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咲き乱れる藤の色

 桜の花弁がふわりと過ぎり、ゆっくりと持ち上げられた瞼の下から覗いた藤色の瞳が微かに揺れた。
「……あ、るじ」
 掠れた声が地に落ちるより早く、花弁は淡い光を残して消えていった。


  1


 破壊された刀剣に憑いていた霊魂はそのまま消滅する訳ではない、ということに気付いたのは全くの偶然であった。
 その日、夜の京都から帰還した部隊は、短刀一口が破壊されたことによる途中撤退の報告と共に、折られた刀身を持ち帰っていた。
 ちょうど新たな刀剣の鍛刀を行っていた審神者が鍛錬所で報告を受け、ご苦労だった、と部隊を手入れ部屋へ送り出そうとしたとき、鍛冶が鍛刀の完了を告げた。
 皆が鍛冶の手元に目をやると、そこに輝いていたのは、部隊が持ち帰った短刀と同じ刀であった。
 堪え切れず泣き出す短刀達を打刀や脇差に任せ、審神者は自室でそれを顕現させることにした。近侍である長谷部は彼等に物憂げな一瞥をくれるのみであった。

 次は君に京都へ行ってもらおうか、と呟きながら、新たな男士を顕現させる準備をする。折れた刀を隅に置き、いつものように「主命とあらば」と返す長谷部の顔は見えない。
 既に陽の落ちた空は淡い緑で、刀の破片が光を鈍く弾いていた。
 審神者はいつものように手と口を動かし、短刀に憑いた付喪神を顕現させた、筈だった。
「……ここは、」
 身体を得た彼はそう言ったきり、茫然と目の前の二人を見つめている。普段の様に名乗ることも、宜しくと挨拶することもない。
 何か手順を間違えたのか、と首を捻る審神者が長谷部を振り返った瞬間、長谷部は一言「失礼します」とだけ言って抜刀した。
 え、と零す審神者の背後から短刀の叫び声が聞こえたのはその時であった。
「ああぁあああああ!!!」
 審神者が振り向くよりも早く紫色が翻り、鋼がぶつかり合う重たい音と肉が壁に叩きつけられる音が響いた。
「主、お怪我はありませんか」
「怪我はないが、一体何が」
「奴が主に刃を向けたもので」
 涼しい顔で答える長谷部の視線を追い、短刀が吹き飛ばされた方を見ると、強かに身体を打ち付けたらしい彼は床に蹲り「何で」「お前が」などと呻いている。
「知っているのか?」
「いえ、奴と面識はない筈なのですが。聞き出してみましょうか」
「頼む。あまり手荒な真似はするなよ」
「畏まりました」
 長谷部は刀を携えたまま彼に近付き、腕を捻り上げて拘束すると尋問にかかった。
 空は朱く、部屋の隅の刃はもう光を映してはいなかった。

 

 長谷部が例の短刀から聞き出したところによると、どうも彼は先に京都で破壊されるまでの記憶を持っていたらしかった。そのため、破壊直前のそれを免れようと必死になった状態で顕現し、審神者に刃を向けたのではないか、という結論に至った。
「なるほどねえ」
 審神者は顎に手をやり、ううんと唸る。
「何かやり方を間違えたのかと思ったが……」
「それはありませんね」
 俺が見た限りでは手落ちはありませんでした、と長谷部は言う。
 空はもう紺に染まっていた。今頃他の男士達は夕食を摂っている頃だ。想定外の出来事があった後なので、審神者の食事は燭台切に頼んで自室に用意してもらう手筈になっていた。
「今までこんなことはなかった。そもそも刀剣が破壊されたことがほとんどなかったから考えるのが難しいのだが、刀剣であったとき以外の記憶を保持していた刀剣はいなかった」
 もしかしたら他の本丸では、顕現した後破壊された刀剣に憑いていた付喪神が他の刀剣に宿る、なんてこともあったのかもしれないが、少なくともこの本丸ではそのようなことは一度も起こっていない。
「付喪神ってのは依り代が破壊されたらどうなるんだ? そのまま消滅してしまうのか?」
「すみません、俺には何とも……」
 長谷部はそう言うが無理もない、彼は破壊されたことがないからだ。そして何処かでの記憶を引き継いでもいない。
「真相は分からないが、政府によって破壊された刀剣の記憶が引き継がれるように細工されている、なんてのは考えにくいな……。刀剣男士の本分が戦に出ることである以上デメリットが大きい」
 戦いの中での成長を(もしかしたら畑仕事や料理ができるようになったことなども)覚えていられるのはメリットであろうが、引き継がれた刀剣は破壊の記憶すらも持っている。
 先程の出来事を鑑みれば、そのデメリットが大きすぎることは明らかであった。
「単なるエラーなのか……」
「何とも言えませんね」
 尋問の後、長谷部により気絶させられた短刀は手入れ部屋に入っていた。負傷していた他の短刀達の手入れは既に終わっていたので、事情を話すのは打刀や脇差だけで済んでいたのが幸いだった。
「後で太刀や大太刀の皆にも尋ねてみようか」
 このまま二人で考えていても埒が明かないしそろそろ空腹だ、と頬杖を突く審神者を見て長谷部はすっと立ち上がり、
「ではお食事を用意いたします」
 と言って部屋を出て行った。

