top of page

竜胆

  一
 
 夜半も近い頃、空には月が昇り全てを青白く照らしていた。
 審神者は静まり返った手入れ部屋で、長谷部の手入れをしていた。
「痛かったろうに、すまない」
 場所も長さも深さも様々な切り傷を、審神者は一つ一つ手入れして治していく。まだ治されていない傷の周りには薄く伸びて斑になった血が固まっていた。
「いえ、主命とあらばこれくらいのこと……」
 長谷部は暗い目を伏せて答えた。今夜は、全身を切り刻まれて傷口を抉るように血を舐め取られた。それでも四肢を切り落とされたり腹腔を掻き回されたりするよりは遥かに楽だった。
「……私が間違っていることは分かるね」
「……」
 審神者は先程までとはまるで逆のことを言った、即ちこれは決して愛を示すための行為ではあり得ないと。
 渇いた喉で無理矢理唾を飲み込んで審神者はまた言った。
「……それでも」
 す、とまだ手入れしていない傷を優しくなぞられ、痺れるような痛みに長谷部は思わず顔を顰めた。
「君の傷が消えてしまうことが惜しい」
「……」
「君はとても綺麗で、本来私には触れる権利なんて無いものだ。だけど君は私に身を委ねてくれる……。私だけが君に触れられる証を残しておけたら良いのに」
 そう言いながら、審神者はまた一つ傷を治していった。自身の左大腿を醜く裂いた傷を見遣って長谷部は言った。
「……主」
「うん?」
「手入れは、これで結構です」
「しかし、まだ傷が」
「大丈夫ですから、主。どうぞ残しておいてください。俺は貴方の物だ」
 傷が残っていようと、変わらず最良の結果をお届けいたします。長谷部はそう言って、傍に置いていたシャツを手に取った。
「長谷部君」
「はい」
「気持ちは嬉しいけど、……きつくなったら直ぐに言うように」
「承知いたしました」
 ジャージのジッパーを上まできっちり上げて、長谷部は立ち上がった。
「主、もう遅いですし戻りましょう」
「ああ」
 二人は手入れ部屋から出ると、長谷部の部屋の前まで来て立ち止まった。
「おやすみ」
「おやすみなさいませ、主」
 長谷部は一礼して自室へ入り、再度軽く頭を下げてからそっと障子戸を閉めた。
 審神者は自室へと向かいながら、熱を持った顔を両手で覆った。


  二


「主、おはようございます」
「おはよう。今着替えているから少し待っていてくれ」
 翌朝、長谷部はいつも通り支度を整えてから審神者の部屋を訪れた。審神者は今しがた起床して顔を洗い終わったところで、そのまま長谷部を待たせておいた。
 着替え終わった審神者がいいぞ、と声を掛けると長谷部は静かに障子戸を開けて部屋へ入ってきた。
「おはようございます」
「おはよう。良く眠れたかな」
「はい」
「……傷の具合は?」
「ご覧になりますか」
 失礼します、と言うと長谷部はカマーバンドを外して丁寧に畳んで置いてから、スラックスのホックを外して膝下まで下ろした。
 白い大腿に残る傷は血が滲んだように赤く腫れ、周りの肉も桃色に色付いていた。傷はそれだけではなく、シャツが捲り上げられた右の脇腹にも同様に残っていた。
「脚は問題なく動くのか」
「はい」
「痺れは」
「傷の周りは少し痺れていますが、支障はありません」
「……そうか」
 審神者は項垂れたように顔を伏せて言うと救急箱を取り出し、長谷部に近くへ寄るよう言った。
「血が滲むといけないから、包帯を巻いておこう」
「ありがとうございます」
 息が掛かる程の距離でそれを眺めた後、審神者は長谷部の傷口に清潔なガーゼを宛てがい、その上からぐるぐると包帯を巻いていった。
「これでよし」
「ありがとうございます、主」
「解けたら巻き直すから遠慮なく言っておいで」
「はい」
 長谷部は包帯がずれないよう慎重にスラックスを上げてホックを留め直し、カマーバンドを付けた。
「朝食に行こうか、長谷部君」
「はい」

