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​金雀枝 ※聚楽第ネタバレ

   1

 聚楽第。
 嘗ては贅を尽くしたその姿で京の都に威光を示していたというが、それも今では単なる史実でしかない。徹底的に破却され、今や遺構すら残らぬその場所も、しかし遡行軍にとっては、そして政府にとっては特別な意味を持つらしかった。
 らしい、というのは、その事実がつい先日まで審神者達には秘匿されていたからだった。
 現状、何処かの時代、何処かのシーンが歴史修正主義者達によって支配されたという話は聞かない。勿論、最終的には政府側
――審神者とその刀剣達の勝利に終わることは確定しているのだが、その過程に於いてすら、修正主義者は苦杯を嘗めることが続いていた。だから放棄された世界のこととはいえ、遡行軍により占拠されて接続の遮断を政府に決断させた世界があると知った時、審神者は無言のままで流石に目を瞠っていたのだった。
 自らを〝監査官〟と称する人物の説明を引き継いで、管狐は実際の出陣の話を始めていた。
「調査が長期に渡る可能性がありますので、第一部隊での出陣は承認されません」
 長谷部の拳が軋む音は、隣に座る人間だけが聞いていた。
「なるほど」
 片笑んで、審神者は話の続きを促した。

 審神者は山姥切を部隊長とした第二部隊をさっさと編成すると、早速聚楽第へと出陣させた。「分かった」と頷く山姥切の頭に、あの白い布はもう被せられていなかった。監査官は何やら物言いたげにしていたが、審神者が見ているうちは口を開こうとせず、そのまま第二部隊と共に放棄された聚楽第へと発っていった。
 彼等は出陣から二日目、三日目に一度ずつ戻って来て、審神者相手に簡単な報告や打ち合わせをしたり若干の休憩を取ったりした後でまたすぐに聚楽第へと出立して行った。「何とも慌ただしいことだ」とぼやく審神者へ、長谷部は執務の手を止めて、些か恨みがましくも聞こえるような調子で言葉を返した。
「本来であれば、俺が出陣を」
 溜息を吐き、審神者は端末を操作する手を止めないまま言った。
「君を近侍から下ろせということか」
「いえ、そのようなつもりは」
 慌てたように長谷部は言うが、審神者はそれを遮って口を開いた。
「無論君に行ってほしかったんだがな、私も。しかし君とて奴等、政府側の話を鵜呑みにした訳ではないだろう。何故放棄された世界で監査を行う必要がある? 奪還すらできていない世界で戦争の為の打開策を見出したいのか責任を我々審神者に押し付けたいのかそれとも優秀な連中をスカウトしたいのか、目的が滅茶苦茶だ。……彼等が監査を口実として各本丸内の主戦力を潰す為にやって来た可能性を捨て切れなかった以上、私は君を出陣させることは絶対に許可できなかった」
「それ……それは、山姥切達は捨て駒だということですか」
「そうじゃない」
 審神者は眉根を寄せ、不機嫌そうに頬杖を突いて言った。
「可能性が否定できていないだけで、確率としては非常に低いことに変わりはない。ただ大事を取っておくに越したことはないから、君を彼処へ遣る訳にはいかなかったというだけのことだ。山姥切君達なら、多少のことは上手く対処してくれると信じているし」
「……はい」
 第二部隊は、蛍丸を除く全員が修行を終えた男士で構成されていた。技量的に、そして何より精神的に大きく成長した彼等なら、未知の戦場を任せるに不足はないという認識は長谷部も共有しているところだった。だからこそ長谷部が焦燥や嫉妬を持て余していることを、審神者はちゃんと見抜いていた。自身も修行を終え、一種尊大な態度と価値観を得たように見えた長谷部も、根底にある不安と恐怖から少しも脱け出せていないことは審神者だけが理解していた。
「君以外の何を失っても、私と君さえいればこの本丸はまたやり直せる。だが長谷部君、君だけは失う訳にいかないんだよ。……計算は終わったかい」
「あ、はい、ここに」
 長谷部が差し出した紙片を受け取り、審神者は目を通し始めた。縋るような長谷部の視線は敢えて無視をした。未熟な果実を摘んで眺め待つよりも、熟した果実を摘む方が審神者は好きだった。

