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短篇集19


 どうしようか、と言われたところで長谷部は常に受身だった。長谷部は審神者ではなく、その嗜好もトレースされたものでは全くない。尋ねられても、そもそも理解が追い付かないという段階だったのだ。
「どうしようか?」
 それは選択の余地などない問いでもあった。例えば左と言えば無言でその選択が支持され、右と言えば「ああそう」の一言で左が採択されるのだ。
「御随意にどうぞ」
 結局のところ最適解は常にこれで、今も審神者はへし切を握り直すと長谷部の脚を強く押さえ付けた。うつ伏せた長谷部には見えない筈なのに、それでも審神者が嬉しそうに口元を歪めているのが鮮明に見えていた。
 本当に僅かな空白だけがあって、すぐに足首の辺りがじわじわと熱を持ち始めた。火で炙られたことこそないが、それは外から焼かれるというよりも寧ろ内から灼かれているような感覚だった。
「っ、ふっ、う……」
 溢れ出した血液が靴下をしとどに濡らしていき、べたべたと布が貼り付く感触に僅かに顔を顰めたところも審神者には目敏く見つめられていた。
「嫌だったかい」
「い、いえ……」
「ならいい」
 微塵も良くなさそうな響きでそう言い、審神者は長谷部に立ち上がるよう指示を出した。まず傷付いていない方の足を突き、それから足首を切られた方の足を突いて立ち上がろうとして、長谷部はもんどり打って転がった。
「やはり無理かな」
「いえ、今立ちます、主」
 長谷部は慌てて返すと再び立ち上がろうとするが、如何せん断ち切られていたのは足首の、所謂アキレス腱と呼ばれる部位であった。其処が千切れていては直立する為に体重を支えることも叶わないので、必定両足で立つことなど今の長谷部には儘ならなかった。またもひっくり返るように転倒し、三度目、長谷部は無事な方の足にだけ体重を掛けることに思い至り、必要以上の慎重さを以て不具になった方の足をぶら下げながら、ほとんど片足で立つことに成功した。
「それで良い。さて、此処まで歩いて来ようか」
 長谷部が一息吐く間もなく、審神者はふいと背を向けて長谷部から数歩離れたところまで歩いて行き、それからまた長谷部を振り返った。
 歩いて行くというのは勿論、傷付けられた脚のままでということだった。困惑を隠しきれずに自分の脚を見遣り、長谷部はどうしたものかと必死に考えを巡らせた。普通に歩くことができるとは当然思えなかった。何せ立とうとしただけでへなへなと情けなく萎えて倒れこむような有様だったのだから、他の方法を考えなくてはならない。
 だがあまり時間はなかった。審神者は、言葉にしてこそ何も言いはしなかったが、長谷部が何のアクションも起こさずにぐずぐずと迷っていることを快くは思っていないような節があった。嫌なら一言、したくないということを伝えるようにとは常々言い聞かせられていることであり、承諾したならしたで自分の言を遵守しろというのが、推測されるところのその言い分であった。
 片足で飛んで行こうか、と思い付き、長谷部はすぐさまそれを却下した。遊んでいるのではない、今は審神者が長谷部への愛情を発露する時間だった。そんな場で片足飛びとは、あまりに滑稽に過ぎる。
 結局、長谷部はずきずきと痛む左足をそっと畳へ下ろし、触れるか触れないかぐらいの力加減で擦るようにして動かし始めた。油断すれば千切れそうな足が無事に進みきって右足と並んでしまうと、足が滑らないような方向へ調整しながら体重を掛け、その隙に右足をさっと動かした。見えずともそれは相当に奇妙な歩き方の筈で、しかし審神者は笑うどころか何の感情も浮かべずにただじっと長谷部のことだけを見つめ続けているものだから、長谷部は自分の姿に怒りや情けなさといったものを覚えることすら許されていないのだった。
 偶に左足へ体重を掛け損なうと、たちまち足はぐにゃりと曲がって転倒しそうになるのだった。その度長谷部は呻き声を上げながら慌てて手を突いては体を支え、懸命に体勢を立て直すと再度不恰好な歩行に戻ることとなった。審神者はやはり笑いもせず、押し黙ってただ長谷部の到着だけを待っていた。
