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闇夜に影差す噺も満つ

   1

 早朝、窓から射し込む光というのはとても薄いものに感じられると長谷部は思っていた。凝縮された真昼の白光や夕焼けの赤く澄んだ光、重く澱んだ夜の闇のどれとも違う、透明でいとも簡単に溶けて消えてしまいそうな光だと。
 目が覚めると、昨日のことは全て悪い夢だったのではないかという気さえしていた。
 とは言え長谷部は夢を見たことがなく、だからこそそれは夢などではないと痛いほどに理解していた。今や朝の光は彼の目には眩しすぎて、夜の翳(かげ)は抗う隙すら与えることなく彼を呑み込んでいた。
 ――夢などではない。分かっている。
 審神者が長谷部へ向かって「四肢を切っても良いか」と尋ねたことも、長谷部がそれに頷くや否や左腕を切り落とされていつの間にか移動していた先の寝室で布団の上に倒れ込んだことも、審神者がそんな彼を見下ろして嘗て見せたことのないような喜色を浮かべていたことも、そしてその後のことも全て長谷部は覚えていた。夢ではないのだ。戦場で味わわされるのとは違った痛みを持つあの醜悪な傷も、無惨に切り落とされた自分の手脚の断面から覗くはち切れんばかりの肉の塊も全て現実にあったことで、それを望んだのも実行したのも、他でもない審神者だった。
 部屋中を満たしていた生臭い鉄の臭いがふと甦り、長谷部は思わず口元を押さえた。それが悪意であれば理解は容易く、吐き気などきっと起こらなかった筈だった。長谷部は刀剣男士として、歴史修正主義者という敵を討ち取る為に此処へ喚ばれたのだ。殺意や害意には慣れており、瀑布のように襲いかかってくるそれごと敵を叩き斬るのが第一部隊隊長でもある長谷部に期待されていることだった。だからこそ彼は昨日まで、それに今日からもずっと、審神者の期待に応える為にただただ敵を斬り、命令に忠実で在り続けてきた。
 だが昨夜、あの部屋に満ちていたのは悪意などではなかった。長谷部はやはりそれも、一字一句違えず覚えていた。
「君が好きだ」