 夜は大抵、静寂の底にあった。
 畳の上を死んだように広がる赤黒い血、其処に波紋を立てながらも長谷部は声を押し殺し、それを見て審神者は愉快そうに笑っていた。
「声を出せば良いのに」
「邪魔、に、なります」
 腹の柔らかいところを噛み千切っていた歯がその奥
――薄桃色の臓器に突き立てられて、長谷部は小さく悲鳴を上げた。肉の削げた穴から小腸がずるずると引き出されていくのに合わせ、身体は跳ね濁った声が漏れた。視界が頼りなく明滅して、此方を向いている筈の審神者の顔も長谷部は上手く見られなかった。
 震える手で腹部を押さえようとして、滑った手は血溜まりを叩き、撥ねた血は審神者のスラックスを僅かに汚した。
「その方が」
 咀嚼を終えた肉片が喉を滑り落ちていく。
「私は好きなんだがなあ」
 長谷部が身を捩った拍子に、腹に開いた穴から新たな血がとぷりと溢れ出した。
「主、に、相応しく、ない、ので」
「その相応しい相応しくないってのは何なんだ」
 審神者が手を開くと、腸はずるりと滑ってのたうちながら長谷部の身体に落ちた。口元の血を拭い、その手も綺麗に拭いてから、審神者は長谷部の喉にそっと触れた。痛みに悶えながらも、長谷部はその感触に知れず陶酔しつつあった。
「声を聞かせてほしいと言っているんだ」
 苦笑が長谷部の背をぞわりと撫でた。
「私以外の人間の話ではなくて、ただ私の為だけに放たれる君の声を聞きたいのだけど」
「……っ、ただ、煩くは、ないかと、俺は、それだけを……」
「なら声帯を切除しようか、呼吸には支障ないだろうし」
 喉を上から下になぞられて、長谷部はただ息を詰めて事の推移を見守っていた。添えられた手の下の器官は、その運命の如何は、審神者の手に文字通り握られている。漂ってくる血の臭いに、長谷部は思わず舌を噛みそうになった。
 どうするのかと、黒い眼(まなこ)が無言で尋ねていた。この夜を続けるのか続けないのか。審神者に従うのか、反目するのか。
「……出過ぎた真似を、いたしました」
「そうか」
 突然に腸を握り締められて、長谷部は悲鳴とも嬌声ともつかぬような声を上げて必死に息を吸った。弾力に富んだその臓器は容易には引き千切られきらず、歯が立てられる度に鋭い痛みが長谷部を襲った。口は根元、身体の奥、腹の中へと辿っていって、粘付く水音を立てながら長谷部を食べ続けた。喉を撫でていた筈の手はとうに離れ、最奥を求めるように長谷部の腹腔の中を蠢いていた。
「ひっ……あ、あっ、……うっ、……」
 長谷部はもう、声も身体も抑えなかった。暴れた手によって叩かれた血が撥ねる音が耳を侵したが、それはもしかすると長谷部を食べ続けている審神者の立てる音なのかもしれなかった。
「長谷部君」
 今度は血塗れの両手に構うことなく、審神者は長谷部の頬をそっと撫でた。頬から剥き出しの喉、そして髪を優しく掬い、再び頬に戻ってきた。
「愛しているよ」
 君だけが必要なんだ、と囁かれた言葉に、長谷部は一つ、感極まったように息を吐いた。

   2

 

 出陣から四日目以降、部隊はぱたりと帰ってこなくなった。聞くところによると、監査に関わることでなかなか先に進めないのだという。
「評価の為に、敵を三百体斃すと言っていたが」
 昼食の後、審神者は第一部隊の面々を呼び止めると今後についての作戦会議を持ちかけていた。
「君達はどう思う」
「心配ないと思うけどな〜」
「そうだな」
 自分は関係ないと言わんばかりに早々だんまりを決め込む大倶利伽羅を余所に、脇差の二人が顔を見合わせながら呟いた。鯰尾と骨喰、彼等は本当に何も心配していないようだった。共に本丸で暮らし、戦場を駆ける仲間へ寄せる信頼は、殊この二人に関しては非常に厚いもののように思われた。何を不安に思うことがあるのかと、きょとんとした顔をして審神者のことを見つめている。
「チビ達が行ってたら心配だけど……薬研と厚、それに平野だもんな。俺は安心して大将を守ることに専念できるよ」
 若干落ち着きのない様子でそう言ったのは後藤だった。まだ練度が低いからと第二部隊への編成は見送られたが、他の短刀三人は自分とは違い戦力として頼りにされているということは勿論分かっていた。分かっていたが、修行を経た彼は、以前のように幼い感情をひけらかすようなことはなくなっていた。胡座をかいたままでよいしょと身を乗り出して、周りの発言を待っている。
 大包平はうんうんと頷いていた。部隊長でこそないが、「主力の抜けた第一部隊の補佐」という役割は気に入っているようだった。
「幸い、向こうには回復を行うことのできる場所もあると聞いています。出陣期間は延びるでしょうが、そこは山姥切が巧く采配をすることで消耗は抑えられるのではないですか」
 まあそうなんだが、と返す言葉は何処か不満気だった。長谷部は少し目を伏せて、審神者の言葉の続きを待った。
「放棄された世界、だろう。三百という基準の根拠が不明瞭だと思ったんだが……まあ、政府の連中は裏で調べ続けていたのかもしれないな」
 言いながらも自説に自信を失っていったようで、首を大きく反らし、審神者の言葉は独り言に近いものへと変わっていった。
「長谷部君」
 唐突に名を呼ばれた近侍は慌てて返事をし、
「後で考える」
とだけ告げられてまた「は、はい」と答えるのが精一杯だった。
「まあ、異例の出陣命令に関して少し君達の意見を聞いてみたかっただけなんだが、御蔭で彼等に任せておけば大丈夫そうだと確信が持てた。私だけではどうしても、実際の戦に関しては理解に限度がある。引き続き第一部隊には裏での仕事を頼むよ」
 銘々の返事を聞いて審神者はちょっとだけ笑い、解散を宣言した後で長谷部を伴って執務室へと退がっていった。

