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彼岸花

  1
 

 普段はどの男士に対しても分け隔てなく思い遣りを持って接し、特に近侍である長谷部には最大限の愛情を注いでいた審神者であったが、時折理由もなく酷く落ち込むことがあった。

 そのようなとき、審神者は決まって長谷部を詰っては部屋から追い出し、気が済むまで独り自室に閉じ籠るのであった。

「君は誰が主だって良かったんだろう」

「主、そのようなことは」

「私は前の主の代替物なんだろう」

「っ、信じてください主、俺は」

「分かっているんだ、もういい。一人にしてくれ」

 ぴったりと閉じられた障子戸の前で正座し、ひたすら俯いたままで審神者が出てくるのを待っている長谷部の背は今にも泣き出しそうに見えたものだった。

 その面持ちは長谷部が毎晩の虐待をじっと耐えているときよりもずっと沈痛で、血の涙というものがあれば彼は今まさにそれを流しているかのように見えた。

 それでも長谷部は愚痴一つ零すことなく待ち続け、審神者が漸く気不味そうに顔を覗かせるそのときが来ると心底安堵したように駆け寄った。

 その日も審神者は酷く情緒不安定で、長谷部を傷付けようとしているかのように何度も同じ言葉を繰り返していた。

「長谷部君は私のことなんか本当は主と思っていない」

「主、……」

「もう嫌だ、私は長谷部君の主になれない」

「主、俺は主のことを」

「嘘だ、嘘だ嘘だ」

「主、お願いです、信じてください」

「君なんか、君なんか……」

 審神者は文机の上の筆記具やカップ、書類を手当たり次第長谷部に投げつけた。長谷部は避けることもせず、下唇を噛んだままでその身に全てを受けた。

 投げられた物が畳に落ちる音が一頻り響いた後で部屋はしんとした静寂に包まれ、そこに残ったのは審神者が啜り泣く小さな声だけだった。

「主……」

「……長谷部君」

「はい」

「……ごめん」

「主、俺は大丈夫ですから、お気になさらないでください。お怪我はありませんか」

「……」

 審神者は一度だけ頷くとそのまま膝を抱えて座り込み、長谷部からはその表情が窺えなくなった。

 長谷部は畳に落ちた書類やカップを拾い上げ、文机の上に丁寧に置き直した。

「主、何か温かいものでもお持ちしましょうか」

「……」

 答えを返すことなく俯き続けている審神者から少し離れたところに長谷部は正座し、審神者の口から何かしらの言葉が発せられるのを待った。その言葉は大抵は出て行けとかそういう類のものであったが、今回はまだそれが放たれることはなかったので、長谷部はそのまま其処に座ってただただ待っていた。

 外は空気こそ冷たいもののうらうらと晴れた快い日で、何処か遠くから鳥が囀る声が聞こえていた。

 そのまま三十分程、鳥の鳴き方のパターンを数えながら長谷部が待っていると、漸く審神者が口を開いた。

「……が、……」

「主?」

「長谷部君が、死体だったら良いのに」

「……それは、どういう……」

 一瞬で頭から血を引かせながら、近侍として腑甲斐無いために腹を切れと言われているのだろうか、と長谷部は考えた。

 確かに長谷部がいくら献身したところで審神者のこの発作がなくなる兆しは一向に見えず、それどころかその要因は自分にあるらしかった。それならば自分が居なくなるのは至当であるというものだ、と長谷部は考えた。

「主、主命とあらば近侍は他の連中と代わりますし腹も切りますから、どうか遠慮なくお申し付けください」

 本心を押し殺した声で長谷部がそう言うと審神者はがば、と顔を上げた。

「嫌だ」

「……?」

「長谷部君のことが好きだから居なくなるのは嫌だ」

「主……」

「長谷部君のことを愛しているのにどうしても我慢できなくなる、非道いことをするのも、こういうことも。私のことを主と思えなくたって仕方ない……。長谷部君は懸命に仕えてくれているのに、何で」

