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白痴

 戸を閉めてしまうと押入れの中というのは真っ暗になってしまって、目が慣れてきても黒々した布団の山などの輪郭が見えるに過ぎない。手で触れてみて初めて、それが敷き布団なのか掛け布団なのか、それとも座布団であるのかが分かるといった有様だった。尤も、触れることができればという話である。
 慣れてしまうとなかなか気付かないことだが、暗闇の中での視界というのは黒と白、それに灰色以外の色を一つも持たないのだった。目の前に自分の手を持ってきても、普段見慣れているからそれが手なのだと判別できるだけで、光の下で見る皮膚の色だとは決して認識できない。のっぺりとした灰色が、其処には広がっているのだ。それと同じことだった。
 そんな訳だから、押入れの中では盲いでいるのとほとんど同義だった。
 耐えられないのはそれだけではなかった。他の部屋からはうんと離れた場所にある所為で、此処へは全く音が届いてこなかった。そもそも審神者が就任前だかにそれを願ったようで、執務室は男士達の私室や厨房や浴室や手入れ部屋や鍛刀部屋や――とにかくあらゆる部屋から離れた、周りに人気のない場所に存在していた。加えて此処へ近付くことも男士達は禁じられていたものだから、ますます人の立てる音など聞こえてくる訳がなかった。
 静寂というのは耳に響く。空気の音なのかそれとも他の何かの音なのか、高いとも低いとも言いようのない単調な音がずっと耳の中で鳴っている。気が変になりそうで声を出してみると一瞬だけその音は何処かへ散るのだが、またすぐに戻ってきて脳まで這いずるようになった。これを繰り返してはとうとう叫び続けることになってしまうだろうと思い、ただ耐えることにした。
 溜息を吐き、手足を動かすと紐が食い込んで痛かった。紐はプラスチックで出来ていて、それで縛られた体勢からでは幾らもがこうが決して切れなどしない。暴れ続けると擦れた皮膚から血が滲むことは経験済みで、それが次にどういう結果を招くのかは嫌というほど思い知った。大体、この暗くて五月蝿いほど無音の狭苦しい空間で、少しばかり手足が自由になったからといってどうすることもできない。戸はすぐ其処にあり、手を伸ばせば簡単に届く。だが、あくまで戸は其処に存在するというだけのことだった。
 今は何時なのだろうかと考えながら待ち続けることが、長谷部の日課になっていた。

 残光が投げかける僅かな量の光であっても、暗所にすっかり馴染んでしまった長谷部の目には酷く眩しかった。遮ろうにも手は動かないので目をきつく閉じていると、審神者が身を屈めて長谷部を――押入れの中を覗き込んだ。影が落ち、長谷部は漸く目をそろそろと開けた。審神者は笑っている。
「やあ、長谷部君」
 長谷部はいつも、どう返したものかと悩む。朝ならおはようございますで済む。昼も、若干の非難を織り交ぜたおはようございますは有効であるし、陽が昇っているうちであれば何をしましょうかと仕事を強請ることもできる。夜は――夜は如何ともし難かった。流石にもうおはようございますとは言えず、今からでは仕事にならない。こんばんはでは軽すぎる。長谷部がこうして頭を悩ますのを審神者は全て見通していて、その上でわざと夜にやって来ているような節もある。……これは長谷部の穿ちすぎかもしれなかったが。
「気分はどうかな」
 今日は審神者が話を続けてきたので、長谷部はそれに返事をするだけで済んだ。
「身体は問題ありません」
「身体は?」
「……主が何かご所望であれば、その命を果たすに支障ない状態だということです」
「そう」
 審神者は上機嫌で言うと長谷部の拘束を外し始めた。鈍く光る銀色の鋏を手にし、ぱち、ぱちと紐を切り落とす音が響く。――ああ、そうだ、音。長谷部の脳髄の、おそらく聴覚に関わる部分が狂乱せんばかりに歓んでいた。あの五月蝿いばかりの静寂はもういない。
「心は?」
「え?」
 長谷部の背後で鋏を動かしながら、審神者はするりと尋ねた。
