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ゼラニウム

 季節はちょうど梅雨だった。来る日も来る日もしとしとと雨が降り続け、私は長谷部と二人、家に閉じ込められっぱなしだった。
「見てください、主」
 声に顔を向けると、ベッドに身体を仰向けた長谷部が引っくり返った顔で私を呼んでいた。頭だけをベッドの脇へだらんと垂らし、縊り殺されたその死体のようにも見える。
「遥か昔、ギロチンという処刑具があったと聞きました」
「人道的な処刑法と言われたあれか」
「首を切り落とされる人の真似です」
「逆だよ」
 仰向けではなくうつ伏せで頭と手を固定されるのが本来のやり方だと思うのだが、しかし今の長谷部の格好も斬首を待つ虜囚のように見えて私は些かの昂奮を覚えた。何せ毎日の湿気と陰鬱な空気にとにかく気が病んで仕方がなかったのだ。
 しなやかに伸びる白い喉仏を見ていると、どうしても其処を切り裂いて真っ赤な血と肉をごぼごぼと溢れさせたくなってくる。そのまま首を落とすのでも良い、熟れて潰れた果実のようなその断面は触れる度に汁を滲ませ、私の手を濡らして
――
「私に君を殺させる気かい」
 無理矢理に言葉を絞り出すと、梅雨時の空気のように淀んでいた思考がふにゃふにゃと身体から抜け出していくような気がした。
「君の首を賜るような余興をした覚えもないがね」
「俺の首は褒美になりますか、主?」
 逆さ首のままで長谷部は笑い、刃のような悪意に晒された喉を一層引き攣らせて私を見た。
「俺の身でも、主にとって一角の価値があるのですね」
「……また世迷い言を」
 手を伸ばし、長谷部の酷く冷たい喉をそっと撫でた。二度、三度と撫でるうちに私の体温が融けていき、それは大理石のような硬く冷たい死を捨てて生温い血の通った生を得ることにも似通っていた。首を切ってしまうことで息を吹き返すだなんて何とも矛盾した話だ。
「こうしてずっと家に籠っているから頭に黴が生えるんだ」
「黴ですか」
「予防には外を出歩くのが良いとされる」
 私の中では、と声に出さず付け加える。相変わらず回りくどい言い方しかできないのはもう仕方がないと諦めていた。今此処で長谷部の首を切り落としてしまうことの方が、私にはずっと容易いことなのだった。
「……つまり、明日は紫陽花でも見に行くのはどうかな」
「行きます!」
「うん」
 いつだったか、長谷部は生きている方がずっと好きだと言っていた。私では長谷部を上手く殺してやれないし、生かせてやることもできない。それでも、二人分の体温を混ぜ合わせることができたならどうだろうと思う。熱伝導とかそういうことをすぐ言いそうになるのは私の悪い癖だが、そうではなく、ただ長谷部と二人で生きていくということについてだ。
 しめやかな雨の音にすら掻き消されてしまいそうな声量でつい「好きだ」と零してしまい、「俺もです」と即座に返ってきて少しだけ恥ずかしくなった。
 明日が楽しみだった。