 ふと目を遣ると外はすっかり夜だった。長谷部は困惑して立ち上がり、すぐにまた力なくぺたんと座り込んだ。今日という日はもう終わったのだ。命じられるまま必要なだけの出陣をこなし、当番を割り当てられていた畑仕事でも人一倍せっせと働き、遠征の行き先や出陣部隊のスケジュールを組む審神者の手伝いもした。夕飯を食べて入浴も済ませ、そうして長谷部は自室に一人座り込んでいた。
 今日一日中、長谷部は心此処にあらずといった様子だった。幸いにもそれを指摘されることは――隣で執務を行っていた審神者からも――なかったが、戦場で駆け、指揮を執り、遡行軍の肉を切り裂く生々しい感覚をへし切の刃に感じる度、長谷部の意識は一瞬間昨夜へ飛んでいた。黒く澱んだ空気、撒き散らされた自分の血液、作り物のように転がる腕と脚、表情、声、言葉。防具が敵の太刀を弾いて刃が頬を掠め、長谷部は白昼夢から一気に目の前の戦場へと引き戻されて刀を振るい、その勢いのままに彼は声を上げて笑った。――この程度の傷が何だと言うんだ?
 向けられた敵意を斬ることは何でもないことで、長谷部にとっては――或いはへし切にとっては赤子の手を捻るようなものだった。〝奴等〟を倒すこと自体は特に楽しい訳でもない、ただただ主命に従っているというだけのことで、或いはそうしなければ自分が殺されるから敵を斬るのだ。やすやすと切り裂かれていく哀れな肉の感触、溢れる血の生温さ、そういったものを愉しいと思わないでもなかったが、しかしそれも酷く単純な動機だ。長谷部は刀で、人を斬るのが役目だった。
 故に悪意なき、それどころか好意ありきの殺戮など長谷部は知らなかった。
 そんな筈はないと分かっていながら、もしかしてあれは「好きだ」と言ったのではなく「嫌いだ」と仰っていたのではないか、長谷部はそう考えながら四肢を投げ出して畳に寝そべってみていた。布団が緋(あか)に濡れていたのは本当で、自分は芋虫のような姿でひたすら呻いていたのも本当。但し主が俺へ零した言葉は「好き」ではなく「嫌い」で、俺はああそうか、と納得した。……真実は、そうであった方がずっと分かりやすい。そうでさえあれば。
「長谷部君」
 突然人影が部屋の入り口に立ったので、長谷部は思わず跳ね起きた。もう夜だということを認識だけして部屋の灯りを点けることをすっかり忘れていた所為で、その人の顔はほとんど見えなかった。それでもその声と呼び方から、長谷部は審神者が自室へと訪ねて来たのだということを悟っていた。
「あ、主……すみません、今灯りを」
「うん」
 スイッチを押すと眩(まばゆ)い光が一瞬で部屋を満たし、長谷部は思わず目を眇(すが)めながら明るさを調節した。その間審神者は何も言わなかった。
「入っても?」
「あ、はい、すみません」
 慌てて押入れへ走り座布団を取り出してくる長谷部を横目に、審神者は部屋へ入ると無音で障子戸を閉めた。夜は汚れない純白に覆い隠され、あるのはただ光のみとなった。
 用意された座布団へと腰を下ろし、審神者はそれでも何を言うでもなく僅かに微笑みながら長谷部の顔をじっと見ていた。
「あの……」
「何か?」
「いえ、その……何の、御用かと……」
「用?」
「あ、申し訳ありません、主が俺の部屋へいらっしゃるのは珍しいので」
 他の誰でもない、己の主である審神者が用もなく部屋へ来て自分の顔をじっと見ているというのは長谷部には何処となく落ち着かないことであって、その居心地の悪さを審神者も漸く察したらしかった。
「ああ、ただ長谷部君がどうしているかと見に来ただけなんだが」
「俺が?」
「部屋へ来ないから」
 あ、と声を漏らした長谷部の顔が青褪めていく。元々彼は毎晩のように執務室へと呼ばれていて、それはやり残した仕事を片付ける為であったりただ審神者が長谷部と喋りたいだけでもあったりしたが、ともあれ今夜も彼はそうして誘われていたのだろう。一日中注意散漫だった所為で、長谷部にはその記憶がほとんどなかったのだが。
「も、申し訳ありません、主」
「怒ってはいないよ」
 言葉に違わず審神者はずっと笑みを絶やさないままで、長谷部はそうなのだろうか、と半信半疑ではありつつもそう信じることにした。強張っていた頬の筋肉も意識して緩め、いつもの綺麗な笑顔を作ろうとする。
「……そう怖がらないでくれないか」
「え?」
「顔」
 短い言葉に頬を手でぺたぺたと触れ、確かに自分はいつもと同じ完璧な笑い方をしている筈なのに、と長谷部は戸惑った目を審神者へ向けた。
「分かるよ、怯えていることくらい」
「主……」
「無理もない話だとは分かっている」
 長谷部は唾を飲み込み、喉が渇いたな、と思うと同時に茶の用意すらしていなかったことに思い至った。審神者が来ているというのに自分は茶の一つも出さず、しかし審神者はと言えば既に何かをつらつらと話し始めていたので今更茶のことを言い出す訳にもいかなかった。主は喉が渇かれないのだろうかと思いつつも諦めて、長谷部はただ与えられる言葉に集中することにした。
「昨夜言った通りだ。私は君のことが好きで、ずっとああしたかった。一度叶っただけでもこの上ない僥倖なのだから二度目を願ったことは間違っていた。忘れてくれ、と言いたいが、今日の君の様子ではおそらく難しいんだろう」
「……覚えています、全て」
「それは悪いことをした。普通に生きてきた人間でもきっと酷く困惑するであろうことを、人としてはまだほんの僅かな時間しか生きていない君へ押し付けてしまった。忘れろと言えないのは分かっているから、君がしたいようにしてほしい。私はそれに従う。私の部屋へ来たくないのなら、私はそれを受け容れるだけだ」
 その言葉に、長谷部は些か思うところがあった。困惑すること、というのはおそらく今日一日長谷部が心を奪われ続けていた、感情と行為との相容れなさのことなのだろう。確かにその事実は長谷部にとって理解の難しい事柄だった。主が望んでいることなのだと納得することはできても、その本質を理解しているとは言い難かった。しかし今や長谷部にとっての本質は寧ろ其処に在るのではなく、「主は俺を切りたいのだ」というただ一点のみに在った。
 つまりそれは「敵を斬れ」というのと同じに「切られてほしい」という形を取った主命だった。
「主」
 口は勝手に動いていた。
「どうか、御随意に」

