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F65/302

 勘違いであったなら、どんなにか幸せだっただろうと思う。
 長谷部は「愛してほしい」とは決して言わない。「愛しています」とも言ったことがない。私が「愛してるよ」と言い、「はい、主」と答え、ただそれだけの関係だった。
 偶に自分が分からなくなる。私が好きなのは今目の前にいる長谷部なのか、それとも彼を通して見ている――メアリー・スー的な――誰かなのか、自信を持って断言することができなかった。
 それが誰であろうと、私の手を濡らす血汐は、喉を下りていく肉の欠片は私をどうしようもなく満たし、それは酷く惨めなことのように思えた。

 知りたくないことがあった。見たくないことがあった。聞きたくないことがあった。触れたくないことがあった。
 遠ざけても排除しても、それは何処からか私を脅かしにやって来た。長谷部の後ろに立ち、私を直接に嬲るのよりもずっと効果的だと嗤っているのを見た。
 正しくないと言うならば、そもそも刀剣男士という存在が異質で歪なのだ。彼等は生物ではない。ただ戦う為の道具でしかない。我々の価値観を反映させること自体が間違っている。
 幸いは私の手を濡らすのが長谷部の体液のみであったことだろう。それは寸刻前まで長谷部の体内を循環し続けていたのだから、これ以上ないほどに清浄なものであった。

 抗いきれない欲というのが、どんなに押さえ付けようとしても立ち現れてくる時というのがあった。何を差し置いてもそれを殺そうとしているのに私は全くの無力であって、そういう時は決まって酷く死にたい気分にさせられる。
 それでも私はただじっと横たわり、身体を丸めてそれが過ぎるのをじっと待っていた。私の手は長谷部に触れる為に有るのであって、自分に触れて穢す為に有るのではない。
 後から後から熱が集まって、痛いほどに腫れているのは見ずとも分かっていた。死んでしまいたい、と思う。こんなに醜い、汚いものが私には備わっているのだ。それはまるで、私が長谷部へ向けるぐちゃぐちゃな欲求の像(かたち)だった。
 胸の奥が痛み始めていた。両手を身体に回し、触れてしまわないようにきつく抱いていた。すぐに終わる。すぐに終わる。何もかも、……。
「主?」
 閉じた襖の向こうから声がして、私は身を凍らせた。詰めた息に目が飛び出しそうで、瞼を強く閉じて薄掛けを頭から被った。暗闇に、殺した息の熱だけが広がっていく。熱かった。身体の内部が熱いのだろう。開いた長谷部の腹腔は、いつも微かな湯気を立てていた。
「主、お加減でも悪いのですか?」
 声は滔々と落とされ、私はただひたすらに来ないでくれと祈っていた。多分、信仰のない人間が祈ったところで(そもそも何に?)誰も聞き届けてくれやしないのだろう。
「主、入りますね」
 瞼の裏が赤く染まり、光が射し込んでいることを私は知った。他でもない、其処に居るのが長谷部だからだ。長谷部はいつだって光の中に居なければならないし、故に長谷部が居るのであれば其処に光があるのだ。
 しかし光はすぐに断ち切られ、部屋はまた元の薄暗がりを取り戻した。屈み込む気配と長谷部の言葉とが私に降ってくる。
「主、何処か具合でも……」
「何でもない。……放っておいて、くれないか」
 返事をしたら胸の疼痛が酷くなり、私はより一層強く身を丸めて何とかやり過ごそうとした。「でも……」という躊躇を多分に含んだ声は、長谷部のあの困ったような表情を想起させる。非常に微かな衣擦れと畳を踏みしめる音とが聞こえて、長谷部の肢体が脳裏に立ち浮かんでくる。それは白だ。

 長谷部の肌は白い。だが一度其処を裂いてしまえば中から溢れ出してくる血肉は赤く、臓腑はもっと暗い赤で、瑕のない真っ白な肌を赤が容赦なく汚していくのが好きだった。
 私の中身はきっともっと汚いのだろう。肉も臓腑もほとんど腐ったような色をして、どろどろと渦巻くだけで用を為さない。だからこうなったのだ。
 噛み千切り、咀嚼し、舐め啜って飲み込み、それで自分の中に長谷部を取り込んでいく。途方もない昂奮があった。手は血塗れで、その手で長谷部を捥ぎ取って、何より綺麗で浄い存在である長谷部が、どうしようもなく惨めで卑小な私に嚥下され私を侵していく。
 ……それは何か違うのか、と私を見ていた私が言う。

