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 そうするつもりはなかった、というのは言い訳の中でも最悪の部類だと思っていた。

 だが、今私の口から何度も震えては零れ落ちているのはまさにその言葉だった。

 手から滑り落ちたフライパンが床板に当たり、騒々しい音を立てた。長谷部は頭に手を遣り、怯えた目で私を見ていた。

 

 腫れたところを冷やしてやりながら、私は愕然として謝罪の言葉を繰り返していた。長谷部は気にしないでくださいと言うが、そんな訳にはいかない。もう手入れで気軽に治せる身体ではないのに、この手で傷を負わせてしまったのだ。

 どうしてこんなことをしてしまったのか、自分でも分からなかった。此方へ来てからはただひたすらに長谷部を幸せにすることだけを考えて、平日は仕事をし、長谷部の作ってくれた夕食を二人で摂り、毎日他愛もない話をして、長谷部が笑うのを見て、それで私も幸せだと思っていたのに。

 床に飛び散った油の掃除は私がやるから、今日はもう寝なさいと強引に押し切って布団へ入らせた。こんな時まで私を慮り、自分が悪いと謝ろうとする長谷部の姿に、己が情けなくなった。

 黄色っぽい油の滴に混じり、長谷部の血がぽつぽつと床に落ちていた。その赤を直視すると気が狂いそうだったので、目を逸らしながらおざなりに床を拭いた。

 

 翌朝、其処は案の定瘤になっていた。痛まないようにそっと触れると、まだ熱を持っている。

「すまなかった」

 謝ったところで傷が治る訳でもない。私が長谷部の前に這い蹲るようにして謝罪を繰り返そうと、全て自己満足の贖罪にしかならないと分かっていた。

「主、すぐに治りますから。それより、御仕事に遅れます」

「仕事なんかどうでもいい。君に怪我を――」

 そこまで言いかけて、はっとした。怪我を負わせたのは他でもない私なのに、その私が傍に付いていたところで長谷部が安心できる筈もない。

「今日は家事はしなくて良い、夕食も私が何とかする」

 それだけ言って、私は鞄を持って家を出た。

 

 帰路を辿る足は重かった。

 家へ帰れば、また長谷部と顔を合わせなくてはならない。昨日の今日なのに、彼は何一つ変わらぬ様子で私に接してくるだろう。――それでは不味いのだ。

 夕食の時間ぎりぎりまで必要以上にゆっくりと売り場を巡り、時計を何度も見て、私はやたらと重く感じる袋を提げて家へ向かった。

 疎らな街灯に照らされた道をとぼとぼと歩く。吹いてきた風が冷たくて、私は思わず身を竦めた。風は胸の中の昏く虚ろな部分をも通り過ぎていく。

 空にはきっと綺麗な星が瞬いているのだろう。冬の空が、私は好きだった。何処か褪せた色をしていて、酷く澄んで見えるのだ。

 だが今夜は空を見上げるような気分ではなかった。溜息を吐き、黙々と足を動かした。

 

 玄関の扉を開けると長谷部が飛んで来て、おかえりなさい、と縋り付くような目で言った。

 言いつけ通り、今日一日家事はせずに大人しく待っていたらしい。長谷部のことだから、何だかんだと理由を付けて台所に立っているのではないかと心配していたが、杞憂に過ぎなかったようだ。

