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 海

 

 

 

 

 

   1

 

 長谷部の前にあるのは薬包だった。二十三世紀の今、それは文献上でのみ触れられる存在となっていたが、水が注がれた二つのグラスの隣に、それは鎮座していた。

「畜生腹という言葉は?」

 グラスの一つを長谷部の前に置きながら審神者が言った。

――いいえ、聞いたことはありません」

「いつとも知れぬ間に生まれ、忌むべきものとして消えた言葉だ」

 然り、と頷いて審神者は続ける。

「君に心中の話をしたことは?」

「覚えています」

 この狭い部屋の中、燃えない火で共に死のうかと匂引(かどわ)かされかけたことを長谷部は覚えていた。酷く哀しそうな表情をしていたことに触れるのが憚られて、今日まで記憶の底に仕舞い込んでいただけだった。

「男と女が双子として生まれた時、人はそれを前世で心中した者が生まれ変わった姿だと信じ、畜生腹と謗った」

 もう一方のグラスを自らの手元に引き寄せ、審神者は尚も続けた。

 時刻は夜も更ける頃で、部屋は濃い墨色に浸され、またその侵入を許しているように見えた。室外から何の物音も聞こえないことに長谷部は気を揉んでいた。

「情死と言った方がより本質を突いている。愛し合い、それでも赦されなかった二人は次の生で血の繋がりを得ることができる。二人が共に呑んだ川の水などよりも、血はずっと濃い。彼等は永遠に結ばれるという訳だ」

 だからこの水と薬ですか、と言葉にするのを長谷部は押し留めた。ただの戯れに意味を求めることの無意味さは厭という程思い知っていた。

 無言で包みを開こうとした長谷部の手は、しかし審神者によって制されたので、彼は顔を上げて自らの主を黙ったまま見つめた。

「君には覚悟があると?」

「この命でしたら、顕現した時から主の為に捧げる覚悟はできています」

「それは違うし、残念ながら私はそれを求めてもいない。来世でも、いや来世では、私と血を分かつ覚悟だよ」

「俺は主の御随意に従うまでです」

 そこで少し言い淀み、長谷部は重い口を開いた。

「ですが、主と同じ、人間という存在になれるのであれば、俺はきっと、嬉しい筈です」

「人間、人間にね」

 審神者は喉の奥で言った。今日の審神者は機嫌が良いように見えてその実不機嫌で、饒舌はその証左だった。

 薬包紙の上を左、右、左と手が滑り、長谷部はそれを目で追った。右顧左眄。

「君が人間に堕ちてきたとして、その時の私がどう見えるか、」

 右、左、真ん中。

「確信は?」

「ありません、残念ながら」

 長谷部が正直に答えると、「本当に君は嘘が吐けない」と審神者は笑い、薬包を彼に返した。

「僅かな一次元、点として生じたその瞬間から君は私と相対し続けることになる。それは鏡に映った自分でもあり、自分とは似ても似つかない怪物である。さて、さっさと済ませてしまおうか」

 薬包を開くと、無色の細かい結晶がほんの少しだけ載っていた。最期を迎えるには少々味気ないものだ、と長谷部は思い、審神者はそんな彼の様子に片笑んでいた。

 水と一緒に一息で飲み込み、目を伏せてその時を待っていると、急に目の焦点が合わなくなった。それだけではなく、柔らかい筈の部屋の灯りがいやに眩しく、目を刺すように感じられ、長谷部は思わず瞼を閉じた。

 目を閉じた暗闇の奥で心臓が五月蝿い程に脈打ち、それに呼応するように息が荒くなる。必死で酸素を取り込む為に気管を開こうとしたが、咥内は酷く乾いてしまって思うように動かなかった。

 ひた寄る死の気配は、長谷部にとって恐怖だった。ちっぽけで脆弱な意思など敵うべくもないそれは、畏怖の対象ですらあった。血の一滴も流れていないのに、と考えたところで、彼は自らの主のことをはたと思い出した。

――主が、主までこの苦痛を受けていらしたら)