 ほんの五分程が長谷部には十分にも或いは一時間にも思え、道中、何度も何度も(主はいよいよ俺を見捨てられるのではないか)と思ったほどだった。しかしとうとう長谷部は審神者へ抱き止められるようにしてその場所へと辿り着き、息を切らして「主」とだけ言った。
「良くできたね」
 はい、と言おうとしたのに長谷部は言えず、出血と共に激しくなり始めた痛みに耐えながらじっと審神者にしがみ付いていた。この後に何が待ち受けているかは分からないが、少なくとも主の傍には居られるのだ――口にはしないその感情に、長谷部は安心しきっていた。
「さて」
 弾け飛んだ熱の痛みに濁った叫び声を上げ、長谷部は空を切る手も虚しく何度目かの転倒によって後頭部を強打していた。もがく両手から無情に逃げて行く真っ白なシャツの向こう、審神者の顔は確かに喜色に歪められていて、そのシャツにも良く良く見れば幾つもの血痕が飛び散っていたのだが、長谷部の脳内はそれどころではなかった。
「あ、ぐぁっ……主、主、なん、で……」
 傷口は一音ごとに振動を敏感に拾い上げ、その度に長谷部は悲痛な声で鳴いた。咄嗟のことだったので受身も取れず、とうとう足首が千切れてしまうのではないかと思えるほどの嫌な曲がり方をした所為で、長谷部の両足は断裂寸前だった。当然歩くことなどもう不可能であるというのに、長谷部から身を引き離した審神者はまたも数歩を歩いて行き、
「おいで」
と短く言った。
 歩ける筈がない、と一瞬に絶望で塗り潰されたその顔を見て審神者は薄く笑い、無感情に「おいで」と繰り返した。いっそ千切れてしまった方がマシなのではないかと蹲って耐えている長谷部の脳裏に、その時ふと閃いたことがあった。
 先は「歩いて来ようか」と言われたが、今は「おいで」としか言われていない。歩ける筈などないことを審神者も承知していて、その上でそう命じているのだ。
 審神者はあまり多弁を好まない。長谷部は脂汗を滲ませながらまず俯せになり、それから両腕を使って這い摺り始めた。敵の前でみっともなく敗走しているような、そんな幻覚を一瞬だけ覚えはしたが、しかし逃げているのでは断じてない。向かう先には審神者が居た。刀を揮う為に錬り上げられた腕の筋肉を大きく隆起させ、十センチ、また十センチと重い身体を無心に引き摺っていると足の痛みも忘れられるようだった。
 長谷部を待ちながら立っている審神者の位置からは、長谷部が畳の上に描いた赤黒い血の痕が良く見えた。頭の中を真っ赤に染める激痛に喘ぎながらも、長谷部は必死になって地面を這い続けている。苦しいかと訊くのはあまりに陳腐で軽蔑されるべき行為だった。ただ自分はこうしたかっただけなのだ。
 気が付くと、這い蹲った長谷部の目の前には審神者の足があった。慌てて身を引き、「主」と顔を上げると、審神者は緩慢な動作で屈み込み膝を突いてから長谷部の頭を二、三度ゆっくりと撫でる。
「今度も良くできた」
「……はい」
 血の気の引いた顔にうっすらと朱が差し、審神者の手が退いていった後も桜色は其処に留まったままだった。審神者がそれを殊更に揶揄しないと分かっているからこそ長谷部は安心して頭をその手に委ねることもできたし、そうしていても良いのだと自分に信じさせることもできた。
「長谷部君」
 部屋はいつものように夜の冷たさの底にあり、熱といえば長谷部の血肉から立つ湯気と審神者の視線ぐらいのものだった。審神者の体温を長谷部が知ることはまずなく、露わにされた長谷部の肌や中身が触れる室内の空気は何処か冷え冷えとしていた。
「長谷部君、次で最後にしよう」
 それは多分に審神者の言葉の所為だった。
「動かないように」
「は……っい、あぁ、あっ、が、やっ……」
「嫌だ?」
 長谷部は目を見開いたまま激しく首を振り、次いで「そう」という酷く凍えた言葉と共に自分の四肢が全て切り落とされたのを知った。なけなしの血液が断面から容赦なく零れていき、長谷部と彼の衣服をぐちゃぐちゃに濡らしていく。
