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硝子窓


   †

 声はいつしか頭の中にまで入り込んで、始終長谷部を苛んでいた。
 曰く、「お前は何の役にも立たない奴だ」と。曰く、「お前の主も忌み嫌い見放しているぞ」と。曰く、「死んでしまえ」と。
 初めのうちは、長谷部も自身に備わった理性を最大限に揮(ふる)ってその声に抵抗できていた。否、意識して揮う必要などなく、免疫機構のように働いた彼の理性は声を意識するより前に一つずつ無意識下で潰していった。
 ――それが次第におかしくなっていったのがいつからのことだったか、長谷部にも本当のところは分からなかった。
 いつしか「お前は何の役にも立たない奴だ」と囁く声は、頭の中で「俺は何の役にも立たない」と繰り返していた。「主は俺を嫌い、見放している」と。「死ぬしかない」と。
 声の頻度も大きさも、日増しに強くなっていった。

 以前の長谷部であったなら、少しばかりそんなものが聞こえたところで一笑に付して問題にもしなかった。審神者の利にならない思考など、浮かんだ端から〝免疫〟が働いて綺麗に消されていくのが長谷部の脳内であったからだ。
 そもそも、彼の全ては主の為にあった。
 命令に従って体と心を差し出し、出陣した先で真っ先に駆けては敵を討ち倒し、本丸に帰って来れば誰より熱心に内番をこなし、それ以外の時間は近侍としてずっと審神者の傍に付き控えていた。――そして何より、夜は審神者が望むままに身体を差し出した。
 だが痛みに呻くことこそあれど、彼が嘆くことはなかった。審神者の意思は全て長谷部の意思でもあって、それが叶うのであれば何を嘆くことがあろうか? それ故に長谷部の外から聞こえてくる声は彼を侵せる筈がなかった。長谷部の思考は、何より絶対的である審神者の思考とほぼ同値であったからだ。
 おそらくその日まで、長谷部は幸せだった。

 とは言えそれは酷く平易なことで、畳の上を音もなく流れる血の川をじっと見つめているうちにふと浮かんだだけに過ぎなかった。
 真っ二つに分かれかけた胴体に手を遣り、はち切れそうになっている柔らかな肉が指先に触れてぬるりと滑った時、本当に唐突に、長谷部の脳裏に閃いたものがあった。
 審神者は腹から引き摺り出した小腸を長谷部の首へ結び、余った分をぐるぐると巻きつけていた。庭に咲く桜の枝を手折るのや落ち葉を足で散々に擦り潰して粉にするのと何も変わらない顔で、ただ手と服を血でべたべたにして腸を触り続けていた。
「……」
 口を開き、しかし長谷部の声は上手く出なかった。血液循環がほぼ断絶しているのだから無理もないのかもしれない。そう考えた後、何度か咳払いをしてから空気を吸い、何とかして声を出した。
「……主」
「ん?」
「どうして、俺なのですか」
「嫌になったか」
 長谷部は首を横に振った。頭蓋の中で血がぐらぐらと揺すぶられる感覚に吐き気がし、言葉で返せば良かったと若干の後悔をした。
「何故と言われても、君が好きだからとしか答えようがない」
「それは」
 喉を震わせたら今度は胸から腹までが一度に気持ち悪くなり、長谷部は自分の身体に心底嫌気がさした。
「俺が、俺でなくても、ですか」
「どの程度まで? 多少の損壊は愛らしいものだし臓腑の一つや肉の一片になっても君は君なんじゃないのかな」
「……」
「肉体の変質はそれほど問題ではないね。では精神的なものを訊きたいのかな? 残念ながら、多少何かが変わったところでその変化は君自身が外部刺激に応答した結果なのだから、やっぱり君なんだよ。そして人間の頭の中身をすっかり書き換えてしまう方法はまだ存在しない」
 審神者の話はいつも通り良く分からなかった。長谷部の知らない概念やタームを引いてきて話をするものだから、結局何が言いたいのかは長谷部が自分から訊くより他なかった。
「俺は……変わらない、と」
「君が何をしようが何をされようが長谷部君であることには変わりなく、そうである以上、私は君のことをずっと愛しているよ。訊きたかったのはこういうことだろう」
「……」
 今度は縦に首を振ってみたが、やはり吐き気が募ることに変わりはなかった。
 会話が終わると審神者は首に巻いた腸を強く引っ張り始め、散々に首を絞められた後で長谷部は手入れをされた。
 朦朧と霞む意識の中、長谷部が考えていたのはやはり審神者の言葉のことだった。主の言葉を、思いを聞いたのだから、これで声を排除する力が強まったのだという感情が無意識を揺蕩っていた。