 長谷部が退室し体勢を崩した審神者の手に何かが触れ、ちゃりと音を立てた。
「ん? ああ、そうだった」
 それは京都から帰ってきた短刀の破片であった。先の騒ぎで忘れていたが、これまでの働きを労った後で刀身の始末をしておかねばならない。
(目の前で新しい自分が顕現するってのは、どんな気分なんだろうな)
 審神者は独り言ち、手を切らないよう懐紙ごとそれを動かす。
(まあ、そこに霊魂があればだけど……)
 依り代である刀剣の破壊、憑いていた付喪神の解放、その後は消滅かそれとも終わりのない彷徨か……。長谷部が戻って来るのを待つ間、審神者は取り留めもなく考える。
(解放された霊魂がそれまでの記憶を保持したまま再び依り代を求めるのであれば、偶然同じ刀剣に辿り着き、器を得てもおかしくない……)
 無論それはいくつかの偶然が重なり合った結果の出来事には違いないが、それでも全く可能性のない話ではない。
(依り代に対する相性なんかがあって、距離とも関係しているとしたら……)
「あ」
 ある仮説に行き着いた瞬間障子戸が開き、紫苑の水面が審神者を映す。
「主、夕餉を……どうされました」
 間抜けに口を開けた審神者を見て、鈍色の髪が揺れた。

「さっきの話の続きなんだけど」
 食事を終えた審神者は膳を下げさせ、寛いだ格好で長谷部と向かい合っていた。
「はい、食事部屋にでも他の連中を集めますか?」
「いや、その前に私の考えを一度聞いてもらいたい」
「はい」
 長谷部は居住まいを正す。
 審神者は先程一人で考えていた仮説について一通り話した。
 破壊された刀剣に憑いていた付喪神はそこから解放されるが、すぐに消える訳ではない。他の依り代があればそれに憑き、そしてそれは前の依り代に近いほど起こりやすい――。
「――性質も、それから距離も。私はそう考えたのだが」
「……部隊が持ち帰ったあれに憑いていた霊魂はまだ近くにいて、たまたまそのとき鍛刀された新たな刀剣を依り代としたと」
「そういうことだ、それが鍛練所で起きたのか此処で起きたのかは分からないけど」
「もし、此処で起きたのであれば、あれを此処まで持ってきた俺の過ちです」
「いやそこは何とも言えないから、ね」
 何処で起きたのかは些細な問題だった。もし審神者の考えが正しいのであれば、京都で破壊された彼の霊魂はまだ刀身の近くに漂っていて、新たな依り代を得て再び顕現したのだと説明がついた。
「偶然に偶然が重なったんだろうな、そこには誰の責任もない……強いて言えば出陣を命じた私の」
「主」
 それ以上言わせまいとした長谷部の言葉に、審神者は仕方なく微笑んで口を閉じる。
「あれはどうなさるおつもりですか」
「うん……どうするのが良いと思う」
 夜を迎えた今、部屋は現代の照明器具で照らされており、その光は遥か昔の行灯などのように揺れることはない。
「先の様子から、奴が再びの出陣に耐えられるとは思いません。刀解なさるべきかと思います」
「そうだよなあ……」
 できれば、記憶を持ったままの彼を此処に迎え入れ、再び皆と戦って欲しかった。帰還した部隊の誰もが、そして本丸にいた男士達も彼が破壊されたことを悲しんでいたし、現世に帰ってきたことを知れば喜ぶだろうと思ったからだ。
 だが、破壊を経験してしまった彼がこれまでのように戦えるとは思えなかった。心に負った傷というのは時間を以てしても癒しがたい。
 いつまた周りに危害を加えてしまうとも限らず、彼が癒える日が来るのかも分からない以上、彼を刀解することが最善の策であった。
「……今度は、刀解をきちんと行った上でまたの顕現を待とう。皆には私から説明するから、明日の朝食後短刀以外を集めておいてくれ」
「畏まりました」

