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短篇集14

 それが忠心からかそれとも他の何かからなのかは分からなかったが、自分が本心では審神者の行為を嫌がっているのだということを長谷部は頑なに認めようとはしなかった。たとえ口に出してそう言うように強いられたとしても、その命だけは決して聞き入れようとしなかった。
 ただ過去に二度だけ、長谷部はそれを口走ったことがあった。一度目は陰部を切り刻まれ蹂躙された時のことで、文字通りに身を犯す悍ましい激痛は長谷部から許してくださいという言葉を引き出した。二度目はへし切で首を切り裂かれた時のことで、あと僅かでも刃が進めば頚動脈が破られるというところになって、審神者の〝主命〟によって彼はとうとう死ぬのは嫌ですという旨の発言をしたのであった。
 しかし二度の出来事は、何れも長谷部の意思を介さないものであった。
 一度目はそれこそ酸素を吸ったら吐くというようなほぼ自動的な領域の話であり、許容量を遥かに超えた痛みを与えられたが為に反射的に引き出されてきた言葉であるというだけに過ぎなかった。況して二度目は〝主命〟だ。主である審神者によって命が下されれば、長谷部は機械的にそれを果たそうとする。そして其処に自分の意思を介在させようとしないのは、審神者もとうに把握しているところだった。
 審神者はずっと考えていた。長谷部に自らの意思で、夜毎揮われるその嗜癖と行為とを拒絶させる為にはどうしたら良いのかと。
 おそらく長谷部は死ぬことすら恐れていない。それが主の望むところであるのならば、彼は自分の命だろうと容易に差し出すことができる。だから仮にそれが凄まじい激痛をもたらすものであったとしても、決して死ぬことのない陵辱であれば耐えることなど造作もないのだろう。
 それこそが、審神者が今まで見落としていたところだった。