 薄掛けを跳ね除けると、案の定へし切を携えた長谷部の姿があった。無礼だ何だはさておき、私の部屋へ来る時は必ず持って来るようにと言ってあった。長谷部を切る狂気が私であるのなら、長谷部を切る凶器は長谷部自身なのだ。
 胸元を引っ掴み、場所を入れ替わるようにして長谷部を床へ叩き付けた。薄掛けは部屋の隅へ放り投げた。物問いたげな長谷部の表情に言葉が追い付かないうちに、私はへし切を抜いて突き立てた。
「がっ……」
 昂奮しすぎた所為か何処を切っているのかさっぱり分からなかったが、演技などではない長谷部の悲鳴と飛び散って私を濡らす鮮血とがあればそれで十分だった。
 切り続け、というよりは刺し続け、私はすっかり息が切れていた。胸郭が大きく膨らむ度に、私は血の匂いと悲鳴の残滓とをいっぱいに吸い込んだ。それから膝立ちのままで長谷部を見下ろし、全身がずたずたに裂けていることを確認して身震いし、漸く脳内の過熱も落ち着いたような気分だった。
 治してやろうと思い、長谷部の名を呼びながら立ち上がる。厭な感触があった。

 自分にはへし切を向けないことを信条としていた。
 ただの道具で、憑代で、〝前の主〟共との忌々しい因縁を纏ったままの刀だ。それでも、それは長谷部にとって替え難い大事な物であり、私を切るべき刀ではないのだと長谷部には打ち明けないままで一人だけの約定を抱えていた。
 腹を切ることになろうが、その際介錯を頼むことになろうが、絶対に長谷部には――へし切には切らせない。どうしようもなく穢い、私などを……。
 スラックスがどう見ても外からではなく内から濡れているのを認めた瞬間、下腹部にへし切を突き立てていた。

「主?!」
  刃は逸れ、大腿を刺し貫いていた。こんな時まで私は無力だった。引き抜いてもう一度刺そうと、否、今度は確実に切り落とそうと思うのに、へし切は深く刺さって少しも抜けなかった。或いは筋肉が過度に収縮していたのかもしれない。理屈がどうあれ、私は失敗したのだ。耐えることにも、絶やすことにも。
「主、今抜いて手当しますから、動かないでください」
 ただ君の為だったんだ、と声に出さずに言った。私は頭がどうかしてしまっている。君は私が望み愛している長谷部君なのか、君が長谷部君だから愛しているのか、君以外を愛せるのか愛せないのか、君の自我は初めから其処に在ったのかそれとも私が作り上げたのか、もう何も分からない。いつか君が私に尋ねてくれたならばその時は、私は正気を取り戻してそれらしい答えを――自分でも驚くほどの冷静さと理性とで――用意することができるのだろう。
 ずる、と異物が抜けて行く感触があった。あんなに固く絡め取られていたものを、長谷部はどうやったのだろう。
「動かないでくださいね、主」
 私などより余程重傷である筈の長谷部は救急箱を取り出して来て、懸命に私の傷の止血を試みている。どうせ大した怪我じゃない、そんなことをする必要など何処にもないのだ。
「好きだったんだ」
 何かが身体から抜けて行ってしまうように、私の口から言葉がするりと抜け出してきた。
「君を愛してた」
「はい、主」
 どうせ長谷部は悲痛な顔をしているのだろう。
「もうその資格もない。君を穢した」
「俺は主に穢されてなどいませんよ」
 止血が済んだのか、長谷部は私のベルトをさっさと外すとスラックスを下ろしてしまった。柔らかいものがぐるぐると巻かれる感触。包帯を巻いているようだったが、この怪我では一度病院なりに行かなくてはならないだろうから全く以て気休めにすぎない。
 長谷部は下着に広がる染みには気付いていないようだった。或いは脚を刺した時に溢れた血で濡れただけだと思っているのかもしれない。
 それはやはり、長谷部が綺麗なままであることの証左なのだと思う。

 白を汚すのは赤だ。赤は黒をもひた侵す。
 白を穢せるのは白だけで、私は長谷部に自分の痕跡を残したくなかった。
「愛してるよ」なんて言葉だけでは長谷部は長谷部たり得なかった。……私は誰を愛しているのだろう。
 或いはただ一人だけを穢してしまえば、それは私だけの自我を持った長谷部になるのだろう。

