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短篇集​1


 河原で石を積んでいる。
 辺りには物音一つなく、背後には色のない川が流れている。

 沢山転がっている石の中から適当なものを拾っては積んでいくのだが、ある程度の高さまで積み上がったところで一つ揺れたかと思うと、あっという間に他の石も全て崩れていってしまう。
 それを見た長谷部は悲しそうに笑うと、もう一度積み直しましょう、と言って石を手に取る。

 幾百か幾千か、気の遠くなるような時間それを繰り返し、漸く石を積み上げることに成功する。
 すると長谷部はやはり悲しそうに笑い、ここでお別れです、とだけ言って掻き消えてしまう。

 背後には濁った川が荒れ狂って流れている。
 独りで渡るのは淋しいなあ、と呟き、着物をずぶ濡れにして歩いていく。


  ***


「      」

 夜毎へし切長谷部に殺される夢を見るようになって何日が過ぎただろうか、と目を擦りながら考えた。
 鏡を見れば眼の下の皮膚は薄黒く、顔色は白かった。
「主、おはようございます」
 ぴったり閉じられた障子戸の向こうから長谷部の声がする。
「ああ、おはよう」
 返事をすれば戸は静かに滑り、身支度をすっかり整えた長谷部が姿を現す。
「支度をお手伝いいたします」
 何も知らない近侍に、毎朝の様に笑って見せた。

 自分の下で痙攣する長谷部を見下ろして、夢とは真逆だ、とふと思った。
 頚を絞めつけていた手から力がふっと抜け、気を失っている長谷部の顔を眺める。
 薄暗い橙の灯りの中でそのままそうしていると、長谷部の瞼がゆっくりと持ち上げられ、掠れた声で審神者を呼ぶ声が聞こえてくる。
「……あるじ」
「長谷部君、大丈夫」
 別に長谷部が憎くて、或いは殺したくてこんなことをしている訳ではないので、無事意識を取り戻したことに内心安堵しながら声をかける。
「だいじょうぶ、です……あるじ……」
 まだ靄のかかったままの意識で何かを言おうとする長谷部を、しかしぼんやりと眺めていることしかできない。
「……あるじ、おれ……の、こと……」
「うん」
「たいせつ、ですか」
「……」
「……あるじは、おれが……おれ、を、あいしているから、……」
「……長谷部君」
「あるじ、……」
 譫言のように呟き続ける長谷部に、
「手入れ部屋へ行こうか」
 とだけ返してその身体を抱える。
 ああ、夢の中の出来事は、長谷部君なりの愛情の返し方だったのかな、なんて思った。


  ***


 冷たく滑る小腸をフォークで脇腹に縫い止め、審神者は腹の奥で暗褐色に光る腎臓を撫でた。
 痛覚もとうに焼き切れたまま、長谷部は審神者をじっと見て、息も絶え絶えに
「主、」
 とだけ呟いた。
 審神者は長谷部を見つめ返して頰を寄せ、
「長谷部君」
 と呼びかけて手をつっと下へ滑らせ膀胱に触れる。
 いくらかの質量を持ったそれは軽く握っただけで形を変え、揺れる水音を審神者の手に伝えた。
 更に力を込めると肉の削がれた右腕が審神者へ伸ばされ、制止するかのように微かな声が聞こえてくる。
「駄目、です……漏れ……」
 下に敷いた布団は赤銅でぐっしょり濡れているのに何を今更、と審神者は笑うが、体液と排泄物では話が違うらしい。
 懇願に構わず、指から零れ落ちる煤色を掬い上げながらぐっと手を握る。
「あっ、あるじっ……あぁ」
 真っ赤になった顔を腕でぎこちなく隠しながら、長谷部は薄黄の液体を力なく漏らしていく。
 微かなアンモニアの臭いが広がって、部屋中を満たしていた鉄の臭いと混ざり合っていく。
 審神者は排泄の途中から啜り泣いていた長谷部を見て、彼の羞恥の表情は初めて見た気がするなんて考えていた。
 どこか遠い水音は聞き覚えがあるような気がしたのだが、何処で聞いたものだったか審神者には分からなかった。


  ***


 肉体的にも精神的にもストレスを受け続けたヒトの脳が萎縮していたという話があるらしい。

「あるじ」
 違和感を覚えて手を止めると、長谷部は焦点の定まらない目で審神者を見て笑っている。
 いつもの愛想笑いとも違う幼子の様な気味の悪い笑みを貼り付けたままの長谷部にぞっとして、審神者がその頰を殴るも彼は人形の表情を崩さない。
 ぶつぶつと意味のなさない独り言を呟き続けていて、痛みすらもう感じていない素振りだった。
(……ああ、正気を手放したな)
 長谷部とこういう関係になってまだ日が浅い。
 口ではご随意に、と言うがその声も手も震えていたし、脳を焼かれるような痛みに泣き叫ぶこともしばしばだった。
 身体は毎回の手入れで完全に修復されていた筈だが、精神が耐えきれず逃避を選んだらしかった。
「……」
 痣だらけの身体を支えて無理矢理立たせると、審神者は手入れ部屋まで長谷部を連れて行った。