 しかし審神者は全く平然としていた。歪ませた笑みを顔に貼り付けたまま、もがき苦しむ長谷部を平坦な眼差しでじっと観察し続けていた。空になった薬包紙はくしゃりと握り潰されて畳に転がっている。

「……ある、じ」

 長谷部は涸れた喉から言葉を絞り出し、右手を其処へ突っ込んだ。嘗てそうされたように手を捻って刺激すると、弛緩していた胃が急激に目を覚まされて収縮し、

――げぇっ、……」

 内容物を薬もろとも吐き出した。

 喉の粘膜を焼く胃酸に意識を無理矢理覚醒させながら、長谷部は暫く咳き込んでいた。景色が徐々に色を取り戻し、それでも心臓には早鐘を打たせたまま、長谷部は審神者に尋ねた。

「何故、です……主……」

「至極簡単なことだよ。君は毒では死ねない」

 嘔吐物の上に蹲ったままの長谷部に、審神者は愉悦と憐憫の情を向けた。

「君達刀剣男士は、戦により傷付き折れることはあれども、疲労によって病を患い、果ては死んでしまうようなことがない。思うにこれは――

「……主」

――これは君達にもたらされる〝死〟がどのようなものなのであるかを示唆している。君達が死ぬのは、人間のような肉体の損壊に因ってではあり得ない。本質は――

「主!」

 怒気の一片を孕んだ声に、審神者は漸く口を噤んだ。長谷部が次に口にする言葉を、隠しもしない期待を抱いて待っている。

「共に、死ぬのではなかったのですか」

「君を置いて行くことなど私にできる筈がないし、君が殉ずることを私が許す筈もないだろう」

 その答えに長谷部は歯噛みした。一人でのたうち回っていたことが馬鹿馬鹿しかった。

「それで俺が毒で死ぬのを見世物として、主は砂糖でも舐めていらしたと?」

「先にも言った通り、君は毒では死ねない」

「ではこれも、いつもの愛とやらですか」

 今度こそを願ってしまった羞恥と後悔、そして来世というものに賭けた自分の一縷の望み、それら全てを踏み躙られたのだと思うと、長谷部は頭がかっと熱を持つのを感じた。

 この人は、と長谷部は思った。――この人は、俺に憐れみを向けられたことこそあれど、俺を嗤うようなことはしなかったのに。

「愛? そうだとも」

 つい一瞬前までの空笑いは影を潜め、審神者の声には悲哀の色だけがあった。

「君を私から解放しようとしたのが慈悲でなければ、一体何だと? 君は死んで概念へと還り、私は一人で畜生道へ堕ちる。それが君にとって救いではないとでも?」

「ですが、」

 其処から先は言葉にならなかった。打たれた頬を押さえ、長谷部は後に続く言葉が唇から脳へと戻り、行方を失ってぐるぐる回るのを茫然と感じ取っていた。

 ――でも、俺は毒では死ねないと仰いましたし、何より、俺と血を分かつと――

 審神者は立ち上がり、無表情に長谷部を見下ろして再び手を振り被った。滴る塩辛くて生温い液体が血液なのか涙なのか、長谷部は分からないままに頭を打たれ続け、溜息を合図にその折檻が終わってもぼんやりと頭を傾けたままでいた。

 息を長く吸った気配の後、

「君はもう要らない」

 とだけ告げられ、襟首を掴まれ引き摺られても、長谷部は抵抗一つしなかった。

 ただ、執務室に臨む庭――まだ誰も踏み入っていない真っ新な雪が積もっていた――に放り棄てるように打ち投げられた時、小さく「申し訳ありませんでした」と呟いただけで、それすら取り付く島もない今の審神者には無為に終わった。

 深雪と同じく真っ白な障子紙の貼られた戸がぴしゃりと閉じられて、後には音一つ残らなかった。

 

   2

 

 長谷部はかろうじて身を起こし、正座の姿勢を取っていたが、スラックスに滲みて身を侵す寒さにも気付いていなかった。白い雪の冷たさ以上に心は冷え切って、何も考えることができなかった。