「主、主のお心遣いは充分に届いていますから、安心してください。俺は何処にも行きませんから」

「長谷部君」

 審神者は膝を抱え直すと再び顔を埋め、ぼそぼそと呟くように話を続けた。長谷部は審神者の本心を知るためにただ相槌を打つに徹した。

「私は長谷部君を愛しているけど長谷部君は私のことをどう思ってくれているのか分からないから」

「はい」

「長谷部君が死体だったら良いのにって思った」

「……はい」

「そうすれば何も考えないし言わないから、私のことを、欲も含めて全て無条件で受け入れてくれると思った」

「……そうだったのですね、申し訳ありませんでした」

「謝らなくて良い」

 審神者はぴしゃりと言うと、洟を啜ってから話を続けた。

「きっと死体になった長谷部君はもっと綺麗だ」

「……はい」

「屍蝋って知っている、長谷部君」

「いえ、存じ上げません」

「私は屍蝋の女の子の写真を見たことがある。とても綺麗だった、生きている人間よりもずっと」

「はい」

「死んでいる人間は此方を拒絶することがないから、長谷部君だって私が愛しているってことを私の伝え方ごと受け入れてくれる、だから長谷部君が死体になれば良いと思った」

「はい」

「でも長谷部君が死ぬのは嫌だ」

「……ありがとうございます」

「…………」

 審神者はそこまで言うと再度塞ぎ込み、長谷部に向かって「一人にしてくれ」と静かに言った。

 長谷部は承知いたしました、と答え、一礼すると部屋を出た。

 審神者の部屋を出た後、戸の脇で長谷部は正座したまま、どうすれば審神者に納得してもらえるのかと考えを廻らせていた。

 自分では誠心誠意仕えているつもりであり審神者のことも今までで一番の主だと胸を張って言うことができたが、幾ら言葉を重ねてもその本意は審神者には決して伝わっていないようであった。

 平時は誰に対しても丁寧な物腰を崩さず触れることもしようとしない審神者が、こうして泣き喚いて本音を晒け出す相手は長谷部だけであり、その事実は何処か誇らしいようでもありまた重くもあった。

 俺が何とかしなければ、長谷部はそう決意を新たにして審神者に自分の真意を理解してもらう方法を考えていたが、やがて幾分乱暴に障子が開けられて審神者が姿を現した。

「主! お加減は如何ですか」

「長谷部君」

 疲れたように微笑む審神者の眼は赤く、瞼はうっすらと腫れていた。長谷部は自分の無力さを責めながらも審神者の傍へ寄り、できる限り優しい声音で話しかけようとした。

「主、何を致しましょうか? 何でもお申し付けください」

「……うん」

 審神者は小さく湿っぽい溜息を吐くと、緩慢な動作で長谷部に向き直って、しかしその澄んだ藤色の瞳は見ないようにしたままで言った。

「顕現させてないへし切を一口、持ってきてほしい」

「へし切を、ですか……」

「うん」

 長谷部は冷や汗がつっと背中を流れるのを感じた。

(……俺が居るのに別のへし切を使う? やはり主は俺に愛想を尽かされたのだろうか)

 青い顔で言葉をなくした長谷部をちらと見て、審神者は小さな声で言った。

「……長谷部君をどうかしたい訳じゃない」

「ええと、……」

「長谷部君じゃなくて、二口目を使えば良いと思って」

「主、俺ではご満足いただけませんでしたか。主の為とあらば俺は何だってこなしますし耐えてみせます。この身体など惜しくない、どうか俺をお使いください」

「そうじゃない」

 縋り付くような長谷部の態度に審神者は胸を押さえながら、億劫そうに誤解を解こうとした。内心では、こんな態度を取っていたらまた誤解させてしまうのではないかと思いながら。

「二口目を殺す」

「あ、主……」

「そうしたら私は長谷部君を信じられるようになるかもしれない」

「それは……」

「良いよ、長谷部君の気が進まないなら一人でやる」

「いえ、そういう訳では……」

「そうか」

 投げやりな様子で言い捨てた審神者に長谷部は鼓動が大きくなるのを感じ、慌てて言った。

「今お持ちいたしますから、主はお部屋でお待ちください」

 長谷部は踵を返すと顕現させられていない刀剣が収められている部屋へ向かった。拭い切れない不安を抱えながら、普段主に澱み沈んでいる感情はこんなに抱え難いものだったのか、と感じていた。


 

  2


 

 相も変わらず閉じられたままの障子戸の向こう側へ、二口目のへし切を持って戻ってきた長谷部は静かに声を掛けた。

「主、お持ちいたしました」

 向こう側からは呻くような声が聞こえてくるだけで、長谷部は眉を顰めて「失礼します」と言い、戸を開けて中へ滑り込んだ。

 審神者は先程までの執務室ではなく奥の寝室の隅に座り込んでいたが、長谷部の姿を見ると安心したように表情筋を緩めた。少し和らいだその表情を見て長谷部は胸を撫で下ろした。