 ***

 一つだけ嘘を吐いた。
「先に寝ていて良かったのに」
 玄関に立つ俺を見て主はそう仰って、それから力なく鞄を手渡してきた。日付が変わろうかという今この時刻、俺は命じられていた通り先に夕食と入浴を済ませていたもののどうにも床に就く気分になれず主を待っていた。
「一人ではよく寝付けなくて」
「……え? ああ、寝付け……うん」
 言葉は常の怜悧さを失っていて、主は大分お疲れのようだった。俺はさっさと部屋へ入って鞄を置き、夕飯を温め直そうとしたところで「長谷部君」と呼び止められた。
「あー、それ……朝食べるから、君は着替えてなさい、あれ、寝間着に」
 そう一方的に告げられると主はジャケットとネクタイをぽいぽいと脱ぎ捨て、瞬く間に浴室へと姿を消してしまわれた。一瞬の出来事に取り残された俺はあえなくラップフィルムのかかった南瓜の煮物の皿を冷蔵庫へ戻し、投げ捨てられた衣服を拾い上げる。本当は怠惰な人間なのだと主が仰っていたことが過去にあったが、普段は寧ろ一分の隙もないほどに在るべき姿で在ろうとされているので怠惰の片鱗すらも俺には見せられない。だから今こうして床に落ちたジャケットを拾いながら俺は知らず頬が緩んでおり、巻き上げられた空気が運んだ匂いは俺の鼻腔をくすぐってそんな俺を揶揄しているようだった。
「……」
 何も考えないようにしながらハンガーに掛け、丁寧に無心にブラシをかけて、寝間着に着替えて待っていると十分もしないうちに主が戻って来られ、主もまた寝間着に着替えられてはいたが髪は湿ったままだった。
「長谷部君、……そこ座って」
 気怠そうに告げられた言葉に俺は従い、布団の上に大人しく腰を下ろすと主までもが目の前に屈み込んできた。俺の心臓が一瞬跳ねる。こんなに距離が近いのは、此方ではほとんど経験していない。嘗ての夜の-あの行為の時だけは、俺でも主の近くに居られたのだが。
 顔をまじまじと眺められた後は口を大きく開けさせられ、耳の下から顎の下までを慎重な手付きで少しずつ少しずつ触れられ、そしてあの昏く黒い瞳で目をじっと見つめられとうとう緊張が最高潮へ達していた俺を迎えた言葉は「少し目が赤いね」だった。
「目、ですか」
「白目のところが充血している。擦っただろう? 止めなさいね。後はまあ顔色も悪くないし扁桃や何かが腫れている感じでもないから、ちょっと疲れたんだろう。だから、あー、ええと……悪い、もう頭が回っていない」
 主の頭が先からぐらぐらと揺れていたことには気付いていた。もう零時を回ったのだろう、普段ならとっくに寝ている筈の時間であり、御仕事で疲れている筈の主にとっては尚更貴重な睡眠時間なのだ。俺は「ありがとうございました、主」と頭を下げ、それから自分の布団へ潜り込もうとする。今週は、俺が床の方で寝る番だった。
「ん」
「え?」
 お世辞にも広いとは言えない俺の布団の右半分に、いつの間にやら主がすっぽりと収まって俺を呼んでいた。
「おいで」
 心臓がばくばくと煩く打ち始め、しかしそれは俺のこれからの愚行を促すエンジンにしかならず、俺は抗いもせず主の隣に身を縮こませながら入っていった。
「あ、あの、主……」
「……ん? 一人で眠れないんだろう? 良いよ、ほら、おいで」
 ああ、これは勿論寝惚けられているのだ。主は普段からほとんど俺に触れてくださらないし、酔った勢いでというのもほとんどない。俺から行くことはないのかというと、主はきっとそれを望まれていないのだという感情がいつまでも俺の中に蟠り続けている。だから俺は主に接触を望むことはしてはいけないし、俺から主に触れるというのは不遜に過ぎて以ての外であり、主が偶に与えてくださるその暖かさだけで十分に幸せだった。幸せだったのだ。
 伸ばされた左腕へ恐る恐る俺の頭を乗せ、それから不意に腰を引き寄せられて思わず叫んでしまいそうになった。
「うん……これで良し」
 俺の髪を梳く手付きは酷く優しいもので、何よりとても心地良くて暖かかった。俺が生きていると感じられるのはこういう時だけだった。主がいらっしゃって、主が俺に何かを言って、主が俺の隣で、主が、主……。
 手が止まり、今は俺の頭蓋の一箇所だけを融かすようにじわじわと熱を与えている。主は寝てしまわれたらしい。
――明日の朝、飛び起きて狼狽える主の姿が容易に想像できる。我儘を言ったことの謝罪をしなければならないだろう。
 ああ、それにしても暖かい。涙が出るほど。