 唯一、打たれた頬や眦(まなじり)の辺りがじんじんと熱く火照っていることだけが意識の縁に上ろうとしていたが、強いて無視をしていた。熱を持つ箇所は酷く痛んでいた。

 たっぷり何十秒もかけて、こんなに酷く身体が痛んだことはなかったということに、長谷部は思い至った。四肢を棒切れのように断たれた時も、自分の肉や臓腑を咀嚼させられまた吐き出させられた時も、それから他のどんな時も、今程痛むことも惨めなこともなかった。

 嗚呼、これは心が痛んでいるのだ、と無感情に胸中で独り言ちた時、障子戸が音もなく滑るのが見えた。長谷部はつい先程踏み拉(しだ)かれたばかりの希望を再び胸に抱き、そしてすぐに砕いた。

 審神者は長谷部に一瞥すらくれることなく何処かへ立ち去り、やがて一振の刀を手に戻って来た。手に取って見るまでもない。それはへし切長谷部だった。

 どうして、と引き攣れた声が出た。何度も何度も今日一日で破壊されたものが、完全に形を失ってしまうような気がしていた。「君はもう要らない」という言葉は長谷部の耳に届いていなかった。もしかするとその事実は、彼の精神(こころ)を紙一重のところで繋いではいたものの。

 微かな声の後、障子戸の向こう側に見慣れた影が現れた。もう見たくない、と長谷部は目を瞑った。

 あの部屋で行われていることの想像は、奔流となって止まらなかった。

 

「へし切長谷部、と言います。主命とあらば、何でもこなしますよ」

 審神者は微笑を湛えてその台詞を聞き、彼が言葉を切ると頷いて口を開いた。

「では、まず君のへし切を貸してもらおうか」

 はい、と良く通る声で答え、長谷部は恭しく自らの本体を差し出した。静謐な瞳は、自らの斬れ味を審神者が試し、或いはその皆焼刃を他に比肩するものがない程素晴らしいと評することを期待していた。

 それに加え、彼はつい今し方顕現したばかりで、肉体というものに全く不慣れだった。

「……? 主?」

 だから彼は、自身の両脚を一太刀で切り払われたことに気付けず、上半身から床に倒れ込むと、審神者の眼が光も無いのに剣呑に光っていることにも気付かないまま、自分が何かの失態を犯してしまったのだと思い込んでいた。

「……あれ? 俺、立てなく……申し訳ありません、主、すぐに直しますから」

 直すと言い、長谷部は上半身を起こして何とか立ち上がろうとしたが、切断面から容赦なく溢れ出した血と脂肪がそれを許す筈もない。長谷部は立とうとしては滑り、血のひた零れる畳に身体を打ち付けることを繰り返した。

 跳ねた血が審神者の足に掛かる。それを見た長谷部は一層焦り、申し訳ありません、お許しくださいと何度も口にした。

「嗚呼、君はそう言うのか」

 屈み込み、審神者は長谷部に視線を合わせた。視界の外でへし切を突き立てると、眼前の美貌が潰された蛙のように歪む。意思の消えていく藤色の瞳に、審神者は「ん?」と言葉を促した。

「主……申し訳、……」

 それを最期に、彼は折れた。審神者は不興な顔をして掌中の残骸を奥の部屋へ投げ入れ、腰を上げた。すぐ傍に落ちている肉は、微塵も食欲をそそらなかった。

 彼はアレシボ・メッセージのことを、或いはゴールデン・レコードのことを考えていた。

 

 長谷部がはっと顔を上げると、真っ白だった筈の障子紙に血が飛び散っていた。頭からざっと血の気が引く気配に、まだ中身は冷え切っていなかったのかとどうでもいいことを考えた。

 此処へは――つまり審神者の執務室へは、長谷部以外の者が近付くことは原則禁じられていたが、それも所詮は原則に過ぎない。もし今誰か他の男士が来てしまったら、と思うと長谷部はいても立ってもいられなくなった。