 朝食の後、長谷部は審神者と共にこれまでの京都市中出陣の結果から最適な部隊編成を考え、その部隊を率いて出陣した。帰還すると負傷した部隊員を他の男士と交代させ、再び出陣することを二、三度繰り返した。
 しかしなかなか敵の部隊を討ち取ることができず、長谷部は悄然とした様子で審神者に報告した。
「……今は鯰尾と骨喰、厚が手入れ部屋に入っています。道中で入手した冷却材は全て資源置き場に」
「うん、ご苦労様」
「すみません、今回も敵を討ち取ることは叶わず……」
 悔しそうに唇を噛む長谷部に、審神者は励ますように言った。
「まあ、京都市中は暗くて道も分かり辛いと聞く。皆の練度を上げる良い機会だと思って気長にやろう」
「……はい」
「明日は気分を変えて演練に行くのも悪くないな、太刀の練度も上げたいし」
「髭切や膝丸を加えて部隊を組みますか」
「うん、部隊長はまた君にお願いするよ」
「拝命いたします」
 審神者と長谷部は他に誰を部隊へ組むか暫く話し合い、決定した面子には昼食後に声を掛けることにした。
「良い訓練になるといいな。手は抜くなよ」
「はい」
「そうだ、傷は大丈夫か?」
「問題ありません。お気遣いありがとうございます」
「そうか」
 審神者はぐっと伸びをして立ち上がると、お昼は何かなあと言って障子戸を開けた。
「長谷部君も疲れてるだろう、しっかり食べるんだよ」
「はい」
 外は良く晴れて、溢れんばかりの陽光が木々の葉や池の水面に降り注いでいた。

「長谷部君が戦っているところ、一度見てみたいなあ」
 赤紫や青紫の痣が咲いた長谷部の身体を撫でながら、審神者は言った。空気漏れのような細い音を鳴らしながら、長谷部は苦しげに答えた。
「お見せするようなものでは……。主の身に危険が及ばないとも限りませんし」
「そう? 格好いいだろうなあと思ってさ」
「……血で汚れることもありますし、綺麗なものではありませんよ」
「ああ、確かに」
 審神者は長谷部を撫でていた手を止めると、
「私以外に傷を付けられている長谷部君を見るのは我慢ならないだろうな」
 と言った。
「……そうですね、京都では槍もよく出てきますから」
「演練見に行けたらいいんだけどなあ」
「はい」
 審神者は長谷部の答えに笑顔を返すと、滑らかな煤色の髪を撫でつけて優しく言った。
「さ、立とうか」
「……はい」
 長谷部は床に手を付いて重たい身体を起こし、のろのろと壁際まで歩いて行った。
「本当に君は綺麗だね」
 大腿に残る赤い傷を指先でなぞりながら審神者は言い、不意にその手を振り上げて長谷部の頬を打った。
「……」
 ぐらりと頭を揺らめかせるも踏み止まった長谷部に審神者は笑いかけ、その肩に手を置くと長谷部の顔を覗き込んだ。
「幾つ数えようね」
「……ご随意、に」
「君は本当に綺麗だ」
 その瞳を遮る煤色を掻き上げて、審神者は言った。
「堪らなく愛おしい」
 審神者はそのまま手を離し、ぱさりと落ちた髪が揺れる藤色を隠した。
「三十にしよう」
「……はい」
 審神者の唇が円弧を描いて、次の瞬間長谷部の口からはくぐもった呻き声が洩れていた。
「……っ、一、……」
 まだ赤く腫れただけの腹部を一撫でし、審神者は再び長谷部を打った。
「げほっ、……二、……」
「吐いたらいけないよ、今日はそういう気分じゃないんだ」
「はい、主命と、あらば……」
「君は本当に良い子だね」
 言いながら審神者は上腕や胸、腹、顔と次々に長谷部を打っていった。
 頭をぐらぐらと左右へ揺す振られながらも膝だけは折るまいとする長谷部に、審神者は可愛いねと笑っていた。
「……ろ、く……七……ぁ、……八、…………」
「長谷部君? 今幾つ?」
「……十、です……」
 先にも散々打たれた後の長谷部の意識は既に朦朧としていて、受け答えも覚束なかった。
「長谷部君、今は九つだよ。間違えたから、もう一度ね」
 赤、黄、青紫、赤紫。鮮やかに色付いた身体を僅かに震わせて、長谷部は絶望した表情を審神者に向けた。
「主……」
「何? 長谷部君」
「……いえ、今度は、ちゃんと数えます……」
「うん」
 いつの間にか口の中を切っていたらしい長谷部の口の端から垂れる血を指で掬い、審神者は笑って答えた。


