Sausage Factory
レイヤ4
冬の澄んだ空気の中、審神者はぼんやりと庭を眺めていた。
長かった連隊戦が漸く終わり、本丸には束の間の休息が訪れていた。鶯丸は待ち兼ねていた大包平との再会を果たし、本丸の日々は一層賑やかになった。
凜然と身に沁みる寒さに審神者はぶるりと身震いし、それでもこの冬を楽しんでいた。辺りが清冽な空気に満たされている今、何か面白いことが起こるような気がしていた。
そんな審神者を、遠くから誰かが呼んだ。返事をしつつ立ち上がり、声が聞こえた方――本丸の表門だった――へ向かうと、走って来た信濃と後藤に出くわした。
「大将! 大変だぜ!」
「いち兄が呼んでるよ」
「何かあったのかな」
「それがよ、長谷部が……」
「俺が何だ」
音もなく現れた長谷部に二人の短刀は飛び上がらんばかりだった。偵察の得意な短刀でも、奇襲には弱いらしい。
「ああ、長谷部君。一期君が、何かが大変だと」
「はい」
「あれ?」
「長谷部だよな」
信濃と後藤は怪訝そうな表情でひそひそと会話を交わしている。長谷部が「何だ」と尋ねても、困惑した視線を向けるだけだった。
「これは……」
表門に着いた時、審神者も思わず唖然とし、二人が戸惑っていた理由を察した。
――もう一人、長谷部が立っていた。
長谷部も流石に驚いているようだった。顕現させた覚えのない男士が、其処に立っているのだ。
「主」
一期一振が駆け寄り、審神者の前に立った。
「一期君、これは?」
「遠征から帰還したら、彼が此処に立っていたのです。長谷部殿かと思って話しかけたところ返事がなく、此処から動こうともしないので、何かあったのかと思い、二人を呼びに遣ったのですが」
「彼は此処の長谷部ではないね」
「その通り」
闖入者が突然口を開き、凭れていた門扉から身を起こしたので、その場にいた全員が刀の柄(つか)に手を掛けた。
「主、お下がりください」
長谷部が言い、審神者を庇うように移動して睨みつけた。
「貴様、何者だ」
「俺は此処の主としか話すつもりはない」
「ふざけるなよ、誰が……」
「君は敵か?」
長谷部の陰から審神者が声を張った。
「主っ……」
「敵ではない」
「証拠は?」
「……」
「此処へ来た理由は?」
「……」
「何も明かせない、証拠もないというのなら我々は君を信用できない。敵の謀略という可能性が零でない以上、此処で君を斃(たお)させてもらう」
審神者が言い終わるや否や長谷部は静かに鯉口を切った。澄んだ小さな音にもう一人の長谷部は両手を挙げ、観念したように言った。
「分かった、証拠を見せる。此処の管狐を呼んでくれ」
「管狐? こんのすけのことか。平野君、呼び出してきてくれるかな」
「はい」
駆けて行く平野の姿を視界の端に捉えながら、長谷部はじっと前を見据えている。平野はすぐに戻って来た。
「お呼びしました」
「皆様、どうされました?」
こんのすけはぴょこぴょこと歩いて皆の中心まで来ると、見知らぬ男士が居ることに気付いて目を留めた。
「ふむ……」
「おい、管狐、耳を貸せ」
長谷部は直立したままでぞんざいに言い放ち、審神者がそれを聞き咎めた。
「待った。まさかそれに何か細工をするつもりじゃないだろうな」
「そんなことはしない」
「……」
こんのすけ――管狐は、端末を除けば、政府と本丸とを繋ぐほぼ唯一の通信手段だった。その多くは審神者達へは秘匿されていたが、非物質がもつエネルギーのようなものを基に構成されているとは何処かで聞いたことがあった。
非物質の中には当然、言葉や思考も含まれる。例えばウイルスのように働く言葉を以て管狐(システム)を改竄されることを、審神者は危惧したのだった。
ポケットを探ってメモ帳とペンを取り出し、それを投げて寄越しながら審神者は言った。
「それを使って会話するんだ」
音声を伴わない言葉なら、まだ影響は小さい筈だった。
「ああ、いいだろう」
