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 雛芥子

 

 

 

   1

 

 休憩にしましょう、お茶とお菓子を取って来ます、と言って長谷部が出て行ってから、既に三十分程が経過していた。

「遅いなあ」

 背伸びして肩の凝りを解しながら審神者が呟く。執務室は母屋の中でも離れた場所にあると言え、厨房まで行って帰ってくるのには十分も掛からない筈だった。何か面倒事でもあったのだろうか。

 立ち上がり、ふらふらと執務室を出る。仕事をさぼって散歩でもしている時のような気軽さで、空気は何処か暢気で暖かい。ふと庭を見ると、黒っぽい枯れた色の枝には早くも桜が咲き始めていた。まだ咲き切らない、膨らんだ蕾は幾つも残っているが、ぽつぽつと開いている薄紅色の花弁の中には丸く黄色い雄蕊まで見えた。春だなあ、と暖気に当てられた審神者も暢気に思う。

 クリスマスだ何だと浮かれていたのが遠い昔のことのようにも思えるのは、それ以外の日々が余りにも単調だからだろうか。出陣、帰還、手入。出陣、帰還、手入。出陣、帰還、手入。所詮仮想(バーチャル)なのだと馬鹿馬鹿しくは思えても、心が倦んでいくのを辛うじて堰き止めているのはこうしたちょっとした四季の移ろいなのだった。

 庭の木々を眺めながら歩いて行き、そして審神者は厨房に着いたが、其処に長谷部はいなかった。

「ううん」

「あれー、主? おやつ?」

 蛍丸が一人、グラスを傾けて何かを飲んでいた。他には誰の影もない。

「長谷部君が取りに来た筈なんだがね」

「俺は見てないよ、おやつは此処にあるけど」

 確かに食卓の上には盆が載っていた。小皿にあるのは桜餅で、審神者の分と長谷部の分が用意されている。

「自分の部屋にでもいるんじゃない?」

「かもしれない。行ってみるよ」

「はーい」

 蛍丸がひらひらと手を振った拍子に、グラスの中でしゅわしゅわと泡が弾ける。サイダーだったのか、と審神者は立ち去りながら考えた。夏が来たら、町で長谷部とサイダーを飲むのも悪くない。夏が、来たら。

 

 長谷部は自室にもいなかった。食事部屋や鍛刀部屋、手入れ部屋、厩舎や畑まで探してみたが何処にもいない。おかしいなあ、と何気なく足を向けた先は裏庭だった。此処にも春の空気は届いていて、桜の花がふわりと咲いている。執務室の前のものよりは幾らか背の低い木の枝に審神者が顔を寄せ、目を眇めて儚い花弁の薄さと香りを楽しんでいると声が聞こえた。

「?」

 声の主が誰か、そして何を話していたかまで聞き取れるほどのものではなかった。出処を探してまたふらふらと、しかし何となく気配は殺したままで彷徨っていると、視界の端に見慣れた紫紺が入り込む。どうして反射的に身を隠したのか分からなかったが、声は第三者に気付いた様子もなく続けて発せられた。

「……無理だと、」

「でも……なら、……」

「それは……」

 今一つ何を言っているのか理解できない。審神者は少しだけ様子を見てみようとして顔を動かし、覗き込んで、見たことを後悔した。

 長谷部が誰かに手を取られている。腕の高さと服から、その誰かが誰なのかは容易に察せられた。長谷部は――長谷部は、あろうことか、困惑してその手を振り払ったというのに、顔は僅かに赤くなっている。驚くほど急速に表情が消え、心底が冷えていくのが自分でも分かった。その場に割って入る気にもならないほど心が凍っている。

 やはり気配を消したまま踵を返し、審神者は自室へ戻った。

 

「申し訳ありません主、遅くなりまして……」

 審神者が執務室に戻った少し後、長谷部は珍しく入室の許可を取るのも忘れ、慌てた様子で部屋へ入って来た。茶も菓子も存在すらすっかり忘れている。

「はあ、目出度いじゃないか、長谷部君」

「は……?」

 長谷部は何を言われているのか分からず戸惑った。審神者は口の端を片側だけ吊り上げて、政府やその他へ向けて皮肉を飛ばす時の顔をしていた。そしてそれは決して長谷部へは向けられない表情の筈だった。

