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短篇集20

 長谷部は憂鬱だった。
「何が今の主だ」と言って、審神者は彼を詰っている。長谷部の主は精神的に些か不安定であり、内心の恐慌をこういった形で長谷部へぶつけることも珍しくはなかった。
 審神者は頻りに〝前の主〟のことに触れたが、それは時として信長のことであり、また時として長政のことであった。
 どちらにせよ審神者はただ一つきり信じ込んでいたことがあって、言葉を変えてはそれを幾分暴力的なやり方で長谷部に投げ付けるのだった。
 執務室の片隅、薄暗がりに座り込んで審神者は言う。
「付いて行きたいとまで思ったのは前の主のことで、私は所詮〝今の主〟でしかない」
 狼狽え、何も返せない長谷部に向かって審神者は冷笑を向けた。
「その身を劫火に焼いても付いて行きたいと、あの世までも供をしたいと願っていた、違うのか」
 違う、違いますと繰り返す長谷部は顔面蒼白だった。嘘吐き、と吐き捨てられると一瞬身を強張らせ、一層激しく「違います」と言い募り始めた。
「君は嘘吐きだ、前の主、前の主とそればかりを口にして」
 私となど死んでもくれないくせに、と呟くように言って審神者は淋しそうに嗤う。長谷部はどうしようもなく胸が締め付けられて、それでも口にできた言葉は「違います」だけだった。
「それなら私の為に腹でも切ってみるか? どうせ口から出任せに過ぎないのに、君は嘘ばかり吐く。私の後(あと)など――」
「やります」
 叫ぶ様な言葉で遮って、鼓膜を揺らす唸りで長谷部は無理矢理耳を塞いだ。そんな姿を審神者はつまらなさそうにじろじろと睨み付け、無言で部屋の外を指差した。嘘吐き、と零された言葉には聞こえない振りをしていた。

 まだ空は明るいが、外を指されたのは見間違いではないようだった。雪の積もった庭へと放り出され—と言っても審神者は険しい顔をして長谷部には触れようとはしなかった—遅れて降って来たへし切はぼす、と音を立てて新雪へ身を埋めた。
「本当は」
 審神者は縁側に立って見下ろしていた。
「前の主と心中したかったくせに」
 泣きたくなる気持ちを堪え、長谷部はシャツの釦を一つずつ外していった。冬の清潔に透き通った空気が腹を撫で、冷静になって物事を考えるだけの余裕を長谷部に与えてくれる。
 シャツもカソックも全て脱ぎ去ってしまう方が、腹を切る邪魔にならないのは自明なことだった。しかし審神者はそれを良しとしないだろう。切腹の作法などとは無関係に。勿論二人共、そんなものには詳しくない。
 審神者は長谷部がすっかり裸になってしまうことを好まなかった。
 服を着たままか、さもなくばその皮までをも脱いで中身を晒け出してしまった状態か—夜の長谷部は、概ねどちらかの格好で審神者の前に在った。
 長谷部はへし切を鞘から抜いて当ててみる。……腹を切るには長すぎるように思えたが、此処にこれ以外の刃物はなかった。
 おそらく、あくまで推測には過ぎなかったが、審神者は嘘と真実(ほんとう)の間に存在するものを嫌っているのだろうと長谷部は考えていた。今この行為に象徴される、白黒つけなければ気が済まないのだという考え方。服も着ていなければ肉や腸(はらわた)も見えていない、中間として在るその身体を審神者は許せないのだ。
 シャツの前を大きくはだけ、長谷部は思い切ってへし切を突き立てた。そのまま臍を通り過ぎて反対の脇腹までを割り、血は順を追って溢れ出しては滑って、真白い肌を濡らし始めた。
「ぐっ、……、ふっ、ふーっ、……」
 これだけでは足りないのは目にも明らかだった。まだ僅かな血液しか見えていない。この程度、普段の行為では下準備にしかならない代物だ。今は切腹をしているのだ。死ぬ為の行為がこの程度のものとあれば、それは己の主へ向かって嘘を吐いたのと本当に変わりがないということになってしまう。
 微かに震える手を押さえ、長谷部は切っ先で腹の中を掻き混ぜ始めた。か細い肉色の線維の、或いは神経の一本一本が呆気なく断ち切られる度に喉の奥では悲鳴が漏れた。
 最早〝正しい〟やり方など意識の埒外にあった。
「はっ、あ、主……っは、あ、はっ、」
 へし切をずるりと抜くと取り縋るようにして肉片が糸を引き、その光景を冷静に眺めている自分が凡そ死からは程遠いところに立っていることにも気付かぬまま、長谷部は漸く審神者の顔を見上げた。
「……」
 酷く冷めた表情に、途端長谷部は身体の下の雪の冷たさを思い出すかのようだった。雪は長谷部の体温でじわじわと融けて、スラックスへ滲みてはその紫色を一層濃くしていた。審神者は無感情に言った。
「その程度か」
 それから嘲笑うように唇を吊り上げて、
「もういい、部屋へ入れ」
と言い捨てて一足先に戻って行った。
 取り残された長谷部は一瞬、追い縋ることも忘れて茫然としていたが、すぐに焦った様子で立ち上がった。へし切だけはしっかり納刀しつつ腕に抱え、縺れる足で縁側に上がり、「主」と情けない声で呼びながら障子戸を開けた。
 審神者は火鉢の前に座っていた。