  三


 シャツのボタンを下から一つずつ留めている最中、長谷部はふと手を止めてシャツの裾を捲り上げ、臍の右脇にぽつりと染まった紫色に手を添えた。
「……」
 昨夜、口の中の鉄臭さもとうに分からなくなる程繰り返した後で漸く長谷部は三十を数え終わり、審神者に支えられて手入れ部屋へ向かった。
 脳震盪を起こしていた長谷部から意見を聞くことはできなかったので、審神者は自分が綺麗だと思う痣だけを残して手入れをしたのであった。それは腹にも胸にも、肩にも残っていた。
 痛々しい青紫色の周りにはうっすらと淡黄色が広がり、中心には真紅の斑点が散ってまるで花が咲いたようだった。
「……主」
 添えた手に力を入れると、鈍い痛みが広がった。

「主、おはようございます」
「長谷部君、おはよう」
 審神者の答えを待って長谷部が障子戸を滑らせると、審神者がいつものように笑顔で座っていた。
「良く眠れた?」
「はい」
「うん、それは良かった……。痛みは?」
「触れると少々痛みますが、問題ありません」
「そうか、脇腹と大腿の方は?」
「少し血が滲んでいたのでガーゼを取り替えておきました」
 審神者は長谷部の大腿に目を遣って少し残念そうに、
「言ってくれればやったのに」
 と言った。
「ありがとうございます。ですがお手を煩わせるのもと思い」
「自分でできないときは言うんだよ。痛みがひどいときも」
「はい」
「今日も良い天気だね。朝食を食べに行こうか」
「はい、主」
 群青の空には引き千切られたような雲が浮かび、紺色の雲底からは光が漏れていた。

 朝食を終えて部屋に戻ってきた審神者は、予定通り今日は演練に行ってもらう、と言った。
「部隊に入ってもらうのは物吉君、蛍君、鶯さん、髭切さん、膝丸さんだ。昨日も言った通り部隊長は頼んだよ」
「拝命いたします。必ずや勝利を収めてまいります」
「うん、待っているよ。まだ髭切さんと膝丸さんの練度が低いから苦戦するかもしれないが、長谷部君なら安心して任せられる」
「お任せください」
 審神者は長谷部と共に部隊員が待っている玄関先まで向かい、皆しっかり学んでおいで、と見送った。

