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短篇集13

 夜闇だけがその部屋の惨状を見ていた。尤も、その部屋に窓はない。月影すら忍び込むことのできない場所に息を潜めるのは、闇だけに許された特権だった。
 腹から伸びる薄桃色の腸は長谷部の首へぐるりと巡らされ、腕力ではまず千切れないのを良いことにぎりぎりと引っ張られ続けていた。網目のように張り巡らされている神経は、引き摺り出された腸が憎悪を込めたかのような膂力で引かれる度に細いものから引き千切られていく。長谷部が痛みに泡を噴いたのは初めのうちだけだった。
 ぐっと押し上げるように喘いでは酸素を求める喉を、尚も容赦なく腸が絞め付け続ける。真っ赤に鬱血した長谷部の顔を睨め付けて、審神者は喜悦のうちに言った。
「苦しいかい」
 ただただ苦しい、としか考えられなくなっている-自分へ掛けられた言葉にも気付かないほど苦痛だけが脳内を埋め尽くしている長谷部から言葉が返ってくることはない。惨めにへこんだ胸が必死で膨らもうと足掻き、喉が大きく引き攣れて眼球は裏返りかけていた。
「……おっと」
 審神者はぱっと手を離し、長谷部は自分の小腸諸共床へ崩れ落ちた。急激に入り込んで来た空気へ大きく咳き込んで、肺は必死になって収縮と拡張を繰り返している。
「さて、もう一度だ」
 生理的に滲んでくる涙を拭う間も与えられないまま、長谷部は無理矢理に身体を引っ張り起こされた。審神者の両手が腸を掴み、再び長谷部の喉を絞め上げ始める。なけなしの酸素はすぐに消費されてしまい、長谷部はまた音もなく喘ぎ始めた。
 審神者は心底嬉しそうな顔をしていた。自分が今していること、その結末として与えられるものが待ち遠しくて仕方なかったのだ。
 長谷部はまた意識を飛ばしそうになっていた。慌てて手の力を緩め、審神者は彼を絞首から解放してやる。身を起こす気力もないらしく、長谷部は咳き込みながら横たわったままだった。
「どうにもこれは良くないな。君は苦悶しながら耐えることで頭がいっぱいで、私や他の痛みに気付いてくれない。方法を変えよう」
 審神者はへし切を手に取り、長谷部の身体を仰向けに返すと検分しながら彼へ――幾分か意識を取り戻していた――言った。
「しかし単に腕や脚というのでは、君はもう泣き叫びもしないからね。肉体としては新鮮な筈なのに、君は痛みに慣れ過ぎた。それなら何処が良いだろうね? 此処かな」
 ひょい、とへし切の刃先で持ち上げるようにして長谷部の股間をなぞる。長谷部の顔がさっと青褪めた。恐ろしいのは、審神者が含み笑いをしながらも舐めるような目で其処を余すところなく眺め続けていることだった。
「嗚呼、あの時の君は実に可愛らしかった。今でも思い出すだけで酷く昂奮するよ。だがあまりに発狂されるのも困るからね。……そうだな」
 巻き付いていた小腸を取り去って放り投げ、審神者は長谷部の細い首へ皆焼刃を当てた。身体を切り刻まれることには慣れてしまっていても、そのひやりとした感触だけは、何度味わっても慣れることができなかった。手脚の一本や二本失おうが、長谷部達刀剣男士はまだまだ戦える。しかし首は、頭や心臓と同じように、一度破壊されてしまえばもう審神者の力であってもどうすることもできない絶対的な弱点として存在しているのだ。
 刃が無言で押し進められ、長谷部と審神者の双方に、皮膚やその下の薄い筋肉が切れる感覚が伝わってくる。刃はそのまま総頚静脈を切り裂き、黒い血が滔々と流れ始めた。
「さて、このまま進んで行けば頚動脈に達するが」
「……」
 噎せ返るような鉄の臭いが長谷部の思考を鈍らせる。血。暗い血。静脈。致命傷ではない、そう教えられた。動脈は、赤い血。それは駄目だと。喉、動脈、気管、急所、死ぬ。死。
「君が嫌だと言えば私は手を止める」
「……、に」
「何?」
「御随意、に」
 それだけ言うと、長谷部は真っ暗な目をして擡げていた頭を落とす。審神者は憤懣やる方ない様子で畳にへし切を突き立てた。刀身を濡らしていた暗血が小さく撥ねる。
「ああそう」
 へし切は再び長谷部の首筋へと充てがわれ、じりじりと静脈の内壁を切り裂いて進む。通り抜け、僅かな結合組織を難なく通過した後、刃が触れたのは頚動脈の外壁だった。
「これを切ったら君は死ぬ」
「……はい」
「良いのか」
「主がお望みならば」
「……」
 全てを投げ出したように淡々と答える長谷部に審神者の声は苛立ちを隠せないものとなり始め、自然と大きくなっていく。
「……何故嫌だと言わない」
