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短篇集12


 目を覚ました長谷部へ向かって、審神者は
「死んでしまったかと思った。心配したよ」
と少しも心配そうではない顔をして言った。
「今日はやり過ぎた」
「……いえ」
 腹から引き摺り出した臓器を少しずつ少しずつ噛み千切られては飲み込まれるくらい、長谷部にとっては――つまり、慣れという意味で――大したことはなかった。偶々出血量が多かったとかそういう理由で、手入れに時間が掛かっただけだった。その所為か、眠りは些か普段と違ったものになった。
「……」
「長谷部君?」
「……夢を」
 頭を押さえながら長谷部は言った。
「誰かが出てきて、……会った、ような」
「ふうん」
 審神者は興味のない様子で相槌を打った。
「臨死体験という奴かな」
「臨死……?」
「死後の世界の一歩手前、或いは門の、或いは河の、或いは輪廻の。其処へ行った」
「門、河……あの世のことですか」
「ああ」
 長谷部が身を起こしても審神者は相変わらず退屈そうで、長谷部の方を見ようともしなかった。
「あの世、彼岸、天国、極楽浄土、神の国、霊界、何でも良い。死んだ後に向かう場所。だけど君が行ける筈はない」
「……はい」
 告げられた言葉に俯く長谷部とは対照的に、審神者は肩を揺らして笑い始めた。
「君が行ける筈のない場所なのに其処で誰かと会う、いやそもそも其処へ行くこと自体可笑しな話じゃないか。まだ寝呆けているのか」
「……ですから、夢だと」
「夢ねえ、まあ良い。どうせそんなものは存在しない」
「……ないのですか」
 恥ずかしさに赤くなっていた顔をそろそろと上げ、長谷部は審神者を見る。目は合わなかった。
「ないよ。ある訳がない。死というものを恐れた人間が拠り所とする為に作り出しただけだ」
「……」
 主がそう仰るのであれば、そうなのだろうか。きっと生きている人間は誰も見たことのないそれを、存在などしないのだときっぱり切って捨てた。……主がそう仰ったのなら、そうなのだ。
「残念だったなあ」
 審神者が変に間延びした声でそう言う。今は腕を組んでじっと足元を見つめ、爪先で畳を掻いて遊んでいた。
「死ねば救いがあると分かっていれば、君も少しは楽になれただろうに」
「何故です? 俺に彼岸はないと……」
「仮定の話だよ。あの世が存在し、君は此岸から解放されて其処へ行くことができ、誰かに会う。今の暮らしよりは魅力的だろう?」
 にっこり笑って審神者は漸く長谷部の顔を見たが、困惑した長谷部でもその笑顔が嘘そのものでしかないことは容易に見破れた。それもつまりは慣れだった。
「それでは主命を……」
「君は救われたくないと?」
「主と共に在ることが俺の救いです」
 長谷部のその言葉を聞いた途端に審神者は先までの憂愁は何処へやら、という勢いで笑い転げたので、長谷部は目を瞠って黙り込んだ。黙っていても審神者は勝手に喋り続けてくれた。
「わ、私が言うのならともかく、君が、そんな風に、はは、君は頭は良いのに、っふふ、物を知らないな。あー、あーおかしい、いきなり何を言うかと思えば、はは……まあ良い、今覚えてくれればそれで構わないよ。あの世はないし、現世にも君の救いはまだない。分かったね?」
「何故そう仰るのですか」
 長谷部は知らずのうちに目に涙を浮かべていた。自分の救いは間違いなく主あってのものだと、主なくして自分は救われないと、彼には根拠のない自信があった。しかしそれは間違っていると、それどころか抱くことすら許されない考えなのだと他ならなぬ審神者本人から宣告されたのだ。
「俺は、俺は……主と……」
「駄目なんだよ。私は君によって救われている、それは事実だ。だが君にとって私は救済を与える存在ではない。あってはならない。君は気の毒だ、現在(いま)にも死後にも希望を抱くことができない。可哀想だ」
「……主は」
 震える涙声で長谷部は言った。
「主は、俺に救われていると、仰るのですね」
「そうだよ」
「であれば、俺は……俺はそれで」
「だがそれは私の望むところではない」
 自分の言葉に割り込むようにして告げられたのは、今度こそ長谷部の心を折る一言だった。
 望むべきではない、と言ってやれば良かったかななどと考えながら、審神者は咽び泣く声を聞いていた。救われたくないとは一言も言っていない。救われていたかった。他でもない長谷部に。一人救われないままの、長谷部に。
 布団に身を伏せて本格的に泣き始めた長谷部を一瞥し、審神者は手入れ部屋を出て行った。その背中は甚く億劫そうだった。

