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短篇集17


 並べられたパックの中には濃淡様々な桃色が詰まっていた。その形状も、表面が滑らかなものからくしゃりと縮まったようになっているもの、細かい襞でびっしりと覆われているものなど実に多様だった。
 ひときわ滑らかな薄桃色をしていて上皮下の血管までもが透き通って見えるそれ、ブタの子宮を摘み上げて審神者は言う。
「これは子宮、言うまでもなく子を孕む為の器官だ。哺乳類のメスに備わっていて卵管で卵巣と繋がっている、頚部は勿論膣へと繋がっていて、どれもこれも子を孕む為。だが君には存在しない、当然だがね。……君が個体としてはオスだから? そうじゃない、君がヒトでも、正しく生物でもないからだよ。調べた訳ではないが君には細胞なんてものが存在するかどうかすら危うい、いや私は存在しないだろうと信じている。遺伝子やDNAが何かを知っているかい? まあ良い、では懐胎の話をしよう」
 長谷部はただ唖然として突如始まった審神者の長い長い講釈を聞くだけだった。審神者という人が機嫌が悪くなるほど饒舌になりがちであることは知っていたが、しかし今はこれといって不機嫌であるようにも見えなかったのだ。
 講義は続く。
「仮に君の生殖器が我々のそれと同じように働いて
――つまり機能して、という意味だが—――ヒトのメス個体と性交したとしようか? 考えるべきは二点ある、まず君の身体が配偶子たる精子を作り放出できるのかという問題、次いでそれが可能だったとして君の精子というのはヒトの卵に受精し発生を進めさせることができるのかという問題だ。無論君の身体のことは良く知っているがね、それも所詮は見た目の形態という話に過ぎない。テディベアとクマの形をしたグミとは形の上では同じでも構成成分は全く違う。君が見た目だけはそっくりなそれを持っているからといって君の精巣で精子が作られていてそれが正常に射精されるからとは限らない。調べてみるかって? 顕微鏡でもないと分からないからね。傷を付けたら赤い液体が流れているからそれは血液なのだというのは間違っている、同じことだ。それではひとまず二点目について考えてみようか。
 ヒトの卵とヒト以外の生物の精子が受精した場合、その子はどうなると思う? ああ、そもそも子など存在しないんだよ。染色体の数が違っていれば受精卵は正常に分裂することができず発生を止めてやがて死に至り、何も生まれてくることはない。ただ単に形だけを似せた精子があるのでは意味がないということだよ、先の話に戻るようだが。種にも中身が無くては仕方がない。中身があっても腐っていては仕様がない。しかしね、長谷部君、こんなことを考えていても何にもならないのは分かるだろう? 君が誰かを孕ませることができようができまいが、そんなことは君にはまるで関係がない。君はそれをしないからね。ああ、しないんだ」
 握り潰された肉片がぼとりと畳に落ち、また新しい一つがパックの中から摘み上げられた。ええ、その通りです、と長谷部は目を伏せたまま呟く。
「俺はしませんし、
――それを知りもしません。ですが今日の、そのお話は……忘れてしまっても宜しいのですか」
「忘れる? 意味を理解するのは構わないが知っているのは望ましくないな。君とてそれをしたい訳ではないだろう?」
「……それは、勿論」
「知りたい?」
「いいえ、主」
 唇が弧を描き、「では続きだ」と薄桃色を握り潰した。
「何処まで話したんだったか……。一度ならず考えたことがあるんだよ、君に何かを身ごもらせるのはさぞ楽しかろう、とね。正常に発生したヒトの子個体ではない、見るだに恐ろしい出来損ないをだよ。だがそれにはどうしても過程を経なければならない、それが許せなかった。加えて君には子宮がない。出来上がったものは君ではない、だから止めた。そもそもそんなのはほんの気紛れに浮かんだ思いに過ぎないのだからね。次に考えたのは君の子宮を食べたいということだが
