Sausage Factory
短篇集11
「……今何て?」
聞いていなかった。
「好きです、と」
聞かなかったことにした。
空になった湯呑を往生際悪くいつまでも口に当てていると、「主!」と詰るような口調で呼ばれたので渋々口を離した。
「何だよ」
「俺が申し上げたことを聞いていらっしゃいましたか」
「聞いてない」
「主」
「あーあー、聞いてました」
急須を手に取ろうとしたら取り上げられて、長谷部はお代わりを注ぎながらも俺に向かってぎゅっと口を結んだ。
「聞いていたのですね」
「ああ」
「言葉の意味が分かっているのですか」
「長谷部が発した音声のことであれば一字たりとも欠くことなく聞こえてたし、その内容が意味するところも理解してる」
「……でしたら何故平然としていられるのですか」
「俺が理解しているのは『長谷部が俺に対して好意と定義される感情を抱いている』ということであって、それはあくまで理解しているだけに過ぎないから」
「……」
唖然としている長谷部から湯呑を取り返し、一口啜った。美味しい。
萌黄色の水面を眺めながら俺はもう一言付け加えた。今長谷部の顔を見るのは何となく面倒なことになる気がして避けたかった。
「今度は俺が訊くけど、それでどうしたいの」
「え?」
「俺に好きだって言って、それでどうしたいわけ? どうしてほしいんだよ」
「……」
顔を見ずとも、眉を下げて唇を引き結んでいる表情が見えた。いつもそうだからな。
「長谷部が望むなら、俺は正しい〝恋人〟としての振舞いをすることはできるよ。長谷部の好意が定型なら俺が返すべき言動も定型で良いんだからな」
「……」
「でもそういうことじゃないだろ」
「……はい」
「だったら今は無理だし無駄だよ」
飲み終わり、今度はすぐに顔を上げると長谷部は完全に消沈した様子だった。飽きもせず何度も何度も同じことを繰り返す根気には、少しだけ感服する。
そういう訳なので、俺は親切心からの忠告を一つしてやることにした。
「長谷部」
「……はい」
「簡単に好きとか言うけどな、いや口にするのは簡単じゃないのかもしれないけど」
「はい」
「相手に好きだって伝えた時点でそれなりの責任が生じるんだよ。時には一生のしかかって自分を傷付け続けるような責任が」
「はあ……」
「聞いてるか」
「あ、はい」
「……意味分かってんのか」
「あの……いえ、あまり」
うろうろと此方を見る瞳は相変わらずの色だった。光どころか闇にも透けて消えてしまいそうな色。
思ってもいない溜息を吐いて、俺は話を切ることにした。
「それが分かるまで、好きとか言うの禁止な」
「え」
「主命」
「……はい、あ、でも、最後に、……」
「……はあ」
「お慕いしております」
「……」
簡単に答えを得る方法は教えてやらなかった。俺みたいに思考を全て放棄するか、俺みたいに全てを論理に放り込んでしまうか。
聞こえない振りをする方が、ずっと楽だろう。
***
それは少し遅い花見だった。審神者が長谷部を連れ立って向かった先は、町にある大きな藤棚の下だった。
若い緑色をした葉の群が微風に揺れる。甘く、香のような少し含んだ匂いが一面を満たしていた。審神者に倣い、長谷部も目を眇めながら垂れ下がった房の先に顔を寄せる。
「……」
良い香りだ、と知れず長谷部の心は安らいだ。金木犀の香りとは違うし、桜はそもそも香りがしない。これだけ人を魅了する香りを振りまいているというのに、嘗て審神者と共に藤棚の下を通りがかった時には何故か全く気付かなかった。この思いを口にして良いものかどうか――この場には無粋ではないかと惑い、長谷部はそっと横を見た。
審神者はすぐに視線に気付き、花から目を離して長谷部を見遣った。「何かな」と静かに尋ねる。
「……綺麗ですね、主」
それは嘘ではなかった。棚を一面に覆って陽も遮ってしまっている葉の下から、これも一面に垂れ下がる藤の花。前に見たものは少し赤みがかっていたが、此処の花は、どちらかというと青に近い紫の色をしていた。色と匂いとに覆われて、その圧倒的な美しさに長谷部は何もかも忘れられそうな心地すらしていた。
