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感冒

  1/5


 

 真っ暗な部屋の中、何も見えない筈なのに不思議と長谷部には審神者の表情が細やかに見えていた。青白い皮膚の下を這う筋肉の動きまでもが仔細に見えるようで、それは複雑に重なり合って動くと口を小さく開閉させた。

「長谷部君」

 いつも通り名前を呼ばれ、長谷部ははい、と返事をした。それを聞いた審神者はにっこりと微笑んで、また筋肉を伸び縮みさせた。

「君と交わりたい」

 口にした瞬間審神者はもうへし切を手にしていて、自らの腹に切っ先を当てるとずぶずぶと沈ませていった。皆焼刃はあっという間に見えなくなり、審神者は笑みを微塵も動かさないままで苦悶の声を上げた。刃は横へ滑り、色の判る筈のないこの部屋の中に赤々とした線を引いていった。

 身動き一つ取れずにいる長谷部の前で、審神者は腹の中に手を突き入れると腸を引き摺り出した。ひくひくと微かに蠕動する薄桃色に長谷部の目は囚われ、腸間膜を無理矢理に切っては引き千切る音は耳に届かなかった。

 ぽとり、ぽとりと畳へ落ちていくそばから脂肪は色を失い、気味の悪い物体に成り下がった。普段の審神者がどれほど自分と異なった嗜好を持っているのか、長谷部は思い知らされた。身体から離れて床に落ち、その人に属さなくなったものなど、とてもではないが自分には食べられそうにない。

 脂肪の一粒一粒がゆっくりと崩れていく様を長谷部がじっと眺めていると、ふいに声を掛けられた。

「長谷部君」

 審神者がへし切と自分の腸の端とを持って長谷部に差し出していた。長谷部はへし切だけを受け取り、染み一つないシャツの上から審神者がしていたように切っ先を宛てがった。鋭いものが腹を撫でる感覚はあるが、覚悟していた痛みはいつまで経っても襲ってこない。

 度重なる被虐で痛覚は麻痺してしまったのだろうか、とぼんやり思い、長谷部は頬を抓ってみようとしたが手は勝手に腹を割いていった。

 裂け目から手を挿し入れると生暖かい、ぬめった感覚が手を包む。腸はみっしりと詰まっていて、引き摺りだすのは一筋縄では行かなさそうだった。長谷部が主、と呟くように口にして顔を上げると、審神者は酷く優しい、慈しむような表情で彼を見ていた。皮膚が透き通る。肉が動いて「ねえ」と音がする。

 長谷部は途端に寂寥に襲われた。独りには耐えられないと思ったが、目の前のこの人も同じように感じているのがシナプスを共有しているかのように伝わってくる。……早くこの人と交わらねば。

 へし切で腸を適当に刺し、縋り付く腸間膜を引き剥がしながらずるずると体外へ伸ばして反対の手で審神者の腸を取った。端と端を絡ませると頭の中に直接届いているようにすぐ耳元で水音が響き、快感が脊髄を刺した。触れ合った所から腸が混ざり合い、審神者の身体はぐずぐずに崩れ始めた。長谷部が自分の身体を見ると、夜闇に透け始めて畳の目が見えていた。尚も審神者は何かを囁いている、しかし皮膚はもう無く、口も喉も肺も全て崩壊して、――

 勢いよく身体を起こした長谷部が慌てて辺りを見回すと、まだ夜明け前だった。息を切らせながら半身を起こして座り直し、髪を掻き上げた。ぱさ、と額を叩く煤色からは珍しく微かにシャンプーの甘い香りがした。

 あんな夢を見た後では、二度寝することも叶わなさそうだった。長谷部は静かに布団から身を抜き、立ち上がってジャージを羽織った。審神者の朝食を用意するにはまだ早かったが、茶でも飲みたい気分だった。

 廊下に出ると空はまだ瑠璃色で、庭の景色もぼんやりとした輪郭を捉えることしかできなかった。つまり先の夢の中のように木々の葉の葉脈まで見えるようなことはなかった。長谷部が服の上から腹に触れると、其処は暁前の空気に似て冷たかった。勿論傷は一つだって付いてなかった。

(……俺の中身を見たから、あんな夢を)

 普段は正常な痛みを感じる現実で切り裂かれ引き摺り出されているのだから、長谷部が自分の肉や内臓を冷静に見る機会などまずなかった。初めて見たその色は余程鮮明に長谷部の記憶へ焼き付いたらしかった。