 


 ***

 


 審神者が隠れているのは厨房の一角だった。蹲り、片目で覗く先には長谷部と燭台切が座っている。
「おい」
「ん?」
「主は何処だ。俺を呼ばれたのだろう」
「ああ、うん。もう少しで来るよ」
 長谷部にばれないように燭台切がちらと視線を送り、審神者は小さく頷いてそれに応える。やれやれ、と内心だけで肩を竦め、
「長谷部君」
「何だ」
「主のこと、どう思ってる?」
「何故お前がそんなことを訊く」
「何でって……ちょっと気になっただけだよ」
 まさか主直々に頼まれたのがそんなことで、その際小一時間にわたって長谷部の何処が格好良いとか可愛いとかを気が遠くなるほど聞かされたのだとは言えなかった。笑顔で何とか誤魔化して、どう思うの? と答えを促す。
 そんな燭台切の苦労はお構いなしに、長谷部はハッと思い付いたような表情を閃かせ、眉を顰めて「おい」と言った。
「お前、まさか主に……」
「ちょっと待って、僕はそういうんじゃないから。ほら、長谷部君はいつも主と一緒にいるし、どうなのかなと思って」
「……」
 疑念を抱いたままの顰め面で長谷部は燭台切をじろりと睨み、渋々口を開いた。
「主には絶対漏らすなよ」
「分かってるよ」
「主は……」
 言葉は次第に非常な小声となり、燭台切は顔を寄せなければ聞き取れないくらいだった。
「なるほどね」
「絶対言うなよ」
「分かってるって」
 とは言え微笑ましさに頬が緩むことは避けられない。物陰から片目を覗かせた審神者が怪訝な顔をしているのが窺える。ほんの僅かな悪戯心が燭台切に萌す。
「主が長谷部君のことをどう思っているか、訊いてみたくはない?」
「それは……」
 長谷部はかなりの間逡巡していたが、少しだけ口を尖らせて唸った後で小さく言った。
「少しだけ、気になる」
「僕が訊いてみようか?」
「本当か?! ……いや待て、お前何か企んでいないか? やはり主を……」
「違うってば」
 燭台切は物陰へ向けてくすくすと笑う。黒々した影の中、審神者が半端なく焦っている様子が伝わってくる。たとえ後で嫌味を言われたとして、この面倒な、郵便屋とも手紙ともつかない役割を果たしたのだからそれくらいは許されて良い筈だ。
 彼がそんなことを思ったのも一瞬のことで、
「それなら燭台切、お前には明かしてやるが、主の素晴らしいところはだな……」
 その後一時間だか二時間だか長谷部による主語りを延々聞かされる羽目になって自分の思い付きを大いに後悔し、そして審神者はその間、厨房の狭苦しい隅っこから一歩も動けなかったのだった。

 