「あ、何で……」
 薄暗い手入れ部屋で目を覚ました長谷部は、壁に寄りかかって立っている審神者を見てそう言った。
 絶望を取り戻したその表情を見てにこりと笑い、審神者は答える。
「おはよう、長谷部君。身体の調子はどうかな」
「だ、大丈夫です……ご迷惑を」
「そんなこといいよ、それより」
 長谷部との距離を詰めることなく見下ろしたまま、審神者は冷たく言い放つ。
「長谷部君、態と狂うことで苦痛から逃げようとしたでしょ」
「あ、いえ、その……」
 目を泳がせて言葉に詰まる長谷部に微笑んで一つ溜息を吐き、
「嫌ならもうしないよ、どうする?」
 と審神者が問うと、長谷部は真っ青になってそれを否定する。
「いえ、主命とあらば、俺は……」
「本当に?」
「……はい、俺は大丈夫です……申し訳、ありません」
「そうか」
 審神者は壁から身を離すと長谷部の隣にしゃがみ込み、目をじっと見て
「ありがとう、長谷部君が近侍で良かった」
 と言った。
「……はい、有難き」
 幸せ、と続けようとした長谷部の言葉を遮って、審神者は暗い目でぽつりと言った。
「今度正気を手放したら、手入れ部屋に連れて行って全く正常に直してから続けるから」
「……はい」
 今日はもう休んでいいからね、と言い残して自室へ戻った審神者の背中を見送って、長谷部は
「……頭が、痛い」
 とだけ呟いた。


  ***


 鈍色の雲が厚く垂れ込める午後、審神者は買い物に行こう、と長谷部を誘った。
 長谷部はいつものようにはい、と答え、審神者の外套を用意した。

「長谷部君、明日はクリスマスだね」
 少し前に審神者が本丸の男士を皆集めて説明していたので、長谷部もクリスマスが一体どんなものなのかを知っていた。
 短刀や脇差達は大喜びで玄関や食事部屋などを飾り付け、ケーキが食べられる、プレゼントが貰える、などと浮かれていた。
 そして言葉や態度に出さないまでも、打刀や太刀や他の連中も同じ気持ちでいることを審神者も長谷部も悟っていた。
「はい、まだ何か足りないものがありましたか」
 全員分のプレゼントは既に購入してあるし、当日のケーキや食事の用意は燭台切達が手配している筈だった。
「うん、少しね」
 普段の万屋ではなく、緑や赤や金で眩しく飾り付けられた洋菓子店に着き、審神者は振り返って言った。

 ショウケースに並ぶ色とりどりのケーキは店内の光を受けてきらきら輝いていた。知らず長谷部の心も弾んでくる。
「どれもおいしそうだね」
「はい」
 明日のケーキはどんなのだろうね、と呟きながら審神者はケースを眺めている。
「長谷部君、どれがいい?」
「え?」
 思わず間抜けな返事をしてしまった長谷部を見て笑いながら、審神者は言う。
「どれが食べたい?」
「それは……」
「今日、二人きりで一足先に楽しもうと思って」
 え、と二度目の音を漏らして長谷部は戸惑う。
「いえ、俺は……」
「嫌だったか?」
「いえ、そんなことは」
「良かった」
 審神者はにっこり笑って、じゃあ好きなの選んでよ、と長谷部の背中を押す。
「偶には好い主で居させてくれ」
 ぽつりと零されたそれを聞いた長谷部は泣きそうな顔をして、慌ててショウケースに目を遣った。
「……」

 

 雪の結晶やモミの木が描かれた赤い箱を大事そうに抱えて、長谷部は審神者と共に店を出た。
「随分悩んでいたみたいだけど、それで良かった?」
「はい、ありがとうございます」
「他のもまた今度食べようね」
「はい」
 厚い雲に遮られて見えないが、陽はもう傾いたらしく、辺りには冷え冷えとした空気が静かに落ちていた。
 白い息を吐きながら、審神者は
「もう一軒付き合ってくれるか?」
 と言った。
「ご随意に」
「寒い中悪いな、すぐ済むから」
「俺は大丈夫です。主は寒くありませんか? 俺の上着をお貸ししますよ」
「これがあるから大丈夫だよ」
 と言って審神者は外套の裾を摘む。
「うん、着いた。此処でちょっとだけ待っててくれ」
「……? はい」
 いつもは必ず店内まで長谷部を伴って行く審神者の行動に疑問を覚えつつ、店の軒先に身を寄せる。
 ふと手元の箱に目を遣ると、天辺に貼られた透明なフィルムからはチョコレートケーキがちらりと見え、思わず笑みが零れそうになる。
(……主と、二人きりで)
 もしその後にいつもの行為が待っているとしても、それを補って余り在る程の幸せだと感じた。

「長谷部君お待たせ。ごめん、寒かった?」
 いつの間にか、萌葱色の薄い袋を抱えた審神者が戻ってきていた。
「いえ、お探しのものは見つかりましたか?」
「うん」
 審神者はそう答えると、綺麗に結ばれた朱のリボンを引っ張って解いてしまう。
「主?」
 そのまま中に手を入れると、ちょっとだけ目を閉じて、と長谷部に言った。言われた通り目を瞑った長谷部が首元に柔らかい感触を覚えるのと同時に、目を開けて、と声がした。
「……これは」
 長谷部の首に巻かれていたのは淡い山吹色のマフラーで、薄くて柔らかく、そして何より暖かかった。
「クリスマスプレゼント。長谷部君、いつもありがとう」
「……っ、有難き幸せ……」
 端正な顔を歪めて礼を言う長谷部を真っ直ぐ見て審神者は言った。
「今日の夜は私の部屋でケーキを食べて、話でもしてゆっくり過ごそう」
「はい、」
「……今日と明日は、いつものはしないから」
「……はい」
 顔を背けて一息置いて、決心した様に、そして苦しそうに笑って審神者は
「長谷部君に、楽しいクリスマスの思い出を残したくて」
 とだけ言った。
 長谷部は何事かを答えようとしたが、その言葉も今や降り出した雪に吸い込まれて静かに消えていった。


***

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