 近侍が出陣してしまいまた特に急ぎの執務も無かったので、審神者は食事当番を買って出て、前田、平野と共に昼食を準備しておくことにした。
「食材は何でもあるのか……。何作ろうか」
「主君は何を召し上がられたいですか?」
「折角だから君達の食べたいものを作ろうよ」
「僕達はよくリクエストを聞いていただいているのですよ」
 前田と平野は顔を見合わせるとはにかんで言った。そうとは知らなかった審神者は微笑んで、
「何だ、そうだったのか……。じゃあ私が好きなものを作ってもいいかな」
 と言った。
「はい!」
「お手伝いいたします」
 元気良く返した二人に、審神者は炊飯の準備をしながら冷蔵庫の鶏肉を玉ねぎや人参と共に刻んでおくよう告げた。
 途中、三人揃って目が痛いと騒ぎながら流しへ走っては笑い合い、刻み終えた具材をボウルに移して米が炊けるのを待った。
「京都での戦いはどうかな」
 審神者は空いた時間でコンソメスープを調理しながら、千切ったレタスとミニトマトを小皿に盛り付けている二人に尋ねた。
「市中は暗いし、なかなか道も入り組んでいると聞く」
「そうですね」
「敵はそれほど強くはないのですが……」
「まあ、焦ることは無い。怪我に気を付けて、皆で少しずつ進んでくれればそれで良い」
「はい、全力を尽くします」
「気を引き締めてかかります」
「二人共、真面目だな。それが良いところなんだろうが」
「恐れ入ります」
 背筋を伸ばして答える前田と平野に審神者は笑いかけ、続けて尋ねた。
「長谷部君は君達と上手くやっているかな」
「はい」
「厳しいときもありますが、いつも僕達のことを気にかけてくださっています」
「部隊の誰よりも強いですし、僕達の憧れです」
「そうか」
 そのとき、炊飯器が鳴って米が炊けたことを知らせた。
「お、炊けたな」
「僕達は何をいたしましょうか?」
「炒めるのは私がやるから、卵を割って溶いておいてくれるか」
「分かりました!」
 二人はテーブルに並ぶとそれぞれ分担して卵を割り、溶いていった。
 審神者はフライパンを取り出してコンロに置き、油を敷いて鶏肉と野菜を炒め始めた。塩胡椒、ケチャップで味を付け、炊けたばかりの白米も入れて手際良く混ぜていくとチキンライスが出来上がった。
「やっぱり一度に三、四人分が限界だな……。普段の食事当番はどうしているんだろうか」
「主様が広い厨房を用意してくださいましたから、皆で分担してフライパンを振っています」
「太刀や打刀の皆は力もありますから」
「なるほど」
 これは後で筋肉痛になりそうだ、と言いながら審神者は新しいフライパンを取り出し、油を敷いて熱した後で溶いた卵を入れた。半熟に固まったところで卵の上にチキンライスを載せ、フライパンの柄を叩いて手早くくるんでいった。
「はい、一つ」
 完成したオムライスを平野が用意しておいた皿にするりと滑らせ、ケチャップを手にした前田がそれを受け取った。
「出来上がった分から持って行ってくれ」
「はい」
 前田と平野はカップにスープを注ぎ、サラダにはドレッシングをかけ、オムライスと共に盆に載せては食事部屋へと運んで行った。
 途中で燭台切と大倶利伽羅が厨房へ来て手伝いを申し出、審神者と燭台切がチキンライスを作っては卵で包む傍で前田、平野、大倶利伽羅の三人は完成したオムライスにケチャップでせっせと何やら描いては運んでいた。