「君の精神は齟齬なく働いているかと訊いた」
「ああ、心……はい、問題ありません」
「それは良かった」
 全ての紐を切り終わった審神者が立ち上がり、その目に見下ろされながら長谷部はそっと腕を動かした。不自由になっていた血流が一度に戻っていく感覚は未だに慣れない。皮膚のすぐ下をざわざわと何かに撫でられていくのはとても気持ちが悪いものだったが、長い時間戒められすっかり強張ってしまっている手も足も、無理矢理に動かさねば動くようにはならない。手を握っては開き、壁へ凭れかかるようにしてそろそろと立ち上がった。
「お待たせして申し訳ありません」
「いや」
 審神者はひらひらと手を振って答え、其処で漸く、おやと長谷部は思い至った。審神者の手にあった鋏はへし切に姿を変えている。
「……主」
 ひゅ、と空気を鳴らす鉄色が走り、長谷部の左膝から下が消えた。
「……っ」
 突然のことに思わず倒れ込みそうになったが、長谷部は反射的に壁に手を突いて何とか身体を支えた。せっかくまともに巡り始めた血液が、脚の切断面から無情に流れ出し続けている。スラックスが、そして靴下と畳とが血で黒く濡れた。
「話をしようか、長谷部君」
「……はい」
 満足そうな顔をして審神者は何度か頷いた。もし断りでもしていたら、同じ顔をして何度も「話をしようか」と繰り返したのだろう。
「そんな顔をしなくて良い。私は長谷部君が精神的に健全だと聞いて嬉しいんだよ。もし壊れたら直さなくてはいけないからね。まあ、手入れさえすればすっかり直ってしまう話ではあるが、それでもなかなか骨の折れる仕事であってだね……。そういう訳で、君が正気でなくなってしまっては何の意味もないのだから、君が問題ないと言うのは良いニュースだった。さ、君の話を聞こうか?」
 血はなかなか止まらなかった。そういえば、と長谷部は今頃気付いたが、部屋の灯りは点いていなかった。残光も千切れ絶えてしまった今、血は真っ黒な液体となって畳を叩き続けている。スラックスは濃いグレーをしているし、審神者も当然無彩色なのでスクリーンの上の人物のように長谷部には思えた。押入れの中と変わらない世界に耐え兼ねて、長谷部はつい口にした。
「灯りを点けていただけませんか、主」
「灯り? ああ」
 審神者が向こう側へ歩いて行き、ちょっと腕を上げると部屋の照明が点いた。長谷部の元へ色が戻って来る。退屈な色の壁紙や天井板、広い畳の床ですら酷く綺麗に見えた。光と色の氾濫の中、審神者は僅かに口元を歪めて笑っている。
「ありがとうございます、主」
「うん。それで、君の話は?」
「俺の話……」
「今日一日、その中で死んでいた訳でもないだろう。その話だよ」
「死んで……死んでいたようなものです、主」
 独りで過ごしていたあの空間の惨めさが今輝いて見えるこの部屋の中では一層際立って思い知らされて、長谷部は無意識にそう答えていた。審神者は愉快そうに笑みを深め、「へえ?」と続きを促した。
「あの中では、色もないし音もありません。俺の手足は動かないから何もできない。できることと言ったらものを考えるくらいです。……それも、疲れてしまいましたが」
「それを君は死んでいると言う訳だ」
「……違いますか。何も見えないし聞こえない、動けない、思考もしない俺を、変わらないと言えますか」
「それで、どう思った?」
「え?」
 恨み言に近い長谷部の言葉をも審神者はにこにこと聞いていて、身体の重心を右脚から左脚へと移して言った。
「其処を開けた私をどう思った? 自分を殺した張本人だと恨んだか? 君を飽きもせず毎日毎日其処へ閉じ込めて君の心を殺そうとしている私のことをどう思った?」
「殺し……いえ、そんなことは……。ん、待ってください、俺の心を、殺す?」
「正しくは思考を、かな」
「思考を……では、今の俺は……」
「また君を誤解させてしまったなら申し訳ないが、君を廃人のようにしたいんじゃない。君はその押入れの中であらゆる感覚を奪われて、最後に思考だけが残っただろう? その裸になった思考だけで私と向かい合った時、君はどう思う? それが知りたいんだよ」
「どう……」