 試しに力を入れてみても、腕も脚もほとんど動かなかった。
「あ、主……」
「うん」
「あの……」
 長谷部の目には審神者がまた数歩離れたところに居るように見えていた。控えめな手招きがあり、それから、
「此処までおいで」
と声が聞こえた。幻覚ではなかったのだ。
 自棄になって手足をばたつかせ、ところが長谷部はその場から少しも動くことはできず、無駄に血を流してしまったことで余計に身体の自由は利かなくなり始めていた。「主」と長谷部は悲痛な声で呼んだ。
「ん?」
「その、俺……」
「無理か」
 投げ付けられるような言葉に鼻の奥が突然熱を持ち、長谷部は自分が泣いていることに気付くと一層困惑してぼろぼろ泣き始めた。
「申し訳ありません、主、申し訳、」
「構わないよ」
 向こう側から歩いて来て、審神者は長谷部を拾いあげるようにして抱えると壁際に腰を下ろした。後ろから手を回してシャツの釦を一つ一つ外していき、冷たく白い腹を一度だけ撫でると不意に強く抱きすくめた。
「今の君に出来るとは思っていなかった。私がそうしたかっただけなんだから謝らなくて良い」
「……はい……」
「それはいつかの愉しみに取っておくよ。今は寧ろ――」
 手が再び動き始め、晒け出された胸や腹を緩く撫で回していく。
「より本質に近付いた君を食べる方が良い」
「……は、い」
 紅潮した頬は審神者から見えないところにあったが、荒くなった呼吸だけは隠すことができなかった。頭だけでなく身体を撫でられることにも、くすぐったいような気持ちの良さがあることを長谷部はこれまでに一度も知る機会がなかったのだった。
 一種の花畑のような夢想は首筋に思い切り噛み付かれたことで呆気なく霧散してしまい、長谷部は反射的に「ごめんなさい」と口走っていた。審神者の手は止まっていた。
 蔑むような視線も長谷部からでは見ることができず、審神者の罵声は胸の中だけに押し止められていたので、結果として其処からの行為はただひたすらに無言のものと成り果てた。それでも胴だけになって腹から臓腑を引き出されるだけの肉人形にも見えるような有様となってしまった長谷部の姿は審神者の嗜虐欲を満たすどころか一層掻き立てていき、心臓と肺以外の何もかもを引き摺り出され、床に放り出された長谷部は虫の息で全身を小さく震わせていた。内臓と肉の幾らかは審神者の腹に収まっていた。
「まだ全てを奪うには早い」
 バラバラになった長谷部を見下ろして、審神者は言った。畳が汗や唾液や血や排泄物で汚れきっていることさえも愉快だった。
 それもこれも途上に過ぎないのだ。抱え上げ、その眼の藤色が何も映さず淀んでいることを確認してから審神者はもう一度長谷部の喉に噛み付いた。滴った血は、ただ純粋に赤くなければいけなかった。

 ***
 

 
 刀剣男士達が出陣していく中には重傷が避けられない戦場というのもあって、本丸へ帰って来た部隊の一番前に立つ長谷部が全身に刺傷を負ってぼろぼろになっていることも珍しい光景ではあったが無くはないものであった。どす黒い大きな染みが脚や腹に広がっていて、中身が零れ落ちないように手で押さえながら、
「ただいま帰還しました」
と長谷部は言うのだった。
 そういう時、審神者は決まって重傷者から手入れ部屋へと収容していったが、たとえその対象が長谷部であったとしても手伝い札という名の処理高速化パッケージを適用してしまい、さっさと治してはい次、と目もくれないのが習慣となっていた。
 手間を掛けてほしい、と思っていた訳でもない。傷の一つ一つを拾い上げるようにしてごく丁寧に手入れされたいと願うのであれば、それは夜に叶えられている。札を使わなかったとしても、手入れという処理さえ始まってしまえば審神者の手はもう必要ないので、札を使う使わないの問題でもなかった。
 一方で長谷部にとって、怪我を負うというのは不思議な感触だった。刃こぼれなどは刀の身であった時でも味わうことのできた感覚であったが、今はそれに加えて肉体の損傷というのが付随してくる。それはへし切が受けた傷を反映しているだけではなく、寧ろ敵の刃によって直接に傷付けられることの方が多かった。