 手に提げていた袋を掲げ、「カレーで良いか」と尋ねると嬉しそうに頷いた。何故笑えるのだろう。何故。

 手際が良いとは言えないが、どうにかしてカレーを作り終え、長谷部の分と自分の分を皿に盛った。何の変哲もない、人参と玉ねぎとジャガイモの入った、家庭用のカレーだ。

 長谷部は美味しいですと繰り返して完食してくれた。私の顔色を窺っているのではないことぐらい理解している筈なのに、心の一部が黒く湿る。

「長谷部君」

「はい」

 どうして信じきれないのだろう。

「その……不慣れだから、あまり美味しくなかったんじゃないかと思って」

「いえ、とても美味しかったです。お疲れでしょうにありがとうございました、主」

「いや……私は、ただ……」

 言葉に詰まり、二枚の皿とスプーンを手に立ち上がった。泡立てたスポンジで汚れを落としていると、長谷部が所在なげに近寄って来た。

「御馳走様でした、主」

「……ああ」

 二人分の食器も調理器具も、すぐに洗い終わってしまった。ぽた、ぽたと水の滴る音がする台所で、私達はじっと立ち尽くしていた。

「……主?」

「……君、は」

 金縛りのような状態から漸く解け、私は言いながら洗面台の前へと移動していた。鏡越しに、不安気な表情の長谷部と目が合う。

「怖く、ないのか」

「何のことですか」

「君を傷付けたのが、誰だと」

 藤色は確かに揺れているのに、決して逸らされようとはしなかった。それが――その信頼が、私は怖かった。

「俺に至らない点があったんですよね」

 違う。

「主が、主の御仕事がどれだけ大変なのか、俺には推し測ることしかできませんから」

 違う、そんなことじゃない。

「だから、俺は主のことを――」

 やめろ、と叫んでいた。洗面台の縁(ふち)を握り締めた手がぶるぶると震えて、その手にかろうじて身体を預け、私は立っていた。

 長谷部は一歩後ずさり、青い顔で此方を見ていた。

「いや――だから、君は悪くないのに、そういうことは――」

「……申し訳ありませんでした、主」

 この期に及んで私のことを主などと呼ぶ。

 鈍い音は、長谷部の頭がドア枠に打ち付けられた音だった。

 今度は私の顔が青褪める番だった。

 掌がじんじんと痺れている。頭の中まで一緒に麻痺してしまったようで、私は何も言えず茫然と立っていた。

 

 頭と頬を氷水で冷やしている長谷部に、私は言葉を掛けるタイミングを窺っていた。

 長谷部は無表情で、その上一言も喋らなかった。時折腕を動かし、それに合わせて水がたぷんと揺れる音だけが響く。

 近付くのが怖くて、私は部屋の反対側でじっと正座していた。

 氷がすっかり融けてしまい、中身を取り替えようと長谷部が立ち上がった時、漸く気力を振り絞って私は声を出した。

「長谷部君」

「はい」

「痛くは……」

 痛いに決まっている。そうしたのは私だ。回りくどい言い方を諦め、

「離れよう」

 と言った。

 長谷部はぽかんとして此方を見ている。手の中の袋を取り落としそうになり、酷く怯えた様子でしっかりと握り直した。胸が苦しくなり、じりじりと痛んだ。

「どういうことですか」

「君はこのまま此処に住めば良い。私が出て行く。物理的に離れないと、また――」

「嫌です」

 ほとんど叫ぶように言って、長谷部は詰め寄ってきた。水の入った袋がぼと、ぼとと床へ落ちる。口を縛っておいて良かった、などとどうでもいいことが頭に浮かんだ。

「嫌と言ったって、離れなければまた君を傷付けるだけじゃないか」

「それでも主と離れるのは嫌です」

「君を傷付けたくなんかない!」

 長谷部が身体を強張らせた一瞬のうちに、私は再び距離を取った。長谷部の白い頬が赤く染まっている。何てことだ、と思った。自分で自分を、百遍も罵った。

「傷付けたくない」

 もう一度言うと、長谷部は懲りずに近付いてきて、私をこともあろうに抱き締めてきた。

 動けなかった。声も出なかった。何かすれば、また長谷部を殴ってしまうのではないかと怖かった。

「主、俺は平気ですから」

 平気な訳がない、と心が燻った。――思考もシャットダウンしなければならないようだった。

「主がそう思ってくださっているなら、きっと大丈夫です」

 背に回された長谷部の腕は少しも震えていない。声にも不安の色はない。

 ただ長谷部を幸せにすることだけを考えよう、という思いだけで頭を埋めた。

 

 ――それがこの様だ、と一人呟いた。傍らには椅子が転がっていて、何故か血痕も落ちている。

 何故かも何も、私がやったのだ。長谷部はぐったりと横たわって微かに呻いている。

 何度目だったか、もう忘れていた。長谷部の身体にはあちこちにガーゼや包帯が見えている。手当の度に、もう二度としない、今度こそはと誓うのに、全て嘘にしかならなかった。

