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オリーブの枝を手折ること


「主……」
 弱り切っている長谷部を見下ろす審神者の表情は暗い。求められて加害することなど、これまでもこれからも無いものだと信じ込んでいたからだ。
 それでも長谷部はそれを望んでいて、審神者の手にはへし切が握られていた。

   1

 

 一体いつのことだったのか、おそらく審神者と冠される存在の誰一人として正確には把握していないのだが、〝高速槍〟なる存在が突如として戦場へ姿を現し始めては猛威を奮っていた。
 政府はこの事態を把握していたのかしていなかったのか、おそらく存在自体は誰より早く知っていたものの対応は各自に一任、ということだったのだろうが、ともかくこの得体も知れない新たな敵により、現地へと遣わされた部隊は散々に撹乱された。
 今でこそ投石や銃で早めに潰す、先手を取れるよう修行済みの短刀といった機動の高い男士を部隊に組んで出陣するなどの対策が広く知られるようになっていたが、依然彼等は神出鬼没であり、男士達を容赦なく負傷させてくる面倒な敵であることには違いなかった。

 これまでに十分な戦果を上げていたこの本丸でも、先例に漏れず池田屋周辺への出陣が進められるようになっていた。
 池田屋事件のあったまさにその時代その場所への出陣を促す政府からのアナウンスには、今回遡行手段の確立した戦場は市街地であり夜戦を強いられること、その為馬に乗ることはできずまた短刀や脇差以外の戦力は格段に落ちてしまうことなどが書かれていた。
「とは言え、短刀と脇差か……。十分に練度の高いのは誰がいたかな」
「平野、薬研と厚、それに鯰尾と言ったところです。骨喰はまだ実戦には耐えないでしょう」
「一人足りないな……。この際打刀でも構わないだろう、市街地でも遠戦は効くようだし耐久も高い。倶利伽羅君辺りどうだろう」
「奴は練度も高いですし良いのではないかと」
「よし、じゃあそれで行こうか。部隊長は長谷部君で……慣れない戦場だけど、大丈夫か」
「はい、問題ありません」
 うん、と頷いて審神者は立ち上がった。今決めた部隊員を再度指折りしながら確認し、早くも好戦的な光を目に宿しつつある長谷部を一瞥する。
「私は皆に声を掛けてくるから、君も準備をしておいで。出陣は三十分後で良いね」
「はい」
 二人は執務室を出ると、それぞれ目的の方へと歩いて行った。文机の上では端末のディスプレイが静かに光っている。少しの間瞬いた後で待機状態に入り、ふ、と画面が消えた。

 部隊員に選んだ五人へ出陣の旨を告げ終わった審神者が執務室へ戻って来ると、防具を装備した長谷部が部屋の前で待っていた。装備の所為か一回り大きく見える筈のその姿も、何故か儚く、心細く見えた。まだ長谷部の立つ場所までは距離があるのに、審神者は気が付くと大声で呼びかけていた。
「長谷部君!」
「あ、主……仕度は終わったのですが、まだ時間があったので、その」
「ああ、構わないよ。中へおいで」
 審神者が執務室へ入ると、その後ろから長谷部が大人しく付いて来る。普段は聞こえない、防具の触れ合う硬い音が部屋の空気を静かに掻き混ぜる。部隊長である長谷部の――そして何より自分の緊張を解そうと、審神者は座布団に腰を下ろしてから努めてゆっくりと言葉を紡いだ。
「もう一度、最後に確認しておこうか。出陣先は京都市中、部隊は先に述べた通り。敵の短刀や脇差には特別注意する必要があるだろう」
「はい、主。此方は市街戦、夜戦共に経験はありません。偵察に注力し、これまで以上に慎重に進みます」
「ああ、無理だと思ったら躊躇わずに撤退するように」
「はい」
 いつの間にか長谷部の顔からは不安がさっぱり拭い去られて、これから部隊を率いて出陣するに相応しい武人の表情だけが其処にはあった。
「そろそろ時間だろう。見送るよ」
「ありがとうございます、主」
 二人が玄関へ向かうと、既に他の部隊員達はすっかり仕度を終えて長谷部を待っていた。
「主、行って参ります。必ずや最良の結果を」
「ああ」
 それだけ言うと長谷部はばさりと背中を向け、部隊の先頭に立って門へと歩いて行った。平野、薬研、厚、鯰尾、大倶利伽羅の五人はその後に続きながら、銘々に「行ってきます」「行ってくる」などと審神者へ告げて前を向く。既に行き先の座標は設定済みだった。視認している筈なのに視認できない、靄のかかったような曖昧な色と形をした門の中へ、一人、また一人と形を歪ませ或いは失いながら消えて行く。
 いつまで経っても慣れないその奇妙な旅立ちは、メカニズムを知っているからこそ審神者にとっては一層歯痒いものだった。自分だけは所詮人間の身で、過去へ遡行することも皆へ付いていって何らかの力になることも決して出来はしない。
 かと言って本丸でただ帰りを待つだけというのも審神者の性には合わなかった。門から目を離し、審神者として――本丸の指揮を執る者として少しでも相応しく在る為に、向かった先は政府からの資料や情報が蓄積された端末の待つ執務室だった。