「主、落ち着かれましたか」

「長谷部君、持ってきてくれた」

「あ、はい」

 これなら二口目を使わずに済むのではないかと内心期待していた長谷部だが、やはりそれは叶わないようであった。

 観念した長谷部がへし切を審神者に手渡すと、審神者は普段とは異なる、口も手元も覚束ない様子でそれを顕現させた。

 仄かな光が部屋を満たし桜の花弁がひらひらと散った後に、もう一人の長谷部が立っていた。

「へし切長谷部、と言います。主命とあらば……」

「うん」

 二口目の長谷部が最後まで言い終わる前に、審神者は彼からへし切を奪うようにして取り上げ、うっそりと笑って抜刀した。

「悪く思うなよ」

 そのまま自身の本体で胸を貫かれた二口目の長谷部は何事かを言おうとして口を開いたが、そこから音が発せられる前に彼の身体は崩れ落ちていた。

「やはりへし切の斬れ味は素晴らしいね」

「……はい」

 審神者が刀身を引き抜くと、貫かれた心臓から血が溢れ出してシャツとカソックをじわじわと染めていった。

「部屋が汚れてしまうな」

 どす黒い血が微かに泡を立てながら畳にまで染み込んでいくのを見て、審神者は冷たい声で言い放った。長谷部は崩折れた二口目の身体を一瞥すると審神者に言った。

「主、俺が片付けておきますから」

「私がやるから良いよ」

「ですが」

「長谷部君が汚れるから触らないで」

 素気無く言い返す審神者に長谷部ははい、としか返すことができず、一歩下がって口を噤んだ。

「死んだとしても私が傍に居れば身体は維持されるだろうか」

「そう、なのでしょうか……。すみません、俺には何とも」

「うん」

 審神者は生返事をして折れたへし切を無理矢理鞘に収めると、二口目の服を剥ぎ、濡れたシャツを傷口へぐいと押し付けて止血を試みた。

「止まらない」

 血管でなく心臓に穿たれた傷口からは絶えることなく緩やかに血が流れ出しており、圧迫したぐらいでは止められそうにないのが見て取れた。

「主、これは血を抜いてしまうのが良いかと思います」

「抜く……そうか」

 審神者は二口目の腋下に手を挿し入れるとずりずりと引きずって、自身専用の浴室へと持って行こうとした。しかし力の抜けた彼の身体は重く、審神者一人の力では少しずつ動かすので精一杯だった。

「主」

「何だ」

「シーツを使えば、運びやすくなるかと思います」

「……」

 審神者は無言で手を離すと箪笥へ向かい、綺麗にアイロンがかけられたシーツを取り出した。床に広げたシーツの上へ二口目の身体を苦労して転がし、シーツの端と端を持って包むようにして再度引きずり始めた。

「運びやすくなった、ありがとう」

「いえ」

 部屋中に血の染みが点々と残るのにも構わず無表情で死体を運んでいく審神者に、手を貸すことのできない長谷部は何を言うべきか分からなかった。

「吊るしたりできないし、血が出なくなるまで此処で流すしかないか」

 漸く浴室へと辿り着いた審神者は、二口目の長谷部の死体にシャワーで水を掛けながら言った。水と混ざり合って輪郭を失った緋色の血液が絶え間なく流れ出し、排水口へと飲み込まれていった。

「そうですね」

 長谷部は用意したタオルを手に浴室の出入り口から審神者を見ていた。

 審神者はあまりに無頓着に水を掛け続けているので服までびしょびしょに濡れてしまっており、風邪をひかないかが長谷部には心配だった。しかし此処で余計な口を挟めば再び審神者が取り乱し始めることは火を見るよりも明らかだったので、長谷部は敢えて押し黙っていた。