 ***


 午後、執務が一段落付いて休憩中のこと。茶を注いだ湯呑を審神者へ手渡し、一口飲んで息を吐いたのを確認してから、長谷部は口を開いた。
「主」
 審神者は目顔で応える。其処に続きを促す表情を読み取って長谷部は続けた。
「一つお尋ねしても宜しいですか」
「うん、何かな」
 湯呑を置いてから手を後ろに突いて足を伸ばし、息抜きの為の体勢を取る。長谷部は自分だけが見ることのできる、審神者のこうした気の抜けた姿が好きだった。それを言うと休憩中もきっちり気を張った姿勢しか見られなくなりそうだったので、何も言わなかったのだが。
 それはそうと、質問だった。
「主の誕生日というのを知りたいです」
「誕生日? 何故」
「何故……それは、誕生日というのは、お祝いをするものだと読みましたので……」
「え? ああ、こないだ渡した本か……。いいよ、そういうのは」
 長谷部は面食らった。審神者が見繕ってくれた人間の生活や習慣について書かれた本には、誕生日というものの持つ意味と家族が揃ってそれを祝っている楽しそうなイラストとが載っていた。誕生日を祝いたいと申し出れば、当然審神者も喜ぶのだろうと思い込んでいたのだ。
 そんな長谷部の内心を知ってか知らずか、審神者は一人で言葉を続けている。
「君の誕生日は私が此処へ来た日と同じだから、毎年その日にお祝いをしようか。君はケーキが好きだったろう、誕生日にはホールケーキを買ってきてロウソクを立てるんだ。……ああ、もしかしたらそれも書いてあったかな。君と二人で祝うことができれば――」
「あの」
 長谷部が思い切って話を遮る。特に気分を害した様子もなく、審神者はどうしたのかと目線で問うていた。
「何故そう仰るのですか、俺は主の誕生日も一緒に祝いたいです」
「うん、ありがとう。でも私のことは構わないで良いんだよ、生まれたのがいつかも知らなくて良い」
「どうして……」
 それでは自分の生まれた日を祝われたところで素直に喜べない。審神者はいつの間にか頬杖を突いて長谷部の顔を見ており、小さな溜息を吐くと淡々とした口調で言葉を投げた。
「誕生日を知らないんだよ。親の顔も知らない。本当の名前も知らない。意味が分かるかい」
「……?」
「孤児だったからね。教えたくとも、そもそも君へ教えるものがない」
「それは……」
 長谷部は戸惑ったような表情をして目を伏せ、何かを言おうとして何も言えなかった。当たり障りのない、例えば「大変でしたね」などといった言葉を口にできるのは、そのような定型を介したコミュニケーションを経験してきた人間だけの特権だ。長谷部の生きている環境にはそれを経験するだけの社会が存在しなかった。
 聞かされた側だというのに深く傷付いたような沈痛な面持ちの長谷部を見て審神者もまた彼の顔から目を離し、気不味そうに一言言った。
「冗談だよ」
「え」
「そう言えば諦めるだろうと思って嘘を吐いた。自分の誕生日がいつかは知っているし、勿論名前も生まれた時に付けられたものだ」
 其処で長谷部の顔を一瞥し、
「どちらが幸福かとか不幸かとか、そういう話をしている訳じゃないよ」
と付け加えた。長谷部は頷く。
「名前も生年月日も隠し立てしている訳じゃないが、ただ君には知ってほしくないと思っているだけだ」
「何故ですか、俺以外には教えても構わないということですか」
「まあそうだな」
「……どうして俺には……」