――やはり子宮は無いのだから叶う筈もなかった、私は愚かだった。そもそもどうしてそんなことを思ったんだろうか? 私は君を食べる為に食べている訳じゃないのに。穢いことだってしたくないのに」
 感情的に脚が振り抜かれ、パックとその中身とが畳へ飛び散った。
「軽蔑するだろう」
 違うんだ、違う、と繰り返して審神者は座り込んだ。
「こんなことがしたかったんじゃない」
「分かっています」
 長谷部の腹の奥、ただ形だけを真似ようとして歪に切り取られ捻り潰された臓器達があった。審神者は長谷部の腹を開けて取り出した胃と腸とを切り刻み、懐胎したように膨らんだ腹を持つY字の子宮を象ってそれらを置いた。これで食べたいという願いが叶う、と嬉しそうに笑った次の瞬間の出来事だったのだ。
「真に望めば叶うだろう、きっと。嘗ては自分のクローン、つまりコピーのような個体を作って機能不全に陥った臓器のスペアにしようなどいう考えが大真面目に議論されていた時代もあったという。勿論今では誰もがそんなのは古臭い、馬鹿げた考えだと一笑に付すことができる。何故って自分のDNAさえ提供すれば欲しい臓器だけが手元へ届くようになったからだ、ネットワークを介してティーカップを購入するのと何ら変わりはない。私がちょっと自分の細胞を採取して
――それは精子である必要は全くないんだよ、念の為に言っておくが――注文フォームを埋めて送付すれば一週間ほどで肝臓でも腎臓でも、心臓だって届くんだ。要冷蔵でね。さて、此処で君の細胞を送ったらどうなるか、想像に難くはないだろう? ヒトに備わったあらゆる器官や組織を作る為に必要な情報は男と言わず女と言わず全ての人間の全ての細胞が持っているんだ。つまり君の心臓や脳なんかと同じ遺伝情報を持つ、他ならない長谷部君の子宮だって作れるんだ! 凄いだろう?」
 既に半分ほど理解を放棄していた長谷部であったが、最後の一言に意識を取り戻し「そうですね」とだけ相槌を打った。長谷部に細胞は無いとつい先程言ったばかりだという矛盾にも誰も気付かない。
「科学は進歩したんだろう、言うまでもなく。人間の組織だの器官だのを思いのままに作り出し、それと共にあらゆる疾患の要因やメカニズムは解明され治療法が確立されつつある。私がどうしてこんな風なのかだってほとんど明かされているんだよ、その分子的メカニズムのレベルでね。だから私はどうして自分の嗜好が異常なのかを知っているし、ちょっと脳を弄れば品行方正な審神者として生まれ変われるという訳だね! 研究者がどれだけの艱難辛苦を経たのか想像も付かないが、二、三百年前に比べれば精神医学や神経生物学というのは遥かに進歩した。私が正常な人間になれるだけの進歩をね。だから本当は、私は私であることをさっさと棄てるべきなんだよ。そうすれば君を傷付けなくて済む。こんなことをしなくて済む。腹を裂いたり異物をぶち込んだり、果ては在りもしない君の臓器を食べたいなどと思うこともなく穏やかに過ごすことができる。或いは君が望むなら
――
 だが科学は幾ら進歩したって、私がどうしてこうなのかは一向に教えてはくれなかった。何処のシナプスがおかしいだのどの伝達物質がおかしいだのそういうことは検査結果の紙片何十枚分もに出力して教えてくれるが、じゃあ何の為に私はこうで在るのかという問いには答えてくれない。私は別に科学の各分野に明るい訳でもないが、それでも必死になって答えを求め続けた。駄目だったよ。答えは無いんだ、私が好きになった相手へ嗜虐欲を抱くことに合理的な理由は存在しない。神とかいうものを信じていればこれも与えられた試練なのだと目を輝かせることもできようが、生憎私は神とやらを軽蔑しているしそもそもこの場所に神にも等しい存在があるとすれば君だけだ。しかし君がそう望む筈もない。