「……」

 そうして暫くの間審神者は水を流し続けていたが、突然シャワーを放り投げて死体の上にぱたと伏せた。

「主?!」

 やはり気分を悪くされてしまったのか、と焦った長谷部は浴室へ足を踏み入れて水栓を捻り、審神者の傍へと駆け寄ってタオルを掛けた。

「主、ご無事ですか、主」

「長谷部君」

 顔に落ち掛かった髪の間から焦点の合わない瞳が長谷部の方を向き、その姿を捉えると静かに閉じられた。

「冷たい」

「そのままでは風邪を召されます、部屋へ戻りましょう」

「うん」

 審神者は長谷部に支えられながらのろのろと立ち上がり、新しいシーツを持ってきてくれ、と命じた。

「承知いたしました」

「それと、君に血が付いたところも良く洗っておいて」

「……はい、申し訳ありません」

 命じられた通りに審神者の部屋へと向かった長谷部を見送って、審神者は二口目の死体の上にまた身を伏せた。

 かなりの量を洗い流した筈だったがそれでもまだうっすらと血は流れ出していて、審神者は長谷部の手伝いますという申し出を断った。

 行きよりも長い時間をかけて再び部屋へと死体を引きずっていき、やっとのことでそれを畳の上に転がした。

「主、お着替えを」

 全身をぐっしょりと濡らした審神者の着替えを用意して、長谷部が優しく話しかけた。

「うん」

 審神者は茫然とした様子のまま服を脱ぎ、脱いだ服はそのまま下に落としていったが、はっと気が付き慌てて長谷部を追い出した。

「みっともないものを見せた」

「いえ、そんなことは……」

 新しい服に着替えた審神者は戻ってきた長谷部から顔を背けてそう言った。僅かに朱に染まった審神者の頬を見て、長谷部は何となく心に焦げ付くようなものを覚えた。

「それより、死体ができた」

「はい」

 審神者は真新しい長谷部の服の一揃いを持って来させており、まだ死後硬直こそしていなかったものの苦労しながらそれを死体に着せていった。

 乱れた髪を乾かした後で梳いてやると、そこにあるのは死体ではなく眠っているだけの長谷部であるかのように見えた。

「長谷部君の死体だ」

「……はい」

「でもこれは長谷部君とは違う」

「そう、ですか?」

「長谷部君はもっと綺麗だから」

「あ、ありがとうございます……」

 困ったように答える長谷部に審神者は微笑みかけ、長谷部は(あ、やっと主が戻ってきた)と思った。

「長谷部君」

「はい」

「少し席を外してほしい」

「……」

「私が呼びに行くまで」

「……畏まりました」

 長谷部は何処か思うところがあるようだったがそれだけ答えると立ち上がって、濡れたタオルや服を集めてから審神者に一礼した。

「それでは、失礼いたします。何かあればすぐにお申し付けください」

「うん、ありがとう」

 審神者はやはりいつものように微笑んで長谷部を見遣り、長谷部はその笑顔の痛々しさに胸が引き裂かれそうだった。

 長谷部は言いつけ通り部屋で待っていたが、その間執務を進めておこうと思ったものの何も手に付かないまま二時間程が経っていた。

(主は今頃、どうされているだろうか)

 自身を無条件に受け入れる存在として長谷部の死体を欲した審神者がいざその死体を手にした今、部屋で一人何をしているのか長谷部には全く想像がつかなかった。

 嘗て人間がそのまま土中に葬られていた頃、墓から死体を掘り起こしては自身を慰めることに使う者が居たことを、長谷部は何処かで聞いたか見たかして知っていた。

 審神者は長谷部によってその嗜虐欲を満たすときであっても、決して性的な行為には及ぼうとしなかった。その理由を長谷部から尋ねたことも審神者が明確にその口から語ったこともなかったが、審神者自身がそのような行為を軽蔑しているような嫌いがあることに長谷部は薄々勘付いていた。

(だが、もしかしたら主は生きている俺が嫌だったというだけのことかもしれない)

 息の絶えた長谷部の身体であれば、審神者は自らの欲を晒け出して発散することができているのかもしれなかった。その光景をつい想像してしまった長谷部は左胸の辺りが酷く痛むのを覚えながら、両の手で髪をぐしゃりと掻き乱した。

(……俺は何を考えている)

 そのような審神者の私的なことにまで思いを廻らせるのは近侍として恥ずべき行為であるように感じられて、長谷部は顔を熱くした。

(主がそれで御心安らかにいらっしゃることができるのなら、俺が口を挟むべきではない)

 けれども、審神者が長谷部にも見せないような表情をあの二口目に、顕現してすぐに何も知らないまま殺された彼には見せているのかもしれないという想像は長谷部にとっては簡単に掻き消すことのできるものではなかった。


 

  3


 

 暮れる夕闇の中、長谷部が部屋の灯りを点すこともせず部屋で一人座して審神者を待ち続けていると、一段と濃い影が障子の向こうから落とされた。

「長谷部君」

 長谷部は穏やかに呼び掛ける審神者の声を聞いて、

「主!」

 と一声答え、勢いよく腰を上げた。

「お身体は障りありませんか、主。何か必要とあればすぐに用意いたしますよ」

「うん、ありがとう。大丈夫」

 そう言ったものの審神者は立っているのも辛そうに開かれた戸に凭れ掛かったままで、長谷部は審神者の傍へさっと寄ってきて身体を支えようとした。

「大丈夫だから、長谷部君が汚れてしまう」

 審神者の衣服にはところどころ血痕が残っており、どことなく饐えたような臭いも漂わせていた。

「主、その……」

「何かな」

「お部屋に伺ってもよろしいですか」

「奥は汚れているから、前の部屋なら」

「ありがとうございます」

 情交の痕が残っていたとしても、長谷部は審神者の部屋で審神者の隣に居たかった。それは死体になった長谷部にはできない、近侍である自分にしか担えない役割だと長谷部は自分に言い聞かせるようにして部屋を出た。