「それは良かった」
審神者は微笑み、そのまま俯いて地面に視線を落とした。つられて長谷部も下を向くが、其処には地面があるだけだった。顔を上げ、再び審神者の方を見たが視線は返っては来なかった。
「忙しさにかまけていたら、桜は散ってしまった」
ざり、と靴で土を掻く音がする。
「一年前のように君を持てなして一緒に桜を見たかったんだが、……この様だ」
「そんな……」
長谷部は必死に続く言葉を探して喉を探った。世辞が言えない性格であることは理解していたし、審神者もそれを望む性格ではないと知っていた。それでも最大限の修辞を試みようとしたのだ。
「……可笑しなことを申し上げても構いませんか」
返って来たのは無言だったが、審神者は長谷部の顔を見て少しだけ微笑んだ。それが答えであると察し、長谷部は続きを口にした。
「藤の花は良い香りがします。以前に主と初めてこの花を見た時、俺は香りにまでは気付けなくて、それでも今日素晴らしい香りがするのだと気付いて、その……」
「うん」
ちゃんと聞いている、というサインだった。
「桜はこんなに良い香りがしませんし、金木犀のそれとも異なっています。だから俺は今日こうして、主と花を見に来ることができて嬉しいです」
「うん」
「主は……藤よりも、桜がお好きですか」
「まさか。どちらも素晴らしい花だよ。……そういうことが言いたかったんだろう」
「はい」
審神者は唐突に声を上げて笑い、合わせたように風がびゅうと吹いた。ゆらゆらと揺れる花の房が、本当は音など立てていないのに、微かな鈴の音を響き渡らせているような気がした。
「ただ自分が不甲斐なかったということが情けなくてね。だが君にそんなことを言わせては益々もって恥の上塗りというものだ。……桜だって見なかった訳じゃないし、埋め合わせは、そうだな、紫陽花の季節にでもすれば良い」
「はい」
「長谷部君が一緒に来てくれて良かった」
「俺のほうこそ――」
「ありがとう」
満開の花の下、審神者が花など目に入らない様子で長谷部だけを見て言った。それはまるで、何も贖うところを持たない人間のような笑い方だ――長谷部は声に出さず独り言ちた。次いで何故か泣き出しそうになり、慌てて上を向いて涙を押し止め、自分の耳にも変だと判る声で努めて明るく言った。
「き、今日は」
「?」
「今日は、俺の目の色だと、仰らないのですね」
「ああ……言ってほしかったのか」
「いえ、そういう訳ではありませんが」
涙はじきに引っ込んだ。長谷部は一度だけ顔を擦り、それから審神者に向き直った。
「確かに君の眼は藤の花の色をしているけれど、今日だけは言うべきでない気がした。つまり――花に対しても君に対しても、不躾な真似だと感じたんだ」
「……はい」
長谷部にもその気持ちは、あくまで何となく、だが、分かるような気がした。上手く言葉にできないが、今見ている一面の花々は、取るに足りない人間などと同じ尺度に縮められるべきではないもののように感じられていた。
「容姿を褒めてほしいなら、帰ってから幾らでも言うよ」
「いえ、そういう訳ではありませんから、主」
「冗談だよ。帰りに和菓子でも食べて行こうか? そろそろ麩饅頭や若鮎が並んでいるのを見たよ」
「良いですね」
二人は揃って微笑んだ。
「……それにしても、本当に綺麗だ」
「はい。……本当に」
並んで花を見上げる二人は、そのまま暫くの間、藤色の下にじっと佇んでいた。
***
靴が床を擦る音が響き、時折空を切る乾いた音がそれに混じる。手合わせ用の木刀を握って向かい合うのは、この本丸の短刀達だった。
時計を見ていた一期一振が「やめ!」とよく通る声で言い、全員が動きを止めて姿勢を正し、互いに礼をして下がる。銘々に助言をし合う短刀の中、中心になっているのは平野と薬研、厚、そして後藤だった。