 嗚呼、もしかしたら私は君に子宮を備え付けさせて、それで私は贖罪とするつもりだったのだろうか。君に快楽を覚えさせて自分の行為を、自分を正当化して、だけどやはり心の底では納得がいかないから食べてしまおうと思ったのか。そんなことも、誰も私に教えることができないんだ」
 言葉はふつりと途切れて沈黙が流れ始め、それはいつまで経っても居座り続けていた。起き上がり、当たり障りのない言葉を掛けることは長谷部にとっては造作もないことだったが、審神者は絶対にそれを望んではいないことも長谷部は理解していた。上辺だけの言葉や表情などすぐに見抜かれてしまうし、それ以上に長谷部は自分の主へそういう接し方をしたくはなかった。
「主」
 身を起こすと腹の中からぼたぼたと何かが落ち、長谷部が目を遣ると切り貼りされた自分の臓器だった。弾かれたように審神者の顔を見たが、自分が作って入れたそれにももう執着はないようで、引っくり返された数多の内臓の中で何処か惚けた顔をしていた。
「俺には、主の仰ることは良く分かりませんでした。でも主が……、……本当は、俺にこういったことをしたくないと感じられていることは分かります」
「したいよ、したいからしている」
「……。救い、ですか。相応しい言葉が見つけられませんが。主が欲しているのは」
「それは哀れみとかお情けと言うんだ。要らないよ」
「……」
 審神者は先までの長広舌が嘘のように崩折れて、畳の目にブタの子宮をずりずりと擦り付けながら独語を漏らしている。
「必要なのは薬と手術だよ、いっそ前頭葉を切るのでも良い。どうしてこんなことをしているんだと思わない日なんてない。後何百年待てば答えを教えてもらえるんだろうか」
「……すみません、主、俺には分かりません」
「当たり前だよ、私について私が知らないことは誰も知らない」
「……」
「ああ、私は私を辞めたい」
「……」
 嫌です、とは言えなかった。自身を否定するような審神者の言葉を無責任に肯定できる存在など何処にも在りはしない。
 そのうちに突然起き上がった審神者によって自我と同一性とエピジェネティクスについての講釈が始まりまた延々と続けられ、やはり長谷部にはその中身が意味するところはさっぱり理解できなかったが、審神者が望むのであれば幾らでも付き合おうと決めてその顔をじっと見つめていた。
 床にはブタの臓物が擦り付けられ変色していた。

 ***

 時計の針は遅々として進まなかった。此方から長谷部の部屋へ出向いてしまおうかと何度考えたか分からないが、それでも審神者は自室でただひたすら待ち続けた。
 空気が酷く薄いような気すらしていたが、実のところ普段と何一つ変わらない夜の底に本丸は在った。見ずともそれと分かる空気の色というのはおそらく光に因るものなのだろう。審神者はそのことを良く知っていた。まだ早い朝の空気、真昼の空気、そして長谷部のことを考え、その身に触れて過ごす夜の空気。
 ひとりでに締まる喉に喘ぎ、少しでも緩めて酸素を取り込もうと擦っていると待ちかねた声が溶けて響いた。
「主、参りました」
「ああ」
 障子戸が開くや否やその腕を掴み、驚きに目を瞠っている長谷部をぐいぐいと引っ張り続けて審神者は寝室へと倒れ込んだ。狼狽えながらも「主、戸を」と繰り返す長谷部の言葉にただ力任せに襖を叩き付け、がらんどうの執務室はそれだけでもう二人共から忘れ去られていた。
 畳に打ち付けられた背中や後頭部も勿論痛かったが、長谷部の思考領域は審神者が自分の上へ馬乗りになって息も荒く見下ろしてきていることだけに塗り潰されてしまっていた。