 長谷部が頭の片隅で予想していたような青臭い精の臭いや飛び散った白濁などの痕は一切なく、部屋の奥にはぽつんと死体が転がっているだけであった。

 普段審神者が長谷部を加虐するときのように布団が敷かれている訳でもなく、ただ無造作にそれは転がしてあった。

 長谷部が胸中で安堵の溜息を吐いていると、審神者が死体の傍に屈み込んでそっとそれに触れた。

「そろそろ硬直し始める頃だと思うんだけど、君達の身体は人間とは違うのかもしれない。血を粗方洗い流した所為もあるとはいえ死斑も出ていないし、綺麗なままだ」

 堅くボタンの閉じられたシャツの上からそっと腹を撫で、審神者は冷たい身体の上に半身を伏せた。

「ただ熱が感じられないだけ」

 当てた手をつと持ち上げて腹から胸、首筋、下顎へとなぞっていく審神者の指先を眺めながら、長谷部は目眩がするのを感じた。

 凄惨で暴力的な自分相手の行為とは違う、ただ穏やかに行われるその行為は長谷部自身にもその理由が分からないままに彼の頭に血を昇らせた。

「……主」

「うん?」

「それを近侍にされますか」

 灯りを背にした長谷部の表情は真っ黒に塗り潰されて、審神者には彼の本意を読み取ることが難しかった。

「それならば、主のことを何処までも受け入れることができるのでしょう」

 審神者は長谷部からついと目を逸らし、死体の髪を少しだけ掬って落とした。

「それも良いのかもしれない」

「……」

 頭に鈍い痛みが広がる程に奥歯を噛み締めた長谷部の様子には気付かずに、審神者は続けて言った。

「これはもう泣き叫んで血を流す肉袋ではないけど、私を受け入れることはできる」

「……」

「だから彼を近侍にすればもう君を傷付けないで済むのかもしれない」

「……何を、」

 喉に重いものが詰まったように感じて息が止まり、長谷部は言った。

「主は、それでよろしいのですか」

「何が?」

「俺でなくても、良かったのですか」

「そういう訳ではないよ」

「それでは主が普段仰ることと同じではないですか、貴方も、貴方も俺を……」

 長谷部の言葉を聞いた審神者の顔からはざっと血の気が引き、横たわる二口目の死体のような色になった。

 それを見た長谷部はあ、これは不味い、と思ったが、今更激情と言葉の波は退きそうになく、その口から堰を切ったように止め処なく溢れていった。

「俺は貴方が俺だけを愛していると言うからいつか俺の気持ちも伝わろうと思ってただじっと待っていたのに何故そのようなことを仰るのですか、貴方だって嘘吐きだ! 俺への愛だと言うから貴方の仕打ちすらも俺には心地良いものだった、俺だけが、俺が主の一番の臣なのだとこの身に刻むことができた! だから俺は耐えた、俺が貴方を心からお慕いしてお仕えしていることもいつか貴方に分かっていただけると思えばこそ、ただ信じて貴方を待ち続けていたのに! その結果がこれですか、貴方は俺が傷付くことを恐れてそんなものを傍に置きたいと言う、俺は主のためなら命を捧げることなど毫も厭わないと申し上げているのに……。分かっていないのは、貴方の方だ!」

 動かない身体が放つ芳しい死の香りに酔いながらも、審神者は吐き捨てるような長谷部の言葉を嫌という程理解し、心臓は煩い程に早鐘を撞くようだった。

「……」

 冷や汗を流し、胸を押さえたまま何も発することのない審神者を見て長谷部は苦い顔をした。いくら感情的になったとは言え、今のは審神者の配下にあるまじき態度だった、と幾らか自責の念に駆られていた。しかし不思議と其処には後悔はあまりなかった。

 審神者の言う愛があの苛烈な陵辱であるなら、少々乱暴に過ぎたかもしれないが自身の言葉もまたそれに対する答えなのだと、今の長谷部は思い込むことができた。

「……主、申し訳ありませんでした。言葉が過ぎました」

「…………長谷部君、出て行って。部屋に戻って」

「……はい」

 審神者の反応は尤もなものだった。長谷部は乾いた唇を舐めると失礼いたしました、とだけ言って部屋を後にした。

 死体に覆い被さってそれを抱き締めた審神者の姿は、強いて見ないようにした。

 言い放ったときはそれを至極正当な行動だと思っていた長谷部も、今また自室で一人になり、色々と物思いに耽っていると何処からか一抹の不安と後悔が忍び寄ってくるのを感じていた。

 あそこで堪えていれば審神者の不安定な心も少しは平静を取り戻すことができていたかもしれなかった、自分はただ耐えて待っているべきだった。

 審神者は否定してこそいたが、長谷部の言葉により本当に近侍を外されるかもしれない。あの死体を近侍にした審神者が何をするのか、長谷部には到底想像がつかなかった。

(……主があれで何をしていたのか、結局訊きそびれてしまった)

 他に愛を伝える方法を知らないと言っていた審神者が何をしていたのか、審神者からの愛を盲目的にその身に受けるだけだった長谷部には分からなかった。持ち合わせているのは審神者から彼へと伝えられた瑕疵と、人間の生活を見ているうちに得た情交の存在に関する乏しすぎる知識だけであった。

(俺だって主のことはいつも受け入れていたつもりだったが、主はこんな俺より物言わぬ死体の方を求めるのだろう)

