top of page

 

短篇集16

 本丸の書庫には何十では済まない数の本が収められていて、そのジャンルも審神者の趣味を超えてあらゆる分野のものが存在していた。棚の奥を漁ってみると、ちょっと予想もしなかったような古ぼけた一冊が見つかるのが常だった。
「じゃあ次は僕だね。猫を飼っていた人が新しい猫を拾ってきました。その後二匹はどうなった?」
「一緒に遊んだんだろう」
「いや、その日中は様子見をしていたんじゃないか」
「様子見っていうのは?」
「猫というのは匂いを嗅ぐだろう」
「うんうん、なるほどね」
「私は距離を取って近付こうとしなかったと思う」
「……喧嘩した」
 回答が出揃ったところで燭台切はページを捲り、一つずつ答えを発表していく。
「ええと、これは人見知りするかどうかをチェックするテストみたいだね。まず〝一緒に遊んだ〟場合は……」
「俺か」
 そわそわと身動ぎする大包平へ苦笑しつつ、燭台切は言葉を選んで告げる。
「初対面の相手とでもすぐに仲良くなれる、人なつっ……才能があるみたいだよ」
「ふん、その程度の度量は当然だな」
 燭台切は答えに満足してもらえたらしいことに安堵しつつ、次はと鶯丸へ向き直る。
「鶯丸さんは……知らない人とでも割と気さくに会話できるけど、何処かで一線を引いて関わっているのでは? だって」
「ああ、何となく分かる」
「何? まさかお前、俺のこともそんな風に……」
「煩いぞ、大包平」
 噛み付く大包平と何でもないことのように去なす鶯丸とを愉快そうに横目でみつつ、審神者が身を乗り出して訊いた。
「光忠君、私のは?」
「ああ、主は〝距離を取っていた〟だっけ。ええとね……人と距離を縮めることに少し臆病かも、だって。時間をかければ大丈夫ともあるよ」
「ん? ううん……」
「当たってた?」
 無言のまま肩を竦め、燭台切はそれで色々と悟ったような顔をして綺麗な苦笑いをした。
「最後に山姥切君は、他人に対して警戒心がとても強いから心を開くまで長い時間がかかる……って」
「確かにこうして皆で集まって駄弁るようになるまでも時間がかかったものな」
「……ふん」
 一方的な言い合いも終わったらしく、鶯丸が皆の湯呑に茶を注いでいく。些か手狭な卓袱台の上には各々の湯呑、それに審神者が持って来た大量の茶菓子がひしめいていた。一つ手に取ってみればそれは金鍔で、外装の薄いフィルムを剥がしながら目を上げずに審神者は言った。
「次は誰だったか」
「俺だ」
 山姥切が燭台切から本を受け取り、ぱらぱらと捲っていった先のページに刷られている質問文に目を通し始める。表紙には漫画絵の少女が二人描かれており、その周りをピンクやオレンジといった目に眩しいほどのキラキラしたエフェクトが飾っている。およそこの本丸という場所に――或いは刀剣男士や審神者という存在には似つかわしくない一冊だった。
「長い――」
「入るぞ」
 言葉を遮った冷徹な声に皆が一斉に振り返り、幾分乱暴に開けられた障子戸の先に長谷部の姿を見た。
「主、此方にいらしたのですか」
「皆で茶を飲んでいた」
「……そろそろ執務を」
「ちょうど良いや、長谷部君もやってみない?」
 何処か場違いに明るい燭台切の言葉に、山姥切以外の全員が満面の笑みを浮かべてうんうんと頷く。山姥切も顔を伏せてはいるが小さく頷いていた。
「何をだ。主はお忙しい」
「まあまあ、これで最後にするから、君もやっていけばいいだろう」
「……はい」
 渋々腰を下ろした長谷部の手へさっとどら焼きが載せられる。意図を問う暇もなく、山姥切が再び質問文を読み上げ始めた。
「――長いトンネルの先に誰かが立っている。それは誰か」
「長谷部君」
「主」
 即答する主従の傍で燭台切がまた苦笑し、
「僕は……ううん、選べないな。伽羅ちゃんと鶴丸さんと貞ちゃんと……」
「俺は大包平だな」
「うむ……俺も鶯丸だな」
「……」
 ぺら、とページが捲れる小さな音が響き、其処に書かれている答えを山姥切は淡々と読み上げた。
「そこに立っていたのはあなたの好きな人です」
「うん、僕は皆のことが好きだし結構当たってるね」
 何かを先回りするように燭台切が言い、審神者もそれに続いた。
「真っ先に頭に浮かぶんだから好意を抱いている相手じゃないと成り立たないよな」
「何だ大包平、お前俺のことが好きなのか」
「それはお前もだろう」
「どうだろうな」
「おい!」
 喧嘩するほど、と言うよなあと審神者が呟いて、それを聞いていた二人は古備前の二人に聞こえないように笑った。日に焼けた本を閉じ、腰を上げて急須や湯呑を片付け始める。審神者も台布巾を手に取ると卓袱台を拭き始めた。
「手伝うよ」
「いいよ、任せておいて。仕事なんだろう?」
「……そうらしいが」
 三人が見遣った先には茫然自失のまま座り込んでいる長谷部がいて、手の中のどら焼きを無心で揉み続けていた。生地と餡子がぐちゃぐちゃに混ざり合って元の形状をすっかり失っている。
「……単なるお遊びだったと言ってやればどうだ」
「それはそれで危険な気もするよ」
「危険というか可哀想だよなあ」
「可哀想?」
 よいしょ、と盆を持ち上げた燭台切が目を瞬かせて言う。
「今更冗談でしたなどと言うのも趣味の悪い話だろう」
「ああ、そういうことね」
 主も大変だね、と言い残しつつ燭台切は立ち去っていき、部屋では未だに鶯丸と大包平が何事かを仲良く言い合っている。ちらと横目で見遣れば、審神者は嬉しそうな顔をして長谷部に何事かを囁きかけている。可哀想なのはどちらの選択肢の方なのか分かったものではない。さっさと自室に戻ろうと、山姥切も戸に手を掛けた。