「相手が彼なら、君も申し分はないんじゃないか」

「あ、……あの、もしかして、」

「ああ見たとも。君が手を握られて処女宜しく照れているところをね」

「違います、あれは、無理矢理」

「良く言うよ、喜んでいたくせに。構わないよ別に。私と君は恋仲でも何でもない」

 自分の言葉に自分で怒りを沸かせながら、審神者は次第に饒舌になっていく。長谷部は経験からそれに危険な兆候を感じ取ったが、止める手立てなど持たなかった。

「良いじゃないか、彼と付き合えば。毎晩毎晩非道い目に合わされることもないし、大切にしてもらえるんじゃないか。美しい愛の交歓でもして一緒の布団で寝て、それで毎日幸せになれるんならそうすれば良い。君を此処に縛り付けるつもりなんかない。愛されて来れば良い」

「俺は……そんなつもりは」

 審神者はふいと顔を背け、次いで身体ごと長谷部に背を向けた。たったそれだけのことが、長谷部の胸を刺し貫くように痛ませた。

「じゃあ訊くけどね、君はこれで普通に愛されることができるとはちらとでも考えなかったと? それに自分も愛を以て応えることができると希望を抱きもしなかった? 自分も愛されて愛することができるのだと一瞬でも思わなかったのか」

「あ……」

 即答できなかった。普段、血生臭い部屋では際限なく虐げられながらもそんなことを思ったことはなかった。其処では常に審神者が傍に居た。その手は温かかった。言葉も視線も暖かくて、それ以外を望むなど思考に過ることすらなかった。

 その時、その場所では。

 自室で布団も敷かずに横たわり、何度も――数十や数百では足りないほど、無意識へ滑り込ませるようにして考えたことだった。気付かない振りをしていただけだった。

「俺、俺は――」

 声が震えているのが自分でも分かった。嘘を言おうとしている訳ではないのに喉が詰まる。〝主に対して嘘を吐くのか〟と、良心の呵責ですらない何かが濡れた綿を詰め込んでいる。

「愛されたいくせに」

 違う、と言えない。俺は主が良いのですと、たった一言を言うだけなのに、それができない。――本当はそう、思っていないからだ。本当は審神者が言うように長谷部も、世間で繰り広げられているような柔らかくて優しい愛を向け、そして返されたいのだ。だから一瞬躊躇ってしまった。自分なら大切にする、幸せにすると告げられた、その時に。

「早く出て行ってくれないか」

 審神者の声がした。詰られているのは長谷部なのに、その背は酷く頼りなげに見えた。とても脆いそれを壊さないよう、長谷部は恐る恐る答える。

「あの、主――」

「出て行け!」

 身体が硬直した。これまで怒鳴られたことなどなかった長谷部は、今頭がぼうっとして涙が滲むことにすら困惑していた。声はそれほど大きくなかった筈なのに鼓膜はじんじんと痺れている。

「聞こえなかったのか、君なんか嫌いだ。何処かへ行ってくれ」

「は、い」

 自分のものでなくなったかのような感覚のする身体をぎこちなく動かして、長谷部は執務室を出た。其処を追い出されてしまえば居場所など自室しかなく、亀のような歩みで向かいながらも、後から後から涙が溢れてきた。部屋へ着く頃には、目元を擦りすぎてひりひりと痛むようになっていた。だがほとんど泣いたことのない長谷部にはそんなことは分からなかった。教えてくれる審神者も傍にいない。

 自分には何の咎もないと言えないからこそ、絶望は色濃かった。こんな自分を、主は迎えになど来てくれない。

 

   2

 

 溜息を吐き、審神者は畳に寝転がった。

 ――当たり散らしてしまった。長谷部は悪くないのに。

 長谷部を部屋に送って一人になった布団の中、しょっちゅう考えることだった。長谷部がいつか、自分には何のメリットもない今の関係に見切りをつけ、彼を普通に愛してくれる誰かのところへと行ってしまうのではないか。そして自分は、呆気なく長谷部を失ってしまうのではないか。