 嘘を吐いた。
 一人で寝ることなど造作もない。ずっとそうだったのだから。
 近頃寝付けないのは〝主が遠い〟ことをふと考えてしまったからだ。いつだったかの春、まだ俺達が本丸に居た頃、主が隣で寝ることを許してくださったことがあった。布団を並べてその中へ収まり、俺は幸せなその夜が終わってしまうことを恐れて主の御手を取ってしまった。
 だがそれは全て夢だったのだ。俺は俺にそう言い聞かせる。夢は忘れるもので、俺はとうにそれからは覚めていた筈なのだ。一度思い出してしまえば、毎夜俺の手の届かない場所で微動だにせず眠っている主を見ているとどうしても眠れなくなった。俺はずっと、あの夢から引き離されたままだった。
 自分のものでない体温と心音へ意識が崩れて溶け始める。もう少しだけ、この暖かさを味わっていたいのに。
 恐る恐る主の胸へ顔を埋め、知れず息を深く吸い込んでいた。こうして主の全てで埋め尽くされていく心が幸福であるのなら、今この瞬間、主御自身も幸せであれば良いのにと願わずにいられなかった。だが俺が幸せであれば主も幸せになる、という傲りこそ、所詮は夢物語なのだろう。
 嘲笑は夜へすっと溶け、俺はその光景を見ることもなく眠りに落ちた。

 

 "Happiness is a perfume that one cannot shed over another without a few drops falling on oneself."
 (幸せとは香水のようなものであり、誰かへ振りかければあなたもその雫を浴びる)
  - Punch's Pocket-book of Fun:Being Cuts and Cuttings from the Wit and Wisdom of Twenty-five Volumes of Punch.(1857), p.68

 


 ***

 外はうだるような暑さだった。本丸に居た頃は温度湿度の管理は全て設定一つで済ませることができていたのに、今では電気代を払いながら空調機器を働かせねばならない始末だ。長谷部が用意してくれた麦茶のグラスの中で、溶けた氷がカランと心地良い音を響かせる。
「監禁か……」
 長谷部の独り言に私はつい顔を上げた。テレビが映し出しているのは今日のニュースのようで、何処かの誰かが起こした誘拐監禁事件について熱心に報道しているところらしかった。
 この暑い中ご苦労なことだ、と思いながら再び本に目を落とす。いや、こうも暑いから拉致だの監禁だのに走るのだろうか。尚も聞こえてくるアナウンサーの声によれば被害者は幼い少女とのことで、何とも典型的だと苦笑が漏れた。真っ当に人と付き合うことができず、自分の好みに合った、か弱い対象を攫ってきて支配下に置いて悦ぶ。何百年も前から繰り返され続けてきたつまらない典型だ。
「……逆だな」
 私の頭にあったのは自分の行為と良く知られた童話のことだった。小さな空間に閉じ込められた女の元へせっせと日参する行為は相手に拒否権を決して与えないが、自分はただ待っているだけというのは行為が相手の意思に基づいていることを事実として認めさせたくてやっているようにも取れる。相手に結び付けた糸を自分の都合の良いように繰っておきながら、糸など影も形も見えないように装っているのだ。本の文章は全く頭に入って来ず、主人公が不義の恋に走るか否かをうろうろと迷っているところのやりとりを何度も何度も読み直していた。
 どうせ被害者には乱暴された痕でもあったのだろう。いつもそうだ、女の元へ日参していた男は無事に彼女を孕ませて最後には家族皆で幸せに暮らすこととなった、それはあくまで物語の中の話でしかない。その辺の少女を連れて来て閉じ込めたところで気持ちは此方を向かない。設定温度を下げた訳でもないのに身体中が凍え震えているような気がしていた。
「何がですか?」
 長谷部が訊いてくる。迂闊なことを口走らなければ良かった。適当にはぐらかし、先のニュースがどんな内容であったかを尋ねた。決して詳しく知りたかった訳ではない。念の為だ。長谷部は不思議な顔をして私を見た。
「主が何かを気にされるのは珍しいですね。男が童女を攫って監禁していたらしいですが、何故そんなことをするんでしょうか?」
「……君には分からないか」
「はい」
 少しだけ眉を下げ、長谷部は首だけでなく全身を私の方へ向けた。そういう意味じゃない、と慌てて付け加えてから私はどう説明したものかと頭を抱えて唸る。
 出勤時、或いは退勤時に熱気が充満し日射しが貫く外の世界を歩いていると、頭がどんどん茹だっていって思考の内側、とても生々しいところが醜悪な中身を曝け出し始める。あの部屋で私を待っている長谷部をそのまま押し倒し蹂躙すればどんなに愉しいだろうかと思わない日がないと言えば嘘になる。やっていることはニュースの中の誰かと変わらない。氷は全て融けてしまい、麦茶の嵩をとぷりと増やしていた。グラスが汗をかいている。グラスが。
「……毎日、暑くて嫌になる」
「……?」
「君を絶対に手の届かないところに閉じ込めておけば暑さで腐敗させられることもないな」
「俺はそんな見世物扱いは、嫌ですよ」
 そうだった。ずっと大切に仕舞い込まれ、飾られていたのがへし切長谷部だった。ふつりと力が抜けていく手から取り落とさないうちに本を閉じて床へ置き、「すまない」と酷く軽い言葉を口にした。
 アナウンサーが「次は天気予報です」と読み上げる声が部屋の静止した空気へ虚しく響く。結局少女はどうだったのだろう。瑕を負わされていなければ、それは、私は……。
 外は今日も暑かった。