長谷部は大人しく従った。紙にさらさらと何かを書き付けた後、それをこんのすけにだけ見えるように差し出し、こんのすけは鼻をひくつかせながらそれを読んだ。
「主さま、彼は怪しい者ではありません」
「……」
「主、信じるのですか」
「私からも詳しくは申し上げられないのですが、彼の身元は保証します」
「主……」
「言っておくが、俺は何も細工などしていないぞ」
その場の全員の視線を向けられ、審神者は眉根を寄せながら長く息を吐いた。
「取り敢えず、中へ入るか」
「主!」
長谷部は切羽詰まった様子で言ったが、他の男士は柄に掛けていた手を離して審神者の言葉に従った。皆遠征お疲れ様、と審神者が声を掛ける。
不安と不満が入り混じった表情で審神者の後を歩く長谷部を、何処の誰とも知れぬ長谷部はつまらなさそうに眺めていた。
三人と一匹は応接用の部屋で向かい合っていた。
審神者がいつになく対外的な、強(こわ)い態度を取っている所為か、長谷部は萎縮して俯きがちだった。対して目の前の長谷部は平然としており、彼はそれに苛立ちをも覚えていた。
「身元、と言ったということは、君には主が居るという訳か。自然発生的な存在ではなく」
「……それぐらいは言っても構わないか。ああ、そうだ」
「それは誰だ?」
「言えないな」
当然だ、と言わんばかりの口調だった。
「では質問を変えようか。何故此処に現れた? 何を目的として? そして、何故君は帰らない?」
「……」
長谷部は肩を竦め、近侍の方をちらと見た。不躾な視線に彼がむっとした表情になるのを確認すると愉快そうに唇の端を持ち上げる。
「何も言えない、か。まあいい。君をまだ信用してはいないが、敵意も感じない。ひとまずは此処に滞在していれば良い。但し、監視は置かせてもらうが」
「ああ、ではそうさせてもらう」
審神者はこんのすけを退席(シャットダウン)させ、二人の長谷部を連れて部屋を出た。空き部屋を客人に宛てがい、庭で遊んでいた短刀達に見張りを頼み、近侍と二人、執務室へ戻って来た。
「全く同じ顔が二つとはね」
一言目はそれだった。これもまた、面白がっているような笑みを浮かべている。長谷部は頭痛を覚えながらも答えた。
「奴を此処へ置いて、大丈夫ですか」
「彼が何を書いたのか知らないが、たった数行の言葉、それも文字情報のみで政府の管狐(システム)を改竄するのはほぼ不可能だろう。万に一つ、歴史修正主義者側がその方法を確立していたとして、わざわざこんな末節の本丸を狙う理由がない。テストするにしてはリスクが高すぎるしな」
「……では、何故」
「目的は分からない。だが二つ、分かったことがある。まず、彼は帰らないのではなく、おそらく帰れないのだと思う。非協力的な態度に終始していなかったのは多分その所為だろう。それと彼の主だが、普通の審神者ではないだろうね」
「普通の?」
「君達は――君達が器としている肉体は、顕現させた審神者やその本丸から一定距離・一定時間離れると消えてしまうことは知っているね? 普段の遠征程度なら支障はないし、修行に向かう際は私が持たせた道具が君達を守っている。だが私を主とせず、この本丸を本拠地としない彼はうかうかしていると消えてしまう。消えてしまうのに、彼が一向に焦る気配を見せなかったのは、彼の主が何か特別な力を持っているのか、或いは……」
審神者は其処でふいに口を噤んだ。
「主?」
「……いや、まだ憶測に過ぎない。情報が得られたら、まだ考えよう」
「はい」
「当面、第一の目的は彼を帰還させることとする。その過程で必要なこと――彼の出自を知ること、彼に脅威がないと確かめること――も当然優先させるべき事項となる」
「はい、主」
「幸い、連隊戦が終わった今、時間には少し余裕がある。君には私と共に動いてもらう」
「拝命いたします」
頷いた後、審神者は深く嘆息した。
「主?」
「……そうは言っても、情報などないも同然だ。推測に推測を重ねたところで、証拠がなければ何の意味もない。何をすべきか……」