   2

 昨日と同じ天井に、長谷部は(ああ、夢ではなかったのだ)と独り言ちた。じっとりと肌に這うような濁った空気も全く同じで、長谷部の鼻腔はありもしない血の臭いを早くも嗅ぎつけていた。
 いつの間に、此処へ戻って来たのだろう。
 震える胸で何とか息を吸いながら、長谷部は少しだけ視線を巡らせてみた。何せ昨日はそんな余裕もなかったが、今はこうして自分の寝室との違いをぼんやりと探し求めるだけの余裕はあった。
 違いはほとんどなかった。押入れがあり、布団があり、箪笥がある。部屋にあるものと言ったらそれくらいで、この景色だけを与えられて部屋の主が誰であるか、或いはその性格などを訊かれたところでほとんど何も答えられなかっただろう。それはつまり、この部屋からは審神者が何を考えているのかなど少しも読み取れないのだということだった。
 其処で長谷部ははた、と思い至る。そもそも長谷部は自分の主のことをほとんど知らなかった。まだ日が浅いというのは如何ともし難かったが、元より自分は主のことを知ろうとしなかったのではないか? という考えが長谷部の心に兆していた。好きだと言いながら刃を振るう、その理由を知る以前の問題だった。――自分は何も知らない。
 今更に気付かされた事実に耐え兼ねて長谷部が呼びかけようとした瞬間、審神者は彼の方を向き、「長谷部君」と呼んだ。
「好きにして良いと?」
「はい、主」
 答えた言葉の先、審神者の手には鞘に収められたへし切がある。敵を斬る為だけにあると思っていた刀が、即ち自分自身の身が、まさかこうなるとは思いも寄らなかった。
 振り仰いだ先のその人は、確かに喜悦を浮かべていた。

 腹の中身を抱いて頬擦りしている審神者の横で、長谷部はただひたすら激痛に身を捩って喘ぎながら耐えていた。歴史修正主義者達は邪魔者を排除する為だけに武器を向けてくるのだから、こうして意味もなく苦痛を長引かせるように内を掻き混ぜられるような真似は経験したことがなかった。
 優しく撫で上げられ、舌で舐められる微細な動きの一つ一つを幾つもの神経が鋭敏に拾い上げ、それを脳は何百倍もの痛みに変えて自らに焼き付ける。叫び続けた喉は嗄れ、そしてそれは痛みを減らす役には少しも立たなかった。
「あ、あがっ、ある、じ、うあ、あっ」
「止めようか」
「いえ、いいえ」
 ぴたりと動きを止められた手に長谷部は必死で首を振り、苦痛と情けなさとでぼろぼろと泣いた。これは何よりもまず主命なのだ。果たさなければ、主にとって一番で在りたいと願う資格など到底得られる筈もない。主命を果たさなければ、主の望みを叶えなければ。
 それは長谷部にとって存在意義にも存在そのものにも等しい願いだった。幾ら近侍としてそつなく仕え部隊長を務め成果を上げたところで、陽の射す明るい世界では所詮何口もの刀の中の一口としてしか見なされない。どれだけ主命を果たそうが同じことで、長谷部にだけ特別な何かが与えられるということは決してなかった。審神者は長谷部だけを特別に扱ってはくれなかった。
 耽溺する夜へと踏み出せば、そして審神者の抱く好意を――或いはもっと禍々しい他の何かを――受け容れることを長谷部が望みさえすれば、求めた答えは夢でなく現実に、其処にあった。
「いっ……あ、……」
 声は全て喉からひゅうひゅうと漏れる音に変わってしまい、長谷部は身を大きく痙攣させた。審神者は僅かに目を瞠って長谷部の内臓を畳へ落とし、「長谷部君?」と名前を呼んだ。
「……、……」
 主、と声にならない声で答える長谷部へ審神者は何処からか持って来たグラスで水を飲ませ、口元へ耳を寄せてその言葉を聞き取ろうとした。
「……ある、じ」
「うん」
「次、は、いつ、です、か」
「君が来てくれるのなら、明日にでもしたい」
「次は、何、を」
「君を食べたい」
「……」
 数度咳き込み、それから長谷部はそっと腹に手を遣った。切り開かれ、無惨に中身の引き摺り出された腹部。もう触れても痛みは感じなかった。審神者が食べたいと思っているのが腹の中身なのか、それとも他の部位なのか、長谷部はまだ知らなかった。
「主命、と、あら、ば」
「ああ」
 審神者は顔を歪めるような笑い方をし、霞む意識の中、長谷部はそれが自分だけに向けられたものの二つ目なのだと気が付いて胸が熱くなった。

