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ミッドナイト

 第二部隊の隊長は長谷部に任されていた。彼は近侍の長谷部とは別の刀だった。
 顕現したその日から隊長を任され、ほぼ休みなく遠征へと赴かされていたが、彼は何一つ不満を漏らすことなく役目を果たしていた。元より長谷部はその主へ不平を訴えるような性格ではなかったが、彼の場合は近侍でないという事実がそれに拍車を掛けていた。
 ――自分こそが完璧な、主に相応しい刀であるということを結果で示し続けていれば、彼奴にいつかは取って代わることができるかもしれない。それが心の支えだった。
 彼は遠征から帰る度、その彼奴と顔を合わせなくてはならなかった。
 審神者の私室――執務室を兼ねている――へ入ることを許されているのは基本的に近侍のみであった。審神者が執務の最中であれば、帰還報告は近侍が取り次ぐのが習慣となっていた。
 審神者へ直接報告できる時であっても、傍には必ず近侍が付いていた。影のようにぴったり寄り添って、審神者の見えないところから冷笑と威嚇と優越を混ぜた器用な視線を向けてくるのだ。そんな彼にだけ、審神者は他の誰にも向けないような温度のある笑みを浮かべていることに、長谷部は気付いていた。二人の間にだけ繋がった線が、確かに存在していた。
 何が違うのだろう、とは数え切れないほど考えたことだったが、答えは出なかった。一口目と二口目、同じといえば同じ、異なるといえば異なる存在だった。……それなのに、どうして自分を選んでほしいなどと言えようか。
 結局、燻る気持ちを抑えながら、日々の遠征をこなすことしか彼にはできなかった。審神者と顔を合わせて話すことができた日は、自室で一人、浮かれる心を抑えようとしていた。

「主」
 ある日の休憩中、長谷部が口を開いた。
 審神者は茶を飲みながら目顔で応えた。長谷部は何処か硬い表情をして続ける。
「第二部隊の、長谷部のことですが」
「ああ、彼が何か?」
「……主の采配に不満がある訳ではありませんが、奴を据えておくのは……」
「何故?」
 部隊の編成に関わることなら、と審神者は長谷部に向き直った。長谷部は少しの間口籠っていたが、言葉を選びながら口を開いた。
「奴は……奴の視線は、どうも気になります」
「視線?」
「俺のことを、憎んでいるような……」
「彼も長谷部だから、君に取って代わりたいんじゃないか」
「……おそらく、そうなんでしょう」
 主にとって一番の存在でありたいという願いを知られるのが恐ろしくて、長谷部はふと口を噤んだ。自分が望むことも彼が望むこともおそらく同じで、これ以上話せば審神者にそれを察せられるのではないかと怯んだのだった。
 審神者は何も気付いていない様子で暢気に言った。
「君に害を為すようなら、私も考えるけどね。今のところ、彼は良くやってくれている」
「俺よりも、主に何かしないかと」
「私に?」
 そんなまさか、と審神者は可笑しそうに笑った。刀剣男士の深い感情に立ち入ろうとしない性格が悪い方に出た、と長谷部は危惧していた。
 彼は同じ刀だからこそ理解していた。得られそうで得られないものがすぐ其処にあれば、そしてどうしようもなく追い詰められてしまえば、長谷部は想像も付かない手段に出る。その矛先が自分に向かうのならともかく、非力な審神者に向かうことがあれば――と戦慄していた。
 しかし散々に躊躇して、長谷部はそのことを告げられなかった。せめて主から離れないようにしよう、とだけ決意して、この話を打ち切った。

 連隊戦の間、第一部隊に加えて第三、第四部隊も連日の出陣を強いられており、第二部隊のみが今まで通り遠征に割り当てられていた。
「資源や小判の獲得を、君の部隊に頼みたい」
 自室を訪れた審神者から直々に命を下され、内心、長谷部は歓喜に満ちていた。
「ぼくたちもたたかいたいです」
「……」
「おい、真面目にやれ。主は俺達を信じて送り出してくださっているんだぞ」
 口を尖らせる今剣へ長谷部は咎めるように言った。その横で小夜は黙り込んでいる。
 遠征の長い道のりも、主の為と思えば足取りは軽かった。数をこなす必要があるからと所要時間が短い遠征ばかりに出されていることも長谷部の心を明るくした。良い結果を収めて報告する回数が増えれば、きっと審神者からの覚えもめでたくなるに違いないと考えていた。
 長谷部が小走りに審神者の元へと向かうと、審神者はにこにこと笑いながら報告を聞き、「今回も良くやってくれた」と彼を労った。その後ろで彼を睨みつけている近侍を長谷部は無視し、緩みがちな頬を引き締めながら「結果を出すのは当然です」とだけ言った。
 いつかあの場所に俺が立つんだ、と長谷部は誓った。――自分こそが主の一番になって、近侍としてお仕えする。