 呼びかけても揺すっても、長谷部は目を覚まさない。ふらふらと立ち上がり、本棚の端から目当ての冊子を引っ張り出した。他の何冊かがばさばさと落ちたのを拾う気力はなかった。

 其処には此方へ連れて来た刀剣男士用の救急の連絡先が載っていた。淡々と連絡をし、必要な書類などを用意して、迎えに来た車に長谷部が運び込まれた後で乗り込んだ。

 救急の人間は、明らかな暴力の痕跡に何の注意も払わなかった。必要なことを訊いてきた後は私のこともただの置物ぐらいにしか思っていないようだったが、今はそれが有難かった。

 

 何度繰り返しても直らないのなら、やはり長谷部とは離れるしかないのだろうなと結論付けていた。

 政府の側(がわ)は何も言ってこないのだから尚更だった。当然だ。元審神者がその所有物をどう扱おうが、彼等に影響が及ばない限りは知ったことではない。審神者だった人間も刀剣男士も、元より消耗品の一つに過ぎないのだ。

 手当を受け、意識を取り戻した長谷部と自宅へ帰って来ても、お互い無言のままだった。

 床(とこ)を調え、寝間着を用意してやり、やっとのことで「早く寝た方が良い」とだけ言った。着替えた長谷部が大人しく布団へ潜り込んだのを確認した後で灯りを落とし、倒れたままだった椅子を台所まで抱えて行って其処で腰を下ろした。

 床を拭かないとな、とは思ったものの、立ち上がる気になれず、じっとシンクを眺めていた。暗闇に馴れてきた目で蛇口とスポンジを見ていると、ふいに背後から声を掛けられて飛び上がりそうになった。

「……すみません、主」

 長谷部だった。

「寝ていなさい」

 少々きつい口調で言ったが、彼は動こうとしなかった。

「主、何を考えていらっしゃるのですか」

「……」

 答えずにいると、長谷部は勝手に話を続けた。

「……俺を置いて行かれるか、此処で自死なさるおつもりでしょう」

 やはり答えずにいると、肯定したと受け取られたようだった。

「何故ですか、主。俺では不足でしたか」

「君は悪くない」

 私はいつかの言葉を繰り返した。それに対して長谷部は激昂し、

「でしたら逃げないでください!」

 と怒鳴ってきた。夜の台所に、声は木霊(こだま)のように響いた。音が静まるのを待ち、私は仕方なく言った。

「君を傷付けない為にはこれしかない」

「その結果、俺が今までのどの時より傷付くとしてもですか」

「傷付く? 何故」

 言い合う元気などなかった。今はとにかく、自らの罪の具現とも言えるような長谷部の顔を見ていたくなかった。

 上体を屈め、床に視線を落とした。頬杖を突く手は冷たかった。

「身体の傷など、どうということはありません。主と別たれる方が俺はずっと嫌です」

「そんな傷だらけで、よく言う」

「俺は、主なら――」

「聞きたくない」

 眩しすぎるほどに愚直なその盲信を、私は遮った。冷静になってみれば、自分が何を恐れていたのかは瞭然たるものだった。

 多分、長谷部を解放してやりたいと思うのと同じくらいかそれ以上に、この暗澹とした感情から解放されたいと私は願っていた。

 見えたばかりのそれを、私は長谷部に向かって投げつけた。

「私が君の主で在る限り、きっとこれは終わらないよ」

「……」

「信じられないんだ、分かるだろう」

 長谷部の信頼が少しでも揺らぐことを期待しながら私はそう言い、実際、長谷部は言葉を探しているように見えた。

 私はというと、言った瞬間から恥ずかしくなって目を伏せていた。これ以上何かを言うまでもなく、弱音を晒け出すなど主として失格かもしれない。

 長い逡巡の後、長谷部は何処か泣きそうな声で言った。

「……主は、疲れてしまわれたと、いうことですか」

「そうかもね」

「俺の……」

「君の所為じゃない」

 溜息が漏れた。真っ暗な中で二人して何をやっているのだろう。まるで愁嘆場だ。長谷部など嗚咽まで漏らしている。

「寝なさい」ともう一度言うと、長谷部は小さく「はい」と返し、「傍に居てくださいませんか」と付け加えた。私が付いていたところで余計眠れなくなるだけだろうと思ったが、説得するのも面倒で大人しく腰を上げた。