「彼処は本当に放棄された世界なんだろうかね」
 長谷部が障子戸を閉めるなり、審神者は気怠そうに口を開いた。
「数値で基準を定められるということは、敵の戦力を見積もることが可能だということだろう。それはつまり、政府の連中がある程度最新の情報を掴んでいるということになる。放棄された世界で、という但し書き付きでね。……おかしいと思わないか、そんなことができるのなら奪還すれば良い。それとも戦力差を見積もるので精一杯ということか? であれば、監査などの舞台には相応しくない。何が狙いだ、こんなことをするメリットは……」
「単なる調査と監査、という訳ではないということですか」
「彼等はあの聚楽第を取り戻せとは、一言も言っていないだろう。それが気になって仕方がないんだが……あまりにも矛盾している、だが私の知らない裏があるのかもしれない以上、まだ何も断定はできないな」
「あの監査官を捕らえて吐かせるというのは」
 審神者は暫し口を噤み、目を瞬(しばたた)かせて長谷部を見た。
「……主?」
「君は存外、恐ろしい発想をするものだな……いや、この場合合理的ではあるのだろうが」
「あの……」
「いや、うん、手っ取り早くはあるが、彼がより深い事情を知っているとも限らない。あまり手荒に進めたくはないな」
「はい、主」
 審神者は長く息を吐き、眉間を揉み解しながら淡々と零し始めた。
「やはり君を向かわせなくて正解だった。何が渦巻いているのか分からないような場所など、危険極まりない。接続すら許されないような場所で死にましたなんてことにでもなれば、監査以前の問題だ」
「……はい」
「不服そうだね」
 低い声に長谷部がはっと顔を上げると、貼り付けた笑みのままで彼を見つめている審神者と目が合った。
「不服そうだ」
 審神者は繰り返した。
「君は功を立てたかった、その点については反論を認めない。君を出せば、話はもっと早くなるであろうことも私は理解している。だが言った筈だろう、君を失う訳にはいかないと」
「俺、俺はただ、主の刀として、今の状況を些か歯痒く感じているだけです」
「私の刀、か。君はそう言うがね
――
 言いかけて、いや何でもない、と審神者は言葉を呑み込んだ。頬杖を突いた手で口元を覆い、目を細めて淡々と言った。
「今夜、話の続きをしようか。此処で」
「……はい、主」
 元より長谷部に選択肢などなかったのだが。

 審神者は常になく昂奮していた。
「どうして君は私から離れていこうとするんだ」
 長谷部の手首を布団に縫い止めるその手の力は異様に強く
――それでも長谷部にとっては容易に振り払えるほどの力でしかなかったのだが、彼は決して抵抗しようとはしなかった――寸刻みにされた腕の肉が引き攣れて長谷部は喉の奥で苦鳴を鳴らした。ずたずたに切り刻まれているのは両の腕だけではなく、胸も腹も、脚までもがその断面から生々しい肉の色を見せ、血を流しては布団をしとどに濡らしていた。傷が深すぎた箇所からは肉片が落ち、赤銅色のシーツの上で寄る辺なく縮こまらせた身を震わせていた。
 熱い舌が肉を割って入っていく。盛り上がった筋線維の断面を舌で執拗になぞり上げられ、長谷部は背をしならせて声を漏らした。審神者は満足そうに笑い、舐め啜っていた肩口の肉を一息に噛み千切った。
「ぐあ、あっ、ぅ……うぁ、ああ……」
「なあ、何で私から離れようとするんだ」
 痛みに呻く長谷部のことも、審神者はこれっぽっちも意に介さなかった。何故、何故とそればかりを繰り返して、時折長谷部の身体に舌を這わせている。
「あ、っ……ある、じ……」
「何故私を置いて聚楽第へ行きたがる? 何日、何週間帰ってこれないかも分からないのに、どうして私から離れようとするんだ」
「ち、ちが……っぐ」
「私が君と離れることを耐えられるとでも思っているのか? なあ」
 修行の四日間ですら耐え切れず鳩を使ったのに、と続く叫びが長谷部には聞こえてくるようだった。長谷部を押さえ付けている両手は微かに震えていた。
「君は主に、我慢を強いるというのか」
 長谷部は発作的に首を振った。主に、自らの主にそのようなことを強いる訳がない。長谷部は審神者の刀でなくてはいけなかった。全てを叶え、満たし、傍に置いてもらえる刀でなくてはならなかった。彼一人のつまらない身など、審神者の気分一つで容易に消されてしまえる程度のものでしかなかったのだ。
「あるじ、主」
 長谷部は激痛を押し殺し、必死に審神者を呼んだ。
「俺は貴方から離れません、ずっと御傍に置いていただく為に、その為だけに、俺は在ります」
「君は嘘吐きだからな」
 血の気が一斉に引いていく。
「君の声は頻りに前の主を呼ぶ。私が抱えている、君を失うことの恐れなど、君には分かるまい」
 長谷部が何かを言い返す前に、彼の身体からは極めて暴力的なやり方で肉が毟り取られ始め、結局あられもない悲鳴を上げることしかできなくなってしまった。長谷部の身体は布団の上をのたうち回り、そこら中に緋い血の線を引いていた。白磁のような肌が散々に蹂躙されて惨憺たる有様を惜しげもなく晒している様子に、審神者の喉は益々鳴る一方だった。
「監査官とやらが聚楽第へ行ったきりなのは都合が良かったな。こんなところを見られては、流石に評価に響くだろう。はは」
 引き攣った笑いの陰に、長谷部の瞳を濡らす光が弱くなっていることに審神者はふと気が付き、胸の一等美味な一切れで今夜を終えることにした。
 部屋中が血に浸っていた。審神者の顔を塗っていた愉悦と昂奮は、とうに剥がれ落ちてしまっていた。