 折しも審神者が廊下へ姿を現したが、腕には数本のへし切を抱えていた。一瞬怯んだ己を叱咤し、長谷部は声を上げた。

「主! そのままでは、人目に……」

 だが審神者はその声が聞こえた素振りすら見せず、そのまま自室へと消えてしまった。

 ――それを何度繰り返したか、寒さに麻痺した長谷部の頭では最早数えられていなかった。ただ障子戸の血飛沫だけが塗り重ねされ、斑模様にこびり付いていた。

 長谷部は紙の白と血の赤しか見えなくなって、雪の上に身を倒した。ただ一人、ずっと此処で待っていたのに、審神者は迎えに来るどころか彼の姿を見ようとも、彼の声を聞こうともしなかった。

 幾度目かの微睡みが訪れて、長谷部はもう身体の感覚器が効かなくなっていることに気が付いた。五感が失われたところで、寒さ程度では死ねないのだろうと長谷部は自嘲した。

 たった一人の人間に棄てられて、それなのに命を絶つことすらままならない。審神者の講釈を最後まで聞いておけば良かったと後悔し、唇から零れた言葉はやはり「主」であった。

 

   3

 

 窓の外は一面の霧で何も見えなかった。布張りの椅子の向かい側には審神者が座り、カップで紅茶を飲んでいる。かた、こと、と規則的な音が身体を小さく揺すぶっていた。

 これは列車、おそらくは汽車というやつだ、と長谷部は思い当たった。コンパートメントの中には三人掛けの椅子が二脚、しかし二人の他に乗客は居なかった。扉に嵌まっているガラスは曇りガラスで、通路や反対側のコンパートメントの様子は窺えない。ただ霧が流れ、小刻みな音が鳴り続いている。

「主」

 一音ずつ丁寧に発声すると、審神者はカップから目を上げてにっこりと笑った。

「何かな、長谷部君」

「この列車は、何処へ向かっているのですか」

「*****」

「え?」

 理解も発音もできない単語に面喰らい、長谷部は思わず訊き返した。

「*****だけど、君は知らなかったか」

 何処か弾んだ口調で言い、審神者はまた一口紅茶を飲んだ。

「冷めてしまった」

「俺はてっきり、舟で行くものだとばかり思っていました」

 勝手に口を衝いて出た言葉に長谷部は目を瞠ったが、審神者はポットから新しい紅茶を注ぐのに夢中だった。閉め切ったコンパートメントの中は紅茶の香りで満たされた筈なのに、鼻腔は何の匂いも嗅ぎとらなかった。

「舟では少し手間が掛かるし、君に見せたい景色も見せられない」

 窓の外に再度目を遣ると、いつしか霧は晴れ、広大な砂漠の景色があった。前も後ろも黄土色の砂が果てなく広がっており、列車が進んでいるのか退がっているのかは依然不明なままだった。

 空には雲も太陽もなく、そもそも空が存在しているのか長谷部は自信が持てなかった。白銅色でもあり珊瑚色で、瑠璃紺色であり且つ真珠色である空など彼は信じなかった。

 色の無い空と平坦な砂漠の景色が延々と流れ、審神者は何杯も紅茶をお代わりしては飲み続けている。脳髄の疲労に襲われ、長谷部の瞼は次第に下りていった。

 

 長谷部が次に目を覚ますと、列車は停まっていた。ポットとカップだけが残されていて、審神者の姿は見えなかった。荷棚にも座席の下にも荷物はなく、長谷部は重い頭を抱えて車外へ出た。

 外は闇夜(あんや)の如き暗さで、天と地も分からなくなる感覚が長谷部を覆った。幸い、審神者は列車を降りたすぐのところで車体に背を預けて立っていたので、長谷部にもその居場所が見て取れた。

「長谷部君、見てご覧」

 審神者が指す先には、目を凝らさないと到底気付かないような、針の先で突いた程の小さな光があり、見渡せばそれは天地左右の別なく無数に散らばっていた。これも目を眇めなければ見逃してしまう程僅かな明滅のリズムを、光は延々と繰り返している。

「これは、此処は宙(そら)ですか」

「似ているけれど、少し違う。宙と鏡写しに在る場所、海だよ」

「……海」

「君は海を間近に見たことはないだろうと思って、この景色を見せたかった」

 遥か昔に目にしたことがある筈の海の色など、長谷部はとうに忘れていた。第一、それもまだ彼が人に佩かれていた頃の話で、彼は今の主と身を並べて見ているこの場所の色、匂いこそが自分にとっての海なのだと悟った。