 俯いた長谷部を一瞬の浮遊感が包み、壁に突いていた手が床を叩いた。
「ぐっ、……」
「どう思った?」
 断ち切られた両脚が畳に転がって、長谷部にその断面を見せていた。肉の色、骨の色、脂肪の色、骨髄の色、血の色――全てを必死になって目に焼き付けている自分に気付き、長谷部は顔がかっと熱くなるのを感じた。――残飯に飛び付く餓えた犬のようだ。
「ああ、これで歩けなくなった」
 審神者がへし切を振る。血が飛び散った。
「目と舌は最後にしよう。鼻……はまあ良いか。耳は……聞こえなくなると困るか」
 答えるのが遅くなればなるほど、長谷部は身体のパーツを失っていくのだと理解した。真意はどうあれ、飢え望んだこの光や音を感じ取る為の目や耳を奪われては堪らない。
「俺は――光が、眩しくて」
「……」
「主が、その前に立ってくださったので、目を開けることができて、主が……来て、くださったので……」
「……まだ違うが、もう少しかな。うん」
「……?」
「何でもないよ。じゃあ一度押入れに……ああ、歩けないのか。うん」
 長谷部には分からない理由で審神者は笑い、長谷部を持ち上げるとまた押入れの中に置いた。
「あ、主……?!」
「うん、何でもないから」
 押入れの中の壁へ血が盛大に跳ねた。左、次に右。押入れの中には長谷部の両腕と置物のようになった長谷部の身体とがぽつんと落ちていて、審神者は血の臭いが鼻腔をくすぐる前にくつくつと忍び笑いをした。
「こうすれば、もっと簡単なんだろうけどね! しかし急いては事を仕損じる、と云うのもまた事実だ」
 長谷部が絶望に染まった顔を冷や汗で濡らしているのをちらと見遣り、審神者はまた哄笑しながら手を伸ばした。持ち上げた長谷部の目線を自分の高さに合わせると、長谷部は狼狽えた様子で必死に言葉を紡いだ。
「主……あの、も、もう、も、申し訳、」
「怒ってはいないって。手入れしようね」
「は、はい……はい」
「此処はこのままにしておこうか、自分の血に囲まれて過ごすのはどうだろうね? 赤いし臭いもあるし、どうだい?」
「……」
 哀れにすら思える表情で首を振る長谷部の向こうに見える押入れの中は、中で殺人でもあったかのような有様だった。無論、殺人と大して変わりのない行為によってもたらされたのがその血の色であり滴る赤の音だった。
「ああ、もう少しだろうな」
 審神者は歌うように言った。
 翌日、押入れの中でじっと待ちながら、そういえば戻って来たら血は綺麗さっぱり無くなっていた、という事実が長谷部の頭にふと浮かんだ。

「……何故、俺を此処に閉じ込めるのですか」
「何故? 何故、か」
 長谷部は拘束を解かれても審神者の前でぺたりと座り込んだまま動かなかった。俯いている為に煤色の髪がさらさらと落ちている。この世で最も美しい色の一つだった。もう一つは長谷部の瞳の色で、その二つきり、後は存在しない。
「白痴の人間にも肉欲はあると云うんだよねえ」
「……はあ」
「そこで、思考を極限まで単純化していくと、感覚はより直接的に処理されるのではないかと思った」
「……」
「私の下に在ってはならない君が此処に居ることで、私はその理由を得ることができるのではないかというのが次の仮定。……うん、だがまあ、君はまだ正常だ」
「正常……俺は……」
「正常だよ。良かったね。さて、久々に長谷部君を食べたいのだけど」
「……」
 長谷部は黙ってカソックを脱いだ。シャツの袖口から覗く手首に付いた真っ赤な痕にも、もう何も思わなくなった。
 自分の肉や血が飛び散る色や音や臭いが次々に自分の中へと入ってくる。こんな風になってもまだ、脳は暢気にそれらの刺激を貪っていた。食べ残しを必死に舐め尽くすようにして思考は回り、長谷部の正気を其処へ繋ぎ止めた。
 ――これが終われば自分はまた真っ暗な押入れの中に戻り、ただただ主を待つだけの存在になる。
 そして押入れの中から救い出してくれるのもまた、審神者その人しかいないのだ。

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