 俯き、膝の上に揃えた両手をきつく握り締める。自分だけが知っているのならともかく、自分だけが知らされないなんて、そんなのは求めているものとは違う。主の唯一になりたいのではない、一番になりたいのだ。……その願いを、審神者が知る由もなかったが。
「君は私のことを知りたいと思っているんだろう」
「……はい」
「君だけが知っていることが幾つもあるだろう。執務中なのにだらしない姿勢をしていることとか、しょっちゅう茶を飲んでいることとか、つまり、君以外は私が本当はどういう人間なのか知らない」
「でも、俺だけが知らないこともあります」
「うん、それで良いんだよ。君が知っている一番大きなこと、それはあまりに異質すぎる。そうだろう? そんな人間に、これ以上踏み込んではいけない」
「俺は構いません、何を知ろうが主は主なのに」
「私が嫌なんだよ。君を愛しているから、余計に」
 長谷部の胸の奥がずきずきと痛み、我知らず湧き上がってきた怒りはどうして、というものだった。――主は、あまりに我儘だ。俺を傷付けたくないと言って、真には御自分が傷付くのを恐れて俺を傷付ける。こういう葛藤にも名前が付いていると、審神者から借りた本で彼は読んでいた。
 審神者は素知らぬ顔で長谷部を見、また顔を逸らし、今度は幾分作ったような不愛想な口調で言った。
「まあ、私も自分のことを皆へ進んで明かす訳ではないし、……〝主〟としての私が生まれたのは此処へ来た日のことなのだから、……君が祝いたければ、その日にすれば良い」
 怒りと嘆きは瞬時に霧散して、長谷部は勢いよく背筋を伸ばして「はい!」と答えた。
 踏み込ませたくないと言いながら、審神者は結局は全てを許してくれる。長谷部はそのことに無意識のうちに気が付いていた。後で深く傷付くのは自分だと分かっていながらそれでも長谷部を傷付けないことを優先するその人を長谷部自身は何とお優しいことか、と半ば陶酔と崇拝の対象のように感じていたが、そもそも彼は謂れの無い陵辱をその身に受けているのだ。その事実を忘れ去ったままで主、主と慕い続ける長谷部のことを、審神者は心底案じていた。
 ――そうと分かっていながら誤った道を選び続けてしまうのだから、真実自分だけは救いようがない。
 審神者は自分にだけ都合の良い自己嫌悪に浸り始め、その黒い澱を長谷部に気取られぬように作った声を出した。
「じゃあその日は、午後のおやつの時にケーキを食べることにしようか。皆にも買って行くつもりだが、私は君と二人で、此処で……」
「はい、主がお好きなものを選んでください!」
 長谷部はやたらに明るい声で言った。
「いや、君が好きなやつを……」
「いいえ、と言いたいところですが、俺に良い案があります」
「ん?」
「俺はチョコレートのケーキが好きです。主は何がお好きですか?」
「……苺の載ったやつ」
 しまった、つい答えてしまった、と審神者が思ったのも後の祭りだった。長谷部はその意味するところに気付いていなかったが、気付いていようがいまいがまた一歩を踏み込ませてしまったことには変わりがない。
「では苺の載ったチョコレートケーキにすれば完璧だということですね」
「……はい」
「楽しみですね、主」
「うん」
 長谷部の憂愁は晴れたようだったが、審神者はひたすらに気が重かった。毎回今度こそは、と思い、そして毎回何もかもを悪い方へ転がしてしまう。
 就任一周年のその日、絶対に言おう、と心に決めて、審神者は長谷部の話へ相槌を打ち始めた。
 何もかも、全て忘れてくれと。