 一通り話し終わり、少しの沈黙が部屋を満たす。とは言え長谷部が近侍になって長いこともあり、それは二人にとって全く苦にならないものであった。
「……それにしても」
「はい」
 障子戸の隙間から夜空をぼんやりと眺めていた審神者が口を開く。今夜も星が綺麗だ。
「長谷部君、あんなに速く動けるんだな」
「近侍として主をお守りするのは当然です」
「うん、君は本当に良くやってくれてるよね」
「最良の結果を、と申し上げましたから」
「うん……」
 審神者は生返事を返して立ち上がり、僅かに開いていた障子戸を閉める。そのまま閉じた戸の方を向いてじっと立っている審神者に、長谷部は堪らず問いかける。
 いつもと違う、重い。
「主……?」
「長谷部君、さっき話したこと、覚えているかい」
「付喪神と依り代の件ですか」
「うん、そう」
「はい、覚えていますが」
「……さっきから、考えていたんだけど」
「はい」
「鍛刀したきり、顕現させていないへし切が数口あるだろう」
「はい、今は二口あります」
「……君を」
 ほとんど呟くように零したきり、また審神者は沈黙する。ちらつかない筈の灯りが瞬いているような幻覚を覚えながら、長谷部は再び問うた。
「主、何と仰ったのですか」
「……」
 焦燥感が肺を満たし目眩がする、主は何と仰った?
 堪りかねた長谷部が立ち上がろうとした瞬間、審神者はゆっくりと頭だけで振り向いて長谷部を見遣った。
「君を壊しても良いかな」


  2


 へし切長谷部は、審神者がこの本丸に着任した初日に鍛刀された刀だった。
 彼が顕現した時点で既に何口もの刀が鍛刀されていたが、審神者はすぐに彼を近侍に命じ、それ以来ずっと近侍として日々の責務をこなしてきた。
 出陣しては歴史修正主義者達を誰よりも多く討ち取り、演練でも期待に応えるべく勝利を収め、刀装の作成を依頼されれば出来る限り特上のものを作り、内番の際も決して手を抜かなかった。
 過去には様々なことがあり、心の何処かで追い求めているものもあったが、今の審神者にとっては自分が一番の臣下である自信を持つことができた。審神者に対し心から忠誠を誓っていたかどうかは定かではないが。

 ある晩、彼はいつものように審神者と共に部屋で仕事をしていた。
 何を話していたのだったか、もう覚えていない。部隊の練度が上がってきたから次の戦場へ出陣しようだとか、そういうありふれたことだったのだろう。
 気付くと審神者はへし切を手に彼を見下ろしており、彼の腕は肘の先から切断されていた。布団が(そう、主の布団が敷いてあり、俺はその上に蹲ってしまっていた)ぐっしょりと赤銅に濡れ、部屋中に鉄の臭いが立ち込めていた。
 何が起きたのか分からなかった。
 彼の機動を以てすれば避けることなど容易かった筈で(避ける筈がない、俺は主に、主命に応えようとしていたのだ)、それは決して不意打ちなどではなかった。
 審神者はただ尋ねたのであった。「四肢を切っても良いか」、と。

 審神者は長谷部のことを嫌ったり疎んだりしている訳ではなかった。
 己を捧げて日々自分のために働き、気を回し、忠誠を誓ってくれていることをよく知っている。寧ろとても大切に思っていた。大切に、愛しく思っていたからこそ、長谷部のことを虐げたいと思っていたのだ。
 審神者は自分の愛し方が普通と違うこともよく知っていた。