 長谷部が深夜の手入れ部屋で目を覚ますと、片隅には頭を抱えた審神者が壁を背にして座り込んでいた。
「主」
 身を起こし、遠慮がちに呼ぶと審神者はゆっくりと長谷部を向いた。
「お待たせしてしまって申し訳ありません、もう直りました」
「……」
 審神者は無言のまま、長谷部から目を逸らして緩慢に息を吐いた。
 長谷部は寝室に入ってから気を失うまで、審神者が彼に為したその一挙手一投足を正確に覚えていた。零れる自分の血や肉の色も今この場で再現できるほど精密に記憶していて、初めから終わりまでを脳内で再生することすら彼には造作もないことだった。何か過ちを犯さなかったか、何か無礼を働いて不興を買うようなことはなかったかと、長谷部は必死に記憶を辿り始めた。
「主」
「……」
「明日からは、近侍としての役割に専念します」
「……」
「……それとその、俺が、何度もあの話を
――
「一人にしてくれないか」
 声は至って明瞭で、それなのに吐いた傍から薄らいだ魂までもが吐き出されていくような危うい響きを孕んでいた。長谷部はその声音が嫌いだったが、主である人間に向かってそう意見する訳にもいかず、精々俯いた審神者の表情に真意を求めて視線を彷徨わせることしかできなかった。
「一人にしてくれと言ったんだ」
 審神者の目は外のものも内のものも、何一つ映していなかった。長谷部はそれ以上の対話を自分勝手な試みと判断して立ち上がり、簡潔に手入れの礼を述べた。
「おやすみなさいませ、主」
「ああ」
 返事というよりは寧ろ唸り声であったが、長谷部はもう何も言わずに手入れ部屋を出た。
 自室へ戻り、敷いておいた布団に潜り込んでから、真夜中の静寂の中で長谷部は今日という日を反芻していた。聚楽第という場所への出陣命令に関して、長谷部は審神者が何やら考えを巡らせていることの全ては理解できなかった。とは言え時期が来れば何から何までを説明してくれるのが審神者のやり方だとは知っていたので、「主の御役に立てていない」という一点を除けば長谷部に憂慮すべきことはなかった。
 それよりも、イレギュラーなイベントが審神者の精神状態にあまり良くない影響を及ぼしていることの方が、長谷部には心配だった。抱えきれなくなった感情を爆発させて、それを長谷部への嗜虐と混ぜ合わせて発散するだけなら長谷部は何とも思わなかった。審神者は嘘を吐くことはなかったし、殊「愛している」という言葉に関しては絶対に嘘や誤魔化しの為に吐いたりはしないと以前に語っていたことがあったからだった。
 審神者はいつも、〝都合の良い自己嫌悪〟に苦しんでいた。長谷部が一等苦悩していたのはその点だった。
 今も審神者が一人で、自分の醜いエゴによって長谷部に当たり散らし散々罵ったことへの罪悪感に苛まれていること、そして「君は悪くない」と譫言のように繰り返し続けていることを知れば、おそらく長谷部は真っ青になって取り縋ったであろう。
 第二部隊が一時帰還を果たしたのは、翌日の夜のことだった。

   3

 