 そうして今、長谷部は四六時中頭の中で響いている「死ぬしかない」に耐えられなくなっていた。
 それはもう声ではなくなっていた。外ではなく頭の内側で延々と響いているのだから、それはもう長谷部自身に等しかった。
 自分であって自分でないものに強迫され続けるというのは思った以上に精神力を削がれるもので、他のどんな音や声よりも鮮明に聞こえるのに抗うこともままならない、ということを説明されれば誰しもその恐ろしさに気付かされる。長谷部はまさにその只中にあった。
 夜、部屋で一人蹲っていてもそれは頭の中いっぱいに膨らみ続け、押し出されるようにして涙が滲んだ。反論する気力などとうに枯れ、物事はただ一つきり考えられなくなり、そして審神者は来なかった。
 文机に足を乗せるとぎしりと軋んだ。――壊したら、主に片付けの手間をかけさせてしまうな。そもそも部屋の――俺の片付けで十二分に迷惑をかけてしまうのか。思考は逃避故か妙に現実的だった。
 もう一度確認の為に縄を引っ張ると、緩みもなくしっかりと結わえられていた。手袋の布地越しに縄の繊維が刺さって少しだけ痛かった。こんな時まで手袋を嵌めているのは-常にそれを嵌めさせていた主の、影響なのかもしれない。
 これで見納めだと思いながら、長谷部は部屋の隅に掛けてあるへし切を見遣った。見事なものだと審神者に褒められたことを思い出す。本当は腹を切って最期としたかったが、主命も果たせず、逃げるように現世を後にするような行いには切腹は相応しくないと思い止まった。
 考え事はもうたくさんだ、と長谷部は溜息を吐いた。脳内の何もかもを吐き出すような重い溜息だった。
 首を通し、机を蹴った。

 結論から言えば長谷部の自殺は失敗し、そしてその行為を責める者は誰もいなかった。
「すまなかった」と審神者は言った。手入れ部屋で布団に横たわる長谷部の上へ覆い被さるようにして言ったのだが、声には妙な雑音があった。長谷部は暫し考え、ああ、主は泣いていらっしゃるのか、と変に感心した気持ちで一人納得した。
「駄目でしたか」
 自身の失敗に落胆する意味で長谷部がそう言うと、審神者は慌てて身を起こした。
「駄目じゃない、君は何も悪くない」
「……」
 いいえ、駄目だったんですよ、主。俺は何の役にも立てないから主に見放されていて、だから死ぬしかなかったのに、失敗してしまった。俺はもう、そうするしかなかったのに。
「今は休んでいれば良いから、また後で話をしよう、ね」
「……」
 いいえ、失敗したのですから、すぐにもう一度死ななくてはいけないんです、主。
「……長谷部君、長谷部君?」
「……」
 はい。
 其処で長谷部は漸く審神者の顔を見た。やんわりとした制止を無視して腕を突き、半身を起こし、もう一度審神者の顔に目の焦点を合わせた。一方で、いつの間にか着替えさせられていた地味な色の着物が嫌に気にかかった。視界の端に浮かぶ着物の色を意識だけで追いかけていると、やっと審神者の表情にまで意識が追いついた。
「主」
「……君が、生きていて、良かった」
 長谷部はそのまま抱き締められて少しだけ苦しくなったが、あれよりは苦しくないな、などと――もう一つの考えを塗り潰すように――考えていた。
「いなく、なったら、どうしようかと……怖くて……」
「死体は残りますよ」
「馬鹿!」
 長谷部を締め付ける力が強くなり、思考は剥がれかけ始めていた。
「今の、君が、生きていて……君じゃないと、私は……」
 長谷部は狭められた気管で一つ息を吸った。
「自死は、いけませんか」
「いくら君でも、それは赦さない」
 小さく息を吐き、長谷部は顔を俯かせた。審神者は彼から身を離すと優しく頭を撫で、「もう少し寝ていなさい」と言った。部屋の出入り口へ向かい、障子戸を静かに滑らせる。
「……主」
「うん」
「どちらへ?」
「何か飲む物を持って来るよ。すぐ戻って来るから」
「……」
 依然俯いたまま、長谷部は掛け布団を握って黙り込んでいた。審神者は一度戸を閉めるとまた長谷部の元に戻って来て屈み込み、「何処へも行かないから」と言い聞かせた。目を離すとまた長谷部が首を吊っているような気がしたし、何より彼を縄の輪の向こうへと誘ったものがまた忍び寄ってくることを恐れていた。
 戸がぴったり閉まった後で遠ざかっていく小走りの足音を聞きながら、長谷部は布団に潜り込んだ。