 


 ***

 


「オムライス?」
 素っ頓狂な声を上げたのは審神者だった。意に介さず、長谷部は真面目な顔で頷く。
「はい、主」
「いや、好きだよ、好きだが何故」
「主がお好きなものをお作りしたいと思うのはいけないことでしたか」
 長谷部の声に冗談の響きはなかった。そもそも彼は冗談など口にしなかった。審神者が――これもまた滅多にないことではあったが――何か冗談を言ったとしても、曖昧に同調して主以外の全てへ冷笑を浮かべているのが長谷部だった。
「駄目だとは言っていない、ただ理由が知りたいだけだ。食べたいなら自分で作るし、君が食べたいのであっても私が作れば済む。わざわざ君が作る必要などないだろう」
 諭すように向けられた言葉にも長谷部は唇を噛むだけで、二人の間には暫し沈黙が流れた。
 長谷部がここまで強情になることは珍しかった。いつもなら「しなくていい」「必要ない」と言われれば即座に「はい、主」と答えて話は其処で終わっていたのだ。審神者はすっかり参ってしまって困惑した表情を浮かべていたが、幸いと言うべきか長谷部はそれにも気付いていないようだった。つまり、彼はただ審神者の言葉だけを待っていたのだ。
「……」
「……」
「……」
「……分かった、分かったよ」
 結局折れたのは審神者の方だった。深い溜息を吐き、乱暴に頭を掻いて長谷部に向き直る。
「此処の隣にも台所があるから使うと良い。材料は……光忠君に言っておくから、向こうから取って来て……」
「主」
「それを――え、何?」
 長谷部は真剣そのものといった顔で身を乗り出す。審神者は思わず半身を引いた。
「厨房は向こうのものを使います」
「あ、ああ」
「材料のことは燭台切に訊けば宜しいのですね」
「まあ、歌仙さんでも良いけど……君の好きに……」
「承知しました」
 言うなりがばりと立ち上がったので、審神者はもう少しでひっくり返るところだった。長谷部にはもう厨房しか、そしてその向こうで輝くオムライスしか見えていない。
「それでは失礼します、主」
 長谷部は言うが早いか頭を下げ、目にも止まらぬ速さで部屋から出て行った。
 審神者は暫くの間硬直していた。

「……それで結局、君の手を煩わせてしまっているという訳だ」
 燭台切はそれを笑って受け流した。
「僕なら大丈夫だよ、後ろで見ているだけだからね。突然どうしたのかと思ったけど、何かに影響されたのかな」
「もしかしたら、先日貸した本にそういうシーンがあったのかもしれないな……」
 審神者は今日何度目かの溜息を吐いた。重い気分と痛む頭とを引き摺って台所へ来てみれば「主は入らないでください」とどう見ても長谷部の字で書かれた紙が貼ってあり、その後一時間ほど廊下で暇を潰していた。通りがかった鶴丸や堀川は一瞬驚いた顔をしたが、用を済ませて台所から出て来ると何もかも理解したと言わんばかりの微苦笑を向けてきた。審神者も都度諦めたような笑みを返していた。
 一時間後、漸く出て来た長谷部は審神者を見て驚いた顔をしていたが、そそくさと自室へ戻って行ってしまった。後から姿を現した燭台切は――あの状態の長谷部を相手にするのは相当に骨が折れることである筈なのに――嫌味のない笑顔で審神者を労った。
 二人はそのまま、台所で茶を飲んでいた。
「惨状を覚悟していたが、別に散らかってはいないな……」
「そこはほら、長谷部君だから。片付けまで完璧にしないと主に召し上がってくださいなどとは言えない、って」
「……」
 一度は治まった頭痛がまたぶり返していた。――真面目なのは知っているが、何もこういうところで発揮しなくて良いのだ。もっと自分の為になることに、そう、例えば自分の好きなものを作る為に練習するとか、そういうことに労力を割けばいいものを、何だって――
「主?」
 頭を抱えて動かなくなった審神者へ燭台切が声を掛ける。温い不安と気遣いの肌触りが、いつもと違って奇妙な気分だった。
「……ああ、すまない、少し考え事をしていた」
「まあ、長谷部君のことは僕に任せてよ。彼が納得いくレベルになるまで後ろで見ているだけだから、そんなに大変なことでもないしね。食材も心配いらないよ」
「ありがとう。本当に申し訳ないな、君には色々と……」
「良いって。役得もあるしね」
「役得?」
「君達が良い主従だって分かったり」
「……」
 審神者は口を噤んで押し黙った。先日の、長谷部から本音を聞き出してもらおうと策を講じた一件のことだった。燭台切は二人のそれぞれから、互いに関する自慢話のようなものを数時間にわたって聞かされ続けたのだった。
「……意趣返し」
「嫌だな、そんな格好悪いことしないって分かってるだろう? 君達、良く似ているよ」
 燭台切は綺麗に微笑んで自身の主を見る。
「……似てなどいない、光忠君こそ分かっているだろう」
 何処か憔悴した審神者の言葉にも、燭台切は笑みを返すだけだった。