 審神者は勿論何の技能も持たない素人であったから、それでも本来は直すことのできない刀の傷や歪みすらも〝手入れ〟によってすっかり直してしまえるというのはこの特殊性、刀と身体の二重性というのが大いに関係していたのであろう。
 槍に酷く刺されてしまった傷が全て治った後も、審神者は他の負傷者をさばくのに掛かりきりだった。「主、俺は戻ります」とだけ声を掛けて自室へ戻り、長谷部はへし切を刀掛けへ置くとごろんと寝転がった。装備したままの防具が背中に当たって痛かったので横になったままで無理矢理に外して脱ぎ、がちゃがちゃと耳障りな音をさせながら床へ放った。疲労は戦闘の所為だけとも言い切れなかった。
〝高速槍〟は本当に厄介だった。長谷部や短刀達でも抜ききれない速さを誇り、長谷部の全身を貫いてきて、時には腕を千切り時には臓腑を零す。怪我をすること自体に好悪の感情はなかったが、長谷部がどうしても拭い去れない感情は其処に"破壊"が伴っていることへの忌避だった。刀とて折れば容易く折れてしまう。ヒトの身体は過剰に損なえば生命機能を止めた。破壊は、死は、戦場では常に隣接した存在としてあった。
 何処となく上の空でその後の執務や夕食や入浴を済ませる間にも、審神者は長谷部へ何も言ってはこなかった。元々長谷部が重傷を負って帰って来た日の夜はそういうことが多く、主なりの気遣いなのかそれとも何か他の感情なのか、と長谷部は答えを出すでもなくぼんやり考え続けるだけだった。
 上書きするように自分を傷付けてほしい、というのとも少し違うその感情にも、長谷部は確信を抱けないままでいた。そうして気が付けばふらふらと自室を出て、足は執務室の方へと向かっていた。
「主」
 審神者は縁側で月を眺めていた。
「隣に座っても宜しいですか」
「ああ」
 近付きすぎないように位置を測り、長谷部はそっと腰を下ろす。月を見ながら何をするでもなく、審神者は本当にただただ月を眺め続けているだけで、その姿の空虚さは腹に開けられた穴を撫でて行く風の薄ら寒さにも似ているような気がしていた。そんな状態で長谷部が何かを言える訳もなく――例えば「今日の月も綺麗ですね」と言ったところで、審神者は月を綺麗と思いながら見ている訳ではないのだ――気付けば彼は、生々しい感情を孕んだ言葉が零れるに任せていた。
「主」
「うん」
「少し、落ち着かなくて。……その、負傷した所為でしょうか」
「ああ」
「人間は……身体があるから、死ぬのですね」
「そうだね」
 互いに顔を見ないままの会話だからこそ、長谷部は忌憚なく自分の胸の裡を明かせるような気分になっていた。
「俺は道具です、付喪神というぐらいだから数百年も、数千年も在り続けるのかもしれません。でも人間はあまりに脆い。ほんの数十年の命です」
 審神者は曖昧な相槌を打つだけに留めていた。声を出すのすら億劫な、それでも話は聴いているという意思表示の時に使われる仕草だった。
「どれだけ時間が経っても消化しきれない感情を、誰かが死んだ時の悲しみを、たった数年や数十年でどう癒すと言うのですか」
「癒せないよ。今でも哀しい」
「……」
「我々は弔うことができるからね」
「……忘れてしまう方が、心は楽になるのではないですか」
 言いにくそうにしながら長谷部は言った。嘗ての主の、長政のことを審神者へ話したことはなかったが、それでも彼の主はとうの昔にそれを知っていた。不誠実な結論であったとして、長谷部はやはり、それを主には知られたくなかったと思っていた。審神者はそのような事情に――甚く影響されることを、長谷部は信長に関して口にした言葉の全てから思い知らされていたからだった。長谷部は自分が苦しむよりも審神者が苦しむことの方を嘆き悲しむ質(たち)だった。
 審神者はその言葉の背景のことは敢えて無視をして言った。
「忘れていくことの方が哀しいんだよ。その人の声や顔や所作や話したことや、そういったものも次々に忘れていってしまう。君は人間ではないから――忘れないのかもしれないが」
「……忘れられるのに、弔うのですか」