 それにしても酷い夢だった、と長谷部は頭を振った。少しぐらい気不味さが顔に出ていても、今日の審神者には気付かれないであろうことだけが幸いだった。


 

  2/3


 

 ミキサーを手に微笑んでいる審神者が何を考えているのか、長谷部には分かる気がした。しかし何をされるのか分かっているからと言って苦痛が軽減する訳でもない。だから審神者が「腕を入れて」と言った時、長谷部はこの後に自身を襲う激痛を想像して一瞬身を強張らせた。

「ほら」

 促されて長谷部が震える左手を中に入れると、厚みのある刃が触れて思わず身を竦ませた。触れただけで肉を切り裂くようなへし切の刃とは異なり、鉛色をしたミキサーの刃は大した鋭さも持たないただの鈍らであるように思えた。

 長谷部は審神者が千切ったバナナを牛乳、氷と併せてこのミキサーで撹拌しているのを見たことがあった。騒々しい音を立ててバナナはあっという間に磨り潰され、氷も粉々に砕かれていた。目は見開かれ、鼓動は早鐘を撞くようで、長谷部は反射的に腕を抜いてしまわないよう右手で左腕を押さえた。

「低速? いや高速かな? でも蓋ができないから飛び散るか」

 審神者はスイッチに手を掛けながら呟いていた。右へ軽く捻るだけで、刃は回転を始めるだろう。そして自分の手が粉々に砕かれる光景が、幾度となく陵辱されてきた長谷部の網膜には鮮やかに焼き付けられた。瞬きも忘れて浅く息を吐き続けている長谷部に、

「じゃあ回すよ」

とだけ言って審神者はスイッチを捻った。

 高速で回転し始めた刃に一瞬で肉が切り刻まれ、耳を塞ぎたくなるような騒音で長谷部の悲鳴は掻き消された。濁った血泡がぴしゃぴしゃと撥ねて、長谷部の腕だけでなくミキサーの中を覗き込んでいた審神者の頬までもを断続的に濡らしていった。

 ところが撥ねた血が審神者の頬、そして顎を伝い、畳へと滴り落ちる前にミキサーはその動きを止めてしまった。掻き混ぜられるまま押し付けられプラスチックの壁面を伝い上っていた血液は重力に従って落ちていき、底に沈む柔らかな桃色の肉片をゆっくりと浸した。

「……骨か」

 審神者はぽつりと呟き、長谷部の手をミキサーの中から引き上げた。引き剥がすように肉を切り取られた左手のところどころから骨が覗いており、そのうちの数箇所には叩き付けるような刃の痕が残っていた。氷のようにはいかなかったらしい。

 血に濡れた指骨に舌を這わせると、長谷部がくぐもった声を上げた。湿気を含むその声に審神者が目だけで長谷部の顔を見遣ると、彼はぼろぼろと涙を零していた。

「痛かったかい」

 長谷部は小さく頷いて、その答えに喉の奥で笑う審神者へ息も絶え絶えに尋ねた。

「なぜ、です」

「何が?」

「切って、から、入れれば」

「痛みは少なかっただろうね」

 審神者の目に侮蔑の色が過ったのを見て、長谷部は誤解されたことに堪え兼ねて右腕で目元を擦り、続けた。

「立腹されて、いるのですか……」

「何故」

「俺が、昼間に、出過ぎたことを申し上げたから……」

 その言葉を聞いて審神者は一瞬だけ反応を示したが、すぐに手を離して立ち上がり、ミキサーも蹴って倒してしまった。神経が剥き出しになったままの手を畳に打ち付けられた激痛に身を折る長谷部の煤色の髪を、赤黒い血液がひたひたと濡らして絡め取った。血はそのまま粘り付き広がって、長谷部の影のように身を潜めた。

「あのさ」

 審神者は長谷部を見下ろしたまま笑って言った。笑って、と言っても、何もないところに強いて笑みを貼り付けようとしているだけの歪な表情だった。

「君に腹を立てているから虐げているんだって言ったことがあったかな」

「……あり、ません」

「君が言ったことに腹を立てたんならこうやって部屋に呼んだりしないし、血も肉も一滴残らず食べる為だけにわざわざ苦痛の大きい方法を採ったりしないって分からないかな」

 普段より幾分砕けた、余裕のない口調で淡々と言いながら審神者は血溜まりを踏み付けて歩いていき、襖を開け放った。

「興冷めした、今夜はもういい。手入れするよ。歩いて行けるね」

「あ、主……俺はまだ……」

「あのねえ」

 言い募る長谷部の言葉を、審神者は例の笑顔で困ったように遮った。

「怒らせないでくれないかな。これでも堪えているんだから、台無しにしないでくれると有難いんだけどね」

 そう言い捨ててさっさと部屋を出て行こうとする審神者の後を追って長谷部が慌てて立ち上がると、髪やカソックの袖口からぽたぽたと血が滴った。拭おうにも量が多く、このまま歩いて行けば執務室が汚れてしまうことは想像に難くなかった。