 長谷部が溜息を吐いて目元を擦ったとき、障子戸の向こうに影が立った。審神者よりも小さいその影が審神者のものである筈がないのに、彼はもしかしたら審神者が来てくれたのではないかという希望に縋り付いている自分に気が付いて悲しそうに苦笑した。

「長谷部、居るか」

 それは薬研の声だった。長谷部は障子戸を開けて応対した。

「薬研か、何の用だ」

「もう夕食の時間だぜ。大将は?」

「ああ、主はご気分が優れないとのことで自室で休まれている」

「長谷部が傍に着いていないとは珍しいな」

「主の命だ」

「そうか。薬が入用なら用意するって伝えといてくれ」

「ああ」

 長谷部は、そういえば審神者の部屋へ足を踏み入れたのは自分とあの死体だけなのだとふと思った。

 他の男士達は中へ入ることは愚か、部屋の前まで行くこともないように審神者から言いつけられていた。用があれば長谷部を介するか、食事時や審神者が本丸の中をぶらついているときなどに声を掛けるのが確たる習慣となっていた。

「夕食はどうするって?」

「……忘れていた。俺が確認してくる」

 気が進まない様子の長谷部に薬研はおや、と思ったが、それを口にはせず手を振って立ち去った。

「俺達は先に食べてるって伝えといてくれ」

「ああ」

 追い出されたままで審神者の部屋へと向かうのは気が重かったが、行かない訳にもいかず長谷部は渋い顔をしながら歩を進めた。

 陽が落ちたというのに審神者は灯りも点けずに居るようで、戸の向こう側は真っ暗だった。長谷部は小さく咳払いをして声を掛けた。

「主、長谷部です。お伝えすることがあって参りましたこと、お許しください。夕食の時間だそうですが、如何されますか」

 予想通り返事はなく、衣摺れや身動ぎの音すらも聞こえなかった。長谷部は胸が痛むのを感じながら、再び声を掛けた。

「……食事係には主の分は冷蔵庫に入れておくよう伝えます。俺は部屋に居ますから、お召し上がりになりたいときはお申し付けください」

 答えの返ってこない暗闇へ言葉を投げ掛けるのは何て虚しいことだ、と長谷部は思いながら、尚も続けた。

「……それと、薬研が主のことを心配していました。薬が必要であれば用意する、と」

「……薬研君に」

 審神者の微かな声が聞こえ、長谷部は思わず目を見開いて聞き逃すまいと耳を澄ませた。

「ありがとう、今は必要ないと伝えてくれ」

「承知いたしました」

 審神者の長谷部に対する行為は愛故のそれも情緒不安定故のそれも全て他の男士達には気取らせない、というのが二人の間にいつしか存在していた暗黙のルールではあったが、今の長谷部にはそのルールすら疎ましく感じられた。

 薬研に何も悟らせまいという意図で審神者が返事をしたのだとは分かっていたが、それすら今の長谷部の心を酷く突き刺すには十分な態度で、長谷部は思わず障子戸の枠を叩いた。

 がたん、と戸が耳障りに揺れて、音の波がさっと去った後には再び静寂が戻った。

「……主、大変失礼いたしました。少し立ち眩んでしまいました。では俺はこれで」

 今頃音も光もない部屋の中では審神者が長谷部の死体を抱いて眠るように目を閉じているのだろうと長谷部は思った。其処に自分が入る余地はないのだ、そうも思った。


 

  4


 

 翌朝、身仕度を整えた長谷部が自室でこれからどうしたものかと悩んでいると、遠慮がちな審神者の声が聞こえてきた。

「長谷部君」

「主?」

 慌てて立ち上がり戸を開けた長谷部に、審神者はその顔を見ないまま小さく告げた。

「いつも通りにしないと皆に心配されるから」

「……はい。主、昨日は申し訳ありませんでした」

「いいよ、それはもう。私も悪かった」

 この話は終わり、と首を振る審神者は此処へ来る前に身を清めて着替えを済ませてきたらしく、血の臭いも死体の饐えた臭いもしなかった。

「主、昨夜は眠られましたか」

「うん」

 私の熱も全て一瞬の間に飲み込まれてしまってとても冷たい夜だった、と審神者は囁くような声で言った。

 長谷部は痺れたままの脳でああ、主はあれと寝たのか、と考えた。全てが遠く、スクリーン上の出来事のように思われていた。

 向けられた審神者の熱を血と臓腑から立ち昇る湯気の熱で返す自分ではなく、冷たさを以て全て飲み込んでしまうあれこそが主の求めていたものだったのか、長谷部は胸中で独り言ちて鼻の奥が熱くなった。

 今日の執務はどうするのかを長谷部は尋ねたかったが、それを訊いてしまえば今度こそ自分は終わりだという気がして踏み出せなかった。昨夜審神者に見限ったような言葉を叩きつけたのは長谷部の方であったが、しかしこの関係を断ち切ってしまえるのは審神者その人しか居なかった。