 いよいよ本丸へ乗り込むと聞き、蛍丸と後藤とを交代させた後、審神者はそのまま部隊を出陣させた。翌朝には帰ってくるだろうから明日は宴だなと宣言し、今から準備に取り掛かる者達におやすみを言って執務室へと退がる審神者は何処か苛立っているようだった。
 長谷部は藪を突くのが恐ろしくて声を掛けられなかったが、幸い、審神者の方から切り出してきた為にひとまずは相槌を打ってさえいればこの夜を穏便に切り抜けられそうだった。
「山姥切君から面白い話を聞いた。……本丸の手前で、よくここまで来た、と奴は言っていたらしい。それは待っていた側の台詞だろう、あの場所を把握し、理解し、企んでいた側の台詞だ」
 だんっ、と音がなって、文机の上に置かれていた物が一斉に跳ねた。
「これが仕組まれたものでなければ何だと言うんだ? 非常に不愉快だ、政府の連中め」
「今回のことで一度に攻勢を仕掛け、奪還しようという狙いがあったのではないですか」
「……調査はほぼ完了していて、その仕上げと実行を各本丸に行わせたということか。筋は通るが、期間が過ぎた後は再び接続を遮断するというのも引っかかる……いや、それで良いのか。介入するものさえいなくなれば、歴史は自動的に正しい方向へと修正され始める。部隊の面々から聞くところによると、彼等が向かった聚楽第の周辺は荒廃して全く人気(ひとけ)がなく、だが荒廃はしていても建物などは残存していたらしい。遺構すら残っていないのが正しい聚楽第の姿だが、我々と遡行軍、双方が其処から立ち去れば、全てが崩壊してあるべき姿になるのかもしれない。或いは今の姿こそ、今まさに正しい姿へと向かっている途上にあることを示しているのかもしれない」
 考えを巡らせているうちに、審神者の気分もある程度落ち着いてきたようだった。長谷部に向き直って、怜悧さを取り戻した瞳で彼を見据えて言った。
「歴史とは元々そういうものだ。ちょっとやそっとの介入では簡単に阻害されてしまう。修正以前の問題だ。我々人間による過去改変が為し得なかったのには、そういう事情があった」
「……だからこそ、俺達が喚ばれた」
「そうだ、正確には君達を喚ぶ為のシステムが研究開発された。修正主義者側の理論など、私には知る由もないが」
 審神者である側の者達には、ほとんど何も明かされていないのだとこの本丸の審神者は言う。
「だから政府が下す命の真意というものを、私は推測することしかできない。隠された目的を推察して、此処の、君達や私の不利益になるようなことがないかを考えて、その上で行動する必要があった。山姥切君はなかなか上手くやってくれているようだが、まあ最後まで気は抜けないな」
「はい」
 何処か嬉しそうな声で審神者は言った。
「彼は修行を経て随分と変わった。自分で自分の存在を肯定して、その上で私の刀だと言って刃を揮ってくれる。自分を肯定するというのは非常に難しいものだ。これが終わったら労わってやらないとな」
 長谷部は喉元まで出かかった言葉を無理矢理に押し戻し、そのことに勘付いた審神者はしかし無視をして一歩分にじり寄った。持ち上がっていく口の端は影よりも密かな色の言葉を囁いた。
「あの監査官をどうするかは、明日決めるとしよう。……分かったね」
「……はい、主」
 暗い笑みを手で覆い隠した審神者の姿に、長谷部はこの頃抱いていた微かな違和感の正体が分かったような気がしていた。少し前に就任三周年を迎え、審神者は、何口もの刀剣男士を率いてこの本丸の頂点に座す人は、確実に人から離れかけていた。姿形こそ変わりはないが、精神構造というのか、刀身のような冷たさを湛えた男子達の心に共鳴する領域の存在が無視できなくなっているように感じていたのだ。
「もう退がって構わないよ。明日は早い」
「はい、主。おやすみなさいませ」
「おやすみ」
 頭を下げてから部屋を辞し、一人の廊下を歩く。
 審神者は確かに酷薄な人間と言えた。ところがその性質は長谷部以外には決して向けられない筈のものであり、後はただ単に残酷な風に見えているだけの合理性でしかなかった。しかし今の審神者は、政府から遣わされたあの監査官にすらもその嗜虐欲を向けそうな気配すらあった。
 長谷部は人間ではなかった。審神者と同じ存在ではなく、いつかはそのずれが致命的な終局へと繋がるのだろうとは薄々感じていた。だがもしも同じ存在になれるのなら、そこまではいけなくとも少しでも近付けるのであれば、それは自分にとって喜ばしいことではないのか? 僅かばかりに萌したその感情を、長谷部は片手に持て余していた。
――俺の主は、俺を喚び、近侍として俺を傍に置いてくださった、……あの主ではないのだろうか、と。