 凡その所要時間が分かっている遠征とは異なり、通常の戦場への出陣は部隊の帰還がいつになるか分からないのが常だった。とは言え六人もの人数が一斉に帰還すれば、敵を斬ったばかりの昂揚感も手伝って玄関が非常に騒がしくなるのも常だった。
 がやがやと騒ぐ声が微かに流れてきて――と言うのは執務室は本丸の中でも一つだけ他から離れた場所にあった――審神者は端末から顔を上げた。第一部隊が帰還したか、とそわそわしながら玄関の方を見遣り、今後の戦いに向けた部隊編成を考える為に男士の一覧を表示させていた端末を待機状態にする。
 続きは報告を聞いてから長谷部とゆっくり話し合おうと考えつつ、審神者は皆を迎えるべく玄関へと向かった。

「槍……?」
 帰還した六人は皆揃って手酷い傷を負っていた。これまでの戦からある程度の負傷は覚悟していたが、それにしても今日のこの怪我は今までに見てきたものの中でも群を抜いて痛ましかった。普段は刀装として装備している兵達が身代わりとなり、遡行軍の攻撃を幾らかその身に受けて刀剣男士を守ってくれるのだが、例外として敵の槍だけは彼等が勢いを削ぐ暇もなく真っ直ぐに男士の身を刺し貫いてくる。審神者でも目で見て判るのは、その傷が刀で切り付けられた時よりも深く、残忍に抉られているのが一目瞭然だったからだった。
「はい、非常に速く、しかも手強い槍でした。僕達は敵の死角へ何とか回り込むことができましたが、短刀以外の皆さんではなかなか破壊することもできず……」
 皆を代表して説明するのは平野だった。右肩と脇腹に酷い傷を負っていて、服にはべったりと血の染みが出来ている。他の面子も似たようなもので、腕や脚、或いは胴に肉まで抉り取られるような深い傷を受けていた。
「かなり慎重に進んだんだが、道がかなり入り組んでいてな。敵の大将を討ち取ることはできなかった」
 それから薬研が言葉を引き継いで言った。しかし第一部隊の部隊員達に悲壮感はあまりなく、どちらかと言えば未知の敵に対して力が及ばなかったことに対する口惜しさ、早く再戦を挑みたいという闘争心が音もなく燃え盛っているように審神者には感じられた。
 速く硬い槍、道の分かりにくい市中、短刀が圧倒的に有利な戦場……。一度戦略を考え直す必要があるな、と頭を最大限に働かせていた審神者は、其処で漸く部隊長の存在を思い出した。
「長谷部君は何処だ?」
 審神者が一声呼ぶと、びくりと身体を震わせる塊があった。皆が一斉に其方を向くと、これもまた傷だらけになった長谷部が腹を押さえて俯いていた。はい、と潰されて絞り出されたような声で返事をするが、その声も審神者の安堵に満ちた声で掻き消された。
「何だ、居るじゃないか。君からの報告は後で聞くとして、手入れをしなくてはならないな。傷が酷いのは短刀、脇差の四人か……まず一番怪我の重い二人から来なさい」
 散々に譲り合い、結局平野と厚がまず手入れを受けることになった。幸い、短刀の二人は手入れに要する時間も短いので、残る四人全員の手入れも直に済ませることができそうだった。
 それまで三人には自室待機を命じ、長谷部を連れて審神者は再度執務室へと戻って行った。