   3

 次に目が覚めた時はもう、何もかもが現実なのだという確信を抱いたままだった。
 窓から射し込む光はやはりとても淡く、そして長谷部には自分がすっかり消え去ってしまいそうな気さえするほどに眩しかった。今や引き返せないほど深く、深く夜に染まり切ってしまったのだと思い知らされた気分で光から顔を背けた。
 それでも長谷部は夜闇の中での自分の位置も、自分が目指すべき場所も迷うことなく明確に分かっていた。審神者の隣でただ主命を果たしさえしていれば、それで長谷部も審神者も望むものが得られる、それだけ分かっていれば後は何も問題なかった。
 実のところ、長谷部は少しだけ審神者の行為が怖かった。経験したことのない苦痛、叫びすぎて声が嗄れるなどということも初めてで、それら全てを長谷部へもたらしているのは彼を好きだと言った審神者その人だったからだ。一方的且つ自分勝手に長谷部を陵辱するのであれば、長谷部は昨夜も痛みと恐怖でほとんど気も狂わんばかりになっていただろう。今日だってまた「昨夜のことは夢だったのではないか」などと考えていた筈だった。
 しかしこれは紛うことなく現実だった。光は鬱陶しいほどに眩しく目を焼いた。
 布団から出て服を着替え、仕度を済ませて長谷部は執務室へと向かった。朝の挨拶も近侍としての仕事の一つだった。