「忘れたくないから弔うんだ。そうして心を慰めて、生きていくことができるんだよ」
 自分へ言い聞かせるような言葉の後、審神者は何故こんな話をしたのかと長谷部に尋ねた。
「今日ほどの怪我を負うと、人の死について考えることが多いんです」
「愉快なことだ」
「俺は……、主のことを、覚えていられるのかと」
「ヒトを真似た身体だから」
「はい」
 口を滑らせ、長谷部はてっきりまた「覚えていなくて良い」「忘れてくれ」などと言われるのだろうと思っていた。長谷部がヒトとは異なる存在であることを、何もかもを詳細に鮮明に覚えていられる存在であることを、いっそ憎んでいるのだと言った方が相応しいような審神者の態度を長谷部は何度も経験して知っていた。ところが身構えた長谷部に呟かれたのは、幾分弱気な審神者の言葉だった。
「……私は、きっと忘れてしまうんだろうな」
「え?」
「君を喪(うしな)った後、きっと忘れていってしまうんだろう」
「……」
 長谷部には返す言葉がなかった。忘れ方を知らない。弔い方を知らない。当たり前のことを、何も知らない。
「……そろそろ寝ないか」
 俯いて、審神者は湿った声で言った。長谷部ははい、と答えて引き下がることしかできなかった。死後も来世も神もないと言う審神者に、何の慰めも効きはしないだろう。
「……主、」
 おやすみなさいませ、と言いかけた長谷部を遮って、審神者は自嘲めいて笑いながら言った。
「君は良いさ、私が死ねば自動的に消滅するのだから。私もそうであれば良かった。君の居ない世界に取り残されるようなことがなければ」
「……」
「それでも私が後を追うことを、君は許してくれないんだろうな」
 多分に悪意が込められた言葉だった。長谷部が自死を酷く厭がることを知っていて、審神者はそう言っているのだった。諸共に苦痛に身を任せることの危険性を今の長谷部は何となしに察していて、死なないでくださいと言う代わりに短く言った。
「弔ってください」
「……」
「俺を、弔って、生きてください。俺はそれで報われます」
「私の心情は無視か」
 審神者は笑いながら自室へ姿を消した。置いて行かれた長谷部は胸が締め付けられるようで、最後に見た審神者の顔が笑っているのに淋しそうだったことが心に引っかかり続けていた。

 翌朝、執務室を訪れた長谷部を、審神者は何事もなかったかのような笑顔で迎え入れた。今度こそ忘れてくれと言われているようで、そしてそれこそは審神者が真に望んでいることのように長谷部には思えて、しかし長谷部は忘れられなかった。
 いつまでも主の傍に在ること、それこそが道具の本懐なのかもしれなかったが、同時にそれを願うことは最大の不敬、叛逆ですらあると長谷部の意識は仄めかしていた。
 ――人間の身体など、厄介なだけだ。
 また痛む胸を押さえ、長谷部は審神者の横顔を盗み見た。
 いつか自分を弔う時が来たとして、主はどんな顔をされるのだろうか。

***

 陽光とは言っても夏のそれほどは眩しくもなく、真っ白だった筈のそれは秋が来た今では何処か柔らかな色で辺りを照らすようになっていた。
 茶の用意をして休憩時間の卓を整え、長谷部は湯呑の片方を審神者へ手渡した。
「主、どうぞ」
「ああ、ありがとう」
 熱いから手渡しは危ないですよと何度か言ったところで審神者は聞き入れず、長谷部の手には触れないようにしながら実に器用に受け取るのだった。
「もう夏も終わりか」
 朝晩、開け放した窓から吹き込む風は確かに涼しくなっていた。あれほど光と熱を撒き散らして自分の存在を主張し続けていた夏は、今や静かに姿を現し始めた秋に追い遣られるようにして役目を終えかけていた。
「夏の終わりは、他の季節に比べて死を強く感じる」
「はい」
「どうしてだろうね」
「蝉が落ちているから、ですか」
 ああ、と言って審神者は笑う。文字通りの死が其処にはあって、それが夏の終わりをまさしく"終わり"たらしめているのだろう。
「しかし秋には秋で、木々の葉が落ちる」
「それでも木は死んでいる訳ではないですよね、確か」
「良く知っている」