 いずれにせよ明日、第二部隊は帰ってくる。少なくとも何かしらの真相は暴かれるであろうし、他の誰よりも長谷部こそが彼の主の為に働ける機会も増えるであろうと考えていた。「労ってやらないとな」、俺は、俺の方が、主の期待に応えられますとは絶対に言えなかった。信長のことを引き合いにだして長谷部を責める審神者を見ると、長谷部はどうしていいのか分からなくなってただ怖かった。
 明日か、と溜息が出た。

 抜けるような青空の下、帰還した第二部隊を男士達がわっと取り囲み、審神者が入る隙もないほど場は盛り上がっていた。
「帰ったぞ」
 言い放つ山姥切は相変わらず気恥ずかしそうな顔をしていたが、決して相対する審神者から目を逸らそうとはしなかった。命じられた全てを済ませてきた、その矜持と自信を湛えた姿で、この場の誰よりも誇り高く其処に立っていた。
「お帰り。……ご苦労様、山姥切君」
 それに皆も、と言って審神者は部隊員五口の顔を見渡した。負傷はなく、皆一様に眩しいほどの笑顔で本丸に戻って来ていた。頷きながら、何事もなく終わったことに内心酷く安堵していることを、後ろに立つ長谷部は密かに感じ取っていた。飽くまで主として相応しくあろうとするその姿は、長谷部が良く見知った、そして慕っているものだった。
「……それで」
 審神者が向けた冷たい視線と皮肉っぽい笑いの先に、〝監査官〟が立っていた。
「我が本丸の評価は如何でしたか、監査官殿?」
「……聚楽第中心部における強力な敵部隊との戦闘に勝利」
 向けられる敵意も何ら意に介さず、監査官は淡々と評価を述べた。
「また、行軍中における的の調査及び排除について期待以上の成果。以上を勘案して、当該本丸の評価は優となる。以上だ」
 歓声が上がり、特に山姥切は堀川や山伏に抱きつかれもみくちゃにされているようだった。審神者は当然だと言わんばかりの冷ややかさで、「それはどうも」とだけ言ってからポケットに両手を突っ込んだ。
「監査官殿もお勤めご苦労様でした、どうぞお帰りください」
「それがそうもいかないんだ」
「……どういうことだ」
 暖かく強い光が一瞬光り、薄桃の花弁が舞う中にフードを脱いだ監査官が立っていた。
「今回の聚楽第での作戦において、この本丸の実力が高く評価されたのは先程述べた通りだ。その結果として、俺、山姥切長義は此処に配属されることになった」
「長谷部君」
 出る幕もないと感じて傍観に努めていた長谷部だったが、突然敵意を露わにした刺々しい声で名前を呼ばれて飛び上がりかけた。審神者は彼の方を見ようともしなかった。
「は、はい」
「皆を連れて先に中へ入っていてくれ」
「はい、主」
 長谷部に上手く皆を誘導させて、本丸の玄関先で審神者と山姥切長義の二人は改めて向かい合った。
「どういうことだ」
「今言った通りだ。遣わされた先の本丸が優評価を収めれば、俺は其処に配属されることになっていた」
「此処には山姥切君がいる。必要ない」
「ああ、偽物くんのことか。俺が本歌だ、それは問題じゃない」
 長義は飄々と笑って言った。
「どうした? そんな顔をして」
「分からないなら言ってやる。政府の使い古しの刀など此処には必要ない。山姥切君は就任したその日から私の下に仕えてくれたんだ、お下がりのお前に何が分かる」
「お下がりというなら此処にいる刀全てがそうだろう、誰かが使った刀だ」
「刀として使われたからこそ男士として今此処に在るんだ、一緒にするな」
「しかし先程ので一度顕現し直したんだが、俺も」
 二人のやりとりが気になって戻って来た長谷部だったが、険悪な雰囲気に声を掛けるタイミングをすっかり失っていた。誰かに佩かれた刀だという話が長義の口から出た時には、嘗て長谷部を佩いていた主
――信長のことを引き合いに出して、また酷く詰られるのではないかという考えが脳裏に過ぎった。震える身体を抱くように押さえ付けていると、長谷部の影に気付いた審神者が背中越しに「長谷部君」と声を掛けた。
「皆はどうしている」
「食事部屋に待たせています、主」
「分かった、今行く。君も」
 審神者の声は平坦なものになっていた。長谷部はそれが余計に怖かった。今この瞬間にもそれが激昂に変わって、自分へ突き付けられるのではないかということ、そしてそれに対して示すことのできる答えを何ら持ち得ていないことが、審神者をまた失望させてしまうのではないかと思うと怖くて仕方がなかった。
「皆に紹介しなくてはならないから、……中へ」
「ああ、行こう」
「言っておくが、偽物がどうこう言い始めたら私は君を解く」
 答えを聞かず、審神者は中へ去って行った。取り残された長谷部は長義を案内し、ひとまずはこの場を乗り切ったことに胸を撫で下ろしていた。