「……」
「今さっきまで唯々諾々と従っていたくせに」
「はい」
「嫌だと言えと言ってるんだ、死ぬのは嫌だと、殺されるのは嫌だと」
「主命ですか」
「……っ」
 長谷部は乾いた目で審神者を見ていた。この部屋で審神者一人だけが生々しい感情を持っていると知っていて、それをただ静かに観察しているだけの、夜闇と同じ色の目。
 へし切を握っているのと逆の手で、審神者は血に濡れて光っている長谷部の喉を掴んだ。片手では血に滑って絞めることもままならず、長谷部は依然凍り付いた視線を外さない。喉も肺も喘がない。
「言え、嫌だと言え! 言わなければ殺してやる、君なんか、君が……」
「主命とあらば。嫌です、主」
 長谷部の一言は全てを融かす呪文のように響き、審神者はそれを耳にした途端ずるずるとへたり込んで放心してしまったらしかった。長谷部の喉からへし切と審神者の手と両方が離れ、力なく畳を打った。部屋から一切の音が退いて行き、そして誰も言葉を発しなかった。
 最後の最後に手が滑ったらしく、長谷部の喉からは真っ赤な血がだらだらと溢れ出していた。確かめる為に触れた掌はべったりと深緋に染まり、長谷部はもう一度その手で喉に触れて気休めにしかならない止血をしていた。
 審神者はというと胡座をかいた姿勢で身体を丸めるようにして頭を抱え、ぶつぶつと独り言を言い続けているようだった。室内の静寂に負けないくらいの音量であった為、当然長谷部にはその内容を聞き取ることができず、代わりに彼は審神者の左手に切り傷が出来ていることに気が付いた。
「主、御怪我を……」
 声は無視された。或いは耳にすら入っていなかったのだろう。身を起こして審神者の元まで数歩を歩いて行き、眼前に屈みこんで「主」と声を掛けた。
「主、手当を致しませんと傷口が化膿します。主」
 手袋に滲み込みきれなかった鮮血がぼたりと畳を打つ。目の前で撥ねた赤に、審神者はゆっくりと目を上げた。顔色がみるみる白くなっていく。
「……君、頚を」
 声は掠れていて非常に聞き取りにくかった。
「ああ、これですか。俺は少々のことでは死にませんから、先に主を……」
「手入れだ、手入れをしないと」
 這うようにして部屋を横切り、審神者は包帯だのガーゼだのを取り出してきた。震える手で止血をし――無論それはほとんど用を為さないものであったが――少なくとも若干の猶予はもたらしてくれる筈だった。それとも、そうだと信じたかったのかもしれない。
 長谷部は腹から垂れ下がっている腸をできるだけ詰め込んで仕舞い、さっさと立ち上がると審神者へ手を差し伸べた。とにかく自分の手入れをさせないと主は御自身の怪我も手当をしてくださらない、長谷部がそう判断したのは間違っていなかった。たとえ怪我の程度が逆だったとしても、審神者は、ついさっきまで長谷部のことを殺そうとすらしていた審神者は、同じ態度を取っただろう。
「主、立てますか」
「……」
 茫然自失のまま審神者はその手を取り、余程重症である筈の長谷部に導かれるようにして手入れ部屋へと向かった。
「主」
「……」
「先程仰っていたことですが」
「……」
「俺なんか、何ですか」
「……」
「いえ、出過ぎた真似ですね。忘れてください」
「……」
 審神者は真っ青な顔をしてただ長谷部に付いて行くだけで、何一つ答えようとしなかった。その手は酷く震えていて、それが長谷部には少しだけ有難かった。
(主は本当に、俺の死を望まれていたのかもしれない)
 それは考えるだけで叫び出しそうになるほどの恐ろしい可能性だった。月明かりの下でさえ、小さく震える手は誰にも気付かれていなかった。
 生きていたいと願うよりも死にたくないと願うこと、それはきっと道具にあるまじき願望ですらあって、長谷部は今夜思い知らされたそれを決して口にはできなかった。彼の心にそれを刻み込んだ本人が何を望んでいるのかすらも、長谷部は知らないのだ。
 寧ろ審神者ですら自身が望んでいることをもう分からないのだろう、と長谷部は薄々感じていた。もしそうであるなら――いやきっとそうなのだ――長谷部はまだ死ねない、と何故か泣きそうな気分で自分へ言い聞かせた。
(結果的に、嫌だと言うのが正しかった)
 審神者はまた独語を続けている。長谷部は聞こえない振りをした。こうした心神を喪失したような状態の時の言葉を聞いたことが知れれば、審神者がどうなるかは想像に難くない。生きていてほしいのなら、何も聞かないのが一番だった。
 廊下には二人分の血痕が点々と続いていた。きっと明日には、これも全て消え去ってしまっているのだろう。