彼等は既に〝修行〟を終えて、政府により〝極〟と定義されたアップグレードを果たした者達であった。他の短刀達を、そして場合によっては太刀や大太刀をも超えた能力を獲得していた為、必然的に皆の指導係となることが多いようであった。
「今日の鍛錬はここまでです」
振り返り、一期一振が言う。
「うん、ご苦労様」
壁際で見ていた審神者が返した。
そもそもの始まりは夜戦を強いられるようになって少し後のことだった。
月の、悪条件下では星の光しかないような――つまりそれはほとんど暗闇なのと変わりがなかった――夜の城下町でも夜目が利き、投石や銃により奇襲をかけ、音もなく敵の懐に潜り込み、素早い一撃で確実に敵を葬る。こういった戦において適任なのは短刀を置いて他にはなく、彼等は夜戦に於いて猛威を奮った。
だが粟田口の短刀の一人がある日こう言った。「いずれ、遡行軍も夜戦に適応した強敵を率いてくるのではないか」と。
それを聞いた一期一振は尤もなことだと思い、審神者から手合わせ用の別棟の使用許可を得ると彼の弟達を連れて鍛錬を行うようになった。
短刀はリーチが短く、一撃の威力はそれほど高くない。だが機動が高く、奇襲をかけて敵を翻弄する戦法には長けている。こういった事情から、夜戦に於いて太刀や大太刀というのは彼等の敵ではなかった。だが、敵側も強力な短刀や脇差を出してこないとは限らない。自分達の長所に胡座をかいていては、その時が来ても対応しきれない可能性が-果ては討ち倒されてしまう可能性が十分に高いのだ。
そこで彼等が取った方法というのはごく単純だが効果的なもので、短刀同士で手合わせをして戦術を学ぼうというものだった。初めは粟田口の短刀だけで行っていたが、やがて小夜や愛染など異なる刀派の短刀、それに脇差達も参加するようになり、こうして鍛錬は今日まで途切れることなく続いていた。
「あー疲れた」
片付けを終えて移動した先の大部屋で、鯰尾が四肢を投げ出して座る。
「皆、今日もよくできていたよ。相手に伝え忘れたことはないかな」
「ないぜ」
「あ、ありません」
「はーい」
銘々に返ってきた言葉へ微笑み、一期一振はもう一言だけ言った。
「主、私からは以上です」
「うん」
隣で腕を組んで見ていた審神者が身を起こし、長谷部は影のように従う。
「皆本当に頑張ってくれているな、ありがとう。褒美と言う訳じゃないんだが、今日は端午の節句だろう。柏餅を用意したから皆を探していたところだったんだ」
卓上の覆いを取ると確かにたくさんの柏餅が並んでいた。短刀も脇差も皆一斉に目の色を変え、一斉に審神者へ視線を戻した。
「心配しなくとも、一人二個だったか……」
「三個です、主」
「そう、一人三個あるから、ゆっくり食べると良い。お茶も其処に……」
続く言葉は歓声に掻き消され、嗜める一期一振へ審神者は苦笑した。長谷部は何も言わず、無表情のまま立っていた。
「大体さー、薬研や厚は修行行ってきたんだからずるいよね。ボクも早く極とかいうのになりたーい」
「はは、まあこればっかりは大将次第だからな」
「そうだな、俺は大将のお蔭ででかくなって帰ってこれたけどな!」
「修行ねぇ……ダメ刀の俺には関係ねえな」
「ぼ、僕も少し、その……怖い、かも……」
短刀達の会話はいつも賑やかだった。審神者は傍で耳を傾けながら柏餅を頬張り、長谷部は何か言いたげな顰め面で背筋を伸ばして座っていた。
一つを食べ終え、手を拭きながら審神者は言った。
「本当は皆修行に出してあげたいんだが」
乱や愛染が身を乗り出す。
「何せ政府の研究がなかなか進まない所為で、まだ修行へ出せる男士の種類は限られているし……道具も、それには全く足りないからな。申し訳ない」
乗り出した身体を戻し、乱は口を尖らせた。
「つまんなーい」
「君達短刀だけでなく、ゆくゆくは打刀だったり大太刀だったり、色々な刀種のアップグレードが可能になるだろう。戦力のことを考えると、道具はなるべくその時まで温存しておきたいんだ。待たせてしまってすまないが」