「其処へ座って」
 いつものように布団を指し示され、長谷部は大人しく腰を下ろした。皺のないシャツにスラックスとカソック、そして真っ新な白い手袋。私的な呼び出しなのだからカマーバンドまでは付けて来なくても良いと告げられており、長谷部はその言を従順に守っていた。ソックスガーターについても同様だった。
 上着を脱ぎ、シャツの袖を捲り上げて留めながら審神者は言う。
「今朝も寒かったね」
「は? ……あ、はい」
「だが紫陽花が綺麗に咲き始めている。君も見たかい」
「はい」
 困惑しながら答えを返す長谷部の脳裏に、何かがおかしいという予感が兆す。彼はいつしか己の主のことを知りすぎるほどに知ってしまっていて、今このタイミングで一見当たり障りのない、昼間にするような世間話を始めることに拭い難い違和感を抱いていた。そしてそれは、袖を捲られた腕の左だけが露わになっていることも拍車をかけていた。
 ――普段、主は肌を出さない。此処で無関係な話もしない。
「ある、」
「今日は其処から動かないように」
「え?」
 唐突な命令に長谷部は思わず身を乗り出してしまい、すぐさま今ので早速命令を破ってしまったのではないかと怯えた目をして見上げるものだから審神者は苦笑して少し距離を取った。
「身動きすらするなと言っている訳じゃない。私のところへ来てはいけないと言っただけだ」
 数歩先の距離で、審神者は小さなナイフを取り出した。普段長谷部の臓腑を切り分けたり細かいところを切り開いたりするのに使うような、ごく普通のナイフだった。それを右手で握り、審神者は真っ直ぐに長谷部を見下ろしている。
「さて」
 一度だけ深呼吸をし、審神者は右手を上げ、振り下ろした。
「……え?」
「ああ、浅かった。ほとんど血が出てこない」
「待って、待ってください、主」
 審神者の命令を思い出すまでもなく、長谷部の身体は金縛りにあったようにぴくりとも動かなかった。掲げられた審神者の左腕の、その前腕の内側に、幾つかの出血点を伴った赤い傷が付いている。
「何を、何をされているのですか?! とにかく手当をしてください、主!」
「嫌だ」
「は……?」
 呆気にとられている長谷部を他所にもう一度凶器が振るわれて、今度は切った途端にじわじわと暗血が滲み出した。
「……っ」
「主!」
「どうにも手加減をしてしまって良くないな。君相手なら遠慮なく刃を突き立てられるというのに、ね!」
 三本目はもっと深かった。普段見るのよりも幾分黒い血がぽたりと落ちて、畳の上に滴を広げた。長谷部は気も狂わんばかりだった。自分が傷付けられるのであれば幾らでも耐えられる、それが主の希望なのだから何だって耐えてみせると思っていた。だがそれも、虐げられるのが自分であるという前提が破綻していれば何の役にも立たない覚悟だった。
 こうして審神者が審神者自身を傷付けている時、長谷部は――その事実に酷く打ちのめされるほどに――全くの無力だった。
 言葉を失っている間に四本目、五本目が刻まれた。傷は次第に深くなっているようで、床を叩く血の滴の音が長谷部のいるところからでも鮮明に聞こえるようだった。
「……主」
「何?」
 長谷部の微かな呼びかけに手を止め、審神者は笑顔を向けた。だらりと下げられた左腕の指先から、少しずつ少しずつ、血が滴っては失われていく。
「何故……こんな、ことを」
「さあ」
「俺が、痛め付けるなら俺がいるではないですか」
「いるね」
「痛くは、ないのですか」
 何処か飄々とした態度で長谷部の言葉を躱していた審神者の目に、剣呑な光が一瞬だけ宿る。
「痛いとも、だがそれが何だと言うんだ? 君はいつも耐えている、なら私だってこの程度何でもない。違うか」
「違います……主は、主は人間です……」
 長谷部の言葉に審神者は声を上げて笑った。途端に痛みも何処かへ消え失せて行くようだった。試しに一度、まだ傷のない場所を切り付けてみるとただ圧力と熱だけがあった。――嗚呼、これは益々都合が良い!
「主、お止めください、主!」
「はは、止めないよ、あはは」
「主、俺が何か、無礼を働きましたか、それで……」
「怒ってなどいないよ、君は何も悪くないのに。可哀想だな、許しも乞えないなんて、ははは!」
 布団の上で蹲り、ただお止めくださいと唱えることしかできない長谷部を見下ろして、審神者は哄笑しながら左腕を掲げて見た。もう切る場所もないほどに傷だらけで、力なく血を垂れ流しながら見つめ返してくる。口の端が勝手に持ち上がり、審神者はナイフを左手に持ち替えた。
「次は右だ」
「主、駄目です、止めてください、主」
「止めないよ」
 審神者は笑い、長谷部の顔が絶望で塗り潰されていく。からん、という音が部屋へ響かなければ、或いはその心も折れてしまっていたかもしれない。
「……ん」
 不思議そうな顔で自身の左手を見、触れたり握ろうとしたりして、審神者は漸く事態に気付いたらしかった。
「神経まで切ったようだ」
 そして気怠げに右手でナイフを拾い、今度はシャツで覆われたままの左の上腕に宛てがった。
「まあ、此方で良いか」
「……主……」
「何、長谷部君? 今日もちゃんと言い付けを守っているじゃないか、感心感心」
「……そう、命じられましたから」
「それで?」
 両手をきつく握り締め、長谷部の全身は震えていた。焼けそうに熱い涙がぼたぼたと落ちてはシーツに吸い込まれる。主が今も傷付き続けているのに、自分は――たとえそれが主命だったとはいえ――何もできずにただ見ているだけで、怒りが湧かない筈がない。だがそれ以上に自分が情けなく、哀しかった。審神者の考えも理解できない、行為を止めることもできない、自分は無傷のまま離れた場所で眺めているだけ。……こんな、こんなことは、
「……嫌です」
「は?」
「もう嫌です、主が傷付くのを見ているのは、嫌です……」
「……」
 二度目の金属音がした。啜り泣く長谷部の前まで歩いて来て、訳の分からぬまま上げられた顔の藤色を見据えながら審神者は屈み込んだ。その顔は変わらぬ笑みを浮かべたままだった。
「どうしてですか」
「失敗だ」
 長谷部の問いには答えず、審神者は一言、そう言った。
「……?」
「これでは足りなかった。今日はこれで終わりにしよう」
 そのまま箪笥の中を探り、審神者は救急箱を取り出して消毒液を腕に撒き始めた。長谷部はこの期に及んでも布団の上から出るなと言われたことを律儀に守り続けていたが、審神者が思い出したように「もう動いて良いよ」と言った瞬間飛び出して、手当を手伝うことを申し出た。
「構わないよ。どうにも片腕だとやりにくい」
「……俺の時より余程深いではないですか」
「正気か? しかし神経までやってしまうとはね、感覚もないし動かし辛い」
「……」
 長谷部は無言でガーゼを宛て、包帯を巻き、シャツの袖をそろそろと下ろして釦を止めた。これでは本当に応急処置にしかなっていない。切れた神経がどうなるのか、傷はきちんと塞がるのか、手入れで全て事が済む長谷部には何一つ分からなかった。――もしこれで主の左腕が使い物にならなくなったら自分の所為だ、どう責任を取れば良いのか見当も付かない-そんな長谷部の不安を見透かしたような視線を向け、審神者は「まあ二、三日もすれば治る」と愉快そうに言った。