 


 ***


 朝だった。
 審神者は頭から布団を被って横たわり、長谷部はその傍でいつもの正座ではなく跪座で控えていた。
「考えていた」
 呻き声を湿したような声で審神者が言う。
「二人共辛くなると分かっていてどうして続けるのかと」
「俺は辛くありませんよ、主」
「痛がってるし苦しんでる」
 無闇に否定すると悪い方へ拗れそうだった。「はい」とだけ返し、長谷部はまた耳を傾ける。
「何故こんなことを続けているんだろうか」
「では止められますか、俺は主の御随意に」
「止めてその後は?」
 皮肉気に持ち上げられる口の端が目に見えるようだった。その声の調子からこの後の展開を――それは悪寒と同義だが――長谷部は察した。
「止めてその後はどうする? 他所の連中みたいに清く正しい恋愛ごっこでもするか、それとも爛れて堕落した獣の関係に成り果てるか? 君はそういうのがお望みか、良い趣味だ」
「……いいえ」
 流石に否定をしておいて、長谷部は考えを巡らせる。まるでクイズを解かされている気分だった。賭けられているのは誰の首だろう。
「俺は望んでいませんし、主もそうでしょう」
「なら何故簡単に止めるだの何だのと口にする?」
「それが、最善とは言わないまでも、今取り得る中では良い策かと……」
「どうせ考えていたんだろう、毎晩毎晩悪かったと言いながらそれでも君を虐げ続けるのは道理に合わないと」
 長谷部はどきりとした。自分が考えていたことを、彼の主である審神者がとうの昔に考えていなかった筈がない。そもそも彼の思考は全て審神者によって形成されたと言っても過言ではないのだ。
「止めようとしたよ、何度も。徒労に終わったがね」
 何故だか分かるかい、と問いたげな沈黙に長谷部は首を振り、小さく「いいえ」と呟いた。重ねるように乾いた笑いが響く。
「煙草を止めようと言うのに手元に煙草を置いておくような馬鹿はいないだろう」
「それは……いや、まさか、待ってください、主」
 あははと声が上がり、布団の塊がゆらゆらと揺れる。審神者が殊更に気を病んだ時にしか、こんな笑い方は聞かれなかった。
「君を手放せばそれで事は済む。身体でも心でも構わない、私の下から離れていけばそれで何もかもが終わる。だが君は此処に居て、私は君のことを愛し続けているのだから、これ以外の関係なんて到底望めないんだよ」
「そんな……俺は……」
「君を無理矢理縛り付けておいて、今度はそれが自分を苦しめているんだからこんなに可笑しいことはないな! 君が私を嫌いだと言えばそれで全て片がつく、だが君はそんなこと言えない。言えば私がどうにかなってしまうと、そう思い込ませたのは他でもない私なのだからね」
 審神者は哄笑し、その一方で俯いて、長谷部は言葉を失っていた。被虐に耐えるのは全て主の為だと思っていた。いや、それは決して誤ってはいないのだろう。ただ心の僅かな片隅に、自分だけを特別視してくれている、そんな関係を失いたくないという気持ちがあったばかりに彼は依存し依存され、そしてこの態度が二人の関係を歪ませ、拗らせ、二度と解けないようなものにしてしまうなど、長谷部には思いも寄らなかっただけだった。
「ほら、止めましょうと言ってご覧よ。私のことなど嫌いだと言えば良い」
「……そんなこと、言えません」
「どうして? まあいい、方法はもう一つある。私が死ねば全てお――」
「駄目です!」
 勢いよく立ち上がった長谷部は荒い息を吐いた。
 その時を図ったように、ぐしゃぐしゃになった布団の一端から審神者が顔を覗かせ、何ともないような顔をしてけろりと言った。
「――とまあ、こういうことを考えていた」
「……」
 きつく目を閉じるようにして涙を引っ込め、長谷部はぐっと唇を噛んだ。
「何処までが真実ですか」
「君はどう思う?」
 この期に及んで揶揄するような口ぶりで審神者は言うが、長谷部には何より明白な事実だった。――今知らされたことよりは遥かに単純だ。分かっていた。
「……置いていかないでください、主。後生ですから」
 矜持を半ば捨てて告げられた言葉に、歪に持ち上げられた口唇は正解だと語っていた。
「君はそれで良いのか」
「……俺だけが傷付き苦しむ方法があれば、俺は真っ先にそれを選びますのに」
「それは私が許さないよ」
 掠れた笑い声を上げ、審神者はもぞもぞと布団から這い出した。何故か日中に着用しているようなシャツとスラックスとを着ており、当然の如く上も下も皺だらけになっていた。
 審神者は悄然と立っている長谷部を一旦寝室から追い出し、皺のない新しいものに着替えてからさっさと執務室へと出て来た。立ち尽くしている長谷部へ「さ、朝食の時間だね」と声を掛け、その脇をすり抜けて部屋を出る。
 すれ違いざま、長谷部の耳元に落とされた言葉は「愛してるよ」だった。


