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短篇集15

「好き、と言うのだと知りました」
「何を」
「お慕いしていると言うのを、もっと平易な言葉で表すと、です」
「……正確には平易ではなくラフな、とでも言うべきか」
 死体が欲しい、と言い張る審神者の前で長谷部は唐突に言った。この場にそぐわないようで、実は最も合致している話題。
「その程度君なら知っていたんじゃないのか」
「語彙上の知識としてはおそらく。でも俺はそれを定義としてしか知りませんでしたから。神経の発火や虚数空間と同じで、見えず触れられもしないものは俺の実感としては存在しなかったので」
「待った」
 蹲って頭を抱えた審神者が長谷部の言葉を止める。長谷部は律儀に唇を結んで審神者の言葉を待った。
「その話は終わりだ」
「何故ですか」
「君は好きだの何だの、知らなくて良い。今度その話をしたら退がってもらう」
「ですが……」
「五月蝿い」
 長谷部が新しい知識を得ることを、新しい発見に目を輝かせることを、平時の審神者は自分のことのように喜んで話を聞いていた。〝正しい〟判断ができるようになる筈だと審神者が言っていたから、長谷部はその過程の積み重ねを懸命に行い続けていた。
 なのに何故、という言葉の色だけが吐息に混じって漏れる。
「ほら、君はそういうことを言うだろう、だから嫌なんだ。余計なことばかり考えて、私に向かって毒のような言葉を吐く。そんなことなら死んでいる方が余程良い」
「……分かりました、好きとはもう言いません。お慕いしていますとも、」
「言わないんじゃなくて考えないんだ」
「……はい」
「恨むんだよ、憎むのでも構わない。甘ったれた感情を向けなければ何でも良い」
 ――主であるこの人を、慕うどころか憎めと仰る。
「死んだ君なら、私を憎むぐらい造作もないだろうにね」
 長谷部はただただ無言で俯いていた。憎悪や怨嗟を向けられるほど彼は審神者を嫌ってはいなかったし、それを向けられた審神者がどうなってしまうかも全て分かっていた。
 だからたとえこの後に死体の真似事が待っているとしても、彼は生きている方がずっと良いのだと知っていた。
 知らないのは、好意と愛情に関することだけだった。

 ***

 血はいつ何処で流れるものであっても常に赤かった。長谷部は時折、遡行軍に負傷させられた部隊員の傷口を見ることがあった。自分でも驚くほど冷静に――それは彼が真には血の通わない刀剣男士という存在であるからではなく――流れ出す血をただ眺めていることを長谷部も自覚していた。
 血は赤く、生臭く、静かに流れ続ける。俺と何が違うのか、と長谷部はその晩一人で考えていた。その日は出陣が立て込んだ所為か審神者は疲れたと言って早々に床に就いてしまっており、長谷部は自室に一人きりだった。
 自分と他の連中の中に在るのは同じ血、同じ肉だった。それどころか、見た目だけで言えば自分と主のそれですら何も変わらないのだろう。信仰にすら近い敬意の対象である審神者と自分とを同じに考えることは本能が忌避したが、そもそもそれは今考えるべきことではなかった。
 審神者が好きなのは、愛しているのは自分の何なのだろう、と考えながら長谷部は横たわる。畳はひんやりとしていて心地良かった。――いつもは布団の上で、酷く熱い熱に魘されているのだ。柔らかな暖かさならばまだ良い、長谷部を窒息させているのは長谷部自身から溢れ出した苛烈な熱だった。熱い、と魘される赤。
 ただただ自分の血肉が、臓腑が好きなのだと言うなら何も自分でなくても構わないのだ。山姥切でも燭台切でも膝丸でも誰でも良い。自分と同じ中身を持っているのだから、誰でも良いのだ。
 しかしそうではない、という確信めいたものだけは長谷部にちらと萌していた。審神者の目的は長谷部を切り刻んでただ食するという単純なものではない。寧ろそのような言葉で表されれば誹りと受け取り大いに機嫌を損なったであろう。審神者は長谷部を愛しているからそうするのだと何度も言っていた。愛しているから、愛して……誰を?
 へし切という刀は一口だけではない。過去へと遡った先での戦場で、或いは本丸での鍛刀で、長谷部ではないへし切が手に入ることは日常であった。大抵の場合、それらの刀は審神者によってさっさと刀解されてしまい、稀に二口目として顕現させられることがあったとしても碌な扱いをされないままに破壊されるのが常だった。……つまり、彼等は審神者からはモノとしての扱いしか受けなかったのである。
 それゆえ、長谷部は何度も何度も考えたことだった。此処に居る自分は偶々一口目だったというだけのことで、ほんの少し何かが違えていれば、何の感情もなく嬲り殺されて死んでいたのは自分の方だったのだ、と。そしてそれを冷めた目で見下ろしているのは別の長谷部だったのではないか、と。
 思考は〝どうして自分は自分なのだろう〟というところまで遠く飛んでいく。自分とは何なのか、どうして今此処にある自分は自分なのか。
 気が付くと眠ってしまっていて、飛び起きた長谷部は慌てて歯を磨いてから布団を敷き、滑り込むと急いで目を閉じた。