 勿論長谷部自身にとってはその方が絶対に良い。そう在るべきだった。彼は幸せにならなくてはいけないのだから、自分の元に在ってはならないのだ。

 しかしその思いと同時に、長谷部が幸せになれないと分かっていても尚、自分の手元に留めておきたい、閉じ込めておきたいという卑小な願いを拭い去ることができなかった。長谷部が去ってしまうことを考えると胸が張り裂けそうに痛んだ。捨てないでくれとひっそり咽び泣いたことも一度や二度ではない。

 愛情表現で長谷部を必死に縛り付けて、その合間には正常な人間との差と罪悪感を埋める為にあれこれと長谷部に買い与えた。何を与えれば喜ぶのか分からないからこれが無難だろうと美味しいものを与え続けた。外出の際、一緒に食事を摂れば長谷部は笑って喜んだ。

 それを横から掠め取られていきそうになり、長谷部のことを思えば喜ぶべきチャンスであった筈なのに、醜いと形容することすら烏滸がましい、唾棄すべき自らのエゴが勝ってしまった。自分では与えられないものを他の誰かに与えられ、長谷部が嬉しそうにしているところを想像すらしたくなかった。

 ――だが結局は突き放すことに成功したのだ。

 歪な笑みが浮かんだ。長谷部を目一杯傷付けて追い出した。人間を、その広大で深遠な感情をほとんど知らない彼であれば、きっともう近付いて来ない。元より、彼は審神者を憎み嫌いこそすれ、愛情を返す道理など微塵もなかった。結果的にはこれで良かったのだ。きっと長谷部は、自分ではない誰かと、幸せに生きることができる。

 漸く自分から離れてくれた、何より祝福すべきその事実に、しかし嗚咽が漏れて止まなかった。腕で目元を覆う。その暗さは、自分に科せられた罰のようだった。

 

 気が付くと陽はとうに暮れ、空には墨を溶かしたような深い藍色が広がっていた。審神者が時計を見ると夕食の時間だったが、部屋の外はしんとして何の気配もない。追い出したのだから当然なのに、長谷部が居ないことがまた心を刺した。

 身体を起こしはしてみたものの、食欲などまるで湧いてこない。ずっと畳の上で横になっていた所為か、身動ぎしただけでも肩や尻が痛い。湿っぽい溜息を吐いた。

 皆が揃っている中に顔を出すのは酷く億劫だったが、いつも通りに振舞わなければ結局長谷部は戻って来てしまうかもしれない。彼を嫌いだと言ったことが紛れもない本心で、訳の分からない罪悪感や悔恨など全く感じていないのだという風に振舞う必要があった。

 ――嘘なら得意じゃないか、と意地の悪い声が脳裏へ忍び込む。全くその通りだ、と嗤って首肯した。〝愛してる〟なんて、とんだ大嘘だ。

 重い身体を引き摺って食事部屋へ赴くと、既に審神者と長谷部以外の全員が揃っていた。乱や包丁が「遅いよー」と口を尖らせ、一期一振に窘められている。

「すまなかった」

 審神者が自分の席へ向かおうとすると、燭台切が声を上げた。

「長谷部君は?」

「……気分が良くないみたいで」

 後で様子を見に行くよ、と付け加えると、料理当番の一人であったらしい鯰尾が「お粥でも用意しましょうか」と手を挙げる。

「あー……そうだな、うん」

「大将まで具合悪いんじゃないだろうな?」

 歯切れの悪い審神者の様子に薬研が顔を覗き込んでくる。察しが良いのは、今この時ばかりは喜ばしくない。

「実はつい今し方まで寝てしまっていて……まだ頭が回らないんだ」

「何だ、そういうことか」

 寝すぎも良くないぞ、そう言ってにっと笑い薬研は席へ戻って行く。皆が笑っているのを見る限り、二人の間で何かがあったとは勘付かれていないようだった。

 和やかな休息の時間は何事もないように進んでいく。誰もが美味しい食事を口へ運び、他愛もない話をし、笑い合っていた。

(長谷部君を此方へ来させるべきだったかもしれない。明るくて暖かな場所に居なくてはならないのは、彼の方だった)