 連隊戦は長期に渡る戦いで、刀剣男士は勿論、審神者も精神的に疲れていた。
 第二部隊にも疲労回復の為の休憩時間が与えられ、長谷部は厨房へ何か食べるものを探しにやって来て、偶然審神者に出くわした。
「おや」
「あ、主」
 審神者は急須や茶葉を手にして、茶の準備をしているようだった。出陣続きで少し疲れてね、と語り、そのまま厨房のテーブルに落ち着いた。
「君も飲むかい」
「宜しいのですか、戻られなくて」
「今は私も休憩中だから構わない。長谷部君も自室で休んでいてね」
「それは……」
 あの監視するような視線がない中で審神者と会話できるのは嬉しかったが、いざ二人きりとなると緊張した。審神者は相変わらず何の感情も温度もない笑みを長谷部に向けて湯呑を差し出した。
「はい。毎日お疲れ様」
「あ、ありがとうございます、主」
 それきり審神者は何も言わず、長谷部が茶を飲むところをずっと眺めていた。戸惑いつつ、湯呑が空になってしまったので、長谷部は沈黙を埋めるように口を開いた。
「ご馳走様でした、主」
「うん」
「……」
「……」
「……戻られなくても宜しいのですか」
「戻ってほしい?」
「いいえ、あの、そういう訳では……」
「分かっているよ」
 頬杖を突き、審神者はのんびりと言った。
「折角だから、君と一度話をしてみたいと思って」
「それ、それは……」
「君にはずっと第二部隊の隊長を任せているから、何か不満でもあるんじゃないかい」
「いえ、不満など……主命ですから」
「主命? それもそうだ」
 審神者は含み笑いをしたが、長谷部には何が可笑しいのか分からなかった。黙っていると審神者が再び口を開いた。
「遠征以外にしたいことがあったりは?」
「したいこと、ですか」
 そう言われても、部隊長として遠征に向かうのが彼に与えられた主命なのだから、したいことというのが思い浮かばなかった。
「長谷部君は本を読みたいと言ってきたりするが」
 助け舟を出され、そういうことで良いのか、と長谷部は思った。それなら願うことは当然一つだった。
「……またこうして、俺と話していただければ、それで」
 ――だが、どうしてそれを口にできようか。苦し紛れに返した言葉を審神者が笑顔で受け止めたその時、
「主」
 冷たい、しかし煮え滾った声が審神者を呼んだ。
「ああ、長谷部君」
「何をされているのですか、こんな所で」
 こんな所、と言いながら、近侍の長谷部はもう一人の長谷部をじろりと睨んだ。負けじと彼も睨み返し、内心で舌打ちをして、
「主は俺と話をしてくださっていたところだ」
 と言った。
「そういうことだね。まあ長谷部君も来たことだし、そろそろ仕事に戻ろうか?」
「はい」
「あ、主、俺が洗っておきます」
「そう? なら頼もうかな。ありがとう」
 審神者はそう言うと立ち上がり、
「また話そう」
 と言って手を振りつつ去って行った。近侍は最後まで長谷部から目を話さなかった。
 長谷部も立ち上がり、テーブルの上に目を遣って、暫くの間立ち竦んでいた。