「おはようございます、主」の声に戸を開けた審神者は開口一番、「身体は?」とだけ言った。
「身体、ですか? 特に問題ありません」
「手入れが上手くいっていなかったら出陣に支障を来すだろう」
「大丈夫です、主にすっかり治していただいたので」
 胸元に手を当ててぴっと背筋を伸ばす近侍に、小さく溜息を吐いた審神者は何かに安堵した様子だった。朝食までまだ時間があるから、と長谷部を部屋へ招き入れ、手ずから茶を淹れて二人分を湯呑に注いだ。
「すみません、主にそのようなことを……」
「いいから」
 飲みなさい、と手渡された湯呑には焙じ茶が注いであった。一口飲み、長谷部はいつしか張り詰めていた気分がゆっくりと緩んでいくのを感じた。審神者は難しい顔をして、ただそれを見守っている。
「美味しいです、主」
「それは良かった」
 漸く自分の湯呑に口を付け、それから審神者はまた一つ溜息を吐いた。纏う雰囲気は間違いなく真っ暗な翳の中心に佇んでいるような人である筈なのに、長谷部には審神者こそが朝の光に包まれてあるのに相応しいのではないかと思えて仕方がなかった。
「……次は三度目だ」
「はい」
 夜のことを言っているのだ、とはすぐに見当が付いた。
「二度目まではまだ過ちで済む。だが三度目はもう引き返せない。無論君が嫌だと言えば私は誓って手を出さないが、そう言えなくなってしまうのが、考えも及ばなくなってしまうのが三度目以降に踏み込んでしまった者だ」
 湯呑を盆に置き、審神者は真っ直ぐに長谷部の目を見て言った。
「君は何を望むのか、聞いておきたい」
「俺が……」
 喉が渇くことが怖くて、長谷部は湯呑を両手で包むように持ったまま審神者の言葉の意味を考えていた。――主は、これ以上深みへ嵌まってしまうと俺がもう嫌だと感じた時にそれでも脱け出せなくなってしまうことを憂慮し、だからこそ俺に良く考えてから結論を出すようにと忠告しているのだろう。
 幸か不幸か、元より長谷部には審神者の言葉を、誘いを、望みを断るという選択肢が存在しなかった。それはまさしく彼が近侍で在り続ける為に欠くことのできない要素であったからで、そして同時に長谷部の望むものを得る為に欠かせない行為でもあった。少なくとも長谷部はそう思い込んでいた。
 好意か悪意か、そんなことはそもそも関係なかったのだ。身体が傷付くことだって手入れすれば治るのだから何の問題もない。何より自分は道具だ、使われることこそが存在意義だ――長谷部はそう思っていた。何よりそれは、つい先にも決心したことだった。
「俺は、主命であれば何でも従います。どうぞ俺をお使いください、主」
「それが君の望みか?」
「はい、主のお役に立つことが」
「……」
 顎に手を遣り、暫し考え込む様子を見せてから審神者はまた口を開き、緩い三日月のような形で笑んだまま言った。
「君のそういうところ――つまり何かに対して一途なところや、懸命に考え込んでいるようなところが愛しいんだ。そうして私の隣で主、主と呼んでくれるものだから、私はどうしても君を手に入れたかった。手に入れたら、その後は……後はもう、私は自分を抑えられなかった。君を傷付けるようなことは駄目だと自分に言い聞かせていたのに」
「主は俺を好いてくださっているから、その……ああいったことをされると、そういうことですか」
「ああ」
「でしたらやはり俺の答えは変わりません。主から好いていただけるとなればこの上ない誉です。俺は身を尽くしてそれにお応えします」
「……ああ、ありがとう」
 審神者は長谷部に手を伸ばそうとし、しかし触れもしないのにすぐ手を引き込めたものだから長谷部は小さく首を傾げた。
「……言い忘れていたが、このことは皆には伏せてほしい。君を故意に傷付けていることを知られるのはあまり好ましくない」
「はい、主」
「だから昼間はこれまでと同じように接してくれ、私もそうするから。分かったね?」
「はい」
「では話はこれで終わりだ、朝食へ行こうか」
「はい、主」
 立ち上がり、長谷部は審神者と共に執務室を出た。障子戸を閉めながら横目に見る朝陽は依然薄く、鋭い刃のようですらあるのに酷く不安定で脆かった。審神者の少し後ろを歩いているとその昏い翳か、或いはもっと強い光かに守られているような気がして、それだけで長谷部は何の不安もなく清冽な光の中を歩くことができた。彼にとって審神者の傍というのは、それだけ心地の良いものになっていた。
「長谷部君」
「はい」
「その……本当に、愛している」
「はい、主!」
 何の問題もないではないか、と長谷部は一人胸を撫で下ろしていた。こんなこと何でもない。ただ求めに応じて身体を捧げていれば主は幸せで、その主にただ一人愛されている俺も幸せになれるのだ。そう、「愛している」、だ。長谷部は人間の情愛についてはほとんど何も知らなかったが、二人が愛し合っていればそれは間違いなく幸せなことなのだということだけはかろうじて知識として持っていた。それともそれは単に本能だったのかもしれない。
 そうして内臓や身体中の肉を噛み千切られたり腕や足を捥がれて床を這い摺らせられたり、首を絞められたり火傷をさせられたりひたすらに殴打されたりというのも長谷部はただじっと耐えることができていた。他でもない審神者から愛されているのだから、これは長谷部にとって全く正常に機能する愛の形なのだから何の問題もなかった。
 ある日、審神者はとうとうその言葉を口にした。
「私は異常なんだ。間違っている」
 長谷部は自分の心がゆっくりと軋んでいく音を聞いたような気がしていた。これは悪い夢に違いないといつかの現実逃避をし、ところが彼は未だに夢というものを見たことが一度もなかった。しかし、夢は覚めるものだと何かで読んだ記憶はあった。もしそうであれば今すぐに覚めてくれ、と長谷部は繰り返し願い、そしてそれが叶う前に二言目が彼を完全に打ちのめした。
「私のこれは、愛なんかじゃない」

 夢だ、全て光に融けてしまえ、俺は翳で眠る、あの心地の良い、主ただ御一人が作り出したあの翳の中で。
 長谷部は何もかもを見失った。自分にしか果たせない主命を果たしているつもりが、次の瞬間にはこんなものは全部間違っているのだと審神者から直接に教え込まれる。肉を裂かれるのは痛い。内臓を千切られるのは痛い。殴られるのは身体よりも心の方が痛かった。耐えた先に見返りがあるのかどうかなど分からなかった。それでも主命を果たせなければ、主の一番などで在れる筈もない。
 ――俺が望んだものは、主が望んだものは、きっともう何処にもない。これほど暗澹たる世界の中では見つけようもない。
 その日以降、長谷部は何処となく諦めたような目をするようになった。感情すらも乏しくなっていった彼の変化に気付いた者は誰もおらず、審神者はと言うと自分の愛だの正常異常だのにかまけて長谷部を真っ直ぐに見ることができなくなっていたのだった。
 悪い夢はきっとあの一日目から既に始まっていたのだ、と長谷部は考えることもあった。だがそれだけだった。苦痛は何もかもが現実なのだと語っていた。
 彼は今日も、澱んだ藤色の瞳で薄明すら直視できない日々を送っている。

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