 演練に出ている部隊以外の全員分が出来上がったところで審神者は四人に礼を言って食事部屋へ送り出し、生ゴミを片付けて一息ついていた。
「流石に四十人分は大変だ……」
 これは厨房の設備や食事当番を見直さないとなあ、などと考えながら座っていた椅子の背にぐっと凭れ掛かっていると、聞き慣れた声が審神者を呼んだ。
「主」
 審神者が椅子に凭れ掛かったままで首を回して厨房の出入り口の方を見遣ると、其処には演練から帰還した長谷部が立っていた。
「ただいま戻りました」
「おかえり、長谷部君」
「此方にいらっしゃると聞いたもので」
「みっともないところを見られてしまったなあ」
 審神者は椅子から立ち上がると、右腕を摩りながら長谷部に近付いた。
 長谷部は此処へ立ち寄る前に着替えを済ませてきたらしく、カソックにもシャツにも汚れや埃は一つも見当たらなかった。
「今皆の分も用意するから」
 長谷部は厨房をぐるりと見回して眉を顰めると言った。
「主、食事当番は一体何を?」
「ああいや、私が頼んで入らせてもらったんだ。君もいなくて特にやることもなかったし、偶にはと思って。皆には先に食べさせているよ」
「では、今帰還した六人の分は俺が」
「帰還したばかりで疲れてるだろう? 私がやるよ」
「いえ、まだいけますが……」
 そう言ったところで長谷部ははっと思い出したような顔をして、背筋を伸ばした。
「申し遅れましたが、演練は五戦行い三勝いたしました」
「うん、お疲れ様。二人はどうだった?」
「髭切、膝丸共にまだまだ至らぬ点は多いですが、腕は上がっていると感じました」
「そうか。あの二人は別の部隊で練度を上げてもらうとするかな……。良い訓練になったかな」
「はい。次こそは最良の結果を主に」
 審神者は何も答えずに微笑むと、
「じゃあ、長谷部君はスープを注いで、冷蔵庫にサラダが入ってるから一緒に持って行ってくれる? 作るのは私がやるから」
 と言った。
「承知いたしました」
 審神者は一つ一つオムライスを仕上げていくとケチャップで文字や絵を描き、長谷部に渡していった。髭切と膝丸の分は審神者も長谷部と共に食事部屋まで運び、演練ご苦労様、と声を掛けた。
「これは何だ?」
 皿を指して怪訝そうな顔で尋ねる膝丸に、審神者は
「オムライスと言う」
 と答えて髭切の前に盆を置いた。
「おや、これは可愛らしいね」
 髭切のオムライスには審神者によってケチャップで鬼と思しき生き物が描かれており、膝丸の方にも同じものが描かれていた。
「こうやって、文字や絵を描いて楽しめるんだ」
「へえ、これはいいねえ」
「兄者、俺のと同じだぞ!」
 嬉しそうにスプーンを取る髭切と膝丸を眺めた後で審神者は食事部屋を後にし、長谷部と二人で厨房へと戻って来た。
「さて、長谷部君の分を作ろうかな。最後になってしまって悪いな」
「いえ、ありがとうございます」
「流石に四十人分も作ると手馴れてしまうな」
 審神者は手際良くフライパンを振り、二人分のオムライスをさっと包んだ。
「長谷部君のには何を描こうかな」
 にこにこと笑いながら審神者はケチャップを手に取り、蓋を開けた。
「主に描いていただけるのでしたら何でも」
「そう?」
 審神者は桜の花を幾つか描き、皿を長谷部に手渡した。
「はい、今日も部隊長お疲れ様」
 長谷部は一瞬目を見開いた後で唇を結び、
「ありがとうございます」
 と言ってそれを受け取った。審神者は自身の分には文字も絵も描かず、適当にケチャップを絞り出した。
「食べようか」
「此処でよろしいのですか?」
「良いよ、もう動くのも億劫だ」
「はい」
 二人は厨房の椅子に腰を下ろすといただきます、と手を合わせ、柔らかく焼かれた玉子にスプーンを差し入れた。
「美味しい?」
「はい」
「それは良かった」
 そう返すとふと食事の手を止めた審神者に気付き、長谷部は尋ねた。
「主?」
「これ、長谷部君みたいだな」
「それは……」
「脂肪と血と肉」
「……」
 審神者はオムライスをぐちゃりと掻き混ぜると皿にスプーンを置き、長谷部の顔をじっと見つめた。
「今夜も部屋に来てくれるかな」
「……主命とあらば」
「ありがとう」
 口の端を吊り上げて笑い、審神者は再びスプーンを取った。