 本丸の建物内というのは外の気候からは完全に切り離されて管理されており、だからこそ例えば今日のように積雪させている日であっても暖房なしに過ごすこともできるようになっているのだった。
 しかし審神者は何処か変わっていて――或いは長谷部達刀剣男士には理解できない、人間特有の感覚なのか――時折、その分離を切って過ごしたがることがあった。当然、夏は汗が滴り落ちるほどに暑く、冬は息も凍るほどに寒くなってしまう為、長谷部は冷房機器や暖房機器の用意を強いられることとなっていた。
 この火鉢もそのうちの一つだった。

 膿でも滲み出しているように痛み続ける腹を押さえて長谷部が立っていると、短く「座りなさい」とだけ命じられた。中身を零して執務室を汚してはいけないと、手は離さないままで腰を下ろし、長谷部は審神者の向かい側に落ち着いた。
 火の暖かさは張り詰めていた心を和らげた。黒々と太い炭は爆ぜることもなく静かに燃え続け、長谷部は自分の主というのがこういうところでは出費を惜しまない性格であることをふと思い出した。
「安い炭は爆ぜやすい」
 そう言ったのと全く同じ顔が、今はこの上なく退屈そうな表情を浮かべ、誰に言うともなくふと言った。
「結局、君は死ねなかった」
 長谷部は蒼白な顔で俯いた。自分が死ねなかったことは紛れもない事実だった。嘗て、あの世までもお供したいと願った人がいたことはいつの間にか審神者にも筒抜けになっていて、そうと知っているのに尚、長谷部は主の為に死ねなかった。
「主」
 震える声にも、審神者は長谷部を見ようとはしなかった。
「俺は、本当に――」
 じゅう、と火に水のかけられたような音がして、立ち昇る白い灰色の煙を勢いよく散らしながら長谷部は咄嗟に飛び付いていた。
 跳ね除けた手は審神者のもので、その先はみるみるうちに赤く腫れ始めていた。深部など爛れてしまっているのではないかと長谷部は思ったが、現実は身体も顔もすっかり硬まってしまっていて、何一つ言葉も発せないままその場に凍り付いていた。
「……」
 鉢の中で引っ掻き回されたようになっていた炭がまた静かに燃え始め、火が舐める割れ目の奥では赤暗い光が明滅した。
「ご機嫌取りか」
 唸り、審神者は無意識に右手を庇うように押さえた。火傷の痕はとても痛ましく、そして長谷部の手には、僅かな腫れさえ見受けられなかった。
「やはり君の忠心は此処にはない」
「……」
 嘘つき、と罵られることを見越してか、長谷部の唇は小さく「違う」と呟いていた。
「腹を仕舞って付いて来るんだ。夜までその姿で過ごす訳にもいかないだろう」
「……はい」
「これからするのが手入れなどではなく埋葬だったらな、私も少しは気が晴れたのだろうが」
「……」
 申し訳ありません、とすら言えなかった長谷部を、審神者は最早気にも留めなかった。ただ一つの言葉すら口にできないことも、審神者の見ている長谷部については予定調和でしかないのだとでも言いたげだった。
 廊下に出ると、踏み荒らされた新雪の上には黒ずんだ赤が幾つも痕を残していた。不実の証を改めてまざまざと見せつけられているようで、長谷部は何も言われていないのに言い訳をするように口を開いていた。
「主、その時が来たら、きっと俺は死に物狂いで後を追います。それが何を意味するのかを今度はきちんと理解していて、それでも主に付いて行きたいと思っている筈です」
 審神者ははん、と鼻で笑い、後は何も言わなかった。言葉には表されずとも、その答えの意味を長谷部は十二分に理解していた。
 審神者は長谷部の言葉を信じなかった。何もかもをひた隠しにして忠臣ぶった態度を取っていた、そして今も取り続けているだけの長谷部を信用せず、ただ一つの手段、自分と共に死ねという命令だけを繰り返した。
 一体どうすればいいのか、と長谷部は声に出さず独り言ちた。前を歩く審神者の右手の火傷がちらと目に過(よぎ)り、呼応するように裂けた腹の中が焼けて痛んだ。
 どうすればいいのか。長谷部は酷く憂鬱だった。少なくとも、腹を切れと命じられるだけ幸せだったのだろう。それは審神者から与えられるものには違いなかったからだ。
 ひとまずは、審神者が火傷したところに薬を塗ってもらえるよう説得するぐらいのことは長谷部にもできる筈だった。
 長谷部は腹を押さえながら小走りに審神者を追った。少し振り返ったその向こう、雪を汚した血痕は綺麗さっぱりその姿を消していた。