「……」

 審神者は疲れた顔で隣を歩く長谷部を彼に気付かれないよう一瞥し、視線を足元に落として言った。

「……今日は、出陣はどうしようか」

「は、はい」

 望んでいた話題を審神者の方から振られたことに長谷部は驚きつつも嬉しくなった。審神者は日々のちょっとした執務であっても必ず近侍である長谷部に全ての情報を提示した上で二人で結論を出すようにしていたが、その慣習はまだ有効であったようだった。

「速やかな出陣の必要がある戦場はない筈ですから、練度を上げるのが良いかと」

「じゃあそうしよう、長谷部君が連れて行ってきて」

 口を開くのも億劫だという様子で審神者は投げやりに言った。

「主、お加減は……」

「大丈夫だから、行くように。蛍君と骨喰君と……日本号さんと髭切さんと膝丸さん、時代や場所は任せる」

「……承知いたしました。朝食後、準備が整い次第出陣します」

「うん、頼んだ」

 俯きがちな審神者の項が長谷部の目に入り、今ここで首を落としてしまえばあの死体のときのように審神者は自分のものになる、と誰かが長谷部の脳内で囁いた。何を馬鹿なことを、と長谷部は頭を振ってその思念を追い払った。

 朝食の席、昨日の昼食ぶりに姿を現した審神者へ男士達は口々に言葉を掛けた。何も気取られずに済んだ、と審神者と長谷部の二人は互いを見ないままに目配せをした。

「大丈夫か、大将」

「ああ、薬研君。昨日はありがとう、心配をかけた」

「何か入用ならすぐに言ってくれ」

「ああ。皆も、突然すまなかった。今日もいつも通り出陣や内番を頼む」

 はい、承知いたしました、任せてくれ、と一斉に返事が返ってきて、審神者はいつものように微笑んだ。それは長谷部の身を焼く熱を持った笑顔ではなく、何の感情も込められていないひどく冷めた笑顔だった。

「さて、頂こうか、長谷部君」

 その笑顔のまま突然話しかけられた長谷部も手本のような笑顔を返し、

「はい、主」

 と言った。

 次第に大きくなって背筋を冷やしていた不安と後悔に喉を締め付けられながら、長谷部は食事を無理矢理押し込んだ。

 朝食後、出陣部隊に組み込んだ五人に審神者は長谷部と共に声を掛けた。

「来たるべき戦いに備えて練度を上げてくるよう、頼んだよ」

「各自仕度を終えたら玄関口に集合するように」

 特に日本号、出陣前に呑むようなことのないように、と長谷部は釘を刺した。

「お前は相変わらず融通の利かない奴だなぁ」

「五月蝿い」

「あんたもよくこんな奴を近侍にしてるよな」

 日本号は冗談めかして審神者に言った。長谷部は瞬間肝が冷えたが、審神者は何でもないように返した。

「長谷部君はこのままで良いんだよ」

「そうかぁ?」

 あんたも物好きだな、と笑って日本号は一旦自室へ去っていった。

「私達も一度戻ろうか」

「……はい」

 審神者は長谷部の前に立ち、自室へと向かった。喧騒の残る食事部屋を後にして静かな廊下を二人歩きながら、長谷部は何と言うべきか分からなかった。

「主、その……」

「うん?」

「お部屋へ入っても、よろしいのですか」

「うん、何で?」

「いえ、その……」

 今日も俺が近侍を任せていただけるのですか、長谷部はそう尋ねたかったが、答えを聞くのが怖くて尋ねられなかった。昨日は追い出されたものの部屋への立ち入りをまた許されたということは、いつものようなちょっとした発作だっただけなのだろうか。