 男士達に気取られぬようにそっと箸を置き、審神者は長谷部が今頃――おそらく真っ暗な部屋の中で――どうしているかを考えていた。

 

 そろそろと廊下を進み、曲がり角では異様に緊張しながら厨房へ向かった長谷部は石切丸に出くわした。洗い終わっていた鍋などを拭いては仕舞っている。

「……っ」

「ああ、体調はどうかな。主から聞いたよ」

「俺は……問題ない。主は、夕食は召し上がられたのか」

「そのようだよ」

 それを聞き、長谷部は小さく息を吐いたようだった。それ以上は何も言わず、棚からグラスを取り出して水を入れる。

 部屋で何時間も蹲り泣いていた所為か酷く喉が渇いていた。人間の身体とは何と不便なものか、と肉体を得てから何度も繰り返した思いが脳裏に浮かぶ。だがそれは決して不満ではなく、寧ろ感慨に近いものだった。現世に顕れる肉体というのは、全てが理論通りに、理想通りに動く夢の機械ではない。それは自分が嘗て獲得し得なかった、不完全だからこそ愛おしい人間の身体なのだ。

 其処まで理解していながら、人間の感情や思考にまで深い考えが及ばないのは長谷部が付喪神であるが故の限界だったのかもしれない。

 それでも、審神者自身はきちんと夕食を摂ってくれたというのは、長谷部の思惑通りでもあった。二人の関係を他の誰かにちらとでも見せることを審神者は望まなかった。それが何故かは分からないが、皆の前では二人はただの主と近侍でしかなかった。だから諍いの片鱗すらも覗かせないよう、皆が集まる場所では何事もないかのように振舞うだろうと踏んでいたのだ。

 だから、長谷部が其処から逃げたのは審神者にとっては誤算だったかもしれない。本来なら一片の隙も残さぬよう、長谷部も席を共にすべきだったのだ。

 とは言え審神者は食事を摂ってくれたというのだから、長谷部にとってはそれで十分だった。――主は紛れもない人間であるのだから、御身体には気を付けていただかねば。

 全ての調理器具を仕舞い終えた石切丸は、何を言うでもなく長谷部をじっと見つめていた。グラスを干し、漸くその視線に気付いた長谷部が「何だ」とぶっきらぼうに問いかける。

「何か悩んでいるのかな」

「悩んでなどいない」

 素気ない即答に彼は苦笑する。

「あまり難しく考えずとも答えは見つかるよ。複雑だと思っていることほど単純で、単純そうに見えることほど複雑なんだ」

「何を言っている」

「悩みを知っている訳じゃないけど、まあ、アドバイスさ」

「……知らないのに何を言っているんだ」

「まあ、これでも御神刀だからね。多少のことは解るとも」

「……」

 注いでいた二杯目を一息に飲み干し、長谷部はほとんど叩きつけるようにしてテーブルにグラスを置いた。

「何もないと言っているだろう。この話は終わりだ」

「はいはい」

 背を向けて足早に去って行く長谷部にまた苦笑し、石切丸はグラスを洗うべく手に取った。

 

   3

 

 灯りも点けない部屋の中、天井の木目を見つめてぐるぐると考えるのは長谷部のことだけだった。

 これでよかった。これでよかった。これでよかった。これでよかった。――

 朝はすぐに来た。

 

   4

 

 一夜明けた今、毎朝のように気安く審神者の部屋へ赴く訳にもいかず、自分はどう振舞うべきかと長谷部が自室で悩んでいる間に良く見慣れた人の影が落ちた。

「長谷部君」

 声は奇妙に凪いでいたが、あくまで普通に振舞うべきだと自分に言い聞かせた結果なのだろうと長谷部は想像した。主は自分よりも遥かに長く人間をやっているのだから、そのくらいは朝飯前なのだろう、と。