「主」
 熱い夜だった。最近の審神者は長谷部の手脚を切り落としてしまうことに夢中のようで、今日も長谷部は不格好な達磨のようになって布団の上に転がっていた。目の前は一面の赤銅色で、噎せる鉄の臭いで頭が痛かった。
「何かな」
 審神者はへし切を小刻みに動かしながら答えた。円柱のような断面を削って滑らかな球のようにしたいらしく、削り取られた肉の破片が布団の上にぽたぽたと落ちていた。切ることしかできない刀という道具ではやはり難しいようで、審神者はうんうんと唸りながらも出来る限り曲面へと近付けようと躍起になっていた。
「主は」
 何となく言葉を切り、しかし長谷部はすぐに続けた。
「何故、俺なのですか」
「君?」
 刃が骨に当たり耳障りな音を立てた。一瞬だけ眉を顰め、審神者はまたすぐ作業に戻る。
「君が良かった」
「俺が?」
「そう」
 掌が左腕の断端を何度か往復し、そっと離れて行った。どうやら左腕の出来栄えには及第点が付けられたらしく、次は右腕で整形が始まった。
「初めに来たのが、他の長谷部でもですか」
 何かを抑えた声色で長谷部が言い、それでも審神者は手を止めなかった。二人共が口を噤んでしまえば、部屋に響くのは粘着質な血と肉の音だけになる。泥濘を踏むようなその音が長谷部は嫌いだった。審神者には一度も漏らしたことがなかったが。
「初めに来たのが君でない別の長谷部であったとしても、その長谷部は自分こそが私にとっての初めてだと思い、そして同じことを訊いただろうね」
 審神者はシャツの裾で手を拭き、べっとりと付いていた長谷部の血を其処で拭おうとした。私こそ手袋をするべきなんだ、と少しだけ荒くなった息で零してからまた話を続ける。
「君の意識は――つまり君という個体の自我は初めから何処かにあった訳じゃない。今の君の自我が非常に小さくなったものが初めから其処にあって、水を吸って膨らむようにどんどんと大きくなってこうなった、と君は言いたいのかもしれないが、そうじゃない。生まれ落ちる瞬間まで君は君ではなかった。それは他の長谷部だってそうだ、彼等はこの世に顕れるその瞬間まで私に使い捨てられる為の自我を持っていた訳じゃなかった。形を得て自我を成し、そうして私に殺された。初めに来たのがどの長谷部だって、私と在るうちにその自我は私によって形成されていき、そうして今此処に在る、他でもない君になっていただろうさ」
「……ええと」
 良く分からない、と思っていることは長谷部の表情にもありありと表れていたので、審神者は思わず苦笑しながら一度へし切を下ろした。
「今はそれで良い。いずれ分かる日が来るよ」
「はい」
「それじゃあ今度は私から訊こうか」
 長谷部は不具の身で横たわったままであるのに畏ろうとし、今は腕も脚も無いことに気が付くと僅かに頬を赤らめて目を泳がせた。
「何故私なんだ」
 熱も一瞬で霧散していくようだった。呼吸が上手くできなくなったような気がして、長谷部は殊更大きく息を吸った。
「俺の……俺の主は、今の主ですから」
 はん、と審神者が嗤う。
「君こそ誰でも良かったんだろう」
 審神者はへし切を放り出し、右腕は中途半端な丸みのままで放棄された。茫然とする長谷部の前で審神者は口だけで薄く笑っている。
「ただ私の存在で前の主や〝本当の〟前の主の記憶を上書きしたいだけなんだろう。その為なら誰でも良かった」
「ちが……違います」
「君はいつもそうだ」
 自分の血であればただ熱いだけで済んで、それで身の程を知るべきだったのだ。審神者から与えられるものが身を焼くほどに――或いは神経を灼き尽くすほどに熱いのならそれでも構わなかった。本当に苦しいのは心を凍らせる視線と言葉だった。長谷部は苦しかった。
「違うんです、主」
「私は君を使い捨てることなんてしていない、愛していなければ壊す為にわざわざ直しもしないのに」
「主……俺は……」
 近侍として言うべきでなかった自分の言葉に顔を歪め、長谷部はそれ以上何も言えなかった。審神者は肺から空気を全て吐き出してしまったように苦しげな声を上げて笑い、「愛してるんだ」とだけ長谷部へ言った。
 そのまま覆い被さり、邪魔な手脚のなくなった長谷部の身体を強く抱いて、審神者は聞こえるか聞こえないかの小さな声で長谷部の耳元へ零した。
「君がどう在ろうと構わないよ」
 抱き返そうにも――元より長谷部は自分にそんな資格はないと考えていたが――その為の腕はもうない。断端すらも丸く形を作り変えられてしまっていた。
「何を考えていたって構わない。ただ好きでいさせてくれ」
 ぴったりとくっついた審神者の身体は酷く熱かった。長谷部は他人の体温をほとんど知らなかった。自分に触れる審神者の手は決まって冷たくて、それは開かれた長谷部の腹の中などが熱い所為だったのだが、そうと知らない長谷部は審神者の体温が自分より高いことがあるなどとは思いもしなかった。
 この熱さがなければ自分はもう生きていけないのかもしれない、そう思い、長谷部はまた考えていた。自分が自分である理由も、おそらく其処に在るのだと。
 今頬を伝う滴は赤くはないのに熱を孕み、――それは審神者の頬を伝うものも同じであったことを、この夜の長谷部が知る由もなかった。