 長谷部は口を開き主、と呼びかけようとしたが、とうにその姿は部屋から消えていた。再び零れそうになった涙をぐいと拭い、出来る限り血が落ちないように注意を払いながら急いで部屋を出た。鉄臭い部屋の奥から藤色の瞳にじっと見つめられているような気がした。


 

  3/2


 

「……何の用だ」

 突然部屋を訪れた審神者に、横になっていた山姥切は素っ気なく言った。口調こそぶっきらぼうだがさっと腰を上げて審神者が座る場所を確保した山姥切の表情は硬くない。彼はこの本丸の初期刀だった。

「久しぶりに君と話がしたくなってね」

 審神者はそう言いながら手に持っていた盆を下ろした。急須と湯呑、それに薄桜色の練り切りが載っていた。手ずから茶を淹れた湯呑を差し出すと、山姥切は大人しく手を伸ばして受け取った。

「あんたがそんなことを言うのは珍しいな。長谷部と喧嘩でもしたか」

「君は良く見ているなあ」

「……」

 苦笑する審神者からそっぽを向き、山姥切は頭に被った布を軽く引っ張った。この人間はいつも笑っている。しかしそれは彼の苦手とする明るい笑いではなく憂いた陰を覗かせる笑いで、隣に居るのは心地の悪いものではないと感じていた。

「喧嘩と言うか、私の虫の居所が悪かっただけなんだけどね」

「……ならさっさと謝れば良い」

「ま、そうだね」

 菓子楊枝を取り上げ、練り切りを小さく切り分けながら審神者は言った。

「人間はさ、自分が間違っていると分かっていても、そう割り切れることばかりじゃないんだよ」

「……言い訳か、あんたらしくもない」

「はは」

 敵わないな、と言って審神者は練り切りを口へ運んだ。控えめな甘さの筈なのに甘すぎるように感じられ、気取られぬよう急いで嚥下すると湯呑を手に取った。山姥切は一連の動作を横目で見た後俯いて、菓子皿をそっと手に取った。

「……一思いに切り捨ててしまえるものならどんなに楽だろうね」

「俺にそれを切れと?」

「それも良いかもしれないね」

「……無理に笑うのを止めたらどうだ」

 湯呑を置きかけた審神者の手がぴた、と止まり、口角が僅かに上がっただけの表情が顔に貼り付いた。

「君をずっと近侍に据えていたら、もっと感情を表に出来たと思うかい」

「さあな。それにあんたは俺なんかより彼奴が良かったんだろう」

「それは違いないけどね。それこそ彼の不幸の始まりだったと思うからさ」

「今からでも他の連中を近侍に命ずれば良い」

「それなら、君に頼んでも?」

「……ふん」

 思ってもいないことを、と呟いて山姥切は菓子皿と湯呑を盆に載せた。

「そら、さっさと戻ったらどうだ。あんたが居るべきは此処じゃないだろう」

「……ああ、ありがとう。また今度お茶でもどうかな」

「あんたには写しの俺じゃなく国宝の彼奴がお似合いだろう」

「写しとか国宝とかじゃなくて私は君のことが割合気に入ってるんだけどな。ま、気が向いたら誘われてくれ」

 そう言うと審神者は立ち上がり、盆を持って部屋を出て行った。山姥切は再度畳の上に寝転がると明日の内番のことを考え始め、今しがたの会話のこともさっさと忘れてしまった。

 翌朝、彼は長谷部が何処となく死んだような目をしているのを見て漸く昨日の会話を思い出し、まだ謝っていないのか、と胸中で独り言ちた。


 

  4/1


 

 何だか身体が怠い、と零した審神者が体温を測ってみれば微熱が出ていて、長谷部は体温計を奪うようにして手に取ると慌てて捲し立てた。

「今日の執務は俺が済ませておきますから、主はお休みになってください。出陣予定だった連中には俺が説明しておきます。食事は此方へ用意させるように」

「長谷部君」

 額に手を当てたまま、審神者は気怠そうに長谷部の言葉を遮って言った。

「大した熱じゃない。薬でも飲むよ、それで問題ない」

「いいえ、悪化したら事です、主。休んでいただきます」

「問題ないって言っているじゃないか、明日以降に回せるものは回してしまえば良い。出陣は予定通り――」

「いえ、それではいけません。治られたら俺もお手伝いいたしますから、今日はもう休んでください」

 珍しく長谷部は引き下がらなかった。微熱とは言え審神者が体調を崩すのは滅多にないことだった所為か、その表情には若干の焦りも含まれていた。尚も言い募る長谷部にうんざりした様子を見せつつ、審神者は言った。