「待っていた」
 呼吸に大きく上下する胸の所為で声は震え、聞き慣れないその響きで長谷部を怯えさせた。たった一言の言葉で。咄嗟に視線を巡らすと、へし切は布団の上に飛んで行ってしまっていた。
 固い髪が長谷部の頬を引っ掻いていき、首には
――へし切の刃に比べればそれは途轍もない鈍らの――歯が突き立てられた。がりがりと鈍い音に跳ねる肩は審神者の両手が押さえ付けていたが、其処にはあの息遣いや奇妙な声と同じ荒々しさがあった。肩の肉へ指先が強く食い込んで、長谷部は思わず悲鳴を上げた。
「……っ、痛っ……」
 首元から聞こえる耳障りな音にはぬるつく水音が混じり始めていた。痛みは急速に膨らみそして次々に弾け飛んでいたが、長谷部はもう先のように声を上げはしなかった。反射的な呻き声だけはどうしようもなかったが、何をされるのか分かってさえいれば彼は殊更に情けない声を出して審神者の邪魔をしようとはしなかった。泣き叫んでくれと望まれている時でもなければ、審神者は長谷部の悲鳴に眉一つ動かそうとしなかったのだ。
 肉が皮膚や脂肪や神経や血管ごと噛み千切られていく厭な音が鼓膜のすぐ傍で鳴っていた。無理矢理に引き剥がされる音はばりばりともぶちぶちとも聞こえるが長谷部にとっては全くもってどうでも良いことだった。ただ彼が案ずるのは、主がこれで満足されていれば良いのだがということだった。
 顎を伝って零れてしまう血液さえも勿体ない、とその時の審神者は考えていた。長谷部の首筋へ喰らい付いて引き千切り、生温い血をぼたぼたと垂らして微かに震えているその肉を咀嚼し飲み込んでいた。長谷部の肉が喉を滑り落ちる度、審神者は歓喜に打ち震えて胸を押さえ必死で息を吸った。肉は柔らかく、熱く、そして濡れていた。長谷部の首筋から迸っている鮮血のような、人の手では最早儘ならないほどに荒れ狂う感情こそが審神者が今日一日中持て余し続けていたものだった。
 何度噛み付いて引っ張っても千切れないものがあり、顔を上げてみれば血に塗れたそれは腱だった。人の歯では噛み切れよう筈もなく、審神者は浅い息を吐いて口元をぐいと拭った。そのまま手の甲にべっとりと付いた血を舐め取れば紛れもない長谷部の味がした。
 審神者は長谷部の首の左側から溢れ出していた暗血の勢いが衰えていることを確認し、右側をそっと撫でながらもう一度、今度は幾分深い息と共に短い呻き声を吐いた。
 しかし誰も意味のある言葉を発しようとはしなかった。右側はその味を確かめるように何度か舌で優しくなぞられて、それからゆっくりと皮を破られていった。それは正しく昂奮だった。
 熱い筋繊維の一束を、柔い血管の一本を、滲む脂肪の一粒を口だけで毟り取り其処に長谷部を感じ取る一瞬一瞬の間、審神者は長谷部への思いが募り続ける一方で、それを押さえ込んで逃がさないとでも言うように長谷部の身体をきつくきつく抱いていた。
 白く滑(すべ)らかな長谷部の喉すらも破られて、今やぐちゃぐちゃに寸断された筋肉と辺りを埋める血の海とで長谷部の首は身体から捥ぎ取られてしまったかのように見えていた。夜を映し続け、それでも尚光を失わない藤の瞳だけが長谷部はまだ死んでいないことの証左であった。
 審神者はまだ食べたかった。渇望した長谷部の腕を、脚を、胸を、腹を食べたかったが、そうすると抱き締めた腕を一度解かねばならなくなる。またすぐに抱き直せば良いのだとは分かっていても、脳のずっと深いところ、言葉では説明できない部分がその選択を拒絶していた。漸く手に入れた長谷部を手放すなど考えたくもなかった。
 長谷部は次の行為を待っていた。首の筋肉がずたずたに千切られているので自分では上手く頭を動かせず、どうして審神者は自分に覆い被さり続けているのかと若干の不安が胸に兆し始めていた。