 幸か不幸か、審神者の頭痛と胃痛は三、四日で終わった。
「主!」
 執務室の障子戸を開けるなり長谷部が叫ぶように言う。
「……何か?」
 端末を文机に置き、審神者がのろのろと顔を向ける。長谷部は珍しくカソックを脱いでいて、シャツの袖も肘の辺りまで捲られていた。
「厨房へいらしてください!」
「……執務」
「後で俺もお手伝いしますから!」
 机上の端末を見、長谷部の顔を見、それからもう一度端末を見て、審神者はこれまたのろのろと立ち上がった。
 厨房には誰も居なかった。長谷部だけがいそいそとフライパンだの皿だのを用意し、刻んでおいたらしい玉ねぎや鶏肉を炒め始めている。火加減を見つつ手際よく調味料を加え、其処へ落とされた真っ白なご飯はあっという間に眩しいオレンジ色に染まる。別のフライパンで卵を半熟に焼き、出来上がったチキンライスをくるくると巻いて皿へ移した。全て審神者が唖然としている間に終わってしまった。
「主、何を描きますか?」
 気が付くと、ケチャップのボトルを持った長谷部がテーブルを挟んで前に立っていた。
「何……ああ、ケチャップか。いいよ、適当で」
「……」
「……桜とか」
「はい!」
 長谷部は大喜びで桜の花びらを描いている。「はせべ」とか描かせたら良かったかなあ、と考えるのは最早現実逃避に近かったが、しかしなけなしの理性をどうにか働かせることができた。
「主、お納めください!」
「ありがとう」
 随分と見苦しく抵抗してきたが、結局は諦めてスプーンを取る。一口食べ、二口食べ、最後まで何も言わないままで審神者は食べ進めた。そっと置かれた銀色のスプーンがことり、と音を立てる。
 審神者は何も言わなかった。
「……主、如何でしたか?」
「美味しかったよ。数日でここまで出来るようになるとは思わなかった」
 問いかけに答え、審神者はまた無言に戻る。
 いっそ形が悪いとか味がおかしいとか、失敗作であれば心はもっと楽であったに違いない。頑張ったな、と褒めてやり、長谷部がもっと練習しますと返し、それで平和だった筈だ。ところが長谷部は完璧に仕上げてきた。手際は良く見た目も味も完璧だった。だからこそ、審神者には相当な恐怖だった。
 長谷部が腹の奥に隠し持っている思惑を、自分は微塵も知り得ていないのだ。
「あの、主?」
「ん?」
「これからは、オムライスが食べたくなった時はいつでも俺が作ってさしあげます」
「……ああ、ありがとう」

 散々手伝ってくれた光忠君にも振る舞ったらどうか、という審神者の提案は「嫌です」の一言で素気なく却下された。曰く、主の為だけに練習したのですから、と。
 言い聞かせる気力もなく、仕方ないので自腹を切って用意したスーツの仕立て券を携えて燭台切の部屋へと向かった。
「お礼なんて良かったのに。でもまあ、折角主が用意してくれたことだし貰っておくよ」
「今回の件では迷惑をかけた」
「オムライス、美味しかったかい?」
「ああ、それは、勿論」
「そう、良かった」
「……光忠君」
 何処となく畏まった様子で審神者が言う。
「長谷部君は、あの時、何て言った?」
「あの時? ああ、主のことをどう思うかって? ちゃんと教えたよね?」
「……君、何か隠してないか」
「隠してなんかないよ」
「……そうか。邪魔したな」
 審神者は立ち上がり、部屋を辞す。燭台切が零す独り言を聞くものは誰もいない。
「長谷部君に、あれだけ口止めされたらねえ」

「俺は、主のことを、」

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