「今日は一日、休みにする」

「は」

「今は特別要請もないし、一日くらい休みにしたって誰も咎めやしない。折角春が近付いて来ているのだからそれを楽しんだって良いだろう。……まあまだ花見には早いが。皆には朝食の席で知らせるよ。君も同席するだろう? 食事はきちんと摂った方が良い」

 其処で一息置いて、

「もう一つ、君に言うことがある」

「……はい」

 長谷部は緊張した面持ちで審神者の言葉を聞いていたが、置かれた一拍に気付いたのは、その声は真に穏やかだということだった。自分に強いているのでも皮肉を込めているのでもない、満ち足りた日の夜に長谷部へ向けていたような声。障子に映る影は微動だにしなかった。

「あのね」

 

 夜まで待つのは骨が折れた。逸る心を苦労して抑えながら、何度も何度も繰り返し頭の中で思い描いては耐えていた。

 空も辺りの空気も深い紺青に沈み、窒息してしまったかのように静かだった。これが此処での—何もかもから隔絶された本丸での、いつもの夜だった。賑やかなのをあまり好まない審神者は、この時間が一等好きだった。

「私は夜が好きなんだ」

 長谷部は答えず、代わりに涙で潤む瞳を審神者へ向けた。

「静かで昏くて、この世に二人きり、他には誰も居ないように感じられる」

 へし切の鯉口を切った微かな金属音すら淀みなく響き渡って消える。すらり、と刀身が抜かれ、部屋を充たす淡い橙色の光を弾いて皆焼が滲む。

「二人だけの世界を守る為にはこうするしかないんだ」

 分かるだろう? と首筋に刃を当てられ、頷くことも首を振ることもできず、長谷部は恐々口を開いた。

「お、俺には良く……分かり、ません」

「ああそう」

 じゃあ言い換えてあげようか、と首を傾げながら、審神者は手を僅かに動かした。ぶつり、と皮膚の切れる音が耳へ入り込み、長谷部は小さく悲鳴を上げる。

「長谷部君を愛しているから、こうするんだよ」

「俺、を……」

 刃は力を込めずとも奥へ奥へと肉を割いていき、やがて内頚静脈を、総頚動脈を断ち切り、首から出ているとは俄かに信じがたい量の鮮血が迸った。身体を流れる血がどっと溢れ出していく感覚に背筋が冷え、長谷部が震える手で首を抑えるとあっという間に血塗れになった。その尋常でない出血量。

「主、主、これ……」

 怖い、と上手く言えなかった。長谷部には恐怖というものがほとんど分からないからだ。ただ思考を侵す寒気のようなものに、長身を赤子のように丸め、主、主と必死で縋ることしかできなかった。

 審神者はにこにこと微笑んで、そんな長谷部の頭を撫で続けている。血に濡れたへし切はその傍に置かれていた。長谷部はそれとも知らない死の恐怖に怯えているのに、満足そうな顔をして髪を掬ってはさらさらと落としている。――そうであれば、信じるべきなのだろう。

 しゃくり上げるようにして息を吸い、情けなくなるほどみっともなく震えている声を絞り出した。

「あ、主」

「うん?」

「ほ、本当ですか、あ、愛して、くださって、」

「本当だとも」

 長谷部が何度尋ねても、審神者は応えてくれた。

「愛しているからだよ」

 ――それなら、多分、此処で死んだとしても、それは俺の本意なのだ。俺は幸せなまま、――

 審神者の腕に縋り付き握り締めていた手がぱたりと落ちる。無理矢理に作ったような笑顔で、長谷部は事切れた。出血はほとんどなくなって、床の血溜まりに波紋を落とすだけとなっていた。

 力の抜け、重くなった長谷部の身体をそっと横たえて、審神者はそれを見下ろした。

「真実本当だよ」

 君を愛している。

 

   5

 

 部屋に来るなと告げられた時はショックを受けたが、それも今では仕方のないことだと思えるようになっていた。答えを返せなかったことで間違いなく審神者は誤解していた――そもそも誤解だと言い切れる自信は既に失かったが――し、第一今回の切欠になった件は完全に片付いていない。まずはそれを済ませてしまわねば、出て行けと言われた以上合わせる顔もない。億劫だったが、長谷部は腰を上げた。