 ***


 

 煙草は別段旨いと思って吸っている訳ではなかったし、まあ酒も大した違いはなかった。だが酒と煙草が決定的に違っているとすれば、それはこうして皆で一同に会し、馬鹿みたいに騒ぎながらこの空気を共有できるかどうかという一点に掛かっていると俺は思う。
 何かがあった訳ではない。新しく誰かを迎え入れたとか、長きに渡り攻めあぐねていた難所を漸く攻め落としたとか――それとも戦いが終わったとか、そういうことじゃない。ただ何となく今日は酒宴としたい気分であっただけだ。
 折しも今はじゃんけんで負けた方が服を一枚ずつ脱いでいくという、非常に古典的な、だが宴席を盛り上げるにはうってつけの一戦で場が盛り上がっている最中だった。向かい合うは蜻蛉切と小狐丸で、どう見ても蜻蛉切の方が不利なんじゃないかと俺は思いもするのだが、しかし奴は奴なりに村正の声援――「代わりに脱ぎまショウか」、という不穏な声が声援なのかどうかはさておき――によって闘志を掻き立てられているらしかった。こんな阿呆らしい遊びでも、皆銘々に歓声を上げて楽しんでいるようだった。
 ……それも当然か、と俺は酒杯を傾ける。此処での生活は自由だが、それも酷く不自由な環境の下での自由に過ぎない。唯一の審神者である俺とて此処以外に出向ける場所と言ったって万屋のあるあの死ぬほど退屈な町だけで、長谷部以外の男士は彼処へすら行くことができない。良くもまあ不満が噴出しないものだ。いや、それが原因かは知らないが日々少なくない数の審神者がその任を棄て去って行くらしいから、やはり不満は其処彼処で噴き出しているのだろう。此処ではまだ破裂していない、というだけだ。
 自分で弄んでいた思考の所為で酒が一段と不味くなってきていた。しかし飲まずにもいられない気分だ。酔ってしまえば、俺のつまらない脳髄は途端にその働きを鈍らせる。煙草は漠然としたストレスを紫煙に乗せて吐き出す為に吸っているようなものだったが、酒は何もかもを忘れ、また考えたくない時にはぴったりの道具だった。
「……っく」
「ん」
 突然不動が俺の隣へやって来て、いつもの甘酒片手にすとんと腰を下ろした。珍しいこともあったものだ。此奴は滅多に他人へ関わろうとしないし、関わってきたらきたで自分が如何に駄目な刀であるかを延々とくだ巻くのだ。もしかしたらただただ明るいだけのこの宴の空気に中てられて、少しだけ普段とは違う一面が顔を覗かせているのかもしれなかった。
「呑むか?」
 傍に置いていた酒瓶を掲げて見せるが、ただ首を横に振るだけだった。そうか、と返して俺はまた一口を呷る。
 互いに一言も発しないが、俺はそれがこれと言って苦でもなかった。意識したことはなかったが、刀剣男士というのはそういう気負いをさせない奴が比較的多いように俺は思っていた。勿論幾らかの例外はあるのだが(例えば数珠丸などは偶然二人きりになってしまうととにかくその沈黙が心苦しかった)、誰かと二人で居れば必ずと言っていいほどふとした瞬間に訪れるあの沈黙を、それでも苦痛には感じさせない空気を纏っている、とでも言ったら良いのだろうか。……長谷部はまた特級の例外だ。
「……なあ」
「ん?」
「彼奴、いつもあんな顔してんのか」
 目顔が示す先には長谷部が居た。光忠や鶴丸に囲まれて、顰め面をしながらそれでも相手をしてやっている――それとも相手をしてもらっている、のか。頻繁に俺の方を見ているのは知っていたが、偶には一人で呑んでも罰は当たらないだろうと敢えて無視をしていた。
「あんな顔ってあんな顔か?」
 今度は首を縦に振る。
「あー、どうだっけな……俺以外の誰かが居るとそう、かもしれない」
「あんたと二人の時は?」
 おお、不動がこうして普通に話しかけてくるのを聞くのは初めてなんじゃないか、と俺は内心若干の感動を覚えながら返事をする。
「笑ってるな」
「……」
 それで問答は満足したのか、不動は俯いてまた甘酒をちびちびとやり始める。俺も例の余興の方へと目を遣り、思いも寄らない展開に思わず声を上げて笑ってしまった。小狐丸のインナーの何処までを一枚と見なすのかで激しい論争が巻き起こっていたのだ。俺も参加して屁理屈を捏ねて来ようか、などと腰を上げかけたところで、不動がぽつりと言葉を零した。