「主、無用心すぎます」
 長谷部は怒り心頭だった。
「何も心配することなどないよ」
 対して審神者はのらりくらりとそれを受け流していた。
「俺が先日申し上げたことを忘れたとは仰いませんよね」
「別に何もしやしないよ、彼は。したいことがないかと訊いたら、私と話したいと言ったんだ。初々しい限りじゃないか」
「それは本音を隠しているだけです。取り繕った答えでしかありません」
「いやに分かったような口を利くじゃないか」
 審神者の笑い声に長谷部はハッと我に返り、顔が熱くなるのを感じた。
「……とにかく、俺の居ないところでは」
「うんうん、分かったよ。どうも君は彼のこととなると頭に血が昇るね」
 嫉妬かな、と審神者は笑う。
「嫉妬……? 何故ですか」
 長谷部は眉を顰めて言った。
「同じ長谷部だから、私の関心が彼に移ったらどうしようと内心で恐れているんじゃないのかな。如何に私の愛し方が異常であっても、最も、そして唯一近くに居られるのは近侍である君しかいないけれど、その座を奪われたらどうしようか、と。違うかい」
「……」
 審神者は愉快そうに目を細めていた。あくまでこの状況を楽しんでいるらしかった。長谷部はふいと部屋の外の方へ視線を遣った。
「心配しなくとも、彼は二口目にすぎない。君が居なくなろうと、彼は君の代わりになり得すらしない。勿論彼に対して何の感情も抱いていないよ」
「……主」
「ん?」
「……俺が言うのも何ですが、それを奴に言うのは……」
「言わない方が賢明であることぐらい理解しているよ。君は私にとってどうでもいい存在だ、なんて面と向かって言う訳がないだろう」
「……」
 長谷部は口を噤んだ。複雑な心境だった。
「薄情な人間だと思っているだろうが何も思わないよ。事実には違いないからね」
「……いえ」
「君だけは本当に愛しているよ。……信じられないか、今言ったって」
「俺は主のことを信じております」
「……そう? 今夜も君を部屋に呼んだとしても?」
「それでも、俺の主ですから」
 鼻を鳴らし、審神者は一段低い声で言った。
「ああそう、それなら今夜も待っているよ」

 長谷部は一人、灯りも点けずに自室で横たわっていた。手の中には何の飾り気もない一本のペンがある。
 先に聞いたばかりの審神者の言葉が頭の中で何度も反響して止まなかった。
 ――代わりになり得すらしない、どうでもいい。
 分かっていたつもりだった。言葉がどうあれ、審神者の笑顔は常に作り物で、あの近侍だけが特別な存在だと、分かっていたつもりだったのに、身体から全ての力が抜けてしまっていた。
「また話そう」と言われたその言葉を繰り返し信じようとして、その度に部屋の外で聞いてしまった言葉に涙が滲んだ。
「主」
 口にすると、鼻の奥が熱くなった。
「俺だけを、俺だけの、主に……」
「長谷部さん?」
 障子越しに、平野の声が呼びかけた。
「夕食の時間ですよ。食事部屋へいらっしゃらなかったので、お呼びに上がりました」
「……ああ、今行く」
 目元を擦ってから立ち上がると畳に何かが落ちた。長谷部が視線を落とすと、審神者のペンだった。
 拾い上げ、カソックの内側に仕舞い込んだ。何をすべきか分かった気がした。