「ね、ほら、長谷部君みたいだって言った通りだった」
 審神者は長谷部の左脇腹に刺したスプーンを引き抜いて言った。
 銀のスプーンには細かく黄色い脂肪と桃色の筋肉の破片、それに血がべっとりと付いていて、乱暴に抉じ開けられた脇腹も同じものに塗れていた。
 長谷部はゆっくりと顔だけを向けてそれを見て、
「……はい」
 と答えた。
「でも長谷部君の方が美味しいかな」
 審神者が突き立てる度にスプーンは結腸を掠め、脳が弾け飛びそうになる痛みに長谷部は身体を痙攣させた。
「あっ、……あ、……」
「なかなか肉は取れないな、脂肪は美味しくないから嫌いなんだが」
 審神者は血と混ざり合い橙色になった脂肪を半端にシャツがはだけられたままの長谷部の胸にぼたぼたと落とし、楽しそうに笑った。未だ残る青紫の痣は、血と脂肪に覆い隠されていった。
「何を描こうか?」
「ご、随意、に……」
「そう? 長谷部君は何を描いてほしい? ねえ」
 答えを待つ気も無く審神者は小腸と結腸の溝に溜まった血を掬い、長谷部の腹に垂らしては伸ばした。零れた血はシャツに染み込んで赤黒く染めていったが、染みきれなかった血は小さい水溜りを成していた。
「桜? それとも木瓜? 藤は少し難しいかな」
 ぬめる指を滑らせて桜の花弁を数枚描き、審神者は其処へスプーンを突き立てた。僅かに表皮を突き破られただけで血を滲ませる其処を冷たい目で見て、審神者は何度も腕を振り下ろした。
「いっ、うぐ、……ぁ、ある、じ……」
 血と脂肪が飛び散って、裂けた筋肉は解れた繊維の端を覗かせていた。
 幾度目かでスプーンは肋軟骨に突き当たって骨を削る耳障りな音が響き、審神者は漸くその手を止めた。
「長谷部君」
「……は、い」
「いただきます」
「……」
 長谷部は息を荒げながら、自分の肉が引き裂かれ食べられていくところをぼんやりと眺めていた。


  四


 翌朝、昨日はやりすぎた、と審神者は長谷部の顔を見るなり言った。言わんとするところを掴みきれない長谷部がきょとんとしていると、審神者は続けて言った。
「残せるような傷が無かった」
「主、俺のことはお気になさらずとも」
「駄目だ、傷が深すぎる。出陣や他の執務に差し障る」
「……はい」
「そうでなくとも、今更私が言えたことではないが、本来は君を傷付けることだってあってはならない。今だって直ぐにでも手入れすべきなのだから」
「……主」
「……赦してくれなどとは言わないよ」
「……」
「さて、今日も京都へ出陣してもらおうか。そういえば昨日、前田君と平野君から長谷部君のことを聞いたよ」
「左様ですか……」
「今の部隊でも君なりに上手くやっているようで安心した」
「主のお心遣いあってのことです」
「長谷部君は私の一番の配下で、誇りでもあるからね。嬉しかったよ」
「あ、有難き幸せ……」
 長谷部は耳を赤くして俯き、本日も慢心せず最善を尽くします、と囁くように言った。

 蛍丸率いる第三部隊に髭切と膝丸を組み入れて本能寺への出陣を見送った後、審神者は長谷部率いる第一部隊に声を掛けた。
「皆、今日も宜しく頼む。焦る必要はないから、判断は誤らないように」
 男士達は口々に分かりました、行ってきますと返し、長谷部は真っ直ぐに審神者を見て、
「行ってまいります」
 と言った。
「無事に帰ってくるんだよ」
 と審神者は言い、翻った紫と金が見えなくなるまで其処に立っていた。雲の切れ間から射し込む光に、それはとても遠く見えた。