「私が良いと言っているんだよ、長谷部君。この程度なら執務に差し障りなどない」

「……そうまで仰るのであれば、俺は口も手も出しません。倒れてからでは遅いんですよ」

「ああ分かったよ、君が居なくたって私一人でやれるとも」

 完全に売り言葉に買い言葉の状況であったが、面倒そうに手を振って背を向ける審神者の言葉に長谷部はかっとなって言い放った。

「お、俺が居ないと主は……主は駄目になってしまいますからね、良いんですか」

 背中越しのその言葉に審神者は肩を小さく揺らし、振り向くことをしないまま嘲笑の色で答えた。

「駄目になるのは何方だろうね。君は主という存在が居ないと自分を保てないというのに」

「……失礼、します」

 長谷部はそれだけ言うとさっさと執務室を出て行った。我を失いかけていても障子戸を音もなく閉めていくのは彼らしい、と審神者は火照る頭で考えていた。

 一人になった部屋で審神者は薬箱から風邪薬を探し出し、温くなった茶で一息に流し込んだ。苦い筈のその薬が舌に残っても、今はそれほど苦味を感じなかった。

 薬の空袋をゴミ箱に放り込んで少しの間だけ横になっていると、身体の怠さも熱っぽさも少し治まったように感じられた。よし、と身を起こして出陣予定を確認し、時計を見ると審神者は立ち上がった。今日の午後は短刀・脇差部隊が京都へと出陣する予定になっており、そろそろ見送りに行かねばならなかった。

 部隊長の薬研に皆を宜しく頼むよ、と声を掛け、審神者は玄関で部隊を見送った。彼等が帰還し、そして遠征に出ている他の二部隊の帰還後に結果を纏めておけば今日済ませておかねばならない執務は終わりだった。

 審神者はやたらと喉が渇くように感じていた。この足で厨房へ行って茶を用意し、執務室へ戻って休みながら部隊の帰還を待つというのは悪くない案であるように思われた。しかし体調が悪いときの常であるのか、今一人になるのは何処となく心細いように感じ、審神者は誰かを誘うことにした。

 厨房で急須に茶葉を入れながら審神者は誰に声を掛けるべきか考えていた。普段であればこのようなとき話し相手に適任なのは燭台切だった。彼なら人に気兼ねさせない柔らかな笑顔と態度で快く付き合ってくれるからだ。しかし今の審神者には彼のその行き届いた親切心は少々重すぎた。

 付き合いが長く、程よい距離感を保って接してくれる刀剣男士と言えば思い当たるのは一人しかいなかった。審神者は盆を持つと山姥切の部屋へと足を向けた。

 使い終わった急須と湯呑、それに菓子皿を洗った後、審神者は長谷部の部屋を訪れた。庭で鍛錬をしているか書庫で本を読んでいる可能性もあったが、審神者が体調を崩しているこの状況下ではほぼ間違いなく自室に控えている筈だった。彼は真面目すぎるのだ。

 予想通り照明が灯り明るい部屋の前で審神者が「長谷部君」と呼びかけると、少しだけ逡巡した気配があった後で「はい」と返事があった。審神者が障子戸を滑らせると相変わらず物の少ない部屋の真ん中で長谷部が姿勢を正していた。思いがけない訪問に、瞳の色は僅かに揺れていた。

「先はすまなかった」

 長谷部の機先を制し、審神者が口を開いた。未だ戸惑っている長谷部は口をぱくぱくと開閉させるが何も返すことなく、審神者は更に言葉を続けた。

「薬を服んだら快くなったよ。熱があったとは言え君には非道いことを言った。部隊が帰ってくるまでの間少し休むから、また夜に部屋へ来てくれるかな」

 そして答えを待つことなく審神者はその場を去った。

 夜でなければ、閨での行為の最中でなければ素直な感情を表に出せない自分を審神者は呪った。閨での言葉など真昼の世界では何の意味も持たない。しかしたとえそうであっても、少なくとも長谷部に今日のことは気にするなと言ってやることはできる筈だった。