 虫の鳴く音が遠く聞こえていた。隣には審神者の寝顔がある。今日一日で、いくらかやつれたようにも見えた。
 寝ずに見張ることは諦めたようだったが、長谷部が少しでも身動ぎするとはっと目を覚ましてその手を掴んできた。「何でもありません」と告げられた言葉と布団にすっぽり収まっている長谷部とを確認しないと、審神者は再び目を閉じようとはしなかった。長谷部が意識を取り戻してから、万事この調子だった。
 部屋に満ちている静寂の音――それは酷く煩い音だった――と虫の音とに耳を澄ませながら、長谷部は何度も何度も審神者の声と表情を反芻していた。審神者が自分にだけ向けたものの一つ一つをなぞる度に長谷部の口元に笑みが漏れた。
 声はずっと沈黙していた。

   †

 

 つまり長谷部が悩んでいたことは、そして彼を苛んでいたことは既に霧散していたのであって、最早「死ぬしかない」と思わせていた要因は何処にも無かった。
 もう自殺する必要はなかった。
「今だけは、主は俺を見ていてくださる。俺だけを見て、俺のことだけを考えて、頭の中は俺だけで占められている」
 それは福音だった。
 審神者は彼を見てなどいない――長谷部はそう信じきっていたからだ。

 

   †

 

 独占欲やそれ以外の、名前を付けられて定義がなされているようなあらゆる感情とは異なっていた。
 長谷部に言わせれば――彼は決して認めようとしないだろうが――ただ主に見ていてほしい、その一心だった。気を引きたかった、というとあまりに稚(おさな)い言葉に過ぎたかもしれないが、彼は人間の思考や感情を持て余していたのだから本質を突いてはいたのだろう。
 二度目は一か月後で、今度は喉を突いた。
 審神者は服が血で汚れるのも構わずに手当てをし、悲痛な声で誰かを呼び、ここ最近は落ち着いていた長谷部の様子に安心しきっていて気が緩みかけていたことを自責し、そしてまた長谷部の世話で付ききりになった。
 長谷部が不安定な徴候を示さなくなると審神者は微かな安堵を見せ、接し方は以前のものに寄り始める。虐待のような行為こそしなかったが、何処か一線を引いた、長谷部を愛しているというのに目は遠くを見ているようなあの接し方だった。その態度の影を察知する度、長谷部は自殺を繰り返した。
 いずれも未遂で終わり、いずれも審神者の思考を奪った。

 布団の上から長谷部の腹を撫でる手は震えていた。その手は確かに長谷部だけを撫でていて、俯いた審神者の目も長谷部だけを映している筈だった。
「……」
 一言目の声は言葉にならず、引き攣ったそれを飲み込んだ後で審神者は再び口を開いた。
「……苦しかった、だろうに」
「いいえ」
 長谷部の言葉の意味を、それに対して返した言葉のもたらす意味と引き出す答えを、全ての可能性を審神者が今必死に考えているであろうことは容易に見て取れた。下手なことを言えば、長谷部はまた自殺を選ぶ。――そう考えているに違いない。
 それは酷く愉快なことだった。主が俺のことで頭を悩ませ、普段は出陣だの内番だの或いは他の連中に向けて働かされている脳髄を俺のことだけに働かせられている! 長谷部がこれほど愉快で幸福なことはないと笑んだ口元を見られないように背を向けると、審神者は狼狽して震えた声を出した。
 加えて言うならば、審神者は決して頭が悪い方ではない。寧ろ演算的な能力に関しては人より秀でていると言っても差し支えないものを持っていたが、長谷部が自殺を繰り返す理由に関してはさっぱり頭が回らないようだった。
「長谷部君」
 懇願の響きを含むその呼びかけだって、前は幾ら願ったところで得られなかったのだ。
「はい」
「……」
 言おうか言うまいか迷って、審神者は結局言った。
「君は、死にたいのか」

 