 


***

 


 審神者はいつもと同じことを言った。
「君は私を殺してはくれない」
 長谷部は部屋の換気をし、茶を淹れながらそれに答えた。
「ええ、主は俺の主ですから」
「馬鹿馬鹿しい」
 審神者は部屋の隅で膝を抱えて座っていて、卓袱台の上に置かれた湯呑に一瞬の視線だけを走らせた。それから一層憂鬱そうな顔をして、何かから身を守るように身体を小さく折り畳んだ。
「君は刀だ、主の命を果たすだけの道具でしかない」
「ええ、分かっています。俺は主に害なすものを斬る為に在ります。主をお守りする為に」
「主命を果たせと言っているんだ」
 地の底から這い出てきたような声で審神者は言う。
「私を守る? いざとなれば主君の腹を切って、それでも涼しい顔をしているのが君のような刀というやつだろう。守るだなんて笑わせる」
「主」
 長谷部は少しも動揺していなかった。己が主の毒を含んだ言葉にはすっかり慣れきってしまっていた。そしてそれが良いことなのかそうでないのかは、長谷部が考えを巡らせるべき事柄ではなかった。
 彼はただ言った。
「俺は主の命をお守りするのではありません、誇りを守るのです」
 は? と小さな声が漏れ聞こえてくる。
「切腹は矜持を守る為に許された最後の手段です。であれば俺は、それを遂行してみせましょう。ですが主の仰る『殺してほしい』とは、そのような誇りを守る為の死ではありませんよね」
 審神者は何も言わなかった。顔が僅かに紅潮しているが、まだ喚き散らすほどには気力が戻っていないらしかった。ただぽつりと一言呟いただけだった。
「……道具のくせに」
「はい、俺は主の道具ですから、主を殺してさしあげることはできないんです」
「私が君は人間だと言ったら殺してくれるのか」
「人間ですか」
 長谷部はゆっくりと復唱する。突然に審神者は腹の底が熱く煮え滾り始めるのを感じ取り、手元にあった座布団を長谷部へ投げ付けた。長谷部は避けようとする素振りすら見せず、座布団は用意されていた湯呑を薙ぎ倒して萌黄色の液体をそこら中に飛び散らせていった。
「もし俺が人間であったなら、生きてくださいと申し上げます」
「君が死ねば良いんだ」
 審神者は顔を伏せて籠った声でそう言った。立ち上がり、湯呑を拾い集めては畳を拭く長谷部は何も言わずにいた。
 彼は自らの主を心から信頼していた。崇拝と言っても良いその感情は、死ねと命じるその言葉が決して本心からの望みによって発せられたものでないことを長谷部に理解させていたし、また殺してくれと呪詛のように吐き出されるその言葉が一時の悲哀の波によってもたらされるものでしかないことも十分に理解させていた。
「いつか、君に殺してもらわなくても自分で死ねることに私は気付くだろうな」
「主がそう決められたのであれば、俺は何も言いませんよ」
「人間ではないものな」
「刀ですから」
 審神者は顔を上げるとふらふらと立ち上がり、隣の寝室へと倒れ込むようにして姿を消した。慣れた手付きで水を用意し、長谷部はその部屋の奥へとグラスを滑り込ませる。
 金属のシートから錠剤を開ける耳障りな音が微かに響く。審神者はその薬を愛用していた。束の間の仮死を与えてくれるそれは、酷い悪夢をも審神者へもたらした。
 それでも生きているよりは良いのだと、長谷部の主はいつだったかにそう言っていた。そっと襖を閉じ、長谷部は執務室を辞す。一人にしてほしいという言外の望みを、刀であるだけの彼はただ、黙って見守るより他はないのだった。