「主、いっそのこと、政府へ問い合わせてみるというのは如何ですか」
「政府に?」
「こんのすけが勝手に報告していたりはしないのですよね? 奴はあくまで通信手段なのだと主は仰いましたから」
「うん、……ある程度自律した思考はするが、おそらく彼方へは何も伝わっていない」
「でしたら先手を打って此方から明かしてしまうのが良いのでは?」
「まあ……」
考え考え、審神者は言った。
「初手としては悪くない手段に思える。ただ一つ引っかかるのが、何故彼がそれを要求しなかったのかという点だが」
「何か疚(やま)しいところでもあるのでしょう。奴は身元を明かされては困るという口ぶりでした」
「それも全て明らかになるだろう」
審神者は簡単に事情を纏めてから、端末を通じて政府へと送信した。返答が来るまでおそらく数日は要すると言う。
その間何をしようか、と審神者は呟いた。
二人が様子を見に行くと、部屋の前では寒さも気にせず短刀や脇差達が声を上げて遊び回っていた。がらんとした部屋の中からぼんやりとそれを眺めている長谷部を、今は厚が見張っていた。
「ご苦労様、厚君。此処は代わるから、君も遊んでおいで」
「大将! いいのか?」
「ああ」
厚はニッと笑うと駆け出して行った。後ろ姿を見送ってから静かに戸を閉め、さて、と審神者は振り返った。
「大人しくしていたようだ」
「此処の空気は惚けきっているな。鈍(なま)ってしまいそうだ」
「口を謹め、貴様」
「言い合いをしに来た訳じゃないよ」
「……申し訳ありません、主」
「ふん」
いきなり一触即発の空気になりかけ、審神者はやれやれと首を振った。
「まあいい、君には先程政府に連絡を取ったと伝えに来ただけだ。それで君の身元が明らかになれば、我々としても動きやすくなる」
「政府に?!」
長谷部は驚愕と焦りの色を浮かべて僅かに身を乗り出したが、すぐに表情を戻した。
「いや……何でもない」
「やはり何か疚しいところがあるのでは?」
近侍は審神者へそっと耳打ちしたが、審神者は黙ったままでまた首を振った。厭に慎重なその態度が長谷部は気になったが、此処で質(ただ)す訳にもいかなかった。
審神者は少しの間目の前の長谷部の様子を眺め、また仕方なくといった様子で口を開いた。
「返事が来たら君にも知らせるが、それまではやはり此処で過ごしてもらうこととなる。皆への説明は夕食の前に――いや、後にするから、そのつもりで」
「別に説明など要らんだろう」
「君が良くても此方が困るんだよ。本来なら今此処で斬り捨てても構わないのにわざわざ置いてやっているんだ。少しは温情に感謝したらどうなんだ」
酷く冷たい声で審神者はそう言った後、近侍である方の長谷部へ向き直って指示を出した。時間になったら誰かに運ばせるから此処で夕食を摂って、その後食事部屋へ連れて来るように。悪いが、それまで君に監視を頼むよ。――長谷部の心には一瞬だけ不快感が過ぎったが、いつものように畏まりました、と返して主を見送った。
今や部屋には二人きりとなり、雰囲気は非常に悪かった。
ついさっき、それも見知らぬ場所へ来たばかりだというのに長谷部は一片の緊張も見せずだらだらとくつろいでいた。対して此処の長谷部は審神者が退室しても姿勢を崩さない。
「おい」
「……」
「主に対して無礼な態度を取るな。主が置いてやると仰っていなければ、俺が斬っているところだ」
「……」
依然、審神者としか会話をしないというスタンスのままでいるらしい彼に、長谷部は腸が煮え繰り返らんばかりだった。
「貴様にも主は居るだろうに、よくもそんな態度を取れるな。俺が同じことをすれば、俺は主に顔向けができんがな」
「……主」
ぽつ、と呟き、長谷部はまた黙り込んだ。流石に聞き入れたのかと思い、背を向けた彼に近侍はそれ以上何も言わなかった。
食後ということもあり、審神者の説明は男士達へ比較的容易に受け入れられた。不承不承頷いているだけの男士もいるにはいたが、一応は納得したようだった。