 包帯の下、肉が盛り上がっている傷口が痒くて仕方なかった。審神者は布団の中で何十回目かの寝返りを打ち、泣き叫びながら懇願する長谷部の何もかもをこれまた何十回目の反芻に載せていた。
 今まで自分が求めていると思っていたものは間違っていた。全てとは言わないが、少なくとも自分の行為への忌避を認めさせたいというのは少し違っていた気がした。ならば何を求めてこんなことを繰り返しているのか? 答えは甚くシンプルだった。
 だがそれには何を代償として支払えば良いのだろう。長谷部自身では勿論駄目だった。自分の身体を使っても駄目だった。もう他に思い当たるところがない。
 ああ、もしかしたら彼を棄てれば叶うのかもしれないな、そう思い付いた時には随分と遅い微睡みが漸く訪れていた。思考が次第に輪郭を失って、ぐにゃぐにゃと歪んだ夢の中へ取り込まれていく。きっと目が覚めた時には、この手段だって夢から取り出せなくなっているのだろう。
 朝はすぐにやって来て、長谷部が廊下から自分を呼ぶ声を審神者はぼんやりと聞いていた。眠りに落ちる直前、何か妙案を思い付いた気がしたのにすっかり忘れてしまっていた。

 二日後、長谷部は包帯とガーゼを捨てながら驚きを隠しきれない様子で言った。
「本当に、元通り治ったのですか」
「ああ、ほら」
 審神者は左手を握っては開いて見せ、傷一つない前腕を撫でて言った。
「数十年前、数百年前ならともかく、今の時代完全な末梢神経の修復と上皮組織の再生などそう難しいことではない。ちょっと町へ行って薬を買ってくればそれで済む。具体的には軸索と髄鞘の再形成や皮膚の幹細胞の増殖・分化を促進する転写因子を――」
 長谷部には審神者の話していることの意味がほとんど理解できなかったが、それでも二日前のような狂気は影を潜めているらしいことが見て取れたので一人胸を撫で下ろしていた。
 今回は何があのような惨事を引き起こしたのかも分からなかったが、ああ言った情緒不安定とでも言うべき奇行が極稀に審神者の身へ顕れては好き勝手暴れるのを長谷部も何度か体験していた。それは自分の所為かもしれないしそうじゃないかもしれないが、おそらくは自分の所為なのだろう、長谷部はそうも考えていた。
 ――であれば尚更、俺は主の御傍でお仕えしなければならない。俺の、主の為に。
「……それでその時、彼処の店に……長谷部君? 聞いてる?」
「え、あ、すみません、少し考え事を……」
「考え事? まあ良いか、それより後で一緒に出かけないか」
「はい、お供いたします」
 審神者は嬉しそうに笑い、長谷部もいつも通りの愛想笑いを浮かべた。その日の夜は、またいつもの行為があった。

 


 ***

 