   2

 カソックだけでなく身に付けている衣服と防具のどれもが血と埃で汚れており、長谷部は勧められるままに腰を下ろすことを暫し躊躇ったが、結局は審神者が「座りなさい」と言うのでその言葉に大人しく従った。右手にずっと携えていたへし切もそっと床へ下ろし、腹に当てた手はそのままで長谷部は審神者へ正対した。視線だけは依然泳ぎ続けていた。
「誰一人欠けることなく帰還して安心したよ。お疲れ様」
「……はい」
「怪我も重傷とまではいかなかったようで良かった。皆が言っていた槍というのは、君から見てどうだった?」
「……速かった、です。不甲斐ないですが、俺でも先手を取ることができませんでした」
「君でも抜けないならそれは誰にも抜けないだろう、そこまで自罰的にならなくて良い」
 成程、先からの悄然とした様子はその所為だったのか、と審神者は少しばかり胸を撫で下ろしていた。確かに長谷部なりの矜持のある部分がへし折られたというのは事実なのだろうが、審神者はてっきり彼が何か取り返しのつかないような失態を犯しそれを悔いているのではないかと思っていたのだ。失われたのではなく損なわれたのであれば、それはまだ取り返すことができるということだった。
「例の槍については私も情報を集めて編成を考えてみるとするよ。まあそれは追々やっていくとして、今は君の身体を治さないとな」
 びく、とまた怯えたように長谷部が身を竦める。眉を顰めた審神者が怪訝な声で「長谷部君?」と呼ぶと、長谷部は突然に「ごめんなさい」と喉を震わせた。
「は?」
「主、申し訳ありません、傷を、主以外に、身体を、」
「何だって? 何を言っているのか分からない」
 泣きそうな肺を大きく震わせて空気を吸い、長谷部は異様なまでに透明な涙と一緒に言葉を零した。
「主以外に、こんな、こんな深く、傷を付けられて、俺、……」
「……見せてご覧」
 被せられていた左手は僅かな抵抗をしたが、それも自らの〝主〟に対しては酷くささやかなものだった。審神者が除けさせた手の下、大きく抉られた腹部は垂れ下がる肉の切れ端とぬめって光る臓腑の一塊、それら全てが血に塗れた姿を覗かせていた。それは嘗て見たことのない、敵による単なる刀傷では絶対に見られなかった光景だった。――つまり、今日が初めての邂逅であった未知なる敵が処女地を荒らしていった他ならない証拠であった。
「見ないでください、主」
「……君の方が皆より余程深手じゃないか」
 痛々しい顔をして零されたその言葉も、今の長谷部にとっては自分を責めているようにしか聞こえなかった。
「ごめんなさい、主、こんな……」
「どうして謝るんだ、痛かったろうに」
 労わるように撫でる手付きは夜のそれとは全く異なっていて、そのことが長谷部の胸を一層締め付けたらしかった。
「俺は……俺は、こんな傷を負わされたのは、初めてで」
「うん」
「帰り道、主に、どんな顔をすれば、……主でない奴に、こんな深くまで、暴かれて……ごめんなさい、主、ごめんなさい」
 自分のハンカチを取り出して気休めにしかならない止血をしていた審神者にも、途切れ途切れの言葉から漸く事情が掴めてきた。
 勿論考えたことがない訳ではなかった。長谷部はへし切を振るい、何処の馬の骨とも知れぬ歴史修正主義者とやらを切り裂いてその血を浴び、或いはその刀で身に傷を負わされる。想像するだに不快な光景ではあったが、しかしそれも長谷部が刀剣男士である故のことだ。刀剣男士としてこの世に顕れ生を得た長谷部のことを審神者は愛していたのだから、全て織り込み済みという話ではあった。
 まさかその、覚悟とも言える半ばの諦めを長谷部が持たないままであったとは誰も想像していなかっただろう。審神者すらもそんなことは想定外で、だからこそ今長谷部に何と声をかけるべきか一瞬の間逡巡していた。