「数日で彼の扱いも判明するだろうから、それまで君達には不便を強いることになるかもしれないが……」
「主、不寝番でしたら私の弟達を」
一期一振が静かに申し出て、藤四郎の短刀、脇差達は一様に頷いた。審神者は目を瞬(しばたた)いて、
「それは頭から抜けていた」
と言った。
「主、寝所をお護りするのは俺が。粟田口は奴の部屋に宛てるのが宜しいかと」
「そうだな、粟田口には少々負担をかけてしまうが……その分、昼の監視を他の面子で回す。良いか、皆」
口々にはい、と答える男士達を見て、話題の対象になっている長谷部は無表情なままだった。皮肉めいた、せせら笑うような態度も影を潜めている。
審神者はそんな彼を一瞥し、ぽんと膝を打って立ち上がった。
「明日以降の割振りは朝に知らせることとする。今夜の番は一期君、君達で決めてもらっても構わないかな」
「お任せください」
「うん、では君を部屋へ送って行こうか」
「……」
長谷部は席を立つと、一人でさっさと出て行こうとした。
「主!」
「ああ」
二人も後を追って食事部屋を出た。後ろでは、食器を片付ける音に混じってわいわいと騒ぎ立てる声が響いていた。
廊下を歩きながら、審神者は何でもないように言った。
「暫くは好奇の目に晒されるかもしれないが、対価とでも思って我慢してくれ。別に内番や何かを手伝えとは言わない。身体が鈍るというなら誰か掴まえて手合わせでもすると良い」
その声にもう冷酷さはなかった。長谷部は事務的に「ああ」とだけ答えた。
「ただ、執務室――私の部屋へは来ないように。用があれば長谷部君か他の誰かに取り次いでもらうことだ」
「ああ」
部屋に着き、中へ入った長谷部を審神者は目を細めて見た。いつの間にか傍には、番をしに来たのであろう薬研が立っていた。
「返事が来た時に、また話をしようか」
「……」
声はなかった。薬研に「後は宜しく」と声を掛け、審神者は長谷部と二人、自室へ向かった。
「長谷部君、今日はお疲れ様」
「主こそ、色々とお疲れではありませんか。床(とこ)を調えましょうか」
「まだいいよ。考えることはまだまだあるが……それも全て、政府からの返事が来てからだ。新しく分かったことといえば、政府へ知らせたことは彼にとって何か都合が悪かったらしいということか」
「やはり……」
「断ずるのは早計というものだよ。誰にとって都合が悪いのか、という話もある」
「? それは彼奴なのでは?」
「……まあ、今はまだ何も言えない。数日間、君にも不便があるかもしれないが、なるべく負担のないようにするよ」
「危険があると事です、主。俺が動きます」
長谷部は慌てたように言った。役に立たねば、という焦りは彼のアイデンティティですらあった。
審神者はそんな長谷部を微笑ましそうに見て目を眇(すが)めていた。イレギュラーが続いた今日一日の中、漸く気分を弛めたらしい審神者を見て、長谷部も何処かほっとした様子だった。
「どうせ止めても付いて来るんだろうな、君は。構わないよ。ただ何かあればすぐに言うんだよ」
「はい」
ぱっと顔を輝かせる長谷部は忠心高い犬のようで、審神者は思わず苦笑した。
「主、何か?」
「いや、何でもないよ。それより、彼がいる間はまさか普段通り過ごす訳にもいかないから、君はもう休むと良い」
「……宜しいのですか」
「勿論」
顔を伏せ、手を握っては開きながら審神者は言った。
「……今は不味いだろう、流石に」
「……」
「だからたまには早く休みなさい、ね」
「はい」
長谷部は大人しく立ち上がり、「お休みなさいませ」と頭を下げて退室した。が、すぐに戸を再び開き、「主!」と叫ぶように言った。
「何だい、一体」
「寝所の警護をすると申し上げたではないですか」
「ああ、忘れていた」
あっさりとした返答に、長谷部は頭を抱えたくなった。相変わらず、自分の身の安全というものを全く考えていない!