「……俺さぁ」
「え?」
「この間、彼奴と同じ部隊で、本能寺に出陣しただろ」
「ああ、したな」
「彼奴から何か聞いたか?」
「? いや、何も」
 不動は心なしか声を潜め、相対的に馬鹿騒ぎの音が大きくなり、その片隅、俺と不動は二人きり全てから隔絶されていた。
「俺なんかが言えたことじゃないけどよ、……俺は良いんだよ。ダメ刀だからな」
「……」
「……でもよぉ、彼奴は、何て言うか……。信長公のことあんな風に言いやがったのは気に入らないけどよ……」
 本能寺で何があったのか、俺は何も知らなかった。誰一人俺へは何も言ってこなかったし、別に俺はそれで良いと、不動からその断片を聞かされた今でもそう思っている。素晴らしい主君としての在り方とかそういうのではない。断じて違う。俺はただ面倒事が嫌いなだけだ。
 賑やかな部屋の中央、結局勝利を収めたのは蜻蛉切のようだった。村正とがっちり手を握り合って喜んでいる彼へ、お前もほとんど半裸みたいなもんじゃないかと心の中で突っ込みつつ、俺は不動へ言ってやる。
「言いたいことは分かった」
「……」
「俺もさ」
 傾けたグラスはもう空だった。瓶の中にもほんの僅かな滴しか残っていない。仕方ないので酒は諦めて、俺は――これ以上ないほど酔っていたのだ、間違いない――訥々と言葉を並べる。
「お前のこと誤解してたみたいだし、もっと見てないといけないのかもな」
「誤解?」
「案外普通に話してくれるだろ、こうやって」
 そう言うと不動は顔を背けてしまった。やっぱり意外と良い奴なんだろう、自分のことや不可避の過去に整理が付けられていないだけで。
 体内に蟠(わだかま)る酒気を逃そうと大きく息を吐き、いやちょっとだけ呑み足りないな、と思いつつ酒瓶を求めて立ち上がると同時に長谷部が此方へやって来た。長谷部にとって厄介な連中から漸く逃れられたのか、眉間に幾重にも皺を寄せながら俺を見る。ああこの顔な、と俺は声に出さず独り言ちた。
 そしてまた、このままだと間違いなく不動へ喧嘩をふっかけるであろうことが俺には分かっていたので、長谷部が何かを口にする前に機先を制して「長谷部」と呼んでやった。
「はい、主。此奴が、」
「酒が足りないんだよ」
 案の定、長谷部は此奴が何かしましたか、と言いかけた。今日は愉しい酒の席なんだから諍いは御免だと言うのに。
「酒ですか? ですが、既にかなり聞こし召していられるのではないですか」
「まあ頭は働いてないな、うん。それどころか吐きそう」
「?! いけません、御部屋へ戻りましょう、主!」
「はいはい」
 俺の嘘に焦り、長谷部は慌てて俺の身体を支えようとする。其処まではしなくて良いとやんわり押し退けて、俺は不動にだけ分かるようにちらりと目配せをした。
「……」
 何も答えがないのが正解だ。俺はさっさと部屋を出て、何の疑問も抱かず付いて来た長谷部の心配そうな顔を見る。何て顔してんだ、と笑いが込み上げる。
「長谷部」
「はい、お加減は如何ですか? 早く部屋に……」
「あと一杯だけ呑んでも良いだろ? いや答えの如何によらず俺は呑む」
「あ、主、ですが……」
 右に左に揺れながら、俺は自分の部屋を目指して歩く。月が綺麗だ。星が綺麗だ。夜はこんなに綺麗だったのか。
「俺さあ、酔うと楽しくて仕方なくなって、自分でも良く分からないことしちゃうんだよな」
「でしたら俺が御傍で……」
「良いのか?」
 今なら、あの空気を引き摺っているだけだという言い訳も許されるだろう。不動のことは何も関係ない。長谷部の事情だって知ったことではない。俺はただ俺がしたいようにするだけだ。酒を呑んだのだから、今夜だけは何もかも許されて良いだろう。
「長谷部に何しても、俺は知らないぞ」
「……!」
 はははと笑い、俺はいつの間にか目の前に立ち現れていた障子戸の片方を思い切り引っ張って開いてやった。全く、こんなに旨い酒は初めてだった! 真っ暗な執務室、その向こうに何があるのかなんて分かりきっている。
「長谷部」
 呼んだ先の表情は、今の俺にはもう、見ずとも分かりきっていたのだ。