「……確かに、考えたこともないではない」
 声は長谷部の腹に穿たれた穴へと落ち、歪に収縮してごろりと固まった。黒いタールのようなそれが、長谷部の意識を少しずつ灼き始める。はっと目を瞠り、彼は己の主の顔を見た。
「だが考えたところで仕方のない話だ、そうだろう? 私が何より好きな君は刀剣男士で、そもそも戦へ向かっては敵と切り結ぶのがその使命だ。君が戦場で傷を負わされることなども全て呑み込んで尚、君のことが私は好きだった。だから私は何とも思わない。君が気に病む必要など何処にもない」
 或いは自分へ言い聞かせる為の言葉だったのかも知れないが、どうやら長谷部はその言葉によって少しは落ち着いたようだった。「主」と彼は言う。
「俺、主以外に傷を負わされることを嫌だと、初めて感じました」
「だからずっと、傷を隠そうとしていたと?」
 普段は部隊の誰よりも先に報告しようと、あわよくば他の誰にも審神者へ直接の報告をさせないようにするのが長谷部だった。今日のように隅で身を潜め、何も言わずにいること自体がおかしかったのだ。
「主に知れたら、きっと落胆されるだろうと、そうも思いましたが、……何より俺自身が嫌だったんです。俺は、主だけが良かった……」
「落胆? そんなもの、……」
 だが本当にそうだろうか? 今この瞬間、自分は少しも瞋恚や嫉妬心を燃やしてはいないと断言できるだろうか? 長谷部の身体を蹂躙するのは自分だけだという醜い独占欲を抱いていないという自信なんて一体何処から湧いてくるというのか?
 実のところ長谷部は何もかも理解していて、万一審神者に知れてしまえばその結果として自分を待つものは落胆のみならず激しい怒りと無関心、そして最後に導かれる「汚れた身体などもう要らない」という結論だけをただただ恐れていたのではないかと、審神者にも薄々分かっていた。長谷部は棄てられることを極端に恐れている。それは即ち、棄てられることの近因だけでなく遠因となり得るあらゆる事象を、感情を、行動を恐れているということに等しかった。
「……君へ嘘を吐いた」
「?」
 ――恐れを抱かせたのは自分だ。その身が傷付くことに怯えなどしない筈の刀剣男士に、瑕を負うことへの不要な恐怖を植え付けたのは他でもない自分の行為だ。であれば泥を被るべきは自分だろう。それで長谷部が心安らげるのであれば、幾らでも。
「本当は、……君を傷付けられて嫉妬している」
 か細い息を飲み込む音がして、長谷部は僅かに身を縮こませた。審神者の言葉の後に続くものが折檻か遺棄か破壊か、……考えるだけでも息を詰まらせるほど、それは恐ろしい未来だった。だからこそ、審神者は今、嘘を吐かなければならなかった。
「だから君の身体から、その痕跡を消してしまいたいと思っている。だがこのまま手入れしたところで、周りの肉が穴を埋めて塞いでいくだけなのは分かるだろう? ……それでは駄目なんだ、君が敵に肉を貫かれたという痕跡が其処に残り続けてしまう。だからせめて〝貫かれた〟という事実だけが残るように、君の身体はまだ真っ新なままであるようにしておきたい」
 そのまま傷に響かないようにそっと肩を抱かれ、長谷部は理解の追いつかない顔をして審神者を見た。在るのはいつもの-夜の閨での昏さはなく、ただ長谷部を案じている時の顔だった。
「主」
「君は何も心配しなくて良い」
 その言葉は審神者が自分自身に言い聞かせているようでもあった。
「今綺麗にしてあげるから、君は何も考えなくて良い」
 少し待っていなさいと言われ、長谷部はそのままじっと座って審神者を待った。見捨てられなかった、この身を綺麗にして、また傍に置いていただける、ああでもやはり主には見られたくなかった――ぐるぐるとそればかりを考えていると直に審神者が戻って来て、「手入れ部屋へ行こうか」と優しく告げた。