「折角ゆっくりと休める機会なのだから警護など考えなくて良いのに」
「なりません、主」
「分かったよ。それで、どう護るつもりなのかな。一晩廊下で座らせるなんて嫌だよ、私は」
「それは……」
はあ、と審神者は溜息を吐いた。
「何なら、君は此処で寝れば良い。不審があれば君が気付いて私を護る。はい、決まったね、では布団を持って来るように」
「え、あの、主?」
「持っておいで」
「は、はい」
押し切られるようにして長谷部は布団を運んで来て、風呂を済ませて服を着替え、「おやすみ」と言われて身を横たえたが、襖一枚を隔てた先に審神者が眠っているかと思うと目が冴えて仕方なかった。
奴が帰るまで、頭痛の種が一つ増えたな、と長谷部は煩悶するしかなかった。
相変わらず長谷部は何も話さず、情報も増えず、政府からの答えを待つ間、審神者ができることはほぼ何もなかった。
長谷部は一日中部屋でぼんやりしていることが多いようだったが、時折気が向いたように打刀や太刀を相手に手合わせをしてもいるらしかった。相手をした和泉守や鶴丸、長曽祢、そしてそれを眺めていた短刀達は口を揃えて「半端なく強かった」と言った。
手合わせの後はまた部屋へ戻り、驚嘆や賛辞の声にも顔色一つ変えず無言を貫いているという。冷静極まりないのは夕食の時もそうだった。食卓に何が上ろうと、美味いとも不味いとも言わず無表情で黙々と口へ運ぶ。
審神者はそんな彼に隠しもしない好奇の視線を向けて、何処か楽しんでいるようにも見えたが、長谷部はそれが面白くなかった。何にも心を動かされないという在り方を、審神者自身は望んでいないのだとしても、他でもない審神者の為に長谷部は目指していた。
それ故に長谷部は彼に対して嫉妬の念すら覚えていた。冷静になりきれない自分とは何処か違う、彼に。
隣室で夜を越すことに全く慣れないままで数日が過ぎ、ついに政府から答えが返ってきた。届いた文書を端末で開き、覗き込みながらそれを読んだ審神者と長谷部は、思わず言葉を失っていた。
返信は実に端的だった。
「其方で破壊するか、二日後に此方から送る遣いの者に刀解させる。それ以外は問い合わせられても答えられない」
破壊か刀解。何れにせよ、彼はもう処分される運命にあるのだ。
「……何故、……」
長谷部は動揺を隠せなかったが、審神者は既に思考を進めていた。
「使い捨ての駒などあり得ない。となれば、可能性の一つは消える。これは朗報だ」
「主?」
「後は彼にこの結果を告げるだけだが、君も来るかい。何とも呆気ない幕引きではあるね」
「……」
長谷部は訳が分からず、黙って審神者に付き従った。彼に宛てがわれた一室へ向かい、一声だけ掛けて戸を開けると、彼はさっと二人を振り返った。
「君の処遇が決まった」
「何だ」
審神者は先の文書を淡々と読み上げた。言葉が進むにつれ長谷部の顔から血の気が失われていくのを、此処の長谷部は見ていられなかった。
宣告はすぐに済んだ。
「さて、どうする?」
「…………」
誰も答えなかった。呼吸の音さえ殺さねばと思ってしまうほどに、部屋は静まり返っていた。
ややあって、掠れ気味の声で長谷部が言った。
「……俺は、棄てられた、のか」
「そのようだね」
「何故だ」
審神者の口の端が皮肉気に持ち上げられた。
「君を帰すことに利益がなく、帰さないことに不利益がないからさ」
「……俺が……俺が情報を漏らすのは、不利益だろう」
「見捨てられた腹いせに寝返りでもするかい? それも構わないけれど、私ならやめておくね。見合わないよ」
「……」