 刀剣男士は、完全に破壊されてしまうほどの致命傷でなければ、傷を負っても手入れにより回復することができた。だからこそ長谷部も「死ななきゃ安い」などと言いながら敵を薙ぎ倒していたのである。
 例え四肢が千切れ臓腑を溢そうと、死にさえしなければまた元に戻すことができる。
 主命とあらば、容易いことであった。

 その号の由来の通り、へし切は刀の扱いに慣れていない審神者が用いても、鋭い斬れ味を以て長谷部の腕を落とした。左腕だった。

 それからも、審神者は毎日のように長谷部を部屋に呼んでは嗜虐した。
 腕や脚を切り落とされ、血の跡を残しながら這いずって自らの元へ近付こうとする長谷部を見ては喜び、衣服が血に塗れることも厭わず抱き締めた。
 腹を割いてぬるぬると滑る腸を引き摺り出し(黄色い脂肪で強固に貼り付いているそれを引っ張られるのは実際なかなかの苦痛だった)、それで長谷部の首を絞めては鬱血した顔でぱくぱくと口を開くのを嬉しそうに見ていた。
 意識のあるままに柔らかいところを噛み千切られては食され、ずたずたになった神経から絶えず吐き出されるエラーのような激痛に苛まれる長谷部を見て赤と黄に染まった口でにっこり笑っていた。長谷部が手ずから肉を切り取り、また臓腑を引き千切り、審神者へ供することもあった。
 目も、歯も、心臓と脳以外の何もかもを捧げた。
 但し審神者は生殖器には触れることがあっても、外性器に触れることは決してなかった。
「苦しんでいる顔が見たい、善がっている長谷部君を虐げたくはない」
 審神者はそう言った。
「主命とあらば、」
 長谷部はそう答えた。

 事が終われば審神者は手入れ部屋へ長谷部を連れて行き、謝罪と寵愛の言葉を繰り返しながら丁寧に手入れをして元通りに直してやる。靄がかかったような思考の果てでそれを聞きながら、長谷部は血と脂肪と他の体液とで斑になった審神者の手を思い出す。

 殺してしまったら元には戻らない。そのことは審神者もよく心得ていたので、いくら欲のままに長谷部を虐げていたとしても一縷の理性は残すようにしていた。
 しかし失血や窒息を気に掛けながらの行為は満足とは言い難いもので、薄桃色の脳に手を挿し入れて崩してみたい、心臓をこの手に取って引き裂き舐めてみたいと言った欲は日々熱さを増していく一方であった。
 審神者の頭に二口目以降の長谷部のことは思い浮かばなかった。最初の日に顕現し、ずっと近侍として傍にいてくれた長谷部だからこそ愛していたのだ。
(でも、それをしたら長谷部君は死んでしまう)
 痣と切り傷だらけの痛々しい身体を横たえて尚こちらを見て微笑む近侍をこの手で殺すわけにはいかない。
 行為の最中以外では、審神者は長谷部を撫でることも、抱き締めることもしなかった。
 本当は何もかも間違っているのは分かっている、君には幸せになって欲しい、思考が渦を巻いて頭の中が掻き混ぜられて息苦しさに膝をつく審神者の手を取る。
(主には俺が付いていないと、そのためにもここで死ぬ訳にはいかない)
 今日までずっと、こうして過ごしてきた。


  3


 今夜は星が見えなかった。空の色さえ窺い知ることができない。
「……主、お持ちいたしました」
 真っ白な手袋を嵌めた手で差し出されたのはへし切長谷部だが、これは二口目の刀身だった。
「ありがとう」
 審神者はそれを受け取ると、予め用意しておいた刀掛にそっと置いた。
 正座した長谷部の右横には一口目の、つまり近侍である彼の依り代となっている刀身が置いてある。
「……」
「……」
 静かな夜だった。