 手入れ部屋には誰の姿も見えなかった。夜であれば何の違和感もない見慣れたその光景も、部隊員全員が手入れを必要としていたあの状況の後では些か不自然に見えた。長谷部の疑問を先回りするようにして審神者が口を開き、
「皆の手入れはもう済ませた」
と言った。それで長谷部も札を――手入れという名の修復処理を高速化するためのパッケージを――使われたのか、と合点がいった。
「さ、傷を見せて」
 事もなげにそう告げる審神者の手にはへし切がある。勿論、これから手入れをしなくてはならないからだ。これも血や砂埃で散々に汚れている拵が目に入り、長谷部は羞恥で死にすらしてしまいそうな心地だった。せめて綺麗にしてから主の手にお渡しすれば良かったと、その程度のことも思い浮かばないほどに狼狽し続けていたことの証左を突き付けられている気分だったのだ。
 気は進まないながらにカソックを脱ぎ、カマーバンドを外し、シャツの釦を一つずつ外していってそれも脱ぎ去ってしまった。肩や胸に比べて装甲の薄い――と言うより身を守る防具が何もない腹部はやはり傷が深かった。上腕などにも切っ先が掠めた痕は残っていたが、腹に開いた二つの穴に比べればほんの小さな傷にしか思えなかった。
 その分、腹の傷は何度見ても痛ましかった。今や酸化し始めて黒ずんだ血が全てを虚ろに見せていて、其処に美しさは欠片も存在しなかった。思わず眉を顰め、審神者はへし切の鯉口を切った。
「長谷部君」
「はい、主」
 気が進まなかった。その内心を敏感に悟ったのか、長谷部はまた俯きがちになって「ごめんなさい」と繰り返した。
「君が悪いんじゃない。それを許せない私の利己が悪い。……ともかく、今から君の瑕を切り取って、その上ですっかり治してしまうつもりだ。君が負ったのも、私が治すのも、ただ私が君へ与えた傷だけだということになる。槍で貫かれたということは単なる事実、概念としてしか残らない。それで瑕疵はないだろう?」
「……はい、俺には勿体ないほどです。ありがとうございます、主」
「……」
「切ってください、どうか」
 たった数時間で憐れなほどやつれ、弱々しいごめんなさいを時折唇から漏らす近侍の姿を審神者は見下ろした。――嗚呼、君のこんな姿は見たくなかった。私の嗜虐を求めるような、そんな姿は。しかしそんなどす黒い感情すらもただただ呑み込んで長谷部を救うと決めたのだ。それなら自分は肚を括らねばならなかった。
「……」
「……、っぐ」
 布団の上に寝かせた長谷部の腹をずぶと刺す。そのまま刃を動かすことを後二度ほど繰り返し、長谷部の腹に空いていた穴の一つはすっかり切り取られて審神者の掌中にあった。
「あっ、主……と、取れましたか? 俺は、俺、……」
「……」
 審神者は尚も無言でもう一つに取り掛かり、長谷部の身体には穴というよりも欠損と言った方が相応しいような四角が穿たれた。言うまでもなくそれは長谷部に相当な痛みをもたらしている筈で、切り刻んでいるだけの審神者ですら顔を歪めて手の中の肉片を握り潰しそうになっていた。
 切り取るのは腹だけで大丈夫だろうと判断し、審神者はへし切を鞘に収めてから手入れに取りかかるべく必要な道具を用意し始めていた。長谷部は既にほとんど気を失っているらく、時折小さな呻きを漏らすだけだった。それならばもう嘘を吐く必要は何処にもなく、審神者は一刻も早く長谷部の身体を治してやりたかった。
「……長谷部君」
 だが札は使わなかった。使えなかったのだ。そうして長谷部がすぐに目を覚ましたところで、平静を装った顔で接することのできる自信が今の審神者にはなかった。長谷部の全身に触れ、何も心配することはないのだと伝えてやりたかったが、しかし今は夜ではなく、此処は寝室でもなかった。手を伸ばせばすぐに届く距離で少しも触れられないまま、審神者は眠り続けている長谷部へ独り言を零す。
「君は馬鹿だ、ただ生きて帰ることだけを心配していれば良いというのに……私だけが良かった、などと……」
 ごめん、と今度は審神者が呟き続ける番だった。長谷部が目を覚ますまでは四時間ほどかかった。