 手入れ部屋から長谷部を自室まで送った後、審神者は執務室へ戻って来た。翌日の執務に必要な書類と端末とを揃えて文机に置き、座布団の位置を直したところでさて寝ようかと思っていると、障子戸の向こうに誰かが立った。
「……主」
「長谷部君?」
 審神者が戸を開けると長谷部が立っていた。両手を背に回し、顔を伏せてじっと佇んでいる。
「……君は、二口目の方か」
「……」
「此処へは来ないよう言っていた筈だけれど、何か用かな」
「……これ、を」
 長谷部は胸元からペンを取り出し、審神者へ差し出した。
「厨房に、忘れていかれましたので」
「ああ」
 審神者は少しだけ態度を和らげるとそれを受け取った。
「ありがとう。昼間なら、お茶でも出すところだが」
「いえ……俺は、主とこうしてお話しできるだけで」
 殊勝な様子でそう言う長谷部に、昼間の近侍との会話のこともあり審神者は罪悪感を覚えた。近侍から釘を刺されてはいたが、話をするぐらいなら構わないだろうと思った。
「少し話でもしていくかい」
「宜しいのですか」
「長谷部君が知ったら怒るから、少しだけな」
「はい」
 長谷部は部屋へ入ると後ろ手に戸を閉めた。新しい座布団を持って来た審神者は自分の対面にそれを置き、長谷部に勧めた。
「……」
「長谷部君?」
 長谷部の顔がくしゃりと歪み、ひゅ、と空気が鳴った。
「……主」
「……」
「俺、を、選んでは、くださらないのですよね」
「……は」
 喉に刀を突き付けられて普通に喋ることのできる人間はそういないだろう、と審神者は胸中で呟いた。見慣れたへし切の刃文が鈍く光る。――やはり刀は全く同じなのか。
 長谷部の手が震え、へし切がかちゃりと鳴る。首筋に冷たい刃が触れて身が竦んだ。
「俺の……俺のものに、なってください、主」
 淀んだ紫苑色の瞳は据わっていた。
「……君、は」
 絞り出すように、審神者は声を発した。
「それが、君の……したい、ことか」
「俺の、俺だけの……」
 失敗したな、と審神者は厭にのんびりと考えていた。だから申し上げたでしょう、と長谷部が瞋恚(しんい)を抑えながら咎めてくる光景が脳裏に浮かぶ。
(まあ、これも運命か)
 抗ったところで腕力では敵う筈もない。心残りがないではないが、自分が招いた結果を大人しく受け入れようとした時、眼前の長谷部の身体が崩折れた。
「あ……」
 勢いよく鮮血を噴き出して倒れていく身体の向こうには、息を切らせた近侍の姿があった。へし切から血を滴らせている彼が主の安否を問うより早く、審神者は顔にべっとり付いた血を拭い、
「君以外の血など浴びたくなかったんだが」
 と言った。非難がましい響きのその言葉を無視し、長谷部も言った。
「……少しは抵抗してください」
「抵抗したって仕方ないだろうに。死んだらそれまでだったというだけのことだよ」
「……」
「それで、彼はどうしようか?」
 二口目の長谷部はまだ折れてはいなかった。すぐに手入れをすれば、身体の傷はすっかり癒えてしまう筈だった。
「……主の御随意にどうぞ」
 どうせ俺の忠告はお聞きにならないでしょう、と言いたげな視線をやり過ごし、審神者は立ち上がった。
「本人に訊いてみようか」
 審神者は片笑んでそう言ったので、長谷部はほんの少しだけ、二口目のことが気の毒になった。

 目を覚ましてまず見たものは、手入れ部屋の天井だった。混乱して身を起こすとすぐ傍に審神者が座っていて、長谷部は一瞬身を強張らせた。
「おはよう」
「あ……主……」
 動けない長谷部に構わず審神者は話し始めた。
「謝らなくていいから、聞いてほしいのだけどね。君をどうするか、私の好きにすれば良いと長谷部君も言ってくれたことだし、君の意見を聞いておこうと思って。私が長谷部君に話していたことを聞いたんだろう? 確かにあれが私の本心だよ。それを知った上で以前と同じように隊長を務めるかそれとも刀解を望むか、君が自分で選ぶといい」
 部屋の外で控えている長谷部は顔を顰めていた。自分と彼の違いなどを考えては、彼の行動に思いを馳せていた。立場が逆だったら、自分はどうしただろう? 表面上だけ優しくされてその実(じつ)何の価値も認められていないのと、過度な愛寵を受けて感情も心も壊されていくのと、どちらが幸せなのだろう?
「話は終わったよ」
 静かに部屋から出て来て、審神者は言った。長谷部の返事を待つこともなく彼の部屋へと足を向け、すたすたと歩き出す。長谷部は慌てて後を追った。
「君もああいう行動に出たりするのかな」
「……ああいう?」
「独占欲というのかな? 私を自分だけのものにする為に殺してでも、と思ったんだろうか」
「主に刃を向けるような真似はしませんが」
 彼の行動原理はおそらくそうではない、というのは長谷部だけが理解していた。それが失敗に終わった今、彼が生き続けることを選ぶとも思えなかったが、長谷部は何も言わなかった。
「君に殺されるなら私は本望だが」
「……」
「さ、遅くなったことだし君は早く寝るんだよ。今夜はありがとう、また明日」
「お休みなさいませ、主」
 手を振る審神者に一度頭を下げてから戸を閉め、長谷部はその場にずるずるとへたり込んだ。
 斬り捨てた時の肉の感触も審神者の何事もなかったかのような薄笑いも、何もかもに吐き気がした。それでも審神者へ縋るように諾々と従うのであろう自分にも反吐が出る思いだった。
 頭を抱え、明日など来なければ良いのにと願った。長谷部がそんなことを思ったのは初めてのことだった。

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