 深い眠りは意識の領域を遥か無意識にまで追い遣った。上ること能わなければそれは意識ではなく、審神者はただ渾々と眠り続けていた。
 薬は比較的単純な構造をした化学物質で、一つそれを特徴付けている点を挙げるとすれば他のものよりも頭抜けて長い半減期を持つことだった。つまり服用すれば必然的に非常に長い眠りがもたらされ、しかもその間、脳は深浅を行きつ戻りつすることはなく、覚醒の時までずっと、淵ほどに深い眠りの中を揺蕩い続けることができるのだった。それを可能にしたのは審神者が信奉する科学そのものに他ならなかった。
 しかし、審神者は決まって夢を見た。それは意識の上澄みを掬ったような柔らかいものではなく、無意識よりもずっと暗いところから這い出してくるような幻覚だった。

「主」
 プールのような闇の中から長谷部が音もなく這い出てくるが、彼の腹部は無惨に抉り取られていた。ぼたぼたと血を零しながら近付いて来て、長谷部はもう一度「主」と呼んだ。
 恐怖に目を見開いて、審神者は一歩後退る。そのスラックスの裾を、黄色に汚れた手袋に覆われた指先が掴んだ。
「主、俺です」
 弾かれたように振り返ると長谷部が居た。両脚は失く、片腕も肘から下が醜く切り落とされていた。残された腕の一本だけで這い摺って来たその後、筆で擦ったような血の痕はじわじわと闇へ溶けて行き、頭の乗ったトルソーのような一人の長谷部だけが審神者と共に取り残された。
「主」
 重なる声に審神者は耳を塞ぎ、身を屈めて犬のように喘ぎながら辺りを見渡した。
 頭と胸以外全て欠けた長谷部が、脳の欠けた長谷部が、腕や脚を様々に引き千切られた長谷部達が、血や臓物や嘔吐物を銘々に吐き出した長谷部達が、男性器を、女性器を去勢された長谷部達が、ありとあらゆる殺され方をした長谷部達が審神者に取り縋り、そのどれもが、
「主、主」
と呼んでいた。
「違う」
 審神者は小さく呻いた。
「私じゃない」
「主」
「違う、止めてくれ、違う」
 長谷部達は尚も啼いていた。闇と血の幻覚は、しかし審神者の意識にすら上らない領域で上演され続けていた。