「はーい」
「なあなあ」
ひょいと覗き込んできたのは厚だった。修行を終えてたくましくなった彼だが、何処か悪戯っぽい瞳の輝きは失われていなかった。
「長谷部もそのうち修行に行くのか?」
「まあ、そういうことになるな」
「その間、近侍はどうするんだ? 四日間あるよな」
「そういえばそうだな。大将、どうするんだ?」
「近侍ねえ」
審神者は掌中の柏の葉を弄びながら考え込んでいる様子を見せた。
「四日間だろう? 一人を四日か、四人を一日ずつか」
「大将、俺も選択肢に入れといてくれよな!」
「俺も空いてるぞ」
「あっ、また二人してずるーい! ボクもボクも!」
皆してわいわいと審神者へ群がり始め、葉を持ったままの審神者が両手を挙げて後退りしていると、
「主」
当の長谷部が冷たい声で呼んだ。
「そろそろ執務に戻るお時間です」
「ああ、そう? すまないね皆、私はこれで。柏餅は美味しかったかい」
幾つものはい、という声に満足げに微笑み、審神者は部屋を後にした。
長谷部の部屋を通り過ぎ、執務室が近付いて漸く、審神者は口を開いた。
「それで?」
「はい」
「時間だなんて嘘を吐いてまで、私をあの場から引き離した理由だよ」
審神者が足を止めたので、長谷部も二歩後ろで立ち止まった。振り返った審神者の顔に怒りや呆れはない。それはどちらかと言えば愉悦やそういった類のもので、何故腹を立ててくれないのかといっそ長谷部の方が苛立たせられていた。
「君が答えられないなら自分で考えるとしようか。一、私が皆と仲良く喋っている風なのが気に食わなかった。二、皆の手前柏餅を食べられなかったので悔しかった。三――」
「近侍の話です」
戯けて言う審神者に耐え兼ね、長谷部は自ら答えを口にしていた。
「そう、近侍だ。今その選択肢を挙げようとしていたところだったのに」
そもそも、ちょうど鍛錬の時間だったからと言って審神者までそれが終わるまで付き合う必要はなかったのだ。たとえそれが審神者としての責務を果たす為だろうが、長谷部にとっては愉快な出来事ではなかった。そして勿論、短刀の連中に囲まれてにこにこと笑っていたことも。
「話の続きは部屋でしようか? 此処では些か都合が悪い」
反発しようとし、こればかりは審神者の言い分が全面的に正しいと認めざるを得なかった。おそらく、話は必然的に長谷部と審神者の関係というところへ至る。それは他の男士には聞かれたくないものだった。
長谷部が無言のままでいるのを肯定と受け取り、審神者は執務室へと歩き始めた。
「君が四日間もいなくなることなど考えたくもないけどね」
開口一番、審神者はそう言った。
「……ですが近侍は替えられるのでしょう」
「誰かは据えておかないと、システム上エラーを起こすからね」
「……」
核心の言葉を、長谷部は何となく口にすることができなかった。その一言さえ言うことができれば、話はもっと単純になり、打開策だって与えられるに違いない。それでも、どうしてもその言葉だけは口にできなかった。代わりになるかも分からないが、長谷部は自分なりの言葉でそれを伝えることにした。
「俺でなくとも構わないのですか」
「何が? 近侍?」
「はい」
「どう思う?」
長谷部は閉口した。質問に質問で返されて癇に障った以上に、自分で自分の価値を付けさせるような問いに冷静でいろと言う方が無茶な話だった。
「そう恐い顔をしないでくれないか。分かった分かった、私から言うとも」
観念したように肩を竦めて審神者は言い、其処で手に柏の葉を持ったままだということに気付いたらしかった。ぐしゃりと握り潰してゴミ箱に投げ入れ、話を続けた。