   3

 その日の夜、執務室の灯りは煌々と夜闇を照らしていた。審神者は一人で文机に向かい、端末の画面をひたすら繰っては情報を集め続けていた。机上には得られた中で有益そうな情報だけを書き散らした紙片が散らばっている。
 政府から支給された端末でできることなど高が知れている。基本的には一方的な通知の受信と本丸に居る刀剣男士の機械的な管理、資源や道具の管理程度にしか役立たない。それでも一応ネットワークには繋がっているので、時には買い物をしたり、そして時にはこうして情報を集める為のデバイスとして用いることはできた。無論ある程度の制限はかけられているようだったが。
「現在、〝高速槍〟の先手を取る手段は見つかっていない、か……。池田屋へ出陣する時は負傷覚悟でないといけないということか……」
 それはつまり対策など存在しないということに等しかったが、それでも遠戦の可能な刀装を装備することで間合いに入る前に潰してしまえる可能性はゼロではなくなることが分かったのは収穫だった。現時点ではそれだけでも攻略法としては十分なのだろう。歴史修正主義者側がどうやってそんな強敵を用意してきたのかは分からないが、所詮はただの槍、死ぬまで殺せば死ぬのだ。
 取り敢えず、当面は短刀の練度を上げることと刀装を十分に用意すること、それに編成を工夫することの三つの手は打てそうだな-などと審神者が端末を眺めながら考えていると、気付かぬ間に障子戸に落ちていた影が「主」と声を発した。
「ん?! ……あ、ああ、長谷部君か。どうぞ」
 入室を許可する言葉が返ってきたことを確認し、長谷部はそっと戸を滑らせて執務室へ足を踏み入れた。文机の上と審神者が手に持つ端末へさっと目を走らせ、「お仕事中でしたか」と申し訳なさそうな調子を作って言った。
「いや……大したことじゃない。明日、君にも話すよ。それで、何か用かな? 身体は?」
「あ、いえ……身体は主にすっかり治していただいたので、万事問題ありません。お手数をおかけして申し訳ありませんでした」
「君のことなんだから手間じゃない」
「……はい」
 長谷部は心なしか嬉しそうに頬を緩めかけていたが、「それで?」と促されると慌てて本題について話し始めた。
「あの、俺の身体は、綺麗になりましたか」
「心配しなくて良いと言っただろう、ちゃんと真っ新に治したよ」
「……真っ新に、はい……」
「……?」
「……」
 視線を畳へ落とし、長谷部は指先でスラックスの折り目をひたすらに弄っている。途端に長谷部が何を考えているのかを理解し、審神者は激しい吐き気の込み上げる思いであったが、努めて冷静であろうとしながら静かに言って聞かせようとした。
「今日は何もしない。部屋へ戻って寝なさい」
「えっ」
 動揺した長谷部の様子に自分の予想が正しかったことを察し、審神者は益々気分が悪くなるのを抑えながら長谷部へ滔々と言った。
「幾ら何でもあれだけの負傷をして帰って来た君を嬲ったりはしない。戻りなさい」
「ですが……俺は、治していただいて、主に……」
「君がそれを願うのか、そんな風に教え育てた覚えはないが」
「……」
「あれは君が私へ強請るような行為じゃない。しないからと言って君を愛していないということになる訳でもない。分かるね」
 それは理解し納得しろ、という意を持った強い言葉だった。長谷部は頷かざるを得ず、立ち上がりながら見る部屋の光は酷く屈折してぼやけていた。
「……長谷部君」
 ところが、一転して頼りない声が長谷部の背へ向かってぽとりと落ちた。
「本当は今すぐ此処で君を滅茶苦茶にしたい」
「……」
 何故か振り向くことが憚られ、長谷部は障子戸に手を掛けたままで俯いて審神者の言葉を聞いていた。