 薬がもたらした眠りから目覚める時、感覚は一つずつ離散的に呼び起こされていくのが常だった。
 一つずつ、スイッチをパチンと入れるように、感覚がオンになっていくのを審神者は感じていた。目はまだ開けられない。スイッチが入っていないからだ。
 辺りが暗いことは察せられた。瞼の裏には白い光も赤い閃光も映っていない。じっと待っていると、二つか三つ、パチンと音がしたような気がした。
「長谷部君」
 声が出るようになっていたことに気付き、審神者は惨めに震える言葉を舌に縺れさせた。
「此処に」
 返事はすぐにあった。襖がそっと開き、いつも通り整った近侍の顔が其処にあった。暗がりに慣れた目が痛まないよう、審神者はそろそろと瞼を開いたが、部屋の照明は長谷部によって調節済みだった。
「御加減は如何ですか、主」
「どれくらい眠っていた?」
「一日ほどです」
 審神者は溜息を吐き、長谷部に背を向けるようにして寝返りを打った。答えが返ってこないことにも長谷部は慣れていた。
「迷惑をかけた。……もう、落ち着いた」
「茶を用意していますが、お持ちいたしましょうか」
「……」
 記憶の整理に忙しく、審神者は長谷部の言葉を意識の埒外に追い遣っていた。薬によって眠っている間、感覚や意識や記憶は全て失われている。その為眠る前まで辿ることは毎回少しばかりの労力を要した。自分が長谷部に何を言ったのか、其処まで漸く遡ると、審神者はぽつりと言葉を零した。
「君を、どうして……」
「はい」
「殺されたいと、思うのだろう……死ぬなら、一人でできる」
「俺は主の刀ですから」
 長谷部はうっすらと微笑んでいた。世辞や体裁すら読み取れない表情で、長谷部はぽつぽつと言った。
「俺を殺して楽になるのでしたら、どうか御随意に」
「……馬鹿な」
 掛け布団を引っ掴み、審神者はそれを頭の中ほどまで引っ張り上げる。
「君だけは、傷付けまいと思っているのに」
「……俺を」
 ぎゅ、と長谷部の両手が握り締められる。
「俺を傷付けて、それで主の御心が少しでも楽になるのなら、どうかそうなさってください。……切るのでも、殴るのでも」
「気持ちだけもらっておくよ」
 布団の山が僅かに動き、身を守るように丸まったのを長谷部は見た。
「傷付ける前に、殺してほしかったんだ、きっと……」
「……」
 布団から伸びた白い手は、何かを探すように畳の上をうろうろと彷徨っていた。傍らに落ちていた紙の袋を拾い、中から金属のシートを取り出すと、錠剤をぷつりと産み落とさせる。
「主」
 小さなそれを審神者の掌にそっと載せると、手は布団の中へと引っ込んで行き、薬を噛み砕く硬くて小さな音が長谷部の耳に届いた。
「……長谷部、君」
「はい、主」
 声は啜り泣くようだった。
「私は、おれは、わたしは、……きっと、君を、……」
「……はい」
「……ころしてくれ、……」
「……」
 嗚咽は寝息に代わり、長谷部は布団を直すと立ち上がって、空になった錠剤のシートをゴミ箱に入れた。
 殺してくれと、君が死ねば良いと繰り返す審神者はしかし誓って長谷部に手を出そうとはしなかった。自分を刃物や何かで傷付けることもせず、ただただ精神だけを削り取って、唯一の手段と言ったらこの錠剤と死にも近しい昏睡だけだった。
 せめて眠っている間は救われていてほしい、と長谷部は思う。自分をひたすらに擦り減らして、そんな世界に生きていてくださいなどと、道具でしかない彼が言える筈もなかったのだ。
 音を立てないように部屋から出て、長谷部はそっと襖を閉めた。眠る審神者の意識の底、長谷部の屍体達が浮上を始めていた。

***

 

 