 部隊の出陣後、審神者は厨房の管理を任せているうちの一人である燭台切の部屋を訪れ、声を掛けた。
「光忠君、今ちょっと時間良いかな」
「ああ、主。何かな」
「昨日昼食作ってみて、今の設備でやれてるのかと思ってな」
「と言うと?」
「調理器具の数や大きさだったり、食事当番の人数だったり……。何か改善すべき点はないか」
「ああ、最近は新人君も何人か増えたからね。もう一人ぐらい割り当ててもらえると助かるかもしれないな。食器は君が用意してくれたから問題無いよ」
「調理器具をもう少し増やそうか」
「そうだね。歌仙君と相談してみるよ」
「ああ、宜しく頼んだ」
 審神者は長谷部が帰って来たら当番の割り当てを一緒に考えよう、と心に留めた。審神者にとっては、長谷部があまり関与しない箇所の管理であっても全てを知らせた上で二人で行うのが常であった。
「そういえば、短刀達のリクエストをよく聞いてやっているらしいな」
「うん、食事の時間は楽しく過ごしてほしいからね。君も何かリクエストがあるなら聞くよ」
「私は君達が用意してくれたものは何でも美味しく頂いているし、皆の食べたいものを作ってやってくれ」
「オーケイ、分かったよ。その分君の為にはおやつの時間に腕を揮うよ」
「はは、それは嬉しいな」
 燭台切は本棚からレシピ本を取り出すと審神者に手渡し、審神者はぱらぱらと捲ってあるページで手を止めた。
「これ、長谷部君が気に入っていたな」
「じゃあ今日はこれを作ろうか」
「頼んだ。私からの希望ということにしておいてくれ」
「長谷部君、素直じゃないからなあ」
 燭台切がぼやくように言って笑い、審神者もそれを聞いて笑った。しかし直後に燭台切の笑顔は少し物憂げな表情へ変わり、
「君は気付いているだろうけど、長谷部君、最近少し顔色が悪いように思うんだ。少しでも元気になってくれたらいいな」
 と言った。
「気遣ってくれてありがとうな。必要そうであれば休ませるよ」
 審神者はそう言うと燭台切に本を返して立ち上がり、
「またおやつ時に。楽しみにしているよ」
 と言って部屋を出て行った。

 

「長谷部君、今日のおやつはどうだった?」
 審神者は布団の上に腰を下ろした長谷部の背後からその肩を撫で、耳元でそっと尋ねた。
「美味しかった、です」
「そう? 良かった。リクエストした甲斐があった」
 痣が残る方の肩を撫でられた長谷部は痛みに思わず身を竦め、審神者はその反応を見て静かに唇を歪ませた。
「君は本当に良くやっているんだから、少しくらい我儘を言ってくれても良いのに」
「いえ、そんな……。本日も、俺は」
「結果を出せなかったって? 焦らなくて良いと言った筈だが」
 長谷部の肩に赤い舌を這わせながら、審神者は続けた。
「光忠君も、君の顔色が悪いって心配していた。明日の出陣は休みにしようか」
「いえ、行けます。行かせてください」
 余計なことを、と言わんばかりの勢いで長谷部は振り返り、答えた。審神者は仕方なさそうに微笑むと、
「無理はしないでくれ、頼むから」
 と言って肩口に思い切り噛み付いた。
「っ、……はい」
 がりがりと不愉快な音が部屋に鳴り響き、審神者が口を離すと深緋色の血が滴った。痛みに顔を顰める長谷部に、審神者は耳打ちするように言った。
「君が一番甘くて美味しい」
「……はい」
「長谷部君も私を食べてみるかい」
 長谷部は緩く首を振ると、
「俺は主を傷付けるような真似は……」
 と答えた。
「冗談だよ。長谷部君はこんなこと、知らなくて良い」
「主……」
 背けられた審神者の顔は翳っていて、その表情は窺えなかった。黙りこくったまま、再び長谷部の肩に歯を立てた。


  五


 抉られたまま盛り上がって血を滲ませている桃色の肉にそっとガーゼを当て、審神者は聞こえるか聞こえないかの声でぽつりと零した。
「すまない」
「主、俺のことは心配なさらないでください」
 長谷部は何でも無いというように声を掛け、ガーゼの上から手を置いてずれないように押さえた。審神者は包帯を巻いて端をしっかりと固定したが、そのまま手を止めて決心したように言った。
「長谷部君、やはりこれを続けるのは無理だ。手入れしよう」
「主、手入れなら今していただきました。ありがとうございました」
 長谷部はさっとシャツを羽織り、ボタンを留めていった。その身体に残る切り傷も痣も噛み跡も、全て見えなくなった。
「長谷部君」
「主たっての願い、それに応えたいと思ったのは俺です。どうかご自分をお責めにならないでください」
 カソックに手を通して襟を正し、長谷部は微笑んで言った。
「本日は何をいたしましょうか」