「元いた場所の座標すら知らないような君の情報とやらを、君の主の名誉と天秤にかけるつもりなら引き止めはしないが」
「……主……」
長谷部はその表情に見覚えがあった。苦悶を孕んだその顔で、もう一人の長谷部は項垂れた。
二人の様子を特に気に懸けるでもなく、審神者は一人で喋り続けている。
「君に出来ることはもう無い。どう足掻こうが君が元居た場所へ帰ることはできないし、この世から消え失せる運命は覆せない。どうせなら、君が何処から来た何者なのかを知りたかったが。私にはまだ何も判っていないからね」
「……」
近侍として主の言葉を止めるべきなのか、長谷部はどっちつかずのまま二人を交互に見遣っていた。唇を噛み締め、じりじりと審神者を睨みつけ、棄てられた長谷部は悲痛な声で言う。
「お前に、何が分かる」
「何も分からない。君の主というのは政府そのものなんじゃないか、と思っていたぐらいで」
「政府?」
「……」
「もう、黙秘したところで何の意味もない」
「……お前達が過去に遡行した連中だけと暢気に戦っていられるのは、誰の御蔭だと思っている」
「過去だけ?」
「俺達は現在を守っていた。何百何千の可能性を、そして未来を守る為に歴史修正主義者共を討ち取っているのだと……主は、そう仰っていた。我々が居るからこそ政府は守られているのだと」
審神者が得心したというように頷く。
「だが……結局は、誰も俺のことを助けようとはしなかったという訳だ。誰一人」
「それは君の主にその意志がなかったということとイコールではないと思うがね。一人では政府の意向に逆らえなかったという――」
「一人ではない」
ぽつ、と長谷部が呟いた。震えて、今にも泣き出しそうな声だった。見かねて近侍が口を挟む。
「主、つまり奴は何処から来たのですか」
「此処ではない他所の本丸だよ。ただ少し役割が違っている、ね。彼はおそらく、政府のセキュリティとして、政府を守る為に戦っていたんだろう。我々のように過去の分岐点を守ろうと戦うのではなく」
「政府を守る、ですか」
「いいかい、敵の目的が〝歴史を修正すること〟である以上、我々が勝利する為の要件として、過去・現在・未来全ての時刻において、正当な歴史を維持する側である政府が存在している必要があるんだ。政府が存在するということは、まだ歴史が改変されておらず、そしてこの先も改変されていないということを意味するからね。であれば、政府を守る存在というのも必要になるのが分かるだろう? それが彼等だ」
「……はい」
「おそらく彼等は、政府へ繋がる全てのルートを監視し、検出した異常は速やかに叩くよう指示されている。各本丸からの連絡や訪問は一度彼等のチェックを受け、問題ないもののみが通過できる。――これを休みなく続けなくてはならないんだから、刀剣男士も、そして審神者も、超精鋭なんだろう」
「では……何故、奴を」
無言で俯いていた長谷部の肩がびくりと揺れた。
「何故? 言ったろう、政府へ繋がるルートを監視していると。運悪く何処かの本丸へ落っこちてしまった一口を助けたとして、偶々その本丸に目を付けていた遡行軍がくっついてきました、じゃ話にならない。一つ一つの本丸まで監視するコストに、リターンは到底見合わないだろう。だから切り捨てたんだよ。セキュリティに穴を開けるより、一人を失う方が遥かにマシだっただけだ」
「それは……それでは、あまりに……」
長谷部は二の句が継げない様子だった。いざとなれば呆気なく見捨てられるという事実を否応なしに突き付けられたのだ。一方で、審神者は何の感慨もなさそうに話していた。