 奴は自室に居た。長谷部の顔を見るとそわそわした様子で立ち上がったが、その表情から全てを察したようだった。

「昨日も言ったが、俺は応えられない。いや、応えない」

 事情を説明できないのが苦しかった。結果的に審神者との関係を――「異常だ」と自らを断罪するほどのその行為を知られてしまえば、例え長谷部が審神者の元に戻ったとしても手放しで喜ばれはしないだろう。理由を審神者一人に負わせるような真似はできなかった。だから長谷部は言い直した。

「俺を幸せにできるのは、お前じゃない」

 やはり主である人間が一番大切なのかと問われ、勿論そうだ、と長谷部は即答した。だがそれは理由ではない。

「幸せにできる、だなんて傲慢だ。俺が幸せかどうかは俺が決める」

 正しいのかなんて分からない。長谷部は人間の身体を持ってはいても、人間ではない。それでも長谷部の心はとうに審神者が持って行ってしまっていて、それを誰かが横から掠めることも、その中へ入り込もうとすることもできやしないことは胸が裂けるほどに理解していた。それを望んでもいた。今までの行為を含めても尚、そう思ってしまう――自分でも笑ってしまうほど、愚直にそうとしか思えなくなっているほどに。

 長谷部の言葉を聞いた相手は苦笑を漏らし、それなら仕方ないと肩を竦めた。随分と諦めの良い様子を訝しむ長谷部に、もう心に決めた誰かが居るようだからと説明する。その言葉に、長谷部の方が気不味くなった。

 部屋の前で別れ、自分の部屋へと戻る間にも考えは上手く纏まらなかった。命令に背くのは気が進まなかったが、たった今話してきたことを報告すれば少しは気を晴らしていただけるかもしれない。だが、その前に「嫌い」な俺の顔を見せただけで、主をまた怒らせてしまうかもしれない。しかし、このままでいても、何も変わらない――。

 そしてその日の夜遅く、自然と足は執務室へ向いていた。毎日、毎晩訪れる場所だ。身体が覚えていた。

 三度目の拒絶を全身が忌避するかのように長谷部の足は重かった。空気が纏わり付いて上手く歩けないかのようだった。用意してきた一言目を何度も復唱して気を紛らわせた。

 身体へ気持ちが追いつかないままに執務室の前に着き、長谷部は灯りが点っていることに何故かほっとした。淡い橙色は自分を拒絶せず受け入れてくれているように感じるからかもしれない。聞こえないように咳払いをして、詰まりかけていた喉を開かせた。

「……主、お話が」

 声はすぐ返ってきた。

「何かな、長谷部君」

 

   6

 

 何故? それは、君を愛する為に決まっている。

 何も望まない、何も考えない。普通を、自分以外を知らないままでいてほしい。

 どうか、

 

   7

 

「……それで、俺の、いや、長谷部を……? 」

「誤解しないでほしいのだけど、他でもない君を愛しているからこうしたんだよ。君は悪くない。私が君を愛し続ける為にはこうする必要があった。何処にも行かないでほしかった。足を捥いだり目を抉ったりすることも考えたけれど、……それでは心が離れていくのを止められない。何も考えられなければ、一緒にいるのが私でも君は幸せで在り続けられる。生きていなければ、ずっと二人で、幸せになれる」

「でも……それは……」

 審神者の腕の中にあるのは長谷部の死体ではない。審神者は長谷部に向かって譫言のような言葉を続けているが、長谷部にはそれが何方に向けられた言葉なのか少しも理解できない。

 糾弾すべきかもしれなかった。或いは自分でない男士を部屋へ引き入れたことを、或いはその人物を殺すなどという危険を犯したことを、或いは――自分でない誰かを長谷部であるかのように扱って、その身体を抱きながら泣いている、ことを。どうして責められようか。それはとても複雑すぎて長谷部には理解できず、だからこそ今審神者に対してどんな感情を持つべきなのかも分からなかった。