 長谷部の主は、あまり感情を見せない人だった。全てを笑顔の下に覆い隠してしまって、本当に笑っているのかも定かではない。
(……珍しいな)
 何故か今日は心からの喜色を浮かべていることが判っていて、長谷部は審神者の言葉を半ば聞き流しながら、一体どうしたことだろうかと考えていた。
 勿論、審神者が心底喜んでいるということは長谷部にとっては寧ろ凶兆であって長谷部自身もそれは良く理解していたが、それでも自分の主が形だけでなく笑んでいるのだとなれば自然と意識はそっちを向いた。道具の性だろうか、と思う脳裏に悲哀はない。
「じゃあ私は見ているから」
 その言葉に意識が引き戻され、長谷部は慌てて審神者の顔を見た。見ているから、ということは長谷部が何かをしなければならないのに、その指示をすっかり聞き逃してしまっていた。
「主、申し訳ありませんが、もう一度仰っていただけますか」
 近侍として情けないという気持ちと「今日はもういい」と切り捨てられるのではないかという不安が長谷部の声を僅かに震えさせたが、審神者は特に気にする様子もなくあっさりと言った。
「君は自分で手脚を切る、それだけだ。何処で切っても構わないが、左右で揃えないように。分かったかな」
「はい」
 酷く簡単な主命だった。普段は主命など滅多に寄越さない-それは〝お願い〟や〝誘い〟という言葉に替えられていた-審神者が、珍しく自分に望んだことなのだから必ずや最良の結果を出してお見せしなくてはならない。長谷部の頭の中に、自分が受けることになるであろう痛みや苦しみのことは欠片も思い浮かんでいなかった。
 脚を伸ばして座り、手元に置いてあったへし切を手に取って静かに抜刀して、ふと思い至って顔を上げた。
「主」
「何か?」
「服は如何いたしましょう」
「シャツの袖は捲れるね? スラックスは仕方ないからそのままで構わない」
「はい」
 確認が取れたのでへし切をしっかりと握り直し、どうしたものかと長谷部は一瞬手を止めた。太刀や大太刀ほど刃長は長くないと言え、自分の身体を切り付けるには些か取り回しが悪い。だが審神者が今も真実に笑んでいたその残滓を拭い去らずに見てくれているのだから、いつまでもぐずぐずと迷っている時間はなかった。迷うことなく刃を振り下ろした。
「……っ、あ……」
 あと僅かの肉が切れず、振り下ろした刃は左の大腿に埋まったままで止まってしまった。滲み出した血だけがスラックスの紫紺にじわじわと広がっていき、噎せる鉄の臭いに焦った長谷部はその刃へ体重をかけた。硬く締まった大腿の筋肉がずるりと切り裂かれ、へし切は畳を叩いて青い傷を付けた。
 長谷部が息を荒げながら目を遣ると、左脚は大腿の半ばですぱりと切れていた。断面からリズムを打って噴き出す血液は脚をしとどに濡らし、肉も骨も脂肪も全て同じ色に染めていた。
 審神者が「仕方ないから」と言った理由も今の長谷部には飲み込めた。半ばで切り裂かれた服に覆われた身体というのは、思った以上に美しくはないものだった。肉体というよりも
物質という面を強く見せて、それは審神者が希求する長谷部という存在からは乖離したものにすら見えている。
 次は右脚を切ろうと決めていたが、その前に長谷部は一度へし切を置いて手の汗を拭い、手袋を付け直してからスラックスの裾を捲り始めた。審神者は表情を変えないままにおや、という顔をして事態の推移を見守っている。
 如何せん長谷部の身体にぴったり合わせて誂えられている為に膝下ぐらいまでしか捲ることはできなかったが、それでも下腿は完全に露出させることができていた。もう一度掌を拭ってからへし切を握り、長谷部はその刀身を翳した。部屋の灯りに皆焼刃が鈍く光る。
「う、っぐ」
 振り下ろしやすかったこともあり、今度は一刀で右脚がすっぱりと切り離されていた。すぐに血溜まりが広がり始め、暗血は審神者の呼吸を一瞬間止めた。長谷部は痛みに目が眩みながらも其処を検分する。右手で刀を揮ったこともあり、その断面は斜めになっていた。
 長谷部の知る審神者は、酷く几帳面で潔癖な性格であった。左右で切断の位置を揃えないこと、但し切断面は真っ直ぐ水平であること。それらを間違いなく守って初めて、長谷部は一点の汚れも残さない「良く出来たね」を貰うことができる。だから、そうしなくてはならないのだ。
 今度は目に見える程度の微笑みを浮かべ、審神者は長谷部の行為を見守っていた。つい今し方切ったばかりの脚へ再び慎重に刃を当て、そして一息に押し切る。ぱしゃり、と血を撥ねさせながら落ちた切片は、断たれた右脚を完全なものにしていた。
「……」
 狂おしいほどの食欲を――或いはその愛を――掻き立てるその肉から意識を逸らすのは審神者にとって非常な苦痛をもたらしたが、今にも長谷部が左腕を切断しようとしているので其方へ意識を向けることでいつしか肉片のことも気にならなくなっていた。
 腕の場合は真っ直ぐに差し伸ばしたところを両断する、という方法で一気に切断できると長谷部は気付いていたらしかった。丁寧に捲り上げられたシャツの下、引き締まった白い腕が浅く呼吸をする。部屋は静まり返り、時折落ちた血の滴のぴた、という音が小さく響いてはすぐに消えるだけだった。