 先の里山への出陣を労って、審神者はススキと団子とを用意していた。正確には何処からか三方と団子の材料とを用意してきたのであって、台所をわいわいと賑わわせながら団子を作ったのは審神者と短刀達、それに脇差や太刀の一部であった。
 縁側に供えた団子を一つまた一つと早速摘みながら、或いは大きく開いた障子戸の向こうで杯を交わしながら、皆銘々に月を見上げていた。
「綺麗な月だな、大将」
 言って口へ団子を放り込んだのは厚藤四郎だった。咀嚼に良く動く頬の後ろから薬研が顔を覗かせる。
「苦労した甲斐もあったってもんだな」
「ああ、全くだ」
 こんなこと、対価でもなければやっていられない。実地に出陣するのは刀剣男士達の役目だったが、何度も何度も部隊を編成し、指揮を行き届かせるというのもそれはそれで非常に骨の折れる仕事だった。しかしこうして月見の習慣や美味しい団子を皆で作ることや縁側で男士達に囲まれながら過ごすことは、審神者にとって十分な報酬になっていると言えた。
 短刀達はばらばらと審神者の元へやって来て、思い思いに話をすると山と積まれた団子を手に取った。
「主」
 ゆったりと落ち着いた声で呼びかけてきたのは平野だった。
「こうして月を見ていると、疲れも癒されますね」
「そうだな」
 丁寧に脚を折り畳んで座っている彼の手に団子はなかった。
「食べないのか」
「いえ、僕は……」
「まだこんなにあるし、ほら」
 審神者は山の天辺にあった一際丸くて白いものを手に取って、半分ほどを齧ってみせた。
「無理にとは言わないが」
 平野はまた折り目正しくくすりと笑い、
「では、いただきます」
と言って三方へと手を伸ばしたのだった。