 きっと長谷部は自分の言葉が審神者に及ぼした影響を誤解しているだろう。審神者は彼の言葉には毫も腹を立ててはいなかった。長谷部が居ないと何もできない、彼無しでは生きていけない程駄目な人間であることは紛れもない事実だと痛切に理解していたからだった。

 審神者は自室で横になるとすぐ寝息を立て始めた。熱に魘され時折漏らされる呻き声を聞く者は誰も居なかった。


 

  5/4


 

 ゴミ箱には明らかに多すぎる数の風邪薬の包みが捨てられていた。襖は閉ざされ、空気の揺らがないこの部屋では薄っぺらい包みも静かに藍色の夜へ沈んでいた。

「昨日の昼間、山姥切と話されていたと聞きました」

「今それを言うかい」

 自らを見下ろす審神者の翳った顔を、長谷部は怯えで濡れた双眸で見つめていた。言葉の余韻が消えれば部屋に響くのは微かな呼吸音のみとなった。

 審神者は手にしたへし切でまっさらな長谷部の胸をなぞり、臍まで行き当たると再び切っ先を鎖骨の辺りに当てた。傷一つない胸が呼吸に合わせて上下しており、審神者はその光景を目にしただけで身を震わせた。

「別に大した話じゃない」

 それだけ言って審神者は先よりも僅かに深くへし切を押し当て、すっと縦になぞった。ぽつぽつと出血点が浮かび、こぷ、と傷口が一つ息をしたかと思うと少しずつ血が溢れ出した。交差するように横にも刃を入れると傷は十字になった。戦場では日常茶飯事の筈であるこの程度の傷に、長谷部は押し殺した呻き声を上げていた。

 十字の交差点に切っ先を挿し入れ、剥がすように捲っていくと皮膚と筋肉が一度に捲れ上がっていった。へし切の斬れ味なくしては出来ない芸当だった。薄暗い血の膜が張り、斑に筋繊維の貼り付いた肋骨が静かに上下を繰り返していた。

「俺には話せない内容だと」

「内容云々じゃないよ」

「……やはり、俺に腹を立てられましたか」

 審神者は苦笑し、肋骨にへし切を押し当てると軽く力を入れて確かめた。ぐいと押す度にその下の肺がふにゃりと沈んだ。――肺が傷付くことは避けられないが、まあ仕方ない。無理矢理に体重を掛けて押し切ると、一息に肋骨を切り離してしまった刃は肺までもを切り裂いてずぶずぶと沈み止まった。

 肋骨を押し切られた長谷部は目を見開いて身を痙攣させていた。胸郭を開かれてしまってはもう呼吸はできない。言葉を発することができるのもあと僅かな間だけだった。

「そうじゃないと言うのに」

 切れた肋骨の端を持つと審神者は思い切りそれを反対側へと返したが、すぐに抵抗が大きくなって元の位置へ戻ってしまった。仕方ないか、と溜息を吐いて再びへし切を手に取り、反対側の肋骨も同様に押し切った。刃文が鋭すぎる光を放った。審神者はその光が大変気に入っていたが長々と見ている時間もないのでさっさと肋骨を取り去ってしまった。

真っ二つにされ四つに分かれた肺の間で、薔薇色の心臓が拍動を続けていた。周りにへばり付いた少しの脂肪と心膜を手早く取り除き、審神者は心臓に口を近付けた。

「……」

 長谷部はもう言葉を発しなかった。山中の湧き水のように滲み出し溢れた血がじわじわと水位を上げ、肺と心臓とをとっぷり浸していた所為で審神者の顔にもべったりと血が付いた。

 表面を舐め上げた後歯を突き立てると心臓はそれを跳ね返し、審神者は不興な顔をして口を離した。咥内に残った血も吐き出してしまい、シーツで口を拭うとふと振り返って言った。

「分かっただろう、君じゃなきゃ駄目なんだ」

 部屋の隅に寄り掛かって立っていた長谷部は眉を曇らせていたが、渋々口を開いて言った。

「良く分かりました。……ですから、その」

「もう君以外ではしないよ。ただ君の心が見てみたかった」

「心? 其処にあるのですか」

「いや、良く考えたら此処にはなかったし、君のでもなかった」

 困ったように笑う審神者に、長谷部は何を言うべきか分からずまた黙り込んだ。ただ後処理が面倒だと、そればかりを考えていた。

「君が居ないと駄目なんだ」

「……分かりました」

 赤い顔で重ねて言う審神者から長谷部は顔を背けて答えた。嫉妬の念はもう何処かへ掻き消えていた。

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