   4

 

 宴席は大いに盛り上がっていた。第二部隊の面々が聚楽第の様子や遡行軍との戦闘を臨場感たっぷりに語る度、酒瓶は次々と空いていった。中でも聚楽第本丸への出陣時に部隊へ配置された後藤は特に上機嫌で、藤四郎の兄弟達を相手にして語る様子は大層誇らしげだった。
 審神者はいつも通り、一方に長谷部を座らせていたが、今日はもう一方に山姥切を呼んでいた。彼の杯に酒を注いでやり、自分も頻りにそれを傾けながら、酔った人間特有の饒舌さで熱心に話し続けていた。
「君ならやってくれると信じていた」
「……そうか」
「近侍は動かせなかっただろう、第一部隊の戦力を率いるに相応しい刀としたら君を置いて他にはなかった。あれほど不確定な戦場で、本当によくやってくれた」
「俺はあんたの刀だからな。命には従うまでだ」
「うん」
 今度、何か褒賞を与えるから、欲しいものを考えておくと良い。機嫌の良い審神者がそう言って、山姥切が首肯したところで、タイミングを見計らっていた堀川が俊敏に割って入り、
「主さん、兄弟を借りてもいいですか?」
と山姥切の腕を取った。
「いいとも、存分に祝ってくれ。じゃあ山姥切君、また今度」
「ああ」
 ぺこりと頭を下げた堀川に引っ張られるようにして連れて行かれた山姥切の姿が見えなくなって、長谷部は漸く、口を開くことを許されたような気がした。
「主」
「何かな」
 長谷部はちら、と視線を遣った。長義は今、興味津々な様子の鶴丸や燭台切、次郎太刀等に取り囲まれていた。彼等のペースに圧倒されて、余計なことを口走るような隙は暫くの間与えられそうになかった。
「監査にて優の評価を得られましたことを、お祝い申し上げたく」
「それは私個人に与えられたものじゃない、この本丸に下された評価だが……まあ、有り難く受けておこうか」
 飲むかい、と掲げられた酒瓶を長谷部は素直に受けた。一口だけを含み、慎重に飲み下す。長谷部は自身が近侍である以上、不慮の事態が起こった場合自分だけは何としても主を守らねばならず、泥酔するようなことがあってはならないと考えていた。それを知ってか知らずか、審神者は自分の杯を満たしていた酒を一息に飲み干し、長谷部の方へ身を寄せて言った。
「そもそも評価基準や達成条件が示された状態での監査など茶番にも程がある。全員が全員優を取って、それでそんな監査とやらに何の意味がある? ……成果といえばただ一つ、奴が此処に潜り込んだという事実だけだ」
 審神者は剣呑な瞳で長義を睨み付けた。
「いいか、普段は何もないように振舞う。他の男士を相手にするのと変わりないように、だ。但し、怪しい動きをするようなことがあれば絶対に見逃すな。それと、山姥切君を皆の前で偽物と呼ぶようなことがあれば、すぐに報告しろ」
「主命とあらば」
「私は奴を信用しない。政府がどういう意図で此処へ配属したのかは知らないが、身の潔白が明らかになるまでは奴をこの本丸には深入りさせない。それ以前に、奴は私の刀を侮辱した。不信に足るにはそれで十分だろう」
「……はい、主。奴の動向には目を光らせます」
「うん」
 大きく息を吐いて、審神者は傍に置いていた酒瓶を手に取った。空だった。
「おや」
「……主、そのくらいにしておかれた方が」
「……そうだな」
 瓶を元通りに立てておいて、審神者は一つ、欠伸をした。先までの会話が嘘のような、何とも穏やかな空気だった。
「主」
「ん?」
「主は、……俺達を、大切に思ってくださっているのですね」
「何のことだか」
 言おうか言うまいか、手を擦り合わせて躊躇って、長谷部は結局言うことにした。
「ああまで感情的になって、山姥切のことを庇われるというのは……少し驚きました」
「審神者としての私は、そうしなくてはならないからな」
「この本丸の主として、ということですか」
「ああ」
 内緒話をするように、この部屋の喧騒の中で、審神者は必要以上に声を潜めて長谷部へ囁いた。
「私がここで審神者として在る為には、最低限として君だけいればそれでいいが、しかし今いる面子を失わずにいる方がずっと効率が良い。だから皆へは丁寧に平等に、最低限の礼は尽くして接しているだろう。それは彼等が私の所有物だからだよ。だが私個人のことを考えれば、私には君だけがあれば良い。君だけが欲しい」
「……」
 長谷部は暫し絶句した。喜ぶべきか哀しむべきか、長谷部とて本当に仲間を仲間と思っていたとは言い切れなかったが、いざ目の前で言葉にされると、審神者のそれは些か人間離れして聞こえたのだ。
 それでも長谷部だけが欲しいのだと断言した審神者に対して、長谷部は自らの意思とは関係なく盲目にならざるを得なかった。ここ数日、審神者の主命を果たす為に出陣している第二部隊を羨みながら過ごしていたことも事実だった。長谷部は
――これは彼の罪でも何でもなく、自らの存在を求められることに滅法弱かった。
「部屋へ行かないか」
「……はい」
 片笑んで審神者は立ち上がり、「私は退がるから後は宜しく」と声を張った。了承の声が銘々に上がる中、真っ直ぐに上げられた長義の視線は審神者のそれを捉えたが、審神者は微笑んで「執務室へは近付かないように」と言い放って一方的に背を向けた。早速周りに座っていた面々が、その尤もらしい理由を説明してくれている声が耳を掠めていく。勿論全部嘘だ。彼等を彼処へ近付けたくない理由などただ一つきりない。長谷部と二人きりになる為の場所だからだ。
 審神者は早く長谷部に触れたかった。今日は一際熟れているだろうその血と肉を口に含み、一人で抱えているには痛々しいほどのその愛を発露したかった。