 審神者の分の湯呑が空になっていることを見て取ると、長谷部は急須を取ってお代わりを注ごうとしたが、審神者はそのまま手でそれを制止した。
「こうしてみると、死は意外と身近に無いものなんだな」
「俺は、戦場で度々目にしていますが」
「でも一々意識したりはしないだろう」
「それは……そうですね」
 長谷部達にとって遡行軍はただただ倒す為だけに在る存在であり、その死を意識するまでもなく斃しているだけの毎日だった。動かなくなった敵の身体を見下ろして思うことは己の主のことのみで、早く帰って報告したいとばかり考えているのが長谷部の日常だった。
 反面、庭に落ちている蝉の死骸は何故か嫌というほど目に付いた。本丸という空間の特殊な性質上、虫の死骸などは一瞬目を離しただけで消え失せてしまうのだが、それでも長谷部はもう動かないその物体に想いを馳せずにはいられなかった。
 歴史修正主義者の死は全く遠くに在り、蝉の死骸はすぐ手の届くところに落ちていて、長谷部の死は不定期に彼を訪れた。幾つかを長谷部はじっと見つめていて、そして本質的には全てに無頓着だった。
 無機質な、光を映さない二口目の瞳を想起する。
「例えば」
 審神者は机に身体を凭せ掛けて言った。
「君の脳、記憶素子、其処をすっかりコピーしたものを元にして身体を作ったらどうなるんだろうね? それは君なんだろうか」
「……」
 通常、ある目的の為だけに顕現させられる二口目の長谷部というのは、一口目の――近侍の長谷部とは完全に独立した存在だった。長谷部と共有する記憶など何も存在しない、その死体は何処までも長谷部からは隔たっている。審神者が本当は満足していないことも、長谷部の目からは容易に見て取れたのだ。
 本当は、審神者は長谷部の死体を望んでいた。土の上に打ち捨てられたような、偽物の死体ではなく。
「……それでも、それは俺ではないと思います」
「だが心も身体も君とそっくり同じだ、刻まれた経験すらも其処には反映されている」
「……それは……」
 頭では理解できていても、長谷部にはどうしても納得できなかった。何が〝自分〟を定義するのかと言われても長谷部には答えられなかったが、写し取られたものが自分だとは認めたくない、おそらくはそんな感情的な理由だけが胸にあった。
「まあ良い、では私が事故か何かに遭ったとして、身体が再起不能になったとするよ。この時脳だけを人工素体に移したとして、それは私ではないのかな」
 審神者は笑いながらそう尋ねていた。長谷部はすっかり狼狽えて、湯呑を取り落としそうになり、「そういう訳では」と口籠った。主をそっくりそのまま写した思考を有する存在が、主そっくりに見えるように作り変えられた紛い物の中でちかちかと瞬いて、そして主が口にするであろう言葉をそっと呟くのだ。
「……主は、主です」
「良く分からないな」
 やはり審神者は笑って言った。長谷部が自己矛盾に戸惑っていることも見透かした上でのその言葉であることを察するのは容易なことで、長谷部は僅かに顔を赤くして俯いた。
 長谷部を無視して手ずから茶の二杯目を注ぎ、のんびりと時間を掛けて啜るとこれまた長い息を吐いた。
「そもそも自己というものが連続的である保証など何処にもないだろうに」
「連続的……」
「よくある話だ、例えば寝る前と起きた後の自分、同じであるとは言えないだろう。寝ている間に君の自我が死んで、同じものに置き換わっているかもしれないんだ。そういう可能性を考えたことはあるかい」
「……いえ」
「一度考えてみると良い」
 言って、審神者は湯呑を干すと大きく背伸びをした。
「さて、執務に戻ろうか」
「はい、主」
 長谷部はまだ腑に落ちない顔をしながらも卓袱台の上を片付け始め、審神者は自分の文机へと戻って行く。
「君は、誰なんだろうね」
「? 何か仰いましたか?」
「いや、何も」
 何度も見下ろしたその死体が本当は誰のものなのか、きっと誰一人知る者は居ないのだった。
 窓の外、死んだ夏が秋の光に洗われ続けていた。

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