   †

 最初は首吊りだった。長谷部と茶でも飲もうかと部屋を訪れた審神者が彼を見つけ、非力な腕で必死に彼を下ろした。縄が鴨居から外れた勢いで床に倒れこむ時、長谷部が怪我をしないようにと身を挺して庇ったことで審神者は打撲と捻挫をした。それでも審神者は助けが――手入れ部屋へ運ぶ為の人手が――来るまでずっと心肺蘇生を続けていた。と言っても人工呼吸は為されなかった。目覚めた時、審神者は泣いていた。常に長谷部の傍に居て、夜も隣で寝るようになった。
 次はへし切で喉を突いて死のうとした。気道は逸れてしまったが頚動脈を傷付けることに成功したらしく、部屋中を血の海にして倒れていた長谷部を見つけたのはやはり審神者だった。止血に利用された審神者の衣服は廃棄されたが、審神者はその事実は秘して触れようとしなかった。目覚めた時の審神者の顔は常よりもかなり青く、長谷部の方が血色が良いくらいだった。審神者は再び、長谷部の傍を離れないようになった。
 三度目は本丸の屋根から飛び降りた。高さが足りなかったのか手脚が一、二本折れて頭部から幾らか出血しただけに終わったが、審神者はなるべく痛くないようにと細心の注意を払って運ぶよう指示していた。痛かっただろうと何度も訊かれることは長谷部にとって苦痛ではなかった。しかし身体がやたら痛むのは嫌なものでしかなく、次は一瞬で気を失うような手段を選ぼうと考えていた。審神者は繰り返し何かを自問しているようだったが、それが長谷部に関する内容であることは容易に察せられた。
 四度目は腕を切ろうとしたが、へし切は没収されていたので火を点けた。審神者が叫ぶのを長谷部が聞いたのは後にも先にもこの時だけで、叩いて消火できるレベルを超えているのは傍目にも分かるほどだったが審神者は迷わず駆け寄った。皆が運んできた水により無事に鎮火されたが、全身に熱傷を負った長谷部が「主も火傷をされています」と言った時、「そんなことはどうでもいい」と返ってきたことは長谷部にとって大切な記憶となった。審神者は一晩かけて部屋の中の危険物を全て何処かへ片付けた。その腕の火傷は翌日まで忘れ去られていた。
 五度目は手首を切った。長谷部には人間のような躊躇がないので手首はほとんど千切れかけていて、浴室から彼と彼の手首とを引き摺ってきた審神者はびしょ濡れになっていた。刃物は全部隠した筈なのに、と譫言のように呟く審神者を長谷部は横目で見ていた。繋がった手首を何度も撫でながらきつく目を閉じているこの人間に、責めるような言葉を口にされたことは一度もないと長谷部はふいに思い至った。

   †

 

 六度目は、とまで考えたところで長谷部は意識を今に戻した。――全てを数え上げるのは後にしよう、今は此処に主が居るのだから。
「……」
 長谷部が何も言わずにいるので、審神者はそれを肯定の意に捉えたようだった。布団の上を往復していた手が止まり、胸の辺りに空気が詰まって苦しんでいるような素振りを見せた。
「……どうしたら、いい」
「?」
「君がどうして自殺を繰り返すのか、ずっとそれだけを考えていたけれど答えは出なかった。どれだけ考えても分からなかった」
 長谷部は内心で快哉を叫んだ。主がずっと俺のことだけを考えていてくださった! そして今も! 洗剤など飲んだ甲斐もあったというものだ。
「一つだけ消せなかった可能性は、君が……君が私を嫌っているというものだった。だから、死にたい、のだと。そうであれば、どうしたらいい? 私はどうすれば……」
「何も」
「……え?」
「何も。主は、そのままでいてください。嫌っている訳ではありません。主は何も悪くありません」
「でも……いや、分かった。本当に、君を失ったらと思うと……」
 無言で微笑み、長谷部は会話を打ち切った。

 自殺を止めろとは言われなかった。言えば、今度こそ長谷部を死なせてしまうのではないかと審神者は恐れているようだった。
 長谷部の傍に付いている時間が長くなるにつれ、審神者は一層疲弊してやつれていった。しかしそれは長谷部が自殺をするからではなく「自分の何かが長谷部を自殺衝動に向かわせているのではないか」
という思いに取り憑かれているからであって、その懊悩は長谷部にとってより心地の良いものだった。
 一度ならず審神者が考えたことは、長谷部の四肢を不自由にして何もない部屋に閉じ込めておこうかというものだった。そうすれば、長谷部は勝手に死のうとすることができなくなる。だがその結果幸せを得られるのは審神者一人だけで、長谷部は一層不幸になるだけだった。頭を振り、自分が長谷部のことを見ていれば済むのだからと自戒した。
「大丈夫か」とは何人もの男士から問われたことで、審神者はその度微笑んで返した。
「どんなになっても、私は長谷部君の主だから」
 そして長谷部の元へと急いで帰るのだった。

   †

material : 「精神的に弱っている長谷部が最初は本当に死ぬつもりで自殺していたが、心配して構ってくれる主がその時だけ自分のことだけで頭をいっぱいにしてくれるのが嬉しくて、気を引くために何度も未遂を繰り返す」from hiramaru

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