 ***
 

 本丸の敷地には寺社仏閣の類は存在しなかった。当然といえば当然かもしれないが、中には自室に小さな神棚を拵えている男士もいるのだと審神者はいつだったかに聞いたような覚えがあった。
 それでもあるのはあくまで寺か神社だ。教会、或いはモスク、そういった建物は此処で暮らす誰にも必要とされず、従ってその単語すらも此処では存在しないのだった。
 教会での、二人きりのささやかな誓い。少なくない数の人間が――特に女性が――夢見たであろうその光景も、此処では何の意味も価値も可能性も持たない。長谷部とて、そもそもカトリックの司教か何かのような格好をしているくせに本人には信仰心というものは全く存在しなかった。多分に審神者の影響があるとはいえ、カソックとストラのような服を着たまま平気な顔をして「神など信じていません」と言うのだ。
 審神者自身も神やそれに類するものの存在は否定し嫌悪していた。曰く「神がいるなら自分の下に長谷部君を遣わす筈がない」ということで、そういう訳だから二人とも信心というものとはさっぱり無縁だった。

 庭をぶらぶらと散歩しながら、審神者はふと花を摘んでほんの小さな花束を作り始めた。数センチほどの大きさしかない青い花をせっせと摘み、ポケットを探って取り出した輪ゴムをぐるぐると巻きつけて束ねている。
「宜しいのですか?」
 長谷部が控えめに訊いた。この青は、審神者が大層気に入っていた花だ。まだ綺麗に咲き誇っているそれを摘んでしまうのは、何だか勿体ないような気がして思わず口を挟んでいた。
「うん……これだけで良いんだ」
 片手ほどの大きさのブーケが出来て、審神者はちょっと摘んで引っ張っては形を整える。確かに綺麗な青だ、と長谷部は思った。――主には赤以外の色が似合う、と。
「御部屋に飾られますか」
「……そうしようか」
 返事には妙な間があったが、長谷部はそれに気付かず、また審神者が「そうしようか」と言ったことの意味にも思い至らなかった。
 たった今見ていたばかりの夢を諦めきれず追い縋るように、審神者は今思い出したという体を装って言葉を放った。
「長谷部君」
「はい」
「此処には寺社もないし、教会もない」
「はい」
「それに……君も私も神とかいうものを信じていない」
「はい」
「……。……つまり、何処で願いや祈りや誓いを口にしても、良いということなんじゃないか」
「そう、ですか?」
「ちょっと思っただけだよ」
 うん、もう戻ろうか、と促して、長谷部は促されるままに部屋へと歩き始める。その背が完全に此方を向いたことを確認して、審神者は青いブーケを地面に落とし、ばらばらになるまで踏み付けて躙ってしまった。無残に千切れた花弁が地面を濡らしている。
 ――何も本気で考えていた訳ではない。当たり前だ。そんなこと不可能に決まっているし、そもそも自分は本当にそれを望んでいる訳じゃない。ただのごっこ遊びだ。ああそうだ、恋人ごっこ。普段から何の価値もない愛を長谷部に向けているじゃないか。言葉にしなくて良かった。本当に良かった。
 ただ稀に、本当にごく稀に、普通の幸せが欲しくなることがあるというだけの話だった。審神者が望みさえすればきっと長谷部は応えてくれるであろうその望みは叶えられるべきではないものなのだと、そう正気を取り戻し、長谷部は部屋へ戻り、花はただのゴミになった。
 死は二人を分ち、それまでの二人は誓いによって縛られる。縛鎖が欲しいのなら、誓いなど立てずとも既に在る。
 審神者は惨めだった。踏み躙られ土に還らんとしている青い花弁よりもずっと惨めだった。

 

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