「これは戦争なんだよ、長谷部君。情で物事を動かしていては勝てなどしない。だから政府は――絶対的に守られていなければならないし、その為なら徹底して情を捨て利を取らなければならないというだけだ」
「……」
憔悴した顔で、長谷部は己の主を見た。微笑んですらいるが、審神者自身が気付いていない訳がない。――この本丸とて、例外ではないのだ。
「そうまでして、歴史を守る意味があるのですか」
思わず口を衝いて出ていたが、審神者の答えは素っ気なかった。
「それは私達が考えるべきことではない」
〝寝所の警護〟という名のごっこ遊びのような真似はもう必要なかったが、その日の夜、審神者は長谷部を呼んだ。寝室へ手招きされると、数日ぶりということもあり口が乾いた。
「主、まだ、奴が居りますが」
「奴? ああ、それはもう問題ではなくなったと言ったのに」
「?」
審神者は壁に凭れるようにして畳に腰を下ろし、膝は適当に立てて楽な姿勢を取った。自分の前に膝立ちになるよう命じながら、まだ事情が呑み込めていない長谷部へ話して聞かせる。
「政府からの返答が来るまで、彼が監視役として遣わされた政府側の者である可能性を否定できなかった。もうその可能性はなくなったし、それどころか此処で私が何をしようがまず介入されないと分かったから、君を思う存分愛せるという訳だ」
「今は不味いと仰ったのは、そういう意味だったと……」
「勿論。さて、両手を壁に突こうか? そう、私に覆い被さるように」
座り込んだ審神者を、長谷部が見下ろすような形になる。主従関係にそぐわない体勢に、長谷部は居心地が悪いようだった。
へし切では長すぎると言って小刀を手にし、審神者は腕を伸ばした。長谷部の首筋に鋭い痛みが走り、みるみるうちに暗赤色の血液が溢れ出す。血は長谷部の頚(くび)から喉を伝って滴り落ち、ぼた、ぼたと審神者の顔を濡らしていった。
長谷部の眼下に見える審神者の口元が真っ赤に沈み、隙間から這い出た舌が僅かばかりを舐め取って、またするすると戻っていった。
「甘い」
そう言って笑われても、長谷部は返す言葉を持たない。
顔から首元、服までを血に濡らし、審神者はゆっくりと腕を上げ、長谷部の首に添えた。両手が徐々に締まって骨ごと気管を絞め上げ、流血の勢いが弱まっていく。
「……っ、……」
酸欠と鬱血に頭がくらくらし、長谷部は崩れ落ちそうになるのを必死で耐えた。久々だからか痛みが少ない行為が選ばれていて、審神者の手が直接触れている。長谷部は自分でもよく分からない感情で涙が出そうになったが、行為を中断させないよう努めて冷静でいた。
審神者の方は、いつものように口を歪めて笑っていた。扼首は長谷部の身体の感覚が手へ直に伝わってくるので気に入っていた。それに加えて血まで浴びられたのだ。
「……彼は」
ぎりぎりと絞め続けながら、審神者は言った。
「何処か冷淡で他所他所しい性格だったから、やはり君とは違うと思ったんだ」
「……」
長谷部は返事ができないが、審神者は構わずに続ける。
「心の片隅で、君達刀剣男士も所詮は機械人形のような存在にすぎないんじゃないかと思っていた。だけど、同じ長谷部であっても、その精神性は変容することを知った。君は君でしかないと」
審神者は含み笑いをした。ぱっと手を離し、急に空気を吸って咳き込む長谷部へ平たい声で言った。
「でも君は、首を絞め上げたって命乞いの一つもしない。結局、根本は同じなのかな?」
息が苦しくて長谷部は答えられなかったので、目顔でそれに代えた。意図は半分だけ伝わったらしかった。