 ***

 透明な筈の夜空は町の光に曇っていた。この町はいつだって明々と灯と人の気配がして、此処も所詮は仮想空間に過ぎないのだということを嫌でも思い起こさせてくる。
「珍しいですね」
 そう心の中で思ったことが思わず口から零れていて、審神者はちょっと顔を向けて小首を傾げるようにした。言葉がそれに重ねられないのは、言わずとも長谷部には良く伝わっているからだ。
「こうして夜に出歩くというのは」
「夜は寝る時間だ」
 短く言ってから、普段自分が過ごしている夜のことを――つまり他ならぬ長谷部を其処へ無理矢理に沈めている夜のことを――
思い出したらしく、小さく咳払いをして審神者は言い直した。
「夜は家で過ごすものだ」
「はい」
 夜というのはどうしてあんなに暖かく感じられるのだろうか、と考えながら長谷部は黙々と足を運ぶ。夕食が終わってそろそろ風呂に入ろうか、と思っているところへ彼の主は唐突にやって来て、「少し散歩でもしないか」と奇妙な誘いを向けてきたのだ。一つには皆で摂る夕食の時間というものの影響かもしれないな、と長谷部は考える。審神者は〝朝食や夕食の席には誰一人欠けることなく皆が揃うこと〟というのをルールとしてこの本丸に在る者全員に課していて、特に夕食時はその日一日の出来事などを銘々が一斉に喋るものだからその賑やかさは夜というものの印象からは大きく離れていたのであった。
 何処へ行くのかと黙って付いて来ているが、普段買い物をする場所である此処へやって来て、しかし何処かの店へ入るでもなくただ目的もないように歩き続け、それでも長谷部は今この時間が嬉しかった。自分が隣に立とうが前へ立とうが審神者は全く気にしないと分かっていたが、それでも普段長谷部は審神者の少し後ろへ付いて歩いていた。体裁というものもある。主が主である為には、近侍である自分がまずその格を落とすことのないように心掛けねばならない。それが長谷部にとっての主従というものだった。
 こうして本丸から離れた場所へ来て、これも人工的な存在だと分かっていながら町にいるヒトの形をしたものの視線を気にする必要がない暗がりまで歩いて来て、そうして初めて長谷部は審神者の隣に並んで歩くことができていた。踏みしめられた雑草の呼吸音、見知らぬ土地へ来た時のような心細くなる匂い、温い夜風すらも自分の行動を咎めているのではないかと不安になる。盗み見る審神者の顔は至って平静で、何処か冷淡にさえ見えていた。
「主」
 堪えきれなかったその呼びかけに審神者は足を止め、やはり「何?」とは口にしないままで長谷部の言を待っていた。
「あの、すみません、歩きながらでも……」
「いや、この辺りで良いだろう」
「え?」
 長谷部は辺りを見渡して、いつの間にかほとんど灯りのない真っ暗な場所へと辿り着いていたことに気が付いた。肌を撫でる空気は先よりも冷たくなったように感じられ、露出こそ少ないものの主が体調を崩されでもしたら、と忠臣らしい不安を抱き始める。
「夜空の明るさというのは人工の灯りに非常な影響を受ける」
 突然に審神者がいつものような講釈を始め、長谷部は一層面食らって己の主を見た。
「凡そ仰角二十度足らずのところに照明があればそれは煌々と夜空を照らしてしまう。言い換えれば星々の微かな光をその下品な眩しさで覆い隠してしまうということだね」
「……はい」
「ところで今日は何の日か分かるかい」
「七夕ですね」
 口元だけで笑みを深め、審神者はまた話を続ける。
「そう、七夕だ。であれば天の川を見たいじゃないか」
 ほら、と指差された先を見上げて長谷部も空を仰ぐ。
「……」