 そうこうしているうちに会は何となくお開きになって、簡単な片付けの後、部屋でだらだらと酒盛りをしている一部の男士達を残して皆自室へと戻り始めていた。
 長谷部は審神者を見失い、何気ない様子を装っては辺りをきょろきょろと見回していた。
 今夜は「来てくれないか」とは誘われていなかったが、「茶でも飲まないか」という平和な誘いもまた発せられることなく、長谷部は宙ぶらりんのまま放り出されたも同然だった。しかし何も言われていないということはまた同時に、「来るな」という拒絶の意思も示されていないということを意味していた。
 灯りの煌々と照らす一角に、微かな喧騒が尾を引いている。執務室はそれに背を向けた方に位置していた。
 寒々しい廊下を長谷部は一人歩きながら、今夜は嫌に冷えるな、と考えていた。それも冷凍庫を開けた時のような凶暴に襲いかかる冷気の冷たさではなく、すっかり温くなってしまった湯にいつまでも浸かっている時のような寒さだった。知らぬ間に両手で身体を抱くようにして擦りながら、長谷部は審神者のことを案じていた。
 長谷部の懸念は的中し、審神者は部屋の外で壁に凭れかかるようにして夜空を眺めていた。「主」と呼ぶと緩慢な動作で長谷部の顔を見る。
「主、今夜は冷えます。お身体に障ります」
「そうしたら君が暖めてくれるんだろう?」
 長谷部がちょっと覗き込むようにして見ると審神者の傍らには酒器があった。勿論、そうでなければ、審神者はこうしたつまらない冗談を言うような性格ではなかった。案の定、長谷部が黙りこくったままカソックを脱いで手渡そうかという素振りを見せると――当然のことながら、彼はそれが非常に失礼なことに当たるとは理解していたので、酔った審神者の言葉に応じるのでなければ決して実行に移さないような行為だった――審神者は見もせずに手を振ってそれを断った。
「月を見ていたんだよ」
「月」
「綺麗だろう」
 確かに、夜空には黄金(きん)に輝く月がぽつんと浮かんでいた。滔々と溢れ出す金色の光を湛えたそれは、真っ黒な緞帳の裏、静寂の中に音もなく存在していた。
「月なら、先程まで散々ご覧になっていたではありませんか」
 風邪を引かれますよ、という不安を言外に含ませて長谷部は言うが、審神者はただ生返事をするばかりで、いつしか胸の中にずっと蟠(わだかま)り続けていた焦げるように熱いものが蠢き始めるのを感じていた。
 先までの、ここぞとばかりに審神者の元へ群がる活発な短刀達の中にも、今こうして一人酩酊の中に月を見上げている審神者の隣にも、長谷部は決して溶け込むことができなかった。それを何と言うのか長谷部には分からなかったが、流れ出す月の光はその感情の一等柔らかな部分だけを静かに震わせて、その振動は長谷部の舌や涙腺にまで届いていた。
 主、と呼んだ声は酷く掠れていて審神者には届かず、代わりに審神者が「昔、」と口を開いて言った。
「月が綺麗だと言ったら嗤われたことがあった」
「何故ですか?」
 無言で透き通る青色の瓶から酒を注ぎ、一口飲むと、審神者はまた話し始めた。
「科学を信奉する人間が美に感じ入るのは可笑しいと言うんだ。理性と情動とは相反するものであるとね。しかし人間が作り出した滅茶苦茶な芸術とやらに比べれば、自然に存在するものというのは、それはもう、至極単純な法則に従って成立している訳だからね。科学を唯一のものとして崇めるのなら、寧ろ自然をまで信奉しない方が可笑しいだろう? しかしまあ、私の主張は聞き入れられず、いずれにせよ月は今日も綺麗なままだ」
「……」
 長谷部は審神者の言葉を何度か頭の中で反芻し、それから自分の言葉の一つ一つを確かめるようにしてゆっくりと声に出した。
「此処で見る月は、いつも美しいです」
「此処では雨月も無月も見られないがね」
「何方の言葉なのですか、それは」
 じっと月を見て目を眇めながら、審神者は聞こえない振りをした。
「月の光はヒトの感情と共振し増幅させるというのも頷ける。こうしてただ眺めているだけで、おかしくなりそうだと感じることもある」
 それでは自分が今感じている、この悪心に似た黒いものは明日にはすっかり消えてなくなってしまっているのか——長谷部は安堵半分、疑念半分にそう思った。
「しかし今夜は冷える。もう部屋へ入るかな」
「……片付けます」
 月見酒の後片付けを申し出て、特に断られはしなかったので長谷部はかちゃかちゃと微かな音をさせながら酒器と酒瓶を拾い上げた。団子は一口も食べなかったのに、胃の辺りと胸とがやけに気持ち悪くて仕方なかった。清冽な光を背に負って審神者は立ち、二、三度顔を擦ってから軽い息を吐いた。
「おやすみ、長谷部君。良い夢を」
「おやすみなさいませ、主」
 障子戸は呆気なく閉まり、直に灯りも落とされて物音すら聞こえてこなくなった。長谷部はその間ずっと部屋の前に立ち尽くして、ただもう手に持った審神者の私物だけを落としてしまわないようにと気を遣うので精一杯だった。
 心の奥底まで照らしてしまうほどの光なのに少しも眩しくはない、その凄絶なまでに美しい光が長谷部の感情を揺さぶり続けているのなら、明日にはきっとこの吐き気のような感情もすっかり勢いを失ってしまっているのだろう。いつものように忠臣らしく、近侍らしく振舞うことだってできる筈だった。
 里山の調査で得た報酬を――ほんの小さな団子を、審神者が真っ先に自分へ与えてくれたことが長谷部には何にも増して嬉しかった。それは紛れもなく、自分こそが主にとっての一番であるという確信を得る為の小さなピースであったからだ。しかし今、長谷部の心を押し付けて板挟みにしているのは、他ならぬその思いともう一つ、胸を焼く忌々しい疎外感だった。
「長谷部君」
 長谷部はぎょっとして飛び上がらんばかりだった。今度こそ手の中のものを落としてしまいそうになり、長谷部は心臓が口から飛び出してしまうのではないかと荒く肩で息をした。
「あ、主、お休みになったのでは……」
「一つ言い忘れていたことがあった」
 長谷部はまた暗いような後ろめたいような気持ちになり、「はい」とだけ返事をした。
「明日、君さえ良ければ二人で月見をしよう」
「はい、勿論!」
 答えの速さに審神者はちょっとだけ笑い、それからもう一度おやすみを言って部屋へと引っ込んで行った。長谷部は慌てて己の胸の裡を手探りし、先までの焦げ付くような厭な感情がもう残っていないことを其処に認めた。
 振り返ると月が浮かんでいた。団子を用意しなくては、と考えながら、長谷部は廊下を歩き始めた。

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