「でもそれは、ただ君を侵されたことを無理矢理に上書きして君を自分で塗り潰したいが為の欲求でしかないことを私は知っている。知っているからこそ私は此処で君に手を出さない」
「……」
「今後もそれは変わらない。不純では在りたくない」
 一分の隙もないように思える拒絶に、長谷部は胸が痛んで仕方なかった。審神者が嫉妬していると言ったその嫉心は、てっきりもっと熱く煮え滾ったものであると思い込んでいたのだ。だが現実は何処までも冷たい、淋しいものであった。そんな冷たい夜の底に、孤独な闇の底に、主を一人残していくことがどうしてできようか。
「主」
「まだ何か?」
「……主とお茶を飲みたいというのは、いけませんか」
「お茶を?」
「はい」
 暫し沈黙し、審神者は結局「構わない」とだけ言った。立ち上がり、茶葉や急須を取り出して用意を始めた審神者へ、振り向いた長谷部は震えそうになる声を圧して言う。
「主」
「うん」
「あの、紅茶が飲みたいです」
「ああそう」
 一旦用意した急須や湯呑をまた仕舞い、審神者は代わりにティーポットを取り出してカップを並べた。
「お湯を用意してくるから、好きな茶葉を選んでおいで」
「はい、主」
 審神者は部屋を出て小さな台所に立ち、ケトルの中で水の沸く音を聞きながら自分の選択が正しかったのかどうかをぼんやりと考え続けていた。長谷部の望みを言下に断った自分の判断だけは間違いなく正しかったという確信があった。自分の行為を、長谷部に向けられる愛の振りをしたただの虐待を、たとえどんな理由があろうとも長谷部自身から強請ってくるのは誤っているのだと教え込ませなければならない。それは何より長谷部の為ではなく、長谷部が自分以外を選びかねないそのきっかけになるのが怖いのではないかという囁きは強いて無視をする。
 それでも、茶を飲むだけだという建前があったとしても、長谷部が隣に居て嬉しそうに微笑んでいれば衝動を抑え切る自信が急速に消え失せて行くのは何度も経験したことなのでその結末も容易に予想が付いていた。長谷部のことはどうしようもなく好きだった。好きだからこそ、笑顔が其処にあるだけで自分の愛情は劣情へと姿を変えた。
 答えが出る前に湯は沸騰し、審神者はケトルを持って私室へ戻らざるを得なくなった。例えばこのケトル、其処に入っている熱湯一つ取っても、どうしようもなく可愛らしくて愛らしい長谷部の表情を見る為の手段の一つとなり得るのだ。突然熱湯を浴びせられ、火傷を負って困惑したまま身悶えする長谷部はどんなにか可愛いことだろう。長谷部が居るというただそれだけで、審神者は彼へ抱いた愛情を発露させずにはいられなかった。
 ――見ないでくださいと懇願する長谷部。瑕疵を負った長谷部。私以外には傷付けられたくなかったと泣きそうになっている長谷部。
 愛しいと、好きだと思う気持ちが内心で暴れて仕方がなかった。
 戸を開けると長谷部が座っていて、腰を浮かせながら「あ、主」と顔を綻ばせる。「レディグレイにしませんか?」
「君が飲みたいもので構わないよ」
 言いながら審神者は後ろ手に戸を閉めた。夜、空気は溺れそうな藍色で、自室に長谷部が居て、手入れされて汚れ一つないへし切を脇に置いて笑っている。普段と何一つ変わらない夜だった。
 ――嗚呼、本当に何一つ変わらない。
 ケトルの中ではとても熱い湯がゆらゆら揺れている。弾みで零れることのないように気を遣いながらそれを卓袱台の上に置き、長谷部がティーポットやカップへ熱湯を注ぐのを見ながら、審神者は口の端を持ち上げるようにして歪に片笑んだ。

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