   ◆

「海に行かないか」
 長谷部がその言葉を強いて無視すると、審神者はもう一度彼へ向けて言った。
「海に行かないか。山でも良い。何処か遠いところに」
「まずそれを治してください」
 畳の上でいつも通りに折りたたまれているその左脚は、物理的な意味ではとっくに治っていた。審神者が自分で傷付けた筋肉や血管や神経は、政府により供給されている自動化された医療システムによってすっかり元通りに治療され、見た目にも機能的にも何ら支障なく帰ってきた筈だった。
 長谷部とてそれは分かっている。
「治っているよ」
「そうですか」
 二人のどちらも、端末を操作する手や書類を捲る手を止めないままで会話を続けていた。審神者は何の問題もなく執務をこなしているし、長谷部の目にも普段の生活に何か変わりがあるようには見えなかった。
 長谷部に――つまり近侍に宛てられていた文書には、当該人物には精神的に不安定な徴候が見られるので注意するように、ということだけが書かれていた。後は小難しい診断基準などで、長谷部にはその専門語句の一割も理解できなかった。人の手によって届けられたのではないそれを読んだ長谷部が、どういう意味なのかと問える相手も居る筈がなかった。
「海は良い、とても綺麗で、澄んでいて、泳ぐと心地が良いんだ。何より遠く離れているのが良い」
「はい」
 嘗て、審神者から何処かへ行こうなどと言われたことはなかった。行き先など見飽きた〝町〟だけで、二人が生きていられるのはただこの本丸という酷く狭い場所しかなかった。どうして海なのですかと訊くことなどできる筈もない。遠いところ。それは此処ではない、何処でもない、遠いところなのだろう。
「治してくださいね。話はそれからです」
「治っていると言うのに」
 審神者が視線を机上から離し、部屋の中を、次いで長谷部の手元へとふらふら彷徨わせた。長谷部はへし切を隠しておくようにしていた。他の刃物も審神者が不在のうちに全て隠してしまった。

 一度ではないのだ。

 失敗した、と審神者はよく口にした。愛していた、と続く言葉が嫌いで仕方なかったが、しかし長谷部にはどうすることもできなかった。一体自分に何の資格があろうか、自分は主を想ってはいるが、それが愛かどうかなど全く確信が持てないのだ。そんな貧弱な感情を以て、どうして審神者の中で吹き荒れる感情の暴風に立ち向かうことができようか。
 失敗した、その言葉は決まって自傷の後に訪れた。死んでしまいたいと審神者は言った。このまま君を穢してしまうくらいなら、ただもう死んで終わらせたいと。長谷部にとって幸いだったのはそれを実行に移すだけの気力が審神者に無かったことで、彼はただ審神者がふらふらと出て行って庭の池に落ちるとかそういう不測の事態が起きないように見張っているだけで良かった。
 つまり「注意するように」を正しく実行へ移していた訳である。
「ああ、君と海へ行けたらなあ」
 言葉の色が変わったのを長谷部は敏感に察知し、すかさず審神者へ言った。
「入水ですか」
「あのねえ……違うよ」
 審神者は諦めたような目を長谷部へ向け、その目は何より昏くはあるがもう淀んではいなかった。-ああ、ああ、今なら海だって何だってお供いたしますのに。
「心中なんてしないよ」
「生きていなければ意味がないのですよね」
「何だ、分かっているんじゃないか……そうだよ、生きていなければ君を愛せない」
「はい」
 ずっと張っていた気が緩み、つい零れかけた涙を長谷部はそっと拭う。審神者は何も気付かないまま、一つだけ溜息を吐くと頬杖で呟くように言った。
「……今夜も」
「はい」
「来てくれないか」
「はい、主」
 そう答える長谷部の声を聞き、審神者はそっと目を閉じた。遠い波の音、此処では見られないあの眩しい水の色――。
「君が居るから、こんな毎日にも耐えられる」
 長谷部は無言のまま審神者を見ずに微笑み返し、しかし審神者はそれで満足したようだった。

   ◆

「この町というのはどんな構造をしているんだろうか」
 本丸へ就任したばかりの二人は〝町〟を歩きながら辺りを見回していた。
「ええと……此処が商業区、買い物をする場所ということでしょうか」
「そのようだね。此方は環境保全区……花が植わっているらしいが、環境保全?」
「此処には居住区とありますね」
 立ち止まり、二人はその〝居住区〟に立っていることを確かめる。人影はなく、ただ人の気配として捉えられるものが家々の中で実行されているだけのようだった。
「趣味が悪いな……」
 一人が顔を顰めるが、もう一人にはその意味が通じなかった。気不味い沈黙を回避しようと地図に――正確には地図を表示している端末に――目を落とし、町の外郭を指ですっとなぞる。
「これは?」
「この空間の定義域だろう。その外には出ることができない」
「外……」
「普通の――つまり現実世界だったらまた別の町があるとか山があるとか、そうなっているものだけれどね。此処には何もないらしい」
「何もない」
「ああ」
 端末を持った手を下ろし、二人は揃って遠くの空を見た。空の色は何も変わらないのに、あれはあくまでこの空間の端に描かれた色に過ぎず、その下には何もないのだ。町もない。山もない。海もない。だから何処へも行けない。
「……何処へも行けないんだな」
「? 何ですか、主?」
「何でもないよ、長谷部君」

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