 ***

 俺には記憶がない。
 正確に言えば、主の語られるような幼少期からつい昨日までのような広くて長い記憶がないのだ。
 信長に佩かれていたことも黒田家でこれ以上ないほど丁重に扱われたことも全て〝へし切〟が物として経験したことであり、俺はあくまでそれを写し取っただけの複製品に過ぎなかった。
 そもそも俺は人間ですらないのだから、主のような記憶など持ち得る筈もない。ただただ記録としてこの似姿に刻み込まれ、俺が本当に覚えていることなど何もないのだろう。

 長谷部君は甘いものが好きだね、と言われたことがある。主の手には俺が食料品店で買って置いていた大袋入りの金平糖があった。「金平糖が好き?」と。
 はい、とだけ答えて後の言葉は飲み込んだ。代わりに「召し上がりますか」とお尋ねすると主は小さく微笑んで、一粒だけと仰るその手の上へ真白い金平糖をそっと乗せた。
 それから何日か経って、主が俺を連れて行かれた場所は金平糖の専門店というところだった。今までに見たことのないような色
――例えば透き通る空のような青や鮮やかな朱や淡い檸檬色-をした小さな粒が数え切れないほど並んでいて、店内には他の客が何人か佇んでささめきあっていた。俺は試しに一番近くにあった小袋を手に取ってみる。「林檎」と書いてあるそれは見た目には白いのだが、林檎の果実を使っている為味はとても良いのだと説明書きがあった。
「長谷部君、栗や南瓜なんてのもあるよ」
 主は酷く無邪気に笑って言う。手に持った籠には既に幾つもの小さな袋が入れられていて、俺よりもこの店を楽しんでいらっしゃる様子に何か肩の荷が降りるような奇妙な心地がした。
「俺はこれが欲しいです」
「ああ、良いよ」
 掲げた一つをさっと取って籠へ入れ、主は「他に欲しいものはない?」と笑顔で仰った。