「主、どうして、泣かれているのですか」

「分か、らない」

「どうして、それを」

「君を、殺す訳にいかないだろう、君は何一つ悪くないんだから、幸せにならなきゃいけないんだ」

「ですが、主は俺を、その、好いてくださっているのではないのですか」

 どうしてまだ分からないのか、という絶望の黒い靄が審神者の目を一瞬過って、長谷部はまた喉が詰まった。

 腕の中の長谷部は身動き一つしない。ただ審神者に抱えられ、揺すぶられ、撫でられるだけの存在だった。

「好きだよ。今までこんな気持ちになったことはなかった。何もかもを捨てても君を幸せにしたいと思ったことも君の何もかもを壊し尽くしてしまいたいと思ったことも初めてで、それが叶うなんて思っていなかった。嬉しかったよ、本当に。でも君が――外見も能力も性格も全てに秀でている君が、ずっと私の元に居てくれるなんて思うほど浮かれてはいなかった。釣り合わないというだけじゃない、私は君に苦痛以外何も与えられない。君の血は芳しかった、臓腑は美しかった、肉は美味しかった。幸せだった。だけど本当は、ずっと悩んでいた。きっと私以外の誰かなら、君にこんなことをせず、場合によっては快楽を与えて、幸せにするんだろうと思ったし、その誰かが現れれば君は迷わず其方を選ぶに違いないと思った。いざそうなっても長谷部君は近侍であり忠臣であるから、面と向かってそう言わないのも分かっていた。だから今回のことは絶好の機会だと思った、そうなる筈だった。これで君は誰かを愛することができるんだと思った。散々に罵られた君は私を見限って彼の所へ行き、それで幸せになれば私もそれで良いと思い込もうとしたけれど、どうしても駄目だった。君が居ないのに耐えられなかった」

 今まで行き場のなかった心情が、流れ出すように吐露されていく。

「でしたら、そう仰ってくだされば……」

 事は簡単に済んでいたのではないか、と長谷部は思った。

「主に当たる人間から惨めに縋られれば、君が何処にも行かないことぐらい想像できるよ。だけどその後君は一生後悔し続けるだろう、こんな人間のお守りをしなきゃいけないんだから。或いはふと周りを見渡して、自分以外の誰もが普通の幸せを得ていることに気付いて私を疎み始めるんだ。それが怖いのに、何を言えば良い?」

「……怖い?」

「怖いよ」

 審神者はあっさり答えた。

「一度手に入れた君を失うのが怖い。隣に居る君が私を悪し様に思っている可能性が怖い。陵辱されている最中の君が本当は他の誰かを想っているんじゃないかってことが怖い」

「……だから、だから俺を突き放して、俺の代わりを死体に」

「そうだよ。……それなのに、どうして此処に? 来るなと言ったのに」

「……それは、昨日のことに始末を付けてきたからです。信じていただけないかもしれませんが、俺も、主のことを」

 哄笑が上がった。突然笑い始めた審神者に長谷部は目を丸くし、続く言葉を失った。

「愛しているとでも? 聞いたかい、長谷部君」

 審神者は死体をぐいと抱き寄せ、その頬を撫でながらくすくすと笑っている。

「そうだろうな、そうに決まってる。君はもう死んだんだから、私のことも愛してくれるよな。おや、どうしてそんなところに突っ立っているのかな。此方へおいで、長谷部君」

 今度こそ愕然として、長谷部はその場に立ち竦んだ。酷く単純な真相をあれこれと捏ね回して自ずから複雑にしていた結果が、これだ。

 おいで、と再度呼びかけられて、長谷部はふらふらと歩み寄った。立ち続ける気力もなくすとんと膝を突いて正座の形を取ると、そのまま審神者に抱き寄せられる。死体はその膝の上に転がっていた。

 頭を撫でられたことがない訳ではない。こんな場所で撫でられたことがなかっただけだ。審神者の様子がおかしいのだからそんな場合ではないのに、長谷部の頬は熱を持った。

「ずっとこうしてみたかった。普通の恋人みたいに抱き合って、血なんか少しも流さないまま、長谷部君に触れていたかった。死体になってからじゃないと叶えられないなんて、臆病もいいところだな……。あまり長いことこうしていると、また君に非道いことをしたくなるから、……後少しだけ」