 あの日から三日が経っていた。
 

「君を壊しても良いかな」
 審神者はそう言った後、再び障子戸の方を向き押し黙っていた。
 長谷部は痛む頭で審神者の言葉の真意を探ろうとし、途切れ途切れに言った。
「つまり……俺を、壊してしまっても、別のへし切をその場で顕現させれば、……」
 記憶を持ったまま生き返らせることができる。喉がからからに渇いて、最後まで言葉にすることができなかった。
「……私の仮説が正しければ、だが」
 小さな声で呟いたかと思うと、審神者はやにわに身体ごと振り返り、努めて明るく言った。
「すまない、今の話は無しだ。もう部屋に戻ってくれて良い」
「主、ですが」
「良いんだ。いつも無理を強いてすまない、今日は早目に休んでくれ」
 視線を合わせることなく長谷部の横を通り過ぎ、机に広げた書類を片付ける。
「私の仮説が正しい保証はどこにもない。君を失いたくはない」
 絞り出すようにそれだけ告げ、審神者は奥の部屋へと引っ込んだ。

 翌朝、審神者は例の短刀の一件について自身の見解も含め短刀以外の男士達に話し、彼等の意見を募った。
 と言っても彼等も何か分かる訳ではないため、審神者の仮説は筋が通っているが正しいかどうかは分からない、ということを皆と確認したに過ぎなかった。歌仙か誰かがぽつりと「恐ろしいことだ」と零していたのを、長谷部は聞いていた。

 あれ以来審神者が例の話題を振ってくることはなく、嗜虐のために部屋へ呼ぶこともなかったが、長谷部はずっと一人で考えていた。
 これまで他の男士達と進んで関わろうとしていなかった彼は、誰かに相談することもなく、自室でぼんやりと星を眺めながら此処でのことを思い返していた。
(……主は、俺をずっと大切に扱ってくださっている。俺を一番の臣下として)
 戦や演練、刀装作りに関することばかりではない。虐待と言えるほど凄惨な苛みの最中でも、審神者は欲のままに振舞っている訳ではなかった。傷つけるのは身体、それも即死に至らない箇所のみであった。審神者なりに、刀剣としての長谷部の尊厳は最大限に尊重し守ろうとしていたのだろう。
(もし再び器を得ることができなければ、俺はもう主命を果たせなくなる。だが、そうなったとしても、主がずっと叶えたかった願いを現実にすることはできるのだな)
 天に目を遣り、青白く輝く星を見つめる。
 主を置いていくのは心が痛む。もし戻れなくても、主のお傍に居られれば良いのだが。
 戻れなかった場合、せめて近侍は二口目の俺にしていただけるよう頼んでみよう、そこまで考えて長谷部は戸を閉め床に就いた。

 

 翌日、長谷部は近侍として審神者に言いつかった仕事をこなす傍らで書き物を進めていた。
 もし戻れなかった場合、これまで近侍として仕えたことのない男士が近侍に命じられることは確定していた。そのため、審神者に迷惑がかかることのないよう、自分のできる範囲で仕事に関する注意事項や段取りなどを書き残しておこうと思ったのだ。
 書き残すことは数多あったが、長谷部は必要事項を頭の中で纏めて文字にするのが得意で、また他の仕事をするのも早いため手の空く時間が多く、その日のうちに書き終わった。
 青鈍の雲がうっそりと流れている。明日は雨が降るのだろうか、と長谷部は思った。

 