 審神者の声は長谷部の――すぐ隣に立つ彼の耳だけに届き、海へ拡散することは無しにすぐ消えた。無音の海を暫し眺め、長谷部は小さく呟いた。

「海をお見せになりたかったのでしたら、やはり舟で来るべきではありませんでしたか」

「舟では駄目なんだ」

 審神者は掠れた声で言った。

「舟では間に合わない。ほんの三十キロ程しか離れていなかったのに、間に合わなかった。それにまた、私は言葉を持たなかった」

「言葉?」

 鸚鵡返しに呟いた長谷部へ頭(かぶり)を振り、審神者は何かを読み上げるように告げた。

「私は不正を働いたことがありません、私は嘘を吐いたことがありません、私は姦淫の罪を犯したことがありません――私は罪に穢れてはおりません」

「君だけが渡る為の言葉を嘗ての私は持たなかった。それならば、と私は舟を諦めた。……寒くはないかい、長谷部君」

「え? ……ああ、はい。俺は大丈夫です」

「そうか。*****でない場所を目指すことも、何度か考えた。死が跋扈する場所ではなく、陽の光と朝靄、それに少しの果樹が植わっているような土地こそ、君には相応しいと思った。だが其処へは近付くことすら叶わなかった。炎上する鉄骨にしがみ付いて、せめて君だけはと願ったこともあったが、首に巻いていたあれが絡まって君が燃え落ちるのを見た」

 長谷部が横目で審神者の様子を窺い見ると、ただ何処か別の時間をじっと見据えているようだった。切れた言葉の間に泡立つ音が滑り込み、長谷部が足元に視線を落とすと海が波を寄せていた。

 水面(みなも)は赤く、しゅわしゅわと泡を立てる白波も橙色に染まっていた。生まれては弾けて消える泡の一つ一つは、きっとあの瞬いていた光に違いない、と長谷部は思った。

「長谷部君」

 列車の乗降口に足を掛け、審神者は長谷部を呼んだ。少し逡巡してから決心したように長谷部を顧みて、

「もう一つだけ教えてあげよう」

 と言った。

「何万光年、何億年に渡ってCQDを送り続けても、誰一人その無電に応える者は居なかった。十の十三乗、その中の一として君が存在した。否、この世界が多元宇宙であることを考慮に入れれば、君はきっと無限大の中のただ一つだった。――故に君が何かを求める必要はないし、何かを畏れる必要もない。全ては君が規定し、定義するのだから」

 言い終わると、審神者は身を返して車内へ入って行った。不可解な言葉の意味に捕われていた長谷部が一拍遅れて後を追うと、その姿は既に何処にもなく、コンパートメントの中ではカップが落ちて割れていた。

 長谷部は一人で〝海〟へ戻り、乗降口に腰を下ろして遠のく光を眺め続けた。

 一つ、一つと光が消え失せる度、海はますます透明さを増し、鮮紅の波が寄せては去った。海に押し潰され、次元を一つずつ失って、終には自分がただの点となる光景を、長谷部は想像していた。

 

 身体は芯まで冷え切っていたが、感覚は戻っていた。本丸の生活音は降り積もった雪がすっかり吸い込んでしまうので、すぐ目の前の部屋から響いた澄んだ金属音は一際大きく聞こえたような気がした。

 鼓膜は静寂の轟音で麻痺していたが、それも手脚の強張りに比べれば遥かにマシだった。冷凍庫に入れられたことこそなかったが、きっと骨の髄まで凍っているに違いないと長谷部は苦笑した。

 幽鬼のように庭を歩き、廊下に這い上り、ほとんど倒れかかるようにして障子戸――血で真っ赤に染め上げられている――を開けた。

 奥の部屋に堆く積み上げられた、折れた鋼の山の前、審神者は立ち竦み、戸を開けた長谷部をじっと見ていた。

「他のへし切は、どれも違った」

 うっそり笑って言う審神者に、長谷部は極めて冷静に正対して言った。

「ただいま戻りました、主」

「おかえり、長谷部君」

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