 灯りを絞った部屋の中、審神者は黙して語らなかった。
 壁に凭れるようにして座らされ、長谷部の腹の中はほとんど空っぽだった。正中を切り開き、腸だの肝臓だのを一通り引き摺り出され(当然一連の処理の間、長谷部は喉から漏れる悲鳴を抑えることはしなかった)、胸郭を覆う肋骨もへし折られて僅かに肺と心臓だけをその中に有することを許されて、今宵は酷く静かだった。呼吸も止まってしまったかのような夜に、長谷部は実際、肋骨も横隔膜も失われた身体でどうやって呼吸をしているんだろうかと考えた。考えても詮無いことで、すぐに考えるのを止めたのだが。
 長谷部の身体へ頭を埋めた審神者が身動ぐ度に、ほとんど聞こえないような水音が脳を穿ち、長谷部の黒いスラックスを穿いた脚がびくんと跳ねた。相当に血を吸った筈なのに、その色は全く変わらなかった。いつかに揶揄された言葉が長谷部の脳裏に蘇り、すぐに霧散していった。
 審神者が小さく身を起こし、長谷部の中から刮げ取ってきたらしい肉片を口に運ぶのをぼんやりと見ていると、シャツの釦が珍しく外されていることに長谷部は気が付いた。いつになく前を開けた状態で長谷部を虐げ続ける審神者の肌は、長谷部には判断するべくもなかったのだが、仄かに紅く上気しているように見えた。
 丸見えの心臓が飛び跳ねるようだった。がらんどうの胸に手をやりかけて、審神者に不審がられることを恐れて手を引っ込める。
 幸い、審神者は長谷部の身体に夢中で気付いていないようだった。垣間見えた鎖骨の稜線が酷く淫靡なものに思え、長谷部は反射的に目を逸らした。夜に滴の落ちるような気がした。
 そうして初めて気付いたことだったが、審神者の呼吸は、今の長谷部と同じくらいに荒かった。顎を伝う血を手の甲で拭い、大きく膨らんだ胸から息が吐き出される。この間、決して言葉が交わされることはなく、何て夜だ、と長谷部は思わず上を仰いだ。
 審神者が沈黙の内に考えていたことはただ一つきりだった。
――長谷部が、へし切が刀として揮われたのは自分が最初ではなかった。彼の刀としての主というものは、自分より前に存在して、自分が初めての主ではなかった。だが今、刀剣男士としての、人に似せた身体を得た長谷部のことを考えれば、彼にとっての主、彼の身体に初めて触れた人間は間違いなくこの自分だった。長谷部の肌に、血に、肉に、臓器に、もっと深いところにすら触れたことのある人間は、自分を措いて他に誰もいない。
 あの監査官は、一点だけ私の役に立ってくれた。審神者は喜悦に顔を歪ませた。長谷部にとっての主は、私一人しかいなかったのだ。
「長谷部君」
 急な掠れ声に自分の考えが見透かされていたのかと身を強張らせ、長谷部は声音が不自然にならないよう怯えながら返事をした。
「は、はい」
「君に触れたい」
「はい、それは、御随意に」
 拍子抜けした長谷部が答えると、審神者は長谷部の肺をそっと掻き分けて、その奥、とくとくと打ち続ける塊にうっとりと手を添えた。
「何て美しいんだろうか」
 手を滑らせると、それは手の中で僅かな隙間も空けることなくするりと寄り添った。心室から心尖までを何度も撫でて、陶酔を浮かべた表情の審神者が息をする度に上下する胸部から、長谷部は取り憑かれたように目が離せなくなっていた。
 審神者と言えば、胸は煩いくらいに早鐘を打っていて、待ち望んだ果実を前にして衝動を押し殺すのにも限界が来ていた。震える舌を伸ばし、禁忌を犯すかのような心持ちでそれに触れて、表面を濡らす紅玉色の血を少しだけ舐め上げた。
「……っ」
 咄嗟に身を引いた所為で、審神者の口唇から垂れた血がその胸元を汚す。それを見た長谷部は全身の血が沸騰するのではないかとすら思ったが、幸か不幸かこの夜も既にかなりの量の血液を失わせられていた為、審神者の前で醜態を晒すことは避けられた。今この時間は、長谷部の為にあるのではなかった。
「少しくらい切っても構わないだろうか……? 嘗てある種の疾患では心室を一部切除したと聞いたことがある、切って縫い合わせていた筈だ。それで異常がないのなら、心筋を少しだけ切るのなら、問題ないんじゃないか……だが万一ということもある、私では技術がないし設備もないからな……。であれば後日改めて行うべきだろうが、しかし長谷部君の血を余計な機械などに介させたくはないし他の長谷部であっても同じことだな、困ったな……ひとまず今日は止めておこう、口惜しいが」
 独り言も終わったらしく、審神者は宝石よりも輝いて見える長谷部の心臓へ向かって話しかけた。
「後少しだけ味わわせてくれないか」
「御随意に、主」
 長谷部は律儀に答えを返したが、執拗に這わされる舌から伝わる痛みに頭は麻痺しつつあった。眠くて堪らない、と目の前の光景を他人事のように眺め続ける。嚥下に隆起する喉の動きを見て、無意識の内に酷く重い腕を伸ばし、細い首を手袋越しに捉えかけたその瞬間、
「長谷部君」
「……は、はい……主」
「手入れ部屋へ行こうか」
 口の周りの固まりかけて黒ずんだ血にも構わず言う。審神者の瞳はすっかり切れ味を失って融けていた。ぞわり、と長谷部の背が粟立った。
「はい、主」
 暗示のようなものが解けた感覚があって、長谷部は随分と軽くなった身体を起こすと一人で立ち上がった。仄暗い部屋の中で、肌蹴られた審神者の首元が淡い光を放つようにすら見えている。審神者が彼へ向ける懊悩と焦燥の一端が、不意に長谷部の脳裏にも閃いた気がした。
――俺の主なのだ。他の誰でもない、俺の。
「長谷部君」
「はい」
「いつか
――そう、いつか、君の心臓を食べさせてくれないか」
 断られる可能性など毫も考えていない表情で、審神者は長谷部の胸にそっと触れながら呟いた。所有物に、例えばペンや衣服や机などに、お前は自分の物なのだと殊更言って聞かせる必要は全くない。それと同じことだった。しかし審神者は少し違っていた。長谷部が自分だけのものだと分かったからこそ、その事実を長谷部という存在の中に深く刻み付けておきたかった。
「はい、主」
「……君は誰のものだ」
「主、です。俺は主の刀です」
「そうじゃない」
 壁へ押し付けられて、何もない腹腔へへし切を突き立てられる。受け止めるべき臓腑も其処にはなく、刃は少しの肉や膀胱を掻き混ぜながら骨盤を叩いた。
「あぁっ、あっ、んっ……」
「君は誰のものだ、と訊いたんだ」
「あ、あぁ、主、です、俺は、主のものです、っぐぅ」
「そう、それでいい」
 へし切を軽く振って血を払い、審神者はそれを鞘へ納めた。息も絶え絶えに立っているが今にも床へ崩れ落ちそうな長谷部に肩を貸してやって、機嫌よく手入れ部屋へ足を向ける。
「長谷部君」
「はい」
「君は私のものだ。君だけ居てくれれば、私は他に何も望まない」
「はい、主……有難き、幸せ……」
 再び朦朧とし始めた意識の中、長谷部は審神者が「愛してるよ」と繰り返す言葉を聞いていた。そして胸の
――肺と心臓だけが残された胸の裡だけで、俺だけの主、と繰り返していた。
 その夜、長谷部が手入れ部屋で眠りながら見た夢は、目にしたこともない聚楽第の建物達が静かに、何の予兆も見せずにただ崩壊していくというものだった。これが歴史の在るべき姿なのだと嘆息し、目が覚めた時、傍には審神者が座っていた。
 その小さく微笑む姿を見て、長谷部は何故か、聚楽第の金の瓦の最後の一枚が落ちる音を聞いたような気がした。

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