 雨こそ降らなかったものの鉛色の雲が厚く垂れ込める翌日、厚樫山への出陣から帰還した長谷部は部隊員と別れると審神者の部屋へ報告に赴いた。
 未だ続く京都での戦いのため、脇差や打刀の練度を上げるようにとの命であった。
「……戦果は以上の通りでした。道中で木炭を入手しましたので、そちらは山姥切が資材置き場へ」
「ご苦労様、骨喰君の練度も順調に上がっているみたいだね」
「はい、近頃は刀装を壊されることもなくなりました」
「報告ありがとう、明日も部隊長として宜しく頼む」
「畏まりました。最良の結果を主に」
「うん」
「……主」
「うん?」
 いつもなら報告を終えた後一度自室へ戻る筈の長谷部が、そのまま姿勢を崩さずに審神者を見据えている。
「まだ何か報告があったか?」
「主、三日前のお話ですが」
「三日前……ああ、あれか……。あの話は無かったことにしてくれと言った筈だが」
「申し訳ありません、ですが」
「言っただろう、君を失いたくない」
「主、俺は主に良くしていただいてきました、俺はそんな主の期待に応えたくてずっと仕えてきたんです。最期になっても構いませんから、主命を果たさせてはいただけませんか」
「長谷部君、」
「俺が戻れなかったら、二口目の俺を近侍にしてください。次の近侍のために仕事については纏めておきましたから、最初はご迷惑をおかけするでしょうけど」
「長谷部君、君は、」
「それでも他の連中に近侍の座を奪われるぐらいなら容易いものです。俺は主に応えたい」
「…………」
 長谷部の言葉を聞きさっと青褪めた審神者の顔に、しかし僅かに差した朱色を彼は見逃さなかった。
「主、ずっと我慢されていたことを俺は知っています。俺は大丈夫です、主が正しければ俺はまた主の下へ戻って来られるのですし」
 不躾を承知で審神者の方へ近寄り、その顔を覗き込む。定まらない視線が内心の葛藤を思わせて、長谷部は胸が痛くなった。
「主」
 手を取ると審神者は身体を強張らせ、その澄んだ藤色を恐れているかのように怖々と目を合わせる。
「長谷部君、君はそれで良いの、二度と戻れなくなるかもしれないのに」
「主命とあらば……ご随意に、どうぞ」
 星の見えない瞳に煤色が揺れた。

 

 二口目を顕現させる準備を済ませ、審神者は長谷部に向き直った。
「本当に良いのか、今ならまだ」
「主、俺は主を、主の考えを信じています」
「は、……本当にすまない、こんな主で」
 何も言わずに優しく首を横に振り、長谷部はへし切を手渡す。
「主の思うままに扱ってください」
 手渡されたへし切の下緒の緋色が目に痛い。審神者は頭がクラクラするのを感じた。
「……っ、長谷部君、」
 押し倒して肩を掴むとそのままへし切を横に薙ぎ、肘から下で左腕を切り落とす。一瞬の猶予の後、灼けるような痛みが目の前を白く染め、脳裏に星が散る。
「う、っふ……」
「長谷部君」
 審神者は続け様に両足を不揃いに切断し、右腕も肘の上で切ってしまう。ぱっと赤銅の飛沫が散った後、見る間に血溜まりが溢れてきて布団は色を変えた。
「うぁ、あるじ、あるじ……」
 へし切を手に長谷部の横に膝をついた審神者は、やはり四肢を失った長谷部は一等可愛いと頬を上気させ、腹を一直線に切り裂いた。
「あっ、ぐぁ……痛い、いたいです、……」
 譫言のように痛い痛いと繰り返す長谷部をちらと見て、審神者は腹腔に手を突っ込む。
 綺麗に切り裂かれた筋の層を越えた先にはぬめる腸がみっちりと詰まっていて、これ以上奥へは行かせないとでも言うように審神者の手を阻む。
 無理矢理引き摺り出すのもじれったいと再びへし切を手に取った審神者は、長谷部が左腕の肘だけで何とか身体を支えて自分を見ようとしていることに気が付いた。
「長谷部君、その眼」
 言うが早いか右目へ切っ先を抉り入れ、手首を捻って視神経もずたずたに引き千切ろうとする。
「あ゛、ぅあ゛あ゛、ぎっ」
 切っ先は強膜を易々と貫き、透明な硝子体と鮮血とが叫び続ける整った顔を濡らしていく。中身を吐き出して萎んだ眼球が眼窩からぽとりと落ち、右目のあった場所は神経や血管の断端を覗かせている。左目からはぼたぼたと涙が零れ落ちている。
「……」
 審神者は手脚と片目を失った長谷部を愛おしそうに抱き締め、布団へ下ろすと腸間膜を切り離しにかかる。
「これで腸詰を作ろうか、長谷部君」
 喉が枯れ、時折濁った音を発しながら荒い呼吸を繰り返す長谷部から返答は聞こえない。
 小腸と大腸を引き摺り出し、脇腹へだらんと垂れさせたまま視界を確保する。肝臓が綺麗に収まった腹腔には血が滴り、噎せる香りも相俟って雨上がりの庭のようだ。
「長谷部君」
「……ぅ、あ、あぅ、……」
「……今から、横隔膜を切って肋骨を折り取るから、そうしたら君は、もう呼吸ができなくなる」
 規則的な浅い息遣いだけを響かせながら、長谷部は視線で審神者に応える。
「これが、最期になるかもしれない。何か、」
 ゆっくりと髪を梳きながら審神者は言う。柔らかすぎない煤色の絹糸はべたべたと絡みついて、赤黒くその色を変えた。
「――――――」
 引き攣れた表情で精一杯の笑みを浮かべて、長谷部は言う。
「長谷部君」
 審神者はそれ以上何も言えなかった。言う資格など、きっととうの昔に真っ黒な沼に沈んで消えてしまっていた。