「分かっているよ。分かっているとも」
納得させるように審神者は言ったが、長谷部がこの日ずっと言えなかったのはそのことではなかった。訊きたかったのに、意識は昏くなり、呼吸はままならなかった。
壁に突いていた両手から力が抜け、ずるずると崩れるようにして長谷部は気を失った。抱えるようにして彼を抱き止め、審神者は微笑んだ。
「覗き見は感心しないな」
手入れ部屋から出た審神者は後ろ手に戸を閉めながら言った。月に照らされた中、長谷部が無言で立っていた。
翳った風が煤色を掬っては落とす。
「……貴様なら、どうした」
目を合わせず、長谷部は小さく零した。
「君がそんなことを訊いてくるとはね」
「……」
「何に代えても彼を救うよ、私は。政府も歴史も知ったことではない。長谷部君だけが、私にとっては価値あるものだ」
「……俺、は」
「君の主はまともな審神者だったんだろう」
「……」
「……」
さやけき月の光が、二人の耳に深々(しんしん)と鳴っていた。他に音はない。虫すらも息を潜めていた。
「……俺の主は、俺を顕現させた主ではない」
「へえ?」
「俺達は、何人かの審神者によって機械的に喚び起こされ、それぞれの本丸へ割り当てられて戦っていたに過ぎない。俺達にとっての主とは政府そのものなのだと告げられたが……。本丸で指揮を執っておられた主も、俺にこの身を与えた審神者達も、それに政府も、誰一人俺のことを救おうとはしなかった。……俺は……」
審神者はただ目を瞬かせるばかりだった。目の前の刀剣男士がそこまで複雑なバックグラウンドを背負っていようとはさすがに想像していなかった。彼の意に反して、今もこの本丸と政府を繋ぐシステムこそを介して、彼の存在は保たれているのだ。
何かを言おうとして口を開き、しかし結局一言も発せないまま長谷部は頭(かぶり)を振って、哀しげな顔で去って行った。
審神者が手入れ部屋へそっと戻ると、長谷部はまだ目を覚ましていなかった。あの長谷部とは似ても似つかない顔をして眠っていた。
最後の一日は粛々と過ぎていった。破壊より刀解を望んだ彼を、二人はそっとしておいた。
「彼は明日還る。監視ももう必要ない」という言葉に顔を逸らしたのは長谷部だけだった。ご苦労様、彼も色々あって疲れただろうから静かにしておくように、という審神者の言葉を皆そのまま受け取った。
翌日、本丸の入念な安全確認(スキャン)の後に門からアクセスしてきた政府の人間を、審神者と長谷部は彼の元へ案内した。
「……あの人間が此処へ来られるなら」
部屋の外、長谷部はぽつりと零した。
「奴を戻すことも、できたのではないですか」
「言ったろう、彼が元居た場所の座標はトップシークレットなんだ」
「……」
二人は黙り込み、部屋から漏れる僅かな声だけが間を埋めた。審神者がほんの少しだけ障子戸を滑らせて隙間から覗き見ると、泣き出さんばかりに歪んだ長谷部の顔が見えた。
時間はほとんど経っていない筈だったが、審神者にはそれが永遠にも思えた。政府の人間の「長谷部」という一言の後、彼はぱっと面(おもて)を上げ、少しだけ目を瞠って、――消えた。
「……」
「主?」
審神者は湿っぽい息を吐いた。
「……もし君の身に何かあれば」
「はい」
「私は何を捨てても君を助けにいく。君がその望みを口にするかどうかも、自分が政府にとって代えの利く部品であることも関係ない。君だけは助ける」
「……主」
「だけど、今だけは、彼にも救いがあったと信じたい気分なんだ」
審神者は庭に目を遣った。冬の陽光が眩しくて、思わずその目を眇めながら。