 


 ***

 


 何度目か数えるのを止めた頃の話だった。
 微笑んだまま自分を見下ろす審神者を見、自分の腹を見下ろし、それからまた審神者を見て、長谷部は何かが起こるのをただ待っていた。畳の上には血の海、それに加えて内臓の一つ一つが力なく落ちている。全て長谷部が取り出したからだ。
 誰も何も言わなかった。長谷部は落ちている臓器へ目を落とし、一つずつの名前を脳内でなぞっていく。あの濃い黄色は脂肪と言う、次に小腸、大腸、それから胃を出して、――。
「自分で引き摺り出してご覧」
 長谷部の腹を裂くだけ裂いてからそう言って、審神者はただ彼を見ていた。血を吐きながら臓腑を握り、引き千切り、痛みに喘ぐ度、審神者はそれぞれの臓器の名前を長谷部へ教えた。これは小腸、消化した食べ物を吸収する器官。此方は大腸、水分を吸収して排泄物が作られる器官。これは、これは、これは……。
 肺と心臓だけは残すようにと告げられ、その他全てを長谷部は引き千切った。空っぽになった腹の中を見て、「ちゃんと覚えたかい」と審神者は言った。手の中では前立腺を放り上げ、受け止めてはまた放り上げている。「何か質問は?」
 長谷部は記憶力が良かった。きっと刀剣男士というのは機械のように組み上げられていて、個々の事象の細部までが記憶領域に書き込まれているから覚えていられるのだろうと審神者は言っていた。それが真実かどうかは分からなかったが、とにかくこの夜に教えられたことを長谷部は一つ残さず頭に刻み込んでいた。生々しい薄桃色と深緋色まで、全て。
「……主は、俺がお嫌いなのですか」
 そうして口から零れたのは全くの不意を突いた言葉だった。長谷部とて心に抱いたことが無いではなかったが、口にして、言葉にして審神者に伝えることはせずにおいた筈の思いだった。
 きょとんとして目を瞬かせ、それから審神者はまた片笑んで長谷部に答えた。
「嫌いな方が良いのかな」
「……分かりません」
 本心からの言葉だった。優れた機械も動力が足りなければ満足に稼働しない。今日は少し、痛みと失血に身を泳がせすぎていた。
「君を嫌った方が楽になれるならそうするとも」
「なれるのでしょうか、……分かりません」
「なれるよ。今からでも遅くない、私達はそうするべきだ」
「……そうしたら、主は俺を嫌悪し蔑みながら、このようなことをされるのですか」
「そういうことになるね」
 何でもないことのように言い、審神者は受け止めた小さな前立腺を背後へ放り投げた。襖へ当たり、跳ね返って床を転がるそれを見ているのは長谷部だけだった。ころころと転がり、直に動きを止め、長谷部はその時漸く審神者が何も変わらないままの笑顔で自分を見つめ続けていたことに気が付いた。
 其処に嫌悪を湛えた表情を思い描くことは、どうしてもできなかった。
「主」
「うん」
「嫌いな訳がなかったと、気付きました。不躾な真似を致しましたこと……」
「私は君を嫌えないと」
「え、ええ。主は……その、俺を本当に」
「愛している」
 長谷部の言葉は審神者が引き継いだ。長谷部ははい、と小さく頷くだけで事が済んだ。
「そうだよ、だから君を嫌うことなんてできない。それでも君が望むなら私はそうするが」
 そう言ってからおいで、と手招きするので長谷部は何とかして両足に力を入れた。腹の中身が散らばっている所為かそれとも出血の所為か、ふらつく自分の身体が酷く頼りないもののように思えて仕方がなかった。結局、見兼ねた審神者が肩を貸し、長谷部はふらふらと手入れ部屋へ歩いて行った。
「さっきの話」
「はい? ……ああ、嫌った方が、という……」
「いつでも待っているよ」
「主、ですが……」
「待っているよ」
 其処で手入れが始められ、長谷部の意識はすぐに闇へと融けていってしまったのでそれ以上話を続けることはできなかった。
 それでも長谷部はその一言を、その後もずっと覚え続けていた。