「……」
 名前を呼ばれた気がしたが、長谷部は酷く掠れたその音が審神者のものであるとは信じたくなかった。軋む床か叫ぶ風の音だろうと勝手に結論付ける。
「……、愛している」
 カチ、と時計の針が鳴った。

 ***

 言外に此処へは来るなと何度か言ってある筈なのだが、それでも長谷部は度々姿を現した。
「……何?」
 俺は灰皿を取り出すと吸っていた煙草を捩じ込み、肺に残っていた最後の空気を溜息と共に吐き出した。癖でそのまま新しい一本を取り出そうとして途中で気付き、しかも蓋を開けてみれば中は空っぽで、俺は箱を握り潰しながらポケットに仕舞った。
「何の用だよ」
「ええと……」
「用がないならどっか行け」
 俺があからさまに顔を顰めて追い払う手振りをしても、長谷部はぐずぐずと其処に留まり続けている。此奴がいなくならないと俺は煙草も吸えないので
――自分で自分に課した勝手なルールではあったのだが――早く立ち去れと内心で毒づいていた。
「あの、主」
「あ?」
「……何故それを吸われるのかと、思いまして」
「苛々するからだよ」
 長谷部の声は俺のささくれた心を落ち着かせもするし、時に逆撫でて苛つかせもした。大抵はその二つが入り混じっていて、俺はどうにも頭の中が掻き回されたようになってしまうのだ。此処から消えろと思いながらも長谷部と会話を続けてしまっていることがその最たる例だった。
「苛々するから吸って、それでストレスが誤魔化されたらまた苛々し始めるからまた吸う。それだけだ」
「吸っても苛々するのですか」
「依存症なんだろ」
 言いながら俺はポケットを探り、つい先程握り潰したばかりの空箱の感触を確かめると苦笑いした。
「用はそれだけか?」
「……俺も」
 長谷部は一歩だけ距離を縮めてきて、俺はその分後退りする羽目になった。がさ、と頭に木々の葉が当たる。此奴らにも俺が吐き出した煙の中の有害物質がべったり付いているんだろうなと思うと、長谷部を此処へは近付けさせたくないという思いが一層強まっていく。そんな俺の心などいざ知らず、長谷部は俺を真っ直ぐに見つめていた。
「俺も煙草を吸えば、主と此処でお話しできますか」
「はあ? 嫌だよ、俺は一人でストレス解消してんの」
 俺が何の為に執務室からも離れたこんなところで一人煙を吹かして、部屋へ戻る時にはせっせと歯を磨いて服にも消臭剤をぶち撒けていると思っているんだ。長谷部を近寄らせないのも灰皿にして楽しもうと思う傍から却下し続けているのも、全部長谷部を綺麗なままでいさせる為だ。俺の為だけに、長谷部には汚れないままでいてもらわなくては困るのだ。
 ポケットが捻れた箱の形に膨らんでいるのを指先で確かめながら、俺は言い放った。
「隠れて吸ったりしたら降ろすからな、近侍」
「……はい、承知しています」
 漸く気が済んだのか、長谷部は踵を返すと執務室の方へととぼとぼ歩き出した。俺はまたどうにも苛々し始めていて、これ以上ないほど分かりやすく悄気ている紫紺へ向かって言葉を投げ付けてやった。
「長谷部」
 ぴたりと足を止め、これまた緩慢な動作で長谷部は振り返った。何ですか、と問いたげな眼は相変わらず透き通った藤色をしている。腹が立った。
「煙草切らしてな」
「はい」
 声には怯えた色と沈んだ色が混じっていた。本当に退屈させない奴だ。
「後で買いに行くから飴でも買ってやるよ。来るだろ?」
「は、はい!」
 失礼します、と頭を下げて長谷部は走り去って行った。その足取りは先とは比べ物にならないほど軽い。
 馬鹿だなあと笑って俺は三たび空箱を入れたポケットを探っていることに気が付いた。飴玉を買ってやって、眼球を刳り抜いた眼窩へそれを嵌めてやろう。硝子のように透明な色を持つ飴を。