 昨日長谷部と共に考えた食事当番の割振りを審神者が自室で見直している最中、俄かに玄関先が騒がしくなった。
(第一部隊が帰ってきたか)
 審神者は座ったままでいつも通り長谷部が報告に来るのを待っていたが、玄関先の喧騒は散らず続いており、審神者を呼ぶ悲痛な声が聞こえてきた。
 普段とは違う帰還の様子に審神者が慌てて部屋を飛び出すと、玄関には確かに第一部隊が帰還していたが、其処には脇差や短刀達に支えられた長谷部の姿があった。
「長谷部君?!」
 主様、大将、と口々に話しかける皆の前に薬研が立ち、彼等を制した後で口を開いた。
「大将、長谷部が重傷になったから帰還した。京都は槍がよく現れるんだが、今日は長谷部が集中的に狙われちまってな……。見た限り命に別条は無いが、手入れを」
「ああ、直ぐに。他に怪我を負った者は?」
 暗い顔をした男士達の中で骨喰と後藤が手を挙げたが、二人共自分達は軽傷だからそれよりも長谷部の手入れを、と言った。
「手入れ部屋まで運ぶ、手を貸してくれ」
 騒ぎを聞いて駆けつけてきた一期一振と陸奥守に部隊員を任せ、審神者は蜻蛉切の手を借りて長谷部を手入れ部屋まで連れて行った。

 

 がば、と身を起こした長谷部は自分が手入れ部屋に居ることに気が付いた。
 陽は傾いていて、障子越しに射し込む光は弱々しかった。血に塗れてぼろぼろだった筈のカソックや防具は何処にも見当たらず、僅かに柔軟剤の香りの立つ白いシャツとジャージを着せられて布団に寝かされていたらしかった。
「俺は……」
 長谷部はまだ覚醒しきらない頭を必死に廻らせた。いつものように主に見送られて、物吉や薬研達を連れて京都へ出陣して、今日は槍が多かった、弓や投石を受けることもだ、不覚にも避けきれず、…………。其処まで思い出したところではっと気が付いて、長谷部は慌ててシャツを捲った。
「……無い」
 身体中を触って確かめても審神者が残していた筈の傷跡は何処にも無く、身体は以前のように真っ新に治されていた。
「…………」
 シャツを握った手もそのままに長谷部が愕然とした表情で言葉を無くしていると、音も無く障子戸が開いて審神者が入ってきた。
「良かった、目が覚めたか」
 心底安堵したように言う審神者に、長谷部は堪らず問い詰めた。
「主、何故治したのです! あれは、主が、俺は……」
「長谷部君」
 審神者は障子戸を閉めて長谷部の傍に座し、厳しい口調で言った。
「皆から聞いた。君は今日、無理を圧している様子だったと」
「……いえ、それは」
「いつもなら避けられていた筈の攻撃でさえ、避けられていなかったとも。長谷部君、傷が障っていたんだろう。何故手入れを拒んだ」
「……偶然です」
「長谷部君」
 審神者は溜息こそ吐かなかったものの仕方ない、という様子で静かに言った。
「君が本当のことを言わなければ、私は今此処で手をついて君に頭を下げるしか無い」
「……」
 長谷部はその言葉を聞くと身を強張らせ、俯いて暫く逡巡した後に渋々口を開いた。
「……万全では、ありませんでした。傷が痛むことも度々あり不覚を取りました」
「……主として命じてでも、手入れを受けさせるべきだった。すまない」
「俺は、」
 長谷部は布団を強く握り締めた。
「俺は主の思いに応えたかったんです。俺の身体がどうなろうと、主に満足していただければそれで良かった。どうして治してしまわれたのです。貴方は残しておきたいと……」
「長谷部君」
 手に持っていたジャージの上着を長谷部に掛けてやりながら、審神者は言った。
「私が第一に望むのは、君が私の隣へ無事帰ってくることだ」
 掛けられた上着を力なく掴み、長谷部は
「……俺には、貴方が分かりません」
 と言った。
 審神者は長谷部から顔を背けて悲しそうに笑い、小さく零した。
「君は分からなくて良い」

bottom of page