 待たせてすらもらえないことがこれほどの恐怖だったとは、と泣きそうな顔をした長谷部を見て、審神者は小さく零した。

「近侍が今まで通り私の部屋へ入るのに許可が要るのか」

「主……?」

「無論君が近侍を外れたいというのなら無理強いはしない」

「いえ、許されるなら俺は主のお傍でお仕えしたいです、主」

 急いた声で言う長谷部に審神者は一瞥をくれ、自室の戸に手を掛けた。

「私もだ」

 主、と綻んだ長谷部の声は、それを待たずに部屋を横切り奥の戸を開けた審神者の色を失った声で掻き消された。

「あ、ない……」

「主? どうされました?」

 ない、ないと繰り返す審神者の後ろから長谷部が寝室を覗き込むと、其処に横たわっている筈の死体は何処にもなく、長谷部がよく見知った空間が広がっているだけだった。

「誰かが入ったのでしょうか」

「いや、違う」

 肩を落としてへたり込んだ審神者は、憔悴した様子で言った。

「迂闊だった、あれは私の力なくしてはもう維持できていなかったのだった……。私が離れたことで、現世に留まれなくなったんだ」

「……主」

「部屋を出なければ良かった、取り返しのつかないことを……」

 這うように布団へ寄り、一片の死臭すら残っていないシーツを掻き抱いて審神者はそこに蹲った。

「……主」

「辛い」

 自らの言葉には反応しない審神者の一言に、長谷部は耳鳴りがした。

「此処はとても熱い、私はどうしたら良い」

「主、」

「長谷部君、どうしたら良い、熱いんだ」

「……主、お許しください」

 長谷部は一言告げると審神者を布団の上に勢いよく押し倒し、両の手で審神者を其処へ縫い止めた。喉をひくつかせ、耳鳴りに思考を阻まれながら長谷部は絞り出すように言った。

「主、俺では駄目ですか」

「長谷部君……?」

「俺は俺の主の命とあらばいつまでも待ちますし、何だって耐えてみせます。俺ならいつまでだって主のお傍でお仕えすることができる、主の願うことも全て叶えてみせます、主、俺は何をされたって構わない、主」

「長谷部君、君は本当にそれを望んでいるのか、傷付けられながら待ち続けることを」

 押さえつけられた腕の痛みに顔を顰めながら審神者が問うと、長谷部は口を歪ませて答えた。

「俺は何度も申し上げた筈です、俺は俺の主の為ならばいつまでも待つと。ですが、もう待つのは終いにします」

 額がくっつく程に顔を近付けて、長谷部は息も荒いままに言った。

「主の熱は俺が全て受け止めます。俺はあれみたいに冷たくないですが、その分俺の血は、臓物は熱い」

「長谷部君、……」

「俺の熱で貴方を焼き尽くす、貴方はその中で凍えていれば良い」

 長谷部はいつの間にか審神者から手を離してへし切を手にしており、審神者へ馬乗りになったまま抜刀した。

「俺を信じられないのなら、信じさせるまでだ」

 目の前の光景に茫然と身を委ねるしかない審神者に微笑んでみせて、そのまま長谷部は自らの胸を貫いた。手を捻ってから刀身を引き抜くと、貫かれた場所から血がどっと溢れ出して審神者の顔を、胸を濡らしていった。

「長谷部君……手入れを……」

 青褪めて言う審神者には構わず、長谷部は笑顔で伸し掛かって抱き締めた。

「主、熱いですか? 主の熱を塗り潰す程に熱くないと、意味がありませんからね、主」

「分かった、分かったから手入れをさせてくれ、君が死んでしまう」

「死体を望んだのは主ですよ、丁度良いではないですか」

「長谷部君、君の言うことは支離滅裂だ、まず退いてくれ」

「主、次は主の番ですよ。俺がいくらでも受け止めますから、主が俺を信じられるまで主のご随意になさってください。俺は今、とても昂ぶっていて熱いんです」

「長谷部君、退けと言っている!」

 ほとんど悲鳴のように叫ばれたその言葉に漸く長谷部は耳を貸し、藤色の瞳に劫火を宿しながらその身を起こした。審神者は息を切らせて長谷部の身体から逃げるように後ずさり、袖で顔を拭うと言った。

「君の忠心は良く分かった、これは私がそれを蔑ろにした罰だろう。君が今したことは後から何と言おうと不問に付すから、まずは手入れをさせなさい」

「また待たせるなんて俺の主は非道い方だ」

 長谷部はふらつきながら立ち上がり、投げ捨てられていたへし切を鞘に収めながら相変わらず笑って言った。

「主の命とあらばいつまでも待ちますよ、俺を迎えに来てくれるのであればね……。手入れは受けますよ、その後で主の気が済むまで俺を扱ってくださればそれで良い」

 血を流しすぎたのか左右対称の真っ白な顔で笑う長谷部に止血を試みながら、審神者はあの物言わず考えることもない死体を思い出した。

「君が何を言っているのか、全く分からない。いや、分かりたくないとすら思っているのかもしれない……。お願いだから、君をそうさせてしまった私のことを主だなどと思わないでくれ」

「何を仰るのですか、貴方は紛れもない俺の主です。主がなんと仰ろうと、俺がそう在ってほしいと望む限り主は俺の主です」

 それだけ言うと長谷部は崩折れるように倒れ、審神者は慌てて彼を抱き止めた。

「主……俺だけを、お傍に……」

「分かったから喋るな、今手入れするから!」

 悲痛な声を上げる審神者を見て、長谷部は満足したようにそっと瞼を閉じた。

「主の為なら……俺をいくらでも傷付けてほしいんです」

「もう私には君のことが分からないよ……」

 泣きそうな顔で長谷部に肩を貸し、何とか立たせて手入れ部屋へ連れていこうとする審神者に長谷部は呟いた。

「いつか分かっていただけると信じています」

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