへし切の切っ先で零れた小腸を掬う。
「こちらはとても単純だ。だから私は君が好きなんだが」
 長谷部は痙攣していて、その言葉にも全く耳を貸してはいなかった。腸を埋め尽くすか細い神経の一本一本が、今までの長谷部にとっては過剰なほどに痛みを拾い上げては増幅させていた。あ、おっ、と呻きながら、滲んできた涙を散らしている。
「何故私に近付いた? 君が織田の、或いは黒田の刀で在るままなら、私はそれで良かったのに」
 弄ぶことを止めてやると、長谷部は暫くの間肩を上下させて必死に酸素を取り込んでおり、涙の浮いた目で一見恨みがましそうに審神者をじっと見つめていた。
「俺は、貴方の、刀ですから」
「それだよ、私が気に食わないのは」
 へし切を鞘にも収めず床に置き、審神者は長谷部の方へとにじり寄るとその腹に手を突っ込んだ。手に触れたものを片端から引き摺り出していって、畳の上にはすぐに血濡れた桃色の肉の山が築き上げられた。一際大きな赤褐色の肝臓の上に斑な灰色がかった肺の片方が投げ捨てられて、審神者は漸く手を止めて息を吐いた。
 床に広がっていく血溜まりも、立ち込める肉と臓物の臭いも、全て長谷部の感覚を覚ますには鈍らに過ぎた。時折身体をぴくりと跳ねさせ、それ以外は涙の跡が残る顔を虚ろに向いて血を流し続けていたが、審神者が一言「長谷部君」と呼ぶと、緩慢な動きではありながらも掠れた藤色をそちらへ向けて、「はい」とこれもまた嗄れた声で返事をした。
「君の中へ入ることは本当に心地が良い」
「……そう、ですか」
「こんなに愛しているのに、どうして君へ伝えるのはこんなに難しいんだろうな」
「……」
「例えば、こうしようか」
 腹から胸へと広がっていた肉の裂け目を舌で割って、審神者は断面から柔らかな肉を毟り取る。ひっと空気の漏れたような音を出して喉を引き攣らせ、長谷部は身体が力なく弛緩していくのを感じた。
 耳障りな咀嚼音が響き、濡れそぼった嚥下の音が一つ打った後、部屋はすっかり静寂に満たされた。
「……君を、本当に愛しているんだ。私の、私だけの刀であってくれたらと思うほどに」
「……俺、は……」
「君に死へ近付いてなどほしくなかった。そう在らせたのは私じゃない、君の前の主達だろう」
「……」
「此処で君の心臓を抜いて殺して、或いは私が喉を突いて死んで、その後に希望を見出してはほしくなかった。私の刀であることに近付いてしまうだろう、君にそんなことを思ってほしくはなかった」
「……死ん、だ、……後……」
 ばしゃ、と液体の落ちる音がした。長谷部が血を吐いたのだった。跳ねて飛沫となって、長谷部のカソックと審神者のスラックス、両方の黒を汚したが、その痕は誰にも見えなかった。
「長谷部君が死後に望むものが私以外との再会であれば、どんなに気が楽だったことか……。君が私の、或いは自分の為に死ぬことを望み、死後も私を希求するなんて、冗談じゃない」
 それは主従などではない、と囁く声が長谷部を眠りへと誘う。夜の帳が降りるような、侵蝕するようなやり方で暗闇が忍び寄って来ていた。何だか眠くなってきたな、と長谷部は誰にも言うことなく一人思う。
「君を殺しても良いかい」
 懸命に瞼を持ち上げ、長谷部は目の前に覆い被さる闇を直視した。酷く哀しそうに、汚れた長谷部の顔を見る目の色。
 今日こそ、俺が主の為に死体になれるのだ、と昏睡する意識が泣いていた。いつだって俺は見ているだけだった。死をこれほど間近に感じておきながら、俺は主の為に死ぬことは決して叶わなかった。——付いて行くことも、主の御心を慰めることも。
 俺が死に近付いたのは、主、貴方が俺を殺し続けていたからですよ。だから俺は貴方だけの刀になって帰って来て、今度こそ俺が、貴方の為に死ぬのだと思ったのに。…………。
 夜は呆気なく明けてしまい、長谷部は死体のような顔色をして座っている審神者を其処へ認めた。
「長谷部君」
 そう言って、続けて何を言うべきか逡巡し、審神者は結局顔を背けて黙り込んだ。代わりに長谷部が沈黙を埋める。
「俺は、美味しかったですか」
「……」
「修行に行ってから、俺は何処か、俺でないような気がして仕方ないんです。……例えば、身体の痛みですとか」
「……」
「主にお仕えするのに差し障りさえなければ良いのですが」
「長谷部を殺した」
 そのまま長谷部が口を差し挟む間もなく、審神者は早口で弁明をした。
「君を此処へ連れて来て、どうにも君を殺したくて仕方なかったんだ。だから一人、新しいのを連れて来て殺した。君にしたみたいに内臓を全部引き抜いて、手脚を一本ずつ切り取って、そのまま私のところまで這って来れたら直してやると言ったら必死になって血を撒き散らしながら畳の上を這い摺って来て、結局途中で耐えられずに死んでしまった。……いや、動かなくなったから私が殺したんだ。腕の中でどんどん冷たくなっていって、目も何も映さなくなって、私はただ茫然として長谷部の身体を抱いていた」
「主……」
「お願いだから私に近付かないでくれ、君は知らなくて良いことに近付きすぎた」
「……」
 長谷部は自分が寝かせられている布団に目を落とし、柔らかな羽毛の詰められた掛け布団をそっと撫でた。今夜、腹を裂かれた時に感じたのと同じようなこの熱は、身を焼き焦がす炎は、一体何なのかと考えていた。自分が決して得られないもの。修行を終えても尚、他の長谷部にしか与えられないもの。憎悪に近い、真っ黒に歪んだ感情が腹の底で煮え滾って、煮詰まったその熱さは、へし切すらもその怨嗟を纏っているのではないかと思われるほどだった。
 それでも長谷部はその感情に蓋をして、濾過をした綺麗なところだけを器用に掬ってきては飲み干して、それから審神者へいつもの愛想笑いを浮かべて言った。
「主、俺は貴方の刀です。主の思うままに、お使いください」
 内心では確かな恐怖があった。審神者の為にと変われば変わるほど、審神者は長谷部を恐れ、遠ざけた。それは長谷部を死というものから極力遠ざけておきたいという考えにも近しいようだった。
 それで今、その思いとは裏腹に、またも長谷部を一つの死へ触れさせてしまったことが、審神者の心を押し潰そうとしているらしかった。
 まだ先は長そうだ、と長谷部は瞑目して身体を休めた。鋭い痛みがまだ脳内に刺さっている気がしていた。――主だけの刀になれるまで、ただ静かに待っていよう。その程度の分別が、皮肉なことに今回の修行の数少ない成果なのかもしれなかった。

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