 


 ***
 

 

 雨の音、覚えているのは何かが傾くような感覚。
 糜爛した肉が湧き出して、私の皮膚の中へ次々に潜り込んでいた。
 嘗てないほどの激痛に私は叫び、のたうち回って喚いた。
 どうされました、と問う長谷部は異常な色をした自分の肉にも孔だらけで血塗れになった私の腕にも何も気付いていない様子だった。
 嘔吐き、そのまま私は吐いた。
 不安そうに私を覗く長谷部の喉からまた、ぼとぼとと肉が降って来ては私へ入り込んでくる。
 がむしゃらに腕を振り回してそれを振り払おうとしても、何度も何度も、それは長谷部の顔をして私に近寄って来る。
 悲鳴の前奏だけが喉から漏れた瞬間、私は目を見開いた。
 違和感はずっとあったのだ。
 自分がおかしいのだと気付かない長谷部、自分の所為で私が嫌悪と激痛とで苛まれていることにも気付かない長谷部。
 これは長谷部ではない。
 冷静になれと自分へ言い聞かせ、私は腕の中で這い摺り回る肉片を毟り取りながら必死に頭を働かせる。
 まだ間に合う筈だ、やり直せる筈だ。
 肉が肉の色を、血が血の色を、私が私の姿を、長谷部が長谷部の振りをしていた頃に――私達が幸せだったあの頃に。
 大きく裂けた傷口を、開かれた長谷部の腹を私は見る、腐乱した肉ですっかり埋もれている暖かくて柔らかな場所を。
 ピンク色の臓器を其処に思い描く、腐乱した肉ではない瑞々しい生きた色を。
 苦しむのはもう終わりにしよう、と言った。
 怜悧な瞳と皆焼刃の鈍い色は良く似ている、数え切れないほど思ったことだった。
 澄んだ音の向こうから長谷部が私を見ていた。
 違えたのはいつ、何処からだったのだろう――後悔などもう、何の意味も成さないのに。
 疑うまでもなく、ただ唯一の手段としてそれは初めから目の前に存在していたのだ。
 Vの字を描くそれ、私が期待していた通りのそれ。
 私が望んだものの全てが其処にあった。
 ぁ、と小さな呻きが漏れる。
 揺籃に抱かれ、私はただただ眠って待った。
 全部、何もかもがはじまりへと巻き戻り、そしてまた始まるのを。

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