 空を呑み込みすらするように絶句して、長谷部はそのまま何を言うべきか本当に分からなくなってしまった。深く暗い夜闇に浮かぶ無数の青白い光は遥かに遠く、広かった。ただ星空と言うのでもなく、かと言って言葉で他の何かに喩えてしまえば途端にその輝きは陳腐なものへと落ちてしまう。これほどに明るく、なのに優しい光を長谷部は見たことがなかった。
 一方で審神者はどす、と勢いよく地面へ腰を下ろし、長谷部が何も言えないでいるのを見ると代わりに言ってやった。
「綺麗だね」
「……はい、……とても」
「君もおいで」
 柔らかな草の生えた地面をぽんぽんと叩き、審神者は長谷部を自分の隣に呼ぶ。漸く顔を下げた長谷部は審神者が土の上に直接座っているのを見て飛び上がりそうになった。
「あ、主、せめて何か敷いてから……!」
「良いだろう、今日くらい見逃してくれ」
「そうではなく、お召し物が汚れます……! 俺の服なら幾らでも尻に敷いてくださって構いませんのに!」
「星を見に来たのにそう雰囲気を壊されるとは思わなかったな」
 長谷部は言葉に詰まり、審神者へ対して尻がどうのと叫んだことに頬を赤く染めながら大人しく腰を下ろした。普段執務室で二人並んで座っている時よりももっと近い、それでも決して触れ合わない距離のその先に審神者が座っていた。
「……」
「……」
 そのまま何十分空を見上げていたのか、或いは数時間も経っていたのかもしれないが、二人の間には何の言葉もなかった。ただただ隣に並んで寝転がって天を仰いで、邪魔な灯りは一つもなく、きっと一年の中でこの日しか味わうことのできない夜と距離の先にあるものから長谷部は強いて目を逸らしていた。――嗚呼、何て幸せなんだろうか、そう胸中で独り言ちたのが言い聞かせる為であったかどうかなど今この瞬間には何の価値も持たない問いだった。
「……短冊を」
「はい?」
「短冊を、持って来れば良かったかな。書いて流すんだ……いや、あれは七日の未明にやるんだったか……」
 声は微かで聞き取り辛く、長谷部はもう少しだけ傍へ寄ってしまいたい衝動に駆られ始めていた。
「主は何と書かれるのですか」
 思ってもいないことを訊きながら、長谷部は夜空を流れる蒼い河から目を離さなかった。
「私? そうだなあ……君の息災でも願うかな……」
「それなら、俺は主が息災であるようにと願います」
「え? それじゃあ意味がない」
 密やかな笑い声も夜へさっと溶けて消えてしまい、遠い空の星までもがそれに混ざり合っているような幻覚を長谷部は覚えていた。隣に在る人は――その姿を見ずとも――ずっと何かを喜び続けていた。
「仕方ない、来年もこうして君と天の川を見られるように願おうか。……短冊はないけれど」
「叶いますよ、主。叶います。俺もそう願いますから」
「そう」
 確かに目を眩ませるような光はなかった。だが中途半端な夜陰の中ではただ影を残して掻き消えてしまうような気すらして、長谷部はどうして後少しだけ近くへ行けないのかと思うと星の光さえが恨めしかった。〝来年〟を望んだのは、或いは間違っていたのかもしれないという思いが一瞬だけ脳裏を過り、泣きそうな心地で首を振る。
「……長谷部君」
「はい」
「……尻が……湿ってきた……」
「だから申し上げたではないですか」
 ――それでも来年、また来年のこの日なら、少しだけ主へ近付けるのかもしれない。それまでは今まで通りで構わない。一年に一度だけでも、こんな穏やかな日があればそれで良い。
 町は、そして本丸はまた明日からも煌々と照らされ続け、何もかもが否応なしに曇ってしまうのだろう。だが天の川はいつだって確かに其処にある。星はいつだって輝き続けているのだ。

「夜風」「七夕」「一年に一度」

bottom of page