 折に触れては思い出すことがある。俺が全く精密に覚えている全てのことから、少しずつ少しずつ。
 主と二人での帰り道、俺に買い物袋を持たせてくださらない主と肩を並べて歩きながら、俺は慣れ親しんだ甘い香りを鼻に嗅ぎ取った。主もまた、その微かと言うには些か強すぎる芳香に気付かれたようで俺逹は二人揃って足を止めた。
 花は角を曲がったすぐのところに咲いていた。暫しその香りを、可憐な花弁を楽しんで、それから主は囁くように言った。
「もうそんな季節か」
「そうですね」
 俺が選んだ蜜柑味の金平糖と同じ橙色、それに緩い曲線を描く柔らかな花。主が初めて俺に金平糖を買い与えてくださった時に思い描いた、俺が主と何度だって見たいと願ったその花を、俺は今年も主と二人で眺められていた。初めて見た時と何一つ変わらない色と香りと、それから
――
「主」
 落ちていた花弁の一つを拾い、くるくると弄びながら俺は呟いた。
「俺は……金木犀の花が好きなんです」
 金平糖も、と付け加えてから口を噤んで考え込んだ。主はきっと怪訝な顔をされているだろう。論理も脈絡も何もない話をして、呆れられているかもしれない。
「初めて買ってくださった日のこと、覚えていらっしゃるか分かりませんが……俺はこの菓子は金木犀に似ていると思って、一目で気に入ったんです」
 ささやかな吐息は続きを促す時の主の癖だった。
「だから好きなんです」
 小さな橙色が手からぽとりと落ち、俺は何も言えなくなった。語るべき思い出が何も無いことがこれほど辛いのだとは思いもしなかった。俺は俺のことを何も知らない。主にも知っていただけない。ただ辺りを満たすのはむせ返るほどの芳香だった。

 

「作っていけば良い」
 主はそう仰って俺の傍へと寄った。
「君は私が就任したあの日に生まれたんだよ、それ以前の記憶など無くて当然だ」
 だから楽しい思い出だけを拾い集めていけば良いと。そうして甘い、辛いことなど何一つない甘い記憶を作るのだ。
 俺は甘いものを良く好む。
 覚えているからだ、全てを。主が俺に与えてくださった、何もかもを。

 ***

 空は燃えるように赤く、背後には墨を流したような黒がじわじわと滲み出している。どろりと濃い金赤色は乾いて澄んだ空気の所為だろうか。朱と黒、それ以外の色は目に映らなかった。
 隣には当然のように長谷部が居た。二人してバルコニーの柵に凭れ掛かり、何を言うでもなくただ暮れていく空をぼんやりと眺めている。一度だけ、私の少し後から外へ出て来た長谷部に「寒くはないですか」と尋ねられ、いや、と答えたが会話はそれきりだった。
 長谷部こそ部屋へ戻っていれば良いのに、と言わずとも胸中で呟く。一人で空を眺めているだけの寂しい人間に付き合う必要など毫もない。あの夕焼けを取って来て長谷部へ与えてやれる訳でもないのだ。
 ここ最近、私はどうにも気分が安定しなかった。口では好きだとか何とか言いながら頭の中では目の前の無垢な存在を嬲り尽くしたいという思いがふつふつと沸き続けていた。夜、ベッドの上で
――或いは床に敷いた布団の中で毛布に包まっていると多少は落ち着いた。頭から足先までが柔らかく暖かいものに包まれていることを上手く働かない脳で反芻し、自分はただ淋しいだけなのではないかと考えたりもした。
 寝返りを打ち盗み見た長谷部は穏やかな顔をして眠っていた。それは漸く手に入れた世界だった。毛布を被り直し、私も目を閉じて眠りに就こうと試みるのが日常になっていた。