 ――振り下ろすだけなのに、と長谷部は内心で焦燥感に喘いでいた。それが脚ではなく腕だというだけで、心臓が煩く脈打って集中できなかった。腕を失うのは初めてではない。何度も何度も切り落とされて、審神者はそれを見て嬉しそうに笑っていた。不具になった長谷部を。だがやはり腕は怖かった。脚とは決定的に違う、何かが-
 がんっ、とへし切が畳に突き立って、審神者は少しだけ肩を跳ねさせた。金属が唸る低い音、それを背後に長谷部の左腕がどさりと落ちる。追い立てるように血が降って、落ちた腕と長谷部のカソックとをぱたぱたと濡らした。
「あっ……ぐ、っう」
 残る右手でカソックの裾を鷲掴み、長谷部は身体の三箇所から上ってくる、灼けるような激痛に必死に耐えていた。痛みは脳まで駆け上って行き、脳髄を全て灼き尽くしてしまうような気すらしていた。主の手に因る行為でない所為だ、と長谷部は気付いていた。……痛い、痛い、助けてほしい、痛い、……。せめて主の言葉が、表情があれば、最後の一本も耐えられるのに。このままでは慈悲を乞うてしまいそうだった。それが近侍として-彼に求められている役割として、あるまじき行為だとは知っていながら。
 霞む目で審神者を見上げ、其処に何もない表情をして長谷部をじっと見ていることを認め、そして今日、一番初めに浮かんでいた表情を長谷部は思い出した。
 ――自分がやり遂げると分かっていて、主はただ待っていてくださる。
 痛みは消えはしなかったが、すくなくともノイズ程度までには遠くなっていった。血と汗で汚れた手袋を見る。一度握る。出来る、と思った。
 長谷部は突き刺さっていたへし切の柄を強く握り、引き抜いた勢いのまま己の胸へと刃を突き立てた。審神者が少しだけ目を瞠ったその様子も、今の彼の目には入らなかった。息を止めるようにして刀身を固定し、仰向けになった皆焼刃へと右腕を叩き付けた。
「……」
「……」
 肘の下に出来た肉色の断面を見、血に濡れて落ちている右腕を見て、長谷部は詰めていた息を長く吐いた。へし切がずる、と抜け落ちて長谷部の腿を叩く。それを見ていると妙な感慨があった。
「長谷部君」
 名を呼ばれ、長谷部が仰ぎ見ると審神者が眼前に立っていた。切れ端を手早く集めて部屋の隅に置き、へし切も其処へ並べて置くと長谷部に目線を合わせるように屈みこんだ。両手両脚、全てが綺麗に切り落とされていることを確認すると片笑んで言った。
「上手に出来たね」
「は、はい、ありがとうございます」
「特にこの……脚の方は長さの違いが大きくて、反対に腕は小さいのが、私の……。以前に話したことがあったかな」
「いえ、偶々かと……」
「そう」
 審神者は長谷部の頭を撫でた。元々あまり体温の高くない手が、過熱した長谷部の頭にはとても心地良かった。
「此処にね」
 撫でながら、審神者は左手で長谷部の胸元をなぞって言う。
「瑕を付けなければ、完璧だった」
「え、あっ……」
 右腕を切った時のことだ、と長谷部はすぐに理解できた。長谷部が自分で身体を傷付けることは許されておらず、許可が――それは即ち命令に等しい――あった場合でも告げられた箇所以外を傷付けることは良い顔をされなかったのだ。あの時の長谷部には他に手段がなかったとは言え、長谷部に与えられたのは「四肢を切り落とすこと」という命であった。であれば、無関係である箇所を傷付けた長谷部へ審神者が苦言を漏らすのも尤もなことだった。
「あ、主、申し訳ありません、次は必ず……」
「次?」
 審神者は可笑しそうに笑った。それは既に本心からの笑いではなかった。
「次など無いよ、君の思っているような意味ではなく」
 長谷部を抱き寄せ、腕や脚の断面をそっと撫でながら審神者は言う。
「自分で手を下せないことがこんなに辛いとは思わなかった。無論今日の君は本当に可愛かったし良く頑張ったけれども、私は自分でやる方がずっと好きだ」
「……はい」
 理解しようとした瞬間に散っていく言葉達に、長谷部は自分が失血しすぎたことを悟っていた。無駄に興奮しながら切ったものだから、出血量が多くなってしまったのだ。何をやっているんだろうか、という嘲笑すら上手く頬へ乗せられない。
「次は私にさせてほしい、ね?」
「……はい、俺も……その、方、が」
 一瞬だけ驚愕を顔に浮かべ、審神者は戸惑ったような微笑でそれを塗り潰した。
「その言葉も、君には許さない」
 既に長谷部は気を失っていて、審神者は幾らか軽くなった彼を抱え上げて手入れ部屋へと運んで行った。歩きながら、最中は表情を消しているように、と注文するのをすっかり忘れていたことを思い出した。それは審神者が元々そういう嗜好を持っていたからなのだが、しかしそれを言い忘れた結果がお預けを喰らわされた犬のような飢餓と渇望であったのだから、世の中何がどう転ぶか分からないものだった。
 ただただ自分の為に必死になっていた瞳を思い出す。前みたいに愛想笑いだけ浮かべてくれていたら良かったのに、という言葉も断たれ地へ落ちた。

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