 横になった長谷部へそっと布団を掛けてやり、そうしてほしいと言うので手を握ってやった。手首に貼ってあるのは湿布だ。

「こんな筈じゃなかった」

 最低な言い訳をすると、長谷部は身動ぎした。これなら本丸に居た頃の方がましだったんじゃないだろうか。真っ直ぐな愛情表現だった、あの頃の方が。

 何れにせよ、長谷部から離れるしかもう手段はない。明日の仕事が終わった後、その足で部屋を契約しに行こうかと考えていると、長谷部に手を引かれた。

「どうした、痛むか」

 尋ねると首を振り、口を小さく開けては閉じる。……良く聞こえない。聞き取ろうとして口元に耳を近付け、そして、

「   」

 名前を呼ばれた。

 あまりの出来事に硬直していると、長谷部が続けて囁いた。

「……主で在る限り、と仰っていたので……名で呼べば、俺は負担になりませんか」

 書類に書かれてあったので、と言う。手当を受けた時の話だろう。別に本丸にいた時から名前を隠していた訳ではないので、其処は気にしていない。

 問題は其処ではない。

 名前で呼べば、私は彼にとっての主という在り方から変わってしまう。長谷部が望む二人の在り方は失われてしまうのだ。

「それでも、一緒に居てくれるというのか」

「主と……あ、いえ、貴方となら」

「……今まで通り、主で構わない」

「え」

 憑き物が落ちた気分だった。途端に気恥ずかしくなって、部屋が暗いことに感謝した。

 本心を明かすべきかずっと迷っていたし、打ち明けるぐらいなら黙って家を出ようと決心していた。だが、今打ち明けねば、また同じことを繰り返すに違いない。それはもう、厭だった。

「怖かったんだ」

 また言い訳だ、と心の片隅で自嘲した。

「もう〝主〟ではない私を、君が棄てるかもしれないことが。だから君は何をしても離れていかないんだと信じたくて、君を傷付けた。主である私を信頼している、君を」

 それでも結局、私を〝審神者〟でない、一人の人間として見てくれたのが長谷部だった。

 そうだ、と胸中で独り言ちた。此処で今まで守っていたちっぽけなものを全て砕いてしまわねば、これ以上先には進めない。

「――私が、私で在るというだけで、君が傍に居てくれたらと願っていた。否、そう願っているんだ。資格など、ないが……もっと早く、そう言えば良かったな。君が傷だらけになる前に」

「……俺を」

 長谷部は私が止める間もなく身を起こしてしまった。

「俺を棄てないでください、主」

「逆だよ。君が私を――」

「ええ、ですから、主が俺を棄てられないのであれば、俺は何があろうと主と共に在ります」

 そしておずおずと、

「……御名前で呼ぶべきでしたか」

 と窺いがちに言ってきたので、張り詰めていた気持ちもつい緩んでいた。

「恥ずかしいから、名前で呼ばなくていい」

「……俺も少し恥ずかしかったです」

「名前なんてもう、どうだっていい。君が居てくれるなら、私はそれでいい」

「主」

「うん」

「ずっと一緒にいましょう」

「約束か」

「約束です」

 言って、長谷部は私の腕を強く引いた。二人して布団の中へ倒れこむ形になる。

「長谷部君?」

「……今日のは、少し痛かったです」

「……申し訳ない」

「ですから、一緒に寝てください」

「ん?」

 言うが早いか、長谷部はさっと布団を被ってしまった。少しだけ考えて、私も素直に布団へと収まった。

 床の掃除は起きてからしよう、と考えていた。何も残らないぐらい、ぴかぴかに磨いてしまおうと。

 

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