 肝臓を傷付けないように除けながら、横隔膜にへし切の切っ先を差し込む。すっと手を引くと、一筋のスリットが残る。
 そのまま用意しておいた鋏を使って肋骨をばちん、ばちんと折っていくと、意識のなくなった長谷部の身体は不規則に痙攣した。
 舌をだらりとはみ出させた口端から赤い泡が溢れているのを見て、審神者は服の袖でそれを拭ってやった。尤も、既に長谷部の顔はそれ以上に汚れきっていたのだが。
 体力の要る作業であったが、全ての肋骨を折って胸郭を覆う部分を取り外してやることができた。
 その下には、両側の肺に挟まれてとくとくと速く、しかし弱々しく拍動する心臓が収まっていた。
「あ、……」
 血を浴びててらてらと光る薔薇色に息が切れる。震える手で慌てて動脈や静脈をすっぱりと切り離し、心臓だけを内から取り出す。
「長谷部君、」
 審神者に応えるようにとくん、と拍動するそれをそのまま口にする。硬いが、温かかった。

 ぱきん、と乾いた音が小さく響いてはっと現実に戻される。
 長谷部が――へし切が折れたのだ。
 いつの間にか、口の周りにべっとりと血を付けたまま座り込んで茫然と長谷部を眺めていたことに気付く。
 呼吸も心拍も止まった今、部屋は静寂に満たされていた。降り出した雨がしとしとと屋根を打っている音だけが聞こえる。
(いや、滴る血の音か――)
 審神者は立ち上がり、冷たく濡れて重くなった服を手早く着替える。長谷部の目を閉じ、上掛けをかけてやる。苦しみ抜いて死んだ筈なのに、美しかった。
 しかし余韻に浸っている余裕はあまりなかった。何としても、再び長谷部を顕現させねばならない。

 今折れたばかりのへし切を脇に置き、刀掛に置いておいた二口目のへし切を手に取る。
 三日前のように手と口を動かして、依り代を失ったばかりの長谷部を呼び出す。それだけだ。


  4


 薄暗い室内に咲いた桜の花弁がふわりと過ぎり、ゆっくりと持ち上げられた瞼の下から覗いた藤色の瞳が微かに揺れた。
「……あ、るじ」
 掠れた声が地に落ちるより早く、花弁は淡い光を残して消えていった。
「……長谷部君、なのか」
「主、俺です、主」
「成功、したのか……」
「はい、主」
 驚きと安堵からか言葉を発せないでいる審神者に、長谷部はいつものように、今までのように微笑んで言う。
「主、これからもお傍に」
「……うん、うん……ありがとう」
「主の考えは正しかったんです。これからは俺をお好きなようにお使いください」
「……」
 長谷部はこれでもっと主命を果たすことができるようになるという喜びで頭が一杯だったが、審神者は浮かない顔をしていた。
(……今度も、その次も成功する保証はない)
 だが、これで何をしても長谷部を失うことはないのではないかという期待に昂揚感を覚える自分もいて、審神者は自己嫌悪に陥りかけていた。
「主」
「ああ、何処か痛んだりはしないか。新しい身体だ、違和感なんかは」
 心配そうに自分を見つめる長谷部に、審神者は優しく声をかける。
「俺は大丈夫です。前と全く同じとは感じませんが、直に慣れるかと」
「そうか」
 本当に、無事戻ってきてくれて良かった。手入れは必要なさそうだし、今夜はもう休みなさい。審神者はそう告げると、先の行為に使用した部屋の後始末をしようと立ち上がった。
 閉じていた障子戸を開くと、灯りを落としたその部屋はぽっかりとした暗闇で、こちらの部屋からの灯りによってぼんやりと足元が照らされているのみであった。
 布団の上に横たわっていた筈の長谷部の身体はもうなかった。霊魂を失って、維持できなくなったのだろう。
「主、俺が片付けておきますよ」
 いつの間にか後ろから部屋を覗き込んでいた長谷部が言う。
「いいから、君は休んできなさいって。今夜は散々非道いことをされたんだから」
「ですが、俺が汚したんですから……主のお役に立たせてください」
 長谷部は一向に引き下がろうとしない。まだ傷のないまっさらな身体を得たのだから、あれほどの行為の後であってもまだまだ主の役に立てる、という訳だ。
「……」
 自分のために命までも捧げてくれた近侍の想いを無碍にすることは難しかった。
「……じゃあね、安定して顕現していられるかまだ不安だし、私の目の届くところに居てくれる? 片付けは私がやるから」
 若干不満そうにしていた長谷部だが、主命とあらば、と大人しく引き下がる。
 邪魔にならないよう部屋の隅に正座し、これは廃棄かなあ……などと呟きながら布団を丸めて寄せる審神者を藤色の瞳が静かに見つめていた。