 幾らでもして頂いて構いませんよ、と言おうとして、言えなかった。止め処なく溢れてくる涙で息が詰まりそうだった。

「君に触れたかった。胸を張って隣に立ちたかった。色んな所へ行って、笑った顔を見たかった。――――。……全部、もう叶わないな」

 最後に一度だけ髪を撫で、審神者は手を離した。長谷部は意を汲んで身を離し、姿勢を正す。目の前にある長谷部の顔をまじまじと見て、審神者は不思議そうに言った。

「どうしたのかな、長谷部君。もう遅いよ。明日も出陣があるんだから、早く寝ないと」

「主……はい」

「うん」

 ひらひらと手を振って、審神者は長谷部を見送る。部屋まで送って行こうか、という申し出は辞退した。今は一人になりたかった。

 心配せずとも、審神者の傍には長谷部が付いている。

 

   8

 

 空は遥か向こうまで青く、夏の光はじりじりと肌を焼いた。はい、と差し出された瓶に口を付けると口の中で一斉に何かが弾ける。長谷部は思わず仰け反った。

「あれ、サイダーは初めてだったかな」

「はい。……少し驚かされました」

「はは」

 だが今日のような陽気の日にはとても美味しく感じられた。店の軒下で瓶を傾けていると、全身に滲んでいた汗も幾分引いていくように感じられる。

「もう一本要る?」

 冗談めかしてそう言う審神者へ、長谷部は微笑んで首を振った。

 

 長谷部を生きているものとしても死んでいるものとしても扱うようになった審神者に、長谷部自身は何も口を挟まなかった。

 死体はもう無かった。審神者が傍を離れている間に折れたへし切だけを残して消滅していて、長谷部はせめてもの償いにとそれを丁重に葬った。或いは偽善であったかもしれないその行為は、長谷部の心の裡だけに留め置かれた。

 誰も審神者の変化に気付かなかった。変わったのは長谷部という個体の認識だけなのだから当然と言えば当然のことだったが、長谷部が審神者の為に一層心を砕くようになったことに気付いた者も誰一人いなかった。

 ただ石切丸にだけ、「助言感謝する」とこっそり告げると彼は何でもないことのように笑っていた。それ以上首を突っ込んでも茶化してもこないのは流石御神刀というだけあるな、と長谷部は変な感心の仕方をした。

 夜の行為は相変わらずだった。もしかすると、以前よりも苛烈さを増していたかもしれない。もう長谷部が離れていく心配をする必要はないのだから、その〝愛〟を存分に行使できたのだ。しかし長谷部はというと抵抗も拒絶もしなかった。それ以外、彼は何もできなかった。

 審神者が正気を手放す最後の瞬間に口にした本当の願いを、彼は叶えられないと知っていた。

 

「毎日暑くて嫌になるな」

「そうですね。もう少し休んでいかれますか?」

「いや、そろそろ帰ろう」

「はい、主」

 空になった瓶を二本、店先のケースに返し、審神者は炎天下を歩き始めた。長谷部もその後を追う。

「人間の身体は不便じゃないかい、こうも暑いと」

「そうでもありませんよ。俺には何もかもが新鮮です」

「なるほどね」

 ハンカチを取り出して額や手を拭ってから、審神者はおずおずと長谷部の手を取った。

「……主?」

「長谷部君が死体になる前は、こんなことできなかったものな」

 長谷部が自分を拒絶しないという確信が得られるまで、こんな関係は望むべくもなかった。今ならそれを恐れることもない。

「……」

 一瞬唇を噛み、強いて笑顔を作って長谷部は手を握り返した。審神者は少しだけ目を瞠る。

「止めようか? ……暑いだろうし」

「いいえ。……俺も、こうしたいんです」

 その手を離すまいと強く握った。

 

 死体は何も考えない。喜怒哀楽はおろか、贖罪など思いも寄らない筈だ。 

 だからこれは決して贖罪などになり得ない。――あの人がただ一つ望んでいた酷く単純な感情にも、決して。

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