「まず君でなくとも構わないのか、という質問だったな。答えは勿論ノーだ。君以外を四日間も近侍に? 馬鹿馬鹿しい、君が在る以上そんなことは私が許さない。まあ待ちなさい、それでは自分が修行に出ている間どうするのかと問いたいんだろうが、一つだけ方法があるんだよ。ああ、君を修行に行かせない、なんてことではなく。――いや、どうだろうね? もし君が織田ならともかく黒田へ修行に行くのだと言い出したら、その時どうするか保証はできないな。……まあその話は今は関係ない。ああ、関係ないとも。……少し待ってくれないか」
審神者は暫し両手で頭を抱え、長谷部から視線を外してじっと畳を見ていた。呼吸が酷く荒かった。五分か十分か、とにかく長谷部には永遠にも思えるほどの時間が経った後で、審神者はまたがばと顔を上げて姿勢を戻した。目が据わっているように見えるのが悍ましかった。
「待たせてすまないね、どうにも君のこととなると……。それで何だったか、ああそうだ、君が黒田の方へ行くなんて馬鹿げたことを言わなかった場合のことだ。必要がないからずっと使わなかったんだがね、無論君のこととあれば幾らでも金を払う覚悟がある。何のことかと言うとね、結局修行なんてのは政府が作ったシステムの話だろう? 金さえ出せば処理を高速化するパッケージを買うことができるんだよ」
「……まさかそれを」
「手順としてはどうしても君を一度近侍から外す必要があるが、其処は山姥切君に頼もうと思っている。彼は、君が来る前の短い間だが近侍であった経験があるし、距離感が理想的だ。君を修行に出し、すぐに例のパッケージを適応し、晴れて修行は一瞬で完了となる。後は今まで通り長谷部君を近侍として終了、と。どうだい?」
「……」
確かにそれなら本丸を不在にするのはほんの一瞬で済むだろうし、一連の手続きを行う為の近侍役も山姥切であれば満足とは言わないまでも不安はなかった。長谷部は渋々口を開く。
「……良い案だとは思いますが、主の御随意にどうぞ。俺が決めることではありませんから」
「ああそう」
拗ねたような長谷部の返事にも、審神者は弾んだ声で返すだけだった。何となく嫌な予感がして、長谷部は己の主をじっと見つめる。
「何か?」
「いえ……」
「そう? ああ、君に一つ訊いておきたいことがある。君のね」
目と声とがす、と細められ、長谷部は周りの空気や何もかもが審神者に呑み込まれてしまったように感じた。
「君の感じた、近侍の一件についての感情は何だと思う? それだけが訊きたかったのだけど」
「感情、ですか」
「そう」
言わずに済んだと思っていたことがまた頭を擡げ、長谷部の羞恥を煽り自尊心を傷付ける。自分だけを傍に置いてほしいなどと、或いは他の誰より自分が良いのだと言ってほしいなどと言える筈がない。それは審神者が長谷部について知らない唯一の事実であり、また未来永劫知られたくない事実だと思っていた。
長谷部は懊悩し、結局苦々しいもう一つの事実だけに触れることにした。
「……俺は、嫉妬、したのだと思います」
「それを聞いて安心したよ」
審神者はあの酷く冷たい気配を消して、またいつもの笑顔に戻っていた。傍目には安堵すべき状況であるのに、それが長谷部には一層恐ろしかった。機嫌が良い時ほど残酷な思い付きをし、それを実行に移す人間というものが、この世には間違いなく存在しているのだ。
「その程度のことを分かっていないとなれば、私はもう一つの案を採用しなくてはいけなかった」
「……もう一つ」
「つまり君を普通に修行に出して、帰ってくるまでの四日間、私は別の長谷部を君に見立てて慰み者にするという案だね」
「お待ちください、それは、それは……」
「しないよ」
青褪めた長谷部を見て審神者はくすくすと笑った。身を乗り出して長谷部の顔を覗き込み、丁寧な解説を添えて遊ぶ。
「いくら同じ顔だろうが同じ刃文だろうがそれは君じゃない。とすれば私の主義には反するからね。しないよ。それよりも君が分かっていてくれて本当に嬉しいなあ、嫉妬か、そうか」
自らの感情の敏感なところを無理矢理に開かれ、その日ばかりは夜を閨で過ごしたくなかったが、無情にも誘いは来て、長谷部は断ることもせず重い足で執務室へ向かうのだった。