 

 翌朝、身支度を整えた長谷部が審神者の部屋を訪ね、ぴったりと閉じられた障子戸の前で
「主、おはようございます」
 と声をかけると入りなさい、と返ってきた。
 審神者はちょうど身支度を終えたところだったらしく、今日は私が長谷部の部屋へ行こうと思ってたんだがなあ、などと笑っている。
 普段と違い寝起きの良い審神者の様子に長谷部が狼狽えていると、審神者はそんな彼を見て優しく言った。
「長谷部君、身体の調子はどうだい」
「万事順調です。先程少しだけ鍛錬を行いましたが、問題なく出陣できます」
「随分早起きなんだね、やっぱり私が長谷部君の部屋へ行くのは無理なのか……」
 審神者はううんと唸って頭を掻くと、すっと背筋を伸ばし、再び問う。
「長谷部君、これからも近侍として傍に居てくれるかな」
「勿論です、何だってこなしますよ」
「……うん」
 真っ直ぐにこちらを見て答える長谷部を思わず撫でそうになり、僅かな身動ぎの後、審神者は静かに言う。
「戻ってきてくれて、ありがとう。君のことを何より大切に思っている」
「っ、有難き幸せ……」
 こんな時間がずっと続けば良いのだが、と審神者は内心一つ溜息を吐いた。それは泣きじゃくった後に出る湿っぽい溜息に似ていた。

 

 成功したとは言え、新たな依り代と肉体に完全に定着するかが審神者には心配だった。
 数日様子を見ていたが、長谷部は彼自身が言っていたように、出陣も演練も日々の任務はすべて問題なくこなしているようだった。
「……良かった」
 ひらりと翻る紫と金を見て審神者は独り言ちた。

 初めこそまだ早いのではないかと葛藤していた審神者だが、そのうちに欲が勝り、数週間後には再び長谷部を自室へ呼ぶようになっていた。
 但しその前に鍛刀なり戦場なりでへし切を数口手に入れた後でなければ行為には及ばなかった。無論新しい依り代は用意しておくべきだったし、万一上手く憑くことができなかった場合のために予備が必要だったからだ。
 幸いというべきか、予備が必要となる事態が訪れたことはなかった。審神者によって破壊された長谷部はその度毎に新たなへし切へ宿り、顕現した。記憶も審神者への忠誠心も何もかも元のままそっくり引き継いでおり、何も問題はなかった。何一つ。
 審神者は長谷部を陵辱した。殴り、蹴り、切りつけ、火傷を負わせ、首を絞め、四肢を落とし、胸や腹の内を外気に晒し、臓腑を引き千切り、肉を喰らい、喰らわせ、目を潰し、喉を切り裂き、歯を引き抜き、脳を崩し、意識を失ったまま痙攣して絶命する様を赤銅の部屋で何度も何度も味わった。
 そしてその後で、新たなへし切を用いて長谷部を顕現させた。

 桜の花弁がふわりと過ぎり、ゆっくりと持ち上げられた瞼の下から覗いた藤紫の瞳が微かに揺れた。
「……あ、るじ」
 今日もまた、掠れた声が地に落ちるより早く、花弁は淡い光を残して消えていった。

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