 いつだっただろう、長谷部と二人、夕焼けの中を歩いたのは。
 あの時は二人きりで居られることがただただ嬉しかった。風に揺れる藤の花は手折ろうとも依然枯れることがなく、それどころか何度摘み取ろうとその美しい花を咲かせていた。
「長谷部君」
 何度考えても結論は導き出せず、それどころか思考の過程すらも一定しなかった。長谷部がどうして自分の隣に居てくれるのかもさっぱり見当が付かず、しかしそれは一体自分はどうしたいのかすらも定まっていない弱い私が考えているのだから当然なのだった。
「君と居ることが辛い」
 どうして空はこんなに綺麗なのだろうか。隣に立つ長谷部はそれ以上に綺麗だった。
「幸せにしてやれないと思い悩むことが苦しい」
 どうして長谷部相手にこんなことをぽつぽつと零してしまっているのか自分でも分からなかったが、長谷部は感情的になることもなく黙って聴き続けていてくれた。それこそ本丸に居た頃であれば、「他所で幸せになるべきだ」と一言言っただけで取り乱し、私の十倍もの感情をぶつけて懇願してきたのが嘗ての長谷部だった。私はもう
――疲れてしまったというところか。
「君を切ったり食べたりしたい衝動を抑えるのに疲れた。君を……普通、に、幸せにしているところを何度も想像するのは虚しい」
「そのようなことを主に考えさせてしまわない為に、俺は何ができますか」
 君は悪くないのに。掠れた笑いが漏れたが、長く長く射す赤い陽に焼かれてすぐに蒸発した。笑うことすら上手くできないのが辛かった。此処で強がらないと次は涙が零れてしまいそうで、そしてそれは言葉や苦笑のように夕陽に焼かれてはくれないのだ。
「長谷部君は、辛くはなかったのか。本丸でずっと非道い目に遭わされて」
「辛いこともありましたよ」
 心臓が跳ねる。その拍子に後悔と名の付く感情や何もかもを抑えていたものの箍が外れてしまって、私は両手で顔を覆った。
「違う」
「主」
「違う、そんなつもりは、違うんだ……」
「主、俺はきっと〝前の主〟を忘れたかったんです」
「君の心に付け込んだのは……何もかも忘れさせる為に傷付けたんじゃない、君が私を使ったんじゃない、私が」
「良いんですよ、主。何も違いません。そうして全て覚えていて、苦しんでいらしてください」
「……は?」
 反射的に顔から手を離す。陽はもう射すことを止めて残照だけが空を塗り、侵食する黒は広がり続けていた。
「悩んで苦しんで、他ならない主が御自身を赦されないのであれば、其処に俺の心が入り込む余地があります。俺を傷付けたことを後悔し続けているのなら俺は主が御自身を赦されることを許します。抑えられないのであれば抑えられないで良いではないですか、俺は主の所有物です。欲に従ったその後で悔恨し懊悩されるのであればやはり俺が許します。それで主は御自分を赦すことができ、救われるのではないですか」
「いや……それ、は……」
「主」
 追い詰めるように距離を縮められ、背にした柵がぎしりと軋むのが背に感じられた。そのまま落ちてしまうような設計ではないがそれなりに背筋は冷えるし、何より覆い被さるようにして此方を見下ろしてくる長谷部の顔が怖かった。既に僅かしか残っていない空の朱を塗り潰そうと迫っている漆黒を背に負って、長谷部は私に微笑んでいた。
「全部知っていましたよ、主」
「知って……何?」
「ああ、もう夕食の用意をする時間ですね。主もあまり長居されると風邪をひかれますよ」
 茫然としている私を置いて長谷部はさっさと部屋へ戻って行ってしまった。頭上には夜が降り始め、長谷部の言う通りこのままでは風邪をひいてしまいそうな真っ黒い冷気が音もなく足元を浸していた。
 部屋へ戻り、いつもと変わりない上機嫌で白菜を切っている長谷部へ「すまない」とだけ言った。長谷部は「夕焼け、綺麗でしたね」と返して後は何も言わなかった。
 その晩、私は長谷部の首を絞めた。

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