 俺は後始末をして部屋へ戻り、外出の仕度をしながら長谷部が来るのを待った。

 ***


 主には苦手なものも嫌いなものも或いは恐れているものもあって、本丸に居た頃はほとんど明かされなかったそれを今では、少しずつ、本当に少しずつではあるが俺の目に見えるところで露わにされるようになっていた。
 例えば主は青豆があまりお好きではなく、俺と食事をしている時には何処かに救いを求めるような顔つきで暫し辺りを見回して、それから顰め面をして嫌々口へ運ぶことを俺は知っていた。試しに青豆の季節なので豆ご飯を作ってみようかと思うのですが、と探りを入れてみるとやはり僅かに眉を顰められて、「豆はあまり得意ではない」と仰るのだった。得意ではない、という言葉の選び方が俺には少し愉快に思え、「お嫌いなのですか」と念を押すようにして尋ねた。
「嫌いな訳じゃない。少々苦手なだけだ」
 それでは嫌いなものは何かあるのですか、と重ねて問うたところ、ふむと考え込まれた後で険しい顔のまま主は仰った。
「……鏡かな」
 その理由までは教えてくださらなかったが、そういえば主は写真などもあまり好んで写られようとはしていなかったことを俺は思い出した。外出した際にビルの壁面の大きなガラスなどからも顔を背けるようにしていることを俺は幾度か目にしていたので、もしかしたら御自分の姿をご覧になることが好きではないということなのかもしれない。
 俺が主の見目についてどうこうと言及するのは不敬に過ぎるので此処ではしない。
 他にも俺は、主は脚がたくさんあるような虫や一見して脚のない虫、それからスエードの手触りなどが苦手なのだと知っていた。赤い色の服や金属のレードルは嫌いだということも。
「俺は……あまり嫌いなものなどはありませんね」
 一生懸命頭を捻って考えてみたが、特にそういった対象になるようなものを思い付くことはできなかった。強いて言えば俺は主に嫌われてしまうことが嫌だった。主の嫌いなものリストに俺が名を連ねることになれば、それは俺にとって非常な苦痛を生むものであるに違いない。
「君はそれで良い」
 主は仰る。俺にはその意味がまだ分からない。

 それでは恐れているものとは一体何なのかと言うと、単純に俺があの先以上を望むことなのだろうと思っていた。
 クリスマス以降随分な時が経過していたが、主は俺の頬に口付けてくださる以上のことは一切なさろうとはしなかった。俺は勿論それで満足していたし、主から与えられるものとしてそれ以上のものがあり得ようか?
 だから俺はその先を望んでなど決してなかったのに、主は心の何処かでひたすらにそれを恐れているらしかった。
 俺には何もできなかった。こう考えているので主が恐れる必要はありません、などと言える筈もない。俺がそのような事情に気を回すこと自体、主にとっては忌避すべき事態であることぐらい俺でも分かっている。だから俺には何もできない。主の不安を取り除くことなどできないのだ。
 主はよく溜息を吐いた。俺を後ろから抱き締めている時、俺の頬に手を遣る時、俺の髪を撫でる時、主は酷く辛そうな顔をして重い息を吐かれていた。そう思えば、俺はそれだけが苦手だったのかもしれない。
 どうしてそのような顔をされるのですか、と訊いてしまえたらどんなにか楽だったことだろう。俺がその憂愁の種を取り除いてしまうことさえできれば主には何の憂いも恐れも存在しなくなるのに。ただ青豆を見て唇を引き結ぶ主の姿だけを見ていられるのに。
 今日もまた、主は「愛している」と言いながら俺の頬に口付ける。手はいつも震えていた。
 何もかもを壊しかねないこの行為が、俺には